龍の声

龍の声は、天の声

「「文民統制と文官統制の違いは?」

2015-03-14 09:01:23 | 日本

平和外交研究所の美根慶樹さんが、「「文民統制と文官統制の違いは?」について話す。
以下、要約し記す。



◎背広組と制服組を対等に

政府は、防衛省設置法を改正し、文官である内部部局の防衛官僚が武官である自衛官より上位にあると解釈される規定を改める方針を固めた。27日にも閣議決定され、国会提出されると報じられている。この改正をめぐっては、「文民統制」(シビリアンコントロール)の観点から懸念する見方もある。文民統制とは一体どういうものなのか。


◎「背広組」が防衛相を補佐する規定

防衛省は我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことが任務である。そのために置かれている陸海空自衛隊の最高指揮権は総理大臣にあり、その下で防衛大臣が自衛隊を指揮・運用するが、その際、防衛大臣は官房長や局長から補佐を受けることになっている(防衛省設置法12条)。

この官房長や局長が置かれているところが「内部部局」、略して「内局」であり、そこで勤務している人たちは制服の自衛隊員(制服組) でなく、ビジネススーツの事務官(背広組) である 。

防衛大臣は内局の補佐を受けて自衛隊を指揮するという、いわば三者構成の仕組みは防衛省だけのユニークなものである。これを導入したのはいわゆるシビリアンコントロールのためだが、現在、自衛隊員の地位を高める目的で、内局のあり方を変更しようという計画が防衛省で進められていると報道されている。


◎「軍は政府の決定に従う」というルール

シビリアンコントロールはもともと欧米で確立された概念だが、我が国にとっても極めて重要な問題である。その意味については、さまざまな説明があるが、要点は、「軍は政府の判断・決定に従わなければならない」ということである。

軍と政府の主張・判断が異なる場合、軍は武力を持っているのでその判断を政府に強制することも可能だが、それを許しては軍の暴走を止められなくなる、戦争の惨禍をもたらすという歴史的経験に基づき、国民の利益を擁護し、その希望を実現するには民主的な政府の判断・決定を優先させなければならないというルールが確立されている。民主的な政治であれば誤りはないということではなく、国民が受け入れた方法で出された決定であれば、それでよしとしようという考えであると思う。


◎「文民統制」と「文官統制」の違い

日本では新憲法にこのルールが盛り込まれた。日本国憲法第66条2項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定である。また、前述した防衛省設置法の内局規定である。

日本におけるシビリアンコントロールは「文民統制」と呼ばれている。「文民」は、新憲法制定の際、日本には「civilian」に該当する言葉がなかったので、新たに使われた訳語である。

しかし、軍を統制する主体は、総理大臣や国務大臣、また内局の背広組と、すべて公務員であり、いずれも民間人ではない。そのため、「文民」より「文官」のほうが用語として適切であるとして、「文官統制」という言葉が使われるようになった。そして、日本では「文民統制(政府による統制)」と「文官統制(背広組らが政府を支える統制)」を区別する傾向もあるが、それは本質的な区別ではない。趣旨はどちらも「軍人でない公務員による統制」と解すべきであり、英語ではシビリアンコントロール(civilian control)しか使わない。


◎シビリアンコントロールはどうなる?

内容的には、理想論を言えば、憲法66条だけでは十分でなく、「軍は政府の判断・決定に従わなければならない」というルールを直接的に規定したほうがよいという考えもあり得る。もっともその場合は、憲法で日本には「軍」がないことになっているのでそのまま記載することはできず、「軍」を「自衛隊」に書き換えるなど一定の調整を加えることが必要である。

また、防衛省の内局についても現在の防衛省設置法の規定が最適か、検討の余地はある。しかし、一部に報道されているような「作戦のことが分からない文官に防衛大臣を補佐させるのは問題だ」というのは狭量な考えであるのみならず、本来のシビリアンコントロールに背馳(はいち)している恐れがある。旧憲法下で、満州から華北地方へ侵攻した例など、作戦上の理由から戦闘範囲が拡大したことは何回もあった。

今後、自衛隊の海外における活動が拡大する可能性が大きくなっていく。そのようなことも視野に入れて、内局の在り方を含め防衛省設置法の改正を検討していくのは理由のあることだが、この重要なシビリアンコントロールを弱体化させず、より強固にしていくことが肝要である。















「芙蓉部隊とは、」

2015-03-13 07:51:04 | 日本

美濃部 正(みのべ ただし・1915年~1997年6月12日 享年82歳)は、愛知県出身の旧日本海軍軍人、航空自衛官である。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将である。

1915年愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。刈谷中学を経て、1937年(昭和12年)3月23日海軍兵学校64期卒業、少尉候補生。1937年11月5日由良乗組。

1938年7月28日第31期飛行学生拝命、1939年3月4日卒業。三座水上偵察機の水上偵察機搭乗員となる。3月9日館山空。1939年8月10日佐世保空。二座水上偵察機の操縦を学ぶ。11月1日水上機母艦「千歳」乗組。1940年11月1日軽巡洋艦「名取」、分隊長。ベトナムのタクシーに乗って仏印(ベトナム)駐留のフランス軍基地に潜入して、航空兵力の調査を行った。1941年9月10日軽巡洋艦「阿武隈」乗組、分隊長。1941年(昭和16年)11月美濃部貞功の娘篤子と結婚して婿養子となり、美濃部姓になる。

1941年12月太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。真珠湾爆撃の写真を日本へ運ぶ。1942年4月第一航空艦隊が英空母「ハーミス」を撃沈した時に、「阿武隈」から美濃部を機長にした九四水偵が発進して、十時間飛行しながら沈没する「ハーミス」の写真を撮った。遠景からの1枚に美濃部が撮影したものもある。1942年7月20日小松島空分隊長。1943年2月20日佐世保鎮守府付。

1943年10月20日ソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊の飛行隊長に着任。美濃部はマラリアに感染して1944年1月に復帰。零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、美濃部は夜間襲撃を提案して、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将が軍隊区分で準備を進めたが、2月17日トラック島空襲によって機材が失われて計画は頓挫した。

1944年(昭和19年)2月、美濃部が軍令部に零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた。美濃部によればその時、源田実中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという。美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした零戦隊が編成され、1944年2月25日301空戦闘316飛行隊長着任。八木勝利司令の要求する防空戦と美濃部の夜襲構想で部隊の運用方法の相違から対立して隊長を解任された。飛行隊はその後迎撃で消耗して壊滅した。1944年5月24日302空着任。零戦・月光装備の第二飛行機隊長任命。小園安名司令からは理解が得られ、美濃部は夜襲部隊の再建に取り掛かった攻撃方法は、索敵隊による敵艦隊の発見後に攻撃隊である銃撃隊、爆撃隊が発進、敵空母から艦載機が発進する前に奇襲する構想だった。7月4日、5日硫黄島来襲の米機動部隊に攻撃をかけようと出撃するが、空振りに終わり、悪天候のせいで損害も出した。

1944年7月10日153空戦闘901飛行隊長。9月からフィリピン方面に進出、敵機動部隊に攻撃開始。戦果が上がらないまま、損害が続出し、パイロットも当初の1/3になるまで消耗した。フィリピンで特攻が開始された際には、夜襲を説いて特攻に参加しないことを大西瀧治郎から容認された。この話し合いの際、「生還率ゼロの命令をだす権利は指揮官と言えども持っていない」「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい」と大西に語り、やがて彼は「こんなむごい戦争があるか」と声を荒げて答えたと言う。

部隊再建のために762空に移動して1944年11月15日内地に帰還したが、762空はすでに4つの飛行隊を抱え、攻撃機による夜襲部隊の再建中であるため、美濃部の戦闘機による夜襲には通じていないということもあり、再建は131空で行うこととした。比島再進出のために部隊を再建する飛行場を探していた美濃部は藤枝基地を訓練根拠地に決めた。 美濃部の部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材は、零戦を装備、また美濃部は銀河が少数しかそろわないことを知り、数がそろう彗星を希望した。美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された。こうして、1945年初頭に関東海軍航空隊の指揮下に集められた海軍夜間戦闘機隊の3つの飛行隊(戦闘804、812、901)と整備隊は、編制上の指揮官は関東空司令であったが、実質的な指揮官は美濃部となった。美濃部は根拠地となった静岡県藤枝基地から見える富士山にちなんでこの部隊を芙蓉部隊と命名した。美濃部の実施した訓練は、昼夜逆転生活、夜間洋上航法訓練、座学といずれも夜襲に特化した内容であった。

1945年2月17日の出撃で美濃部は部下に特攻を指示して、別盃が交わされている。本土に来襲する機動部隊に対して用意された「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う。その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」という戦法だった。鞭杲則少尉の記憶では「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」という命令で、搭載機の破壊、また突入による火災で位置を知らせるという戦法だった。どちらにしろ必死の特攻を前提とした戦法だったが、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった。

彗星を主体にした特攻部隊で消耗があり、同じ彗星装備の芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れたが、美濃部は「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と否定して部隊には安心感が漂った。

第三航空艦隊での沖縄戦についての会議に、司令代行として参加した美濃部は、艦隊司令部が練習機で特攻をやらせる案を提示したため、末席から練習機では敵戦闘機の防御網を突破できないと反論した。すると司令部参謀は「必死尽忠の士の進撃を何者がこれをさえぎるか、第一線の少壮士官が何を言う」と叱責するが、美濃部は指揮官や幕僚が自ら突入しようとしないことと、彼らがろくに空中戦を経験していないことを非難し、「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と言った。この反対論を述べた際、美濃部は死刑に処せられることを覚悟していた。

1945年3月5日131空飛行長。
第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は、『戦藻録』1945年(昭和20年)7月29日の項に、美濃部について「活躍は目覚しきもの」と記述している。

戦争末期、美濃部は決号作戦(本土決戦)に備えて、特攻による最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。搭乗割には主立った士官、准士官、夜襲に熟練した下士官・兵搭乗員の名を書きこんだ。空中指揮は美濃部自身がとるつもりだった。この特攻は「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」「基地に残った地上員からも決死隊を選択し、穴を掘って爆弾とともに入る。敵の陸上部隊が迫ってきたら残った施設に火を放ち、敵を安心させて呼びこんだところで、穴の中の決死隊が各自、爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、戦車や歩兵をまきぞえにする。そのほかの大多数の若い隊員は、基地を離れて一般市民にまぎれこみ、自分で運命を切り開いていく」という作戦だった。

1945年8月15日終戦。美濃部をはじめ芙蓉部隊は終戦に納得しなかったが、艦隊司令部で美濃部は井上成美大将になだめられ、部下を説得するように言われた。美濃部は基地に帰ると隊員に部隊は陛下のものであると説得し、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と言っておさめた。その後、美濃部から「日本もまたいつか復興することもあるかもしれない。その時はまたここで会おう」という訓示が行われた。美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。

戦後はしばらく農業に従事していたが、1953年航空自衛隊に入隊。西空防衛部長、空幕運用課長、統幕学校教育課長、第12飛行教育団司令を歴任。1966年7月16日輸送航空団司令。兼美保基地司令。1969年4月1日航空自衛隊幹部候補生学校長。幹候校への襲撃を企てた新左翼の過激派学生グループと対峙したが、幹候校にいる警務隊員や基地警備隊が飼っていた警備犬と放水銃の展示による威嚇のみで退散させ、事件の発生を未然に抑止している。1970年6月30日体調不良で依願退職。空将で退官。退職後は、日本電装学園長となる。1997年病没。

美濃部は、特攻に反対した人物として知られているが、夜間攻撃を重視してのことであり、特攻戦法には否定的ではなかった。美濃部は戦後、特攻について「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っている。また「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている」とも語っている。


※ 彗星一二型は水冷式エンジンで扱い難く敬遠されていた。そのため空冷式の彗星三三型が量産されると、彗星一二型は運用から外されていった。そこに美濃部は目をつけ彗星一二型をかき集めるとともに、整備士を製造元の愛知航空機に派遣して習熟させたうえで、芙蓉部隊で運用していった。

※ レーダーの発達したアメリカ軍に対しては、夜襲戦法で敵空母甲板、敵飛行場滑走路を爆撃するのが有効であると、美濃部少佐は考えた。

※ 最大速度 
彗星一二型:580km/h
中間練習機:219km/h、作業練習機「白菊」:229km/h、米機P51:700km/h

※ 搭乗員の訓練は効率第一とし、実用的なことのみを徹底して教えたため、訓練時間を3分の1にまで短縮することに成功した。武装面では、対地・対空用のロケット弾、空中で爆発して爆風と破片で周囲に被害を与える光電管爆弾など特殊爆弾を積極的に採用。敵使用の飛行場に光電管爆弾を投下し使用不能にさせた。

※ 芙蓉部隊の基地
・前線基地:岩川基地(鹿児島県大隅町)・・鹿屋基地の北30km
・後方基地:藤枝基地(静岡県)・・芙蓉峰(富士山)から芙蓉部隊

※前線で疲れた隊員を後方基地に移すという、当時の日本ではまずあり得ないシステムであった。半独立集団といわれる所以である。

※ 硫黄島戦:昭和20年2月19日~3月26日、沖縄戦:昭和20年3月26日~6月20日

※美濃部少佐はヒューマニズムから特攻を否定したのではなかった。適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ、搭乗員を生還させることにより実戦での練度を向上させての反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのであった。 しかし、7月に入ってアメリカ軍の九州上陸が噂されるようになった。もうこれ以上の通常攻撃は意味がないとして、特攻計画を立てるも、8月15日 終戦。












「栗より美味い十三里半」

2015-03-13 07:49:58 | 日本

「さつまいもを十三里半と言うわけは?」

さつまいもの原産地は、中南米である。アメリカ大陸を発見したコロンブスが、スペインに持ち帰ったものが、フィリピン、中国、琉球を経て元禄時代の日本に入って来たようである。

宝永年間になると京都にやきいも屋が現れた。このやきいも屋は、栗「九里」に近いというなぞをかけて八里半と言う看板を出していたそうである。江戸には寛政年間に初めてやきいも屋ができ、この店も八里半と書いた行燈を出していたが、やがて小石川に十三里と言う看板を掲げた店が現れた。栗「九里」より「四里」うまいと言うしゃれだそうである。

秋本番の中の「栗より美味い十三里」が、「栗より美味い十三里半」となったのは、「九里 + 四里 = 十三里:それより美味いので「十三里半」である。

「九里四里(くりより)うまい十三里半」と、江戸時代に江戸と川越との距離をもじって、味の良さをうたわれたサツマイモは、今でもこの地域の特産品の一つである。









「人間的魅力」

2015-03-12 07:01:01 | 日本

「人間的魅力」について松本守正さんが話す
以下、要約し記す。



魅力的な言葉というのがある。
いつもあなたが話していることは魅力がありますか?そこをしっかり考えてみて欲しい。不平不満を言っている人は全く魅力がない。自分自身が魅力的な人間になろうと思ったら、日頃魅力的な言葉を使っていかないといない。ただ相談にのる時、同情するのは駄目である。同情するとその人と同じレベルになる。同情ではなく愛情をもって話をすると魅力的になる。同情と愛情を勘違いしてはいけない。

例えば、「離婚して子供がいて一万円が払えない」て言われた時、「そうわかった」と納得することは同情してるだけ!本当に相手の事をおもっているのなら、「どうするの!この先のことしっかり考えて頑張ろう!」と愛情を持って言わないとだめである。

貧乏な人に限ってお金をだしたがらない。お金持ちは自分に投資する。そうして魅力を上げるとだんだん人が寄ってくることを知っているから、まず自分に投資をする。

自分が儲けることばかり話すから人が逃げる。
自分のことばかり話すから人が逃げる。

愛情持って相手のこと思って話すから魅力がでてくる。魅力的な人は愛情が豊かといわれている。

参考までに、
ちょっと知り合いの挨拶 15度
ビジネスの名刺交換 45度
感謝を表す時 70度

お辞儀の角度である。













「自信を持つための5ヶ条」

2015-03-12 07:00:15 | 日本

松本守正さんが、「自信を持つための5ヶ条」について話している。
以下、要約し記す。


1.微笑みを忘れるな。
2.いつも瞳を輝かせる。
3.胸を張れ。
4.3センチ背伸びして歩く。
5.心がいつもオープンであること。

たったこれだけ、今日からできますね!
そしてもうひとつの提案である。

「1日にひとつ、自分自身に心地よいことをしましょう」
何でもいい。小さなことでいい。

例えば、早起きして自分の為に美味しいコーヒーをいれる。
テーブルに綺麗な花を飾る。
まずは自分自身を喜ばせることが大切なのである。
自信に満ちた人が美しいのは、そんな風に自分自身を毎日磨き続けているからである。
感性を磨き身に付いたものこそ本物の自信につながるはずである。

最後に以前本で読んだのだが、強運になりたければこの三拍子だと…

「整理整頓、清潔、身綺麗にする」










「本物の人間像」

2015-03-12 06:59:26 | 日本

松本守正さんが、「本物の人間像」について語る。
以下、要約し記す。



人としてどういう人であればいいかの10項目。

1.自慢しない謙虚である。
自分のことと相手のことの比率 3対7
力のあるものは吠えない。弱い犬ほど吠える。

2.何事も否定しない。
悪口を言わない。欠点を指摘しない。
相手をけなしたところで、何も変わらない。何も良いことはない。

3.周りを明るく楽しく元気よくさせる。
元気発信基地は自分から。

4.常にあらゆるものから学ぼうとする。
自分にないものを求めている時が成長期。

5.不要なことはしない。
恐れない。
人生に無駄はない。
あるとしたら恐れ。恐れることが一番不要なことである。

6.シンプルである。
複雑なものは伝わらない。シンプル イズ ベスト。
ストレートに生きていこう。

7.直感力がある。
迷わない。
ビビっときた。
今日決めたことが三ヶ月後でも同じ答え。
迷った時はGO!

8.与え好き。
許し、待つことができる。
将来自分に役立つ人、役立つことを知る人は、許し待つことを知る。
恩を売れ。損だと思っても付き合え。今は恩を売れ。
今は気づかなくても、必ず役立つ。とにかく、相手も気付いてくれる。

9.常に初心を忘れない。
なぜ始めたか?
なぜ生きるのか?を考える。
やろうと思った心に戻る。どうしたいとかではなく、幸せになりたいと思った心にもどれ。
やり方とかでない。

10.好きな言葉 当然=(大丈夫)
安心感を与える。











「自分を変える三原則」

2015-03-11 08:55:04 | 日本

松本守正さんが、「自分を変える三原則」について話す。
以下、要約し記す。


人生を変えたい時、自分を変えたい時

1。時間配分を書く
・一体自分が今までどういう時間を過ごしてきたかを知り、それを書く。
・テレビを4時間見ていたけれど2時間にするとか、睡眠時間8時間だったけど6時間にするとか、朝起きる時間を1時間早くするとか。人生は時間だから、人生変えたかったら、まず時間配分を変えよう。

2。仕事の中身を変える
・結果に対して常に反省する。結果には必ず原因がある。その本質を見極めていく。その気づきが仕事に対して、人に対して、自分に対して変わっていき、成長していく。

3。つきあう人を変える
・人は自分と同じレベルあるいは自分より力が劣る人といると楽だからそうなりがちである。自分よりも目上の先輩や上司と会う機会、話す機会、行動する機会をふやそう。
気を使うかも知れないけれど、気配りが学べます。

少しの変える努力で自分が変わり、そして人生も変わる。











「女性という生き物」

2015-03-11 08:53:43 | 日本

松本守正さんが、「女性という生き物」について的確に表現している。
男性翔君には凄く参考になるので、以下、要約し記す。



本日は男性の方に、女性の心理、女性は男性と違う生き物だということを書きたいと思う。

女性の言語能力は非常にたくみで発達している。
なんと1日6000-8000の言葉を発し、また言葉にならない、ギャーとかワァーとかを3000-4000回発するという。 ボディランゲージ 8000-10000回。合計20000回!
その点男性は8000回である。

また女性への誉め言葉だが、「お似合いですね」では全然喜ばないそうで、「かわいい」という言葉が女性の心理をくすぐり、一番喜ぶ言葉だそうである。

昔から"女心と秋の空"というが、移り気で変わりやすい。
その為女性が流行をつくり、流行が大好きだということである。
まさしく花から花へと♪である。

そして女性の興味は、半径10メートル以内だという。
男性の皆さんに、女性はこういう生き物だと思って頂けたらいいと思う。

最後に、
「女性はさまざまな種類の愛情を与えてくれるが、どんな愛情の中にも、必ず母性愛というものが含まれている。」by ニーチェ










「日本の頂きます文化、追求から賜りますへ」

2015-03-11 08:52:42 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。



仕事柄、講演でよく縄文の話をする。縄文三万~五万年の間で、日本人の「心」の原型ができ、これが日本人のDNAになっていると確信している。

縄文時代の人々は、ほとんど計らいのない、一切が天(神、自然)からもたらされているものと信じていた。四季の移り変わり、人や自然、万物の生死の流転を通じて世の中は循環していると早くから知っていた。

「惠み」という言葉は循(めぐ)ってくる霊魂(みたま)のことを言う。循環を妨(さまた)げたり、狂わせたりすることが罪だと感じてもいった。だから死者の魂もしっかりあの世に送ってあげることにより、しっかりこの世に生まれ変わると信じていた。

自分たちが食べた海のもの、山のものもしっかり鎮魂、供養、即ち祭祀をすることにより、また循霊(めぐみ・惠み)がもたらされると考えた。

全ての生命(いのち)は天よりもたらされたという想いや考え方は、日本に「頂きます文化」として花開き、定着した。「頂きます」「賜わります」文化は「受け身」文化で、謙虚で、殊勝で、美的な情感をもたらしてくれる。

「お風呂を頂きます」「ご一緒させて頂きます」「お茶が入りました」等々上げたら切りがない。

西洋は「する文化」に対し日本は「成る文化」です。「高天原に成(鳴)りませる神の名は」から始まった日本だった。「今度結婚することに成りまして」「この度卒業することに成りまして」全てにこの「成る」が登場する。

自らが選択し、決断しなければならない最も自主的行為であるにも関わらず、目に見えない大いなる力や計らいが働いていると無意識に捉える日本人の心性。これは縄文に源流がある。

近代文明は追求(究)に明け暮れている。本来日本は「頂きます」「賜わります」の美しい心根(音)に生きていた。もう一度その謙虚さを生活の中心に取り戻さねばと感じてならない。













「大いなるものの声を聴く」

2015-03-10 08:34:36 | 日本

菅家一比古さんから、「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。



二十五年程前、十月下旬の深まりゆく秋の黄昏(たそがれ)、奈良県桜井市に在る霊山「三輪山」に一人登拝した。人っ子一人いない中を何モノかの氣配と眼差しを感じながら登拝した。そして大変な神秘体験を賜わるのであった。はっきりと神に呼ばれていたことを実感した。

そしてこれも二十二、三年も前のことだが、福島県郡山市の友人の家具メーカーのビル屋上から、美しい安達太良山をぼんやり眺めていたら「早くいらっしゃい。待っている」とメッセージが来たので、秋だったがその年に二度も登拝した。

禊も神社参拝もお山登拝も自分で選択、行為しているようで、実は「大いなるもの」に呼ばれていたのである。日々の祈りや神事も自分で行なっているようで、実はさせられていることが判かる。それをしなければならない私の務めがあり、使命がある。

現代人は「聴く力」が著しく低下しているように思う。霊魂(みたま)の声を聴く。霊魂の声は何と発しているのか。それが聴けるようになれば「大いなるもの」の声も聴ける筈。

私が元旦の禊や、数々の禊、お山登拝や神社、聖地参拝をやり続けているのはこの「声」に呼ばれているからである。私の使命を果たさせるために「大いなるもの」が私を呼び続けておられる。

きたる三月二十一日のお伊勢参拝も二十五年続いている理由は、「天津神々」様から呼ばれているから出来る。お伊勢参拝と五十鈴川の禊は「天徳」を賜わる最高にして最大の神からの賜りモノなのである。しっかりとそれを受け留めねばならない。そして私の浄化は家族、ご先祖、社会、国家、世界人類の浄化へと繋がって行く。

昨今、若者世代の事件が多発している。二十四歳の交番の巡査が誘拐未遂事件を起こしたり、川崎での痛ましい事件があったりと若者世代が壊れて行っている。日本全国を浄化するために我々を「お伊勢」が呼んでおられる。「大いなるもの」の声や「霊魂」の声に耳を傾け、素直に忠実に行動を起こして参ろう。













「一流の人は相手の動作と目を見定めている」

2015-03-10 08:33:14 | 日本

藤田耕司さんが「目でわかる」と題して話している。
以下、要約し記す。


◎多くを語らず、動作や表情で心を動かす。

昨年11月にこの世を去られた名優、高倉健さん。背中で語る寡黙で真っ直ぐなその演技は、日本を代表する数々の名作を生んだ。いくつかのシーンが頭に浮かぶ読者も多いのではないだろうか。

高倉さんの演技は言葉を使わずとも言葉以上のものを心に語りかけてくる。それ故に多くの人々が心動かされた名優として、「男の中の男」と呼ばれている。

コミュニケーションと言うと「言葉」に意識が向くことが多い。しかし、人はコミュニケーションを取るる時、言葉のみならず、相手の表情、姿勢、態度、動作、仕草、そして服装や髪型、呼吸、声のトーンなどから総合的に相手のことを理解し、そして判断しようとする。

そのため、コミュニケーションは、文字や音声として言葉を使う場合と、言葉以外の方法を使う場合に分けられる。前者を言語コミュニケーション、後者を非言語コミュニケーションと呼ぶ。

経営やビジネスで成功するために必須の能力と言われているのがコミュニケーション能力である。その際、言語コミュニケーションのみならず非言語コミュニケーションについても意識を持つことで、より質の高いコミュニケーション能力を身につけることができる。

一流のコミュニケーション能力を持つ人は、言語と非言語の両面でメッセージを発信し相手を動かす能力と、メッセージを受信し相手を見極める能力を有する。


◎ベテラン人事は15秒間で面接の採否を決める

人事で採用面接を長年担当している友人に、面接の採否をどう判断するかについて聞いたことがある。彼は面接の一部始終の流れと自らの判断過程を話してくれた。

まず、応募者が面接会場の部屋のドアをノックする。ドアを開け、「失礼します」の一言の後、部屋に入り、面接官の前にある椅子に座り、応募者は面接官と目を合わせる。
この間、約15秒。
彼が言うには、この時点でほぼ採否は決まっているという。
それから、面接官の質問と応募者の応答が始まり、一通りの面接が終わる。その後、最終的な採否の判断を行うが、応募者との会話が始まる前に下した判断が覆ることはそう多くはないとのことであった。
「応募者は面接の際に何を話すかについては入念にシミュレーションしてきている。そして、お手本通りの回答をする。正直、口では何とでも言える。

ただ、目の雰囲気、顔つき、姿勢、仕草、歩き方、声の大きさやハリといったところにその人の内面が表れる。そこはちょっとやそっとでは隠しきれるものではない。なので、ドアをノックしてから着席するまでの間に大体の採否の判断はつく」


◎非言語コミュニケーションを意識するメリット

「目は口ほどに物を言う」という。
人間の臓器は基本的に皮膚で覆われているが、1つだけ例外となる臓器がある。それが目である。

目は開けている時は皮膚に覆われておらず、むき出しとなる。しかも、脳から極めて近い距離にあり、太いところは成人で1.5cmほどにもなる視神経という太い神経でがっちり脳とつながっている。

そのため、目に脳の状況が表れてしまうと言っても過言ではない。
人を見極めることに関して豊富なキャリアを有している人は、相手の目から多くの情報を入手しようとする。また、目は興味を持ったものや好意を抱いたものを見る際には、より多くの情報を入手しようと瞳孔が開く。

瞳孔の開き具合を意識することはあまりないと思うが、人間は無意識のうちに相手の瞳孔の開き具合を認識し、相手に対する印象を形成している。


◎握手も非言語コミュニケーションの1つである。

人は好意を持った相手に対する時や気分が乗っている時は握手の際にぐっと力が入り、そうではない時にはさほど力が入らない傾向にあると言われている。

そのため、相手と会った時や別れ際に握手を求め、笑顔でぐっと力の入った握手をすることで好意を伝えることができる。
また、相手の握手の力から相手が好意を持っているか、気分が乗っているかどうかをある程度把握することもできる。
 

◎非言語のコミュニケーションは言葉を超えて相手の心を動かす力を持つ。

非言語の情報は相手を見極めるうえで信頼性の高い手がかりとなる。
言葉が氾濫する今の時代だからこそ、言葉によるコミュニケーション能力のみならず、非言語の部分で相手の心を動かす力、非言語の部分から相手を見極める力も合わせて磨くよう意識することが、質の高い人間関係を築き、経営やビジネスで結果を出していくうえで極めて重要になるのだ。






「カタカムナ文明とは、」

2015-03-09 08:58:42 | 日本

「カタカムナ」とは創造主という意味である。

◎カタカムナ文明とは、

カタカムナ文明とは、今から数万年~10万年以前で、縄文時代以前、旧石器時代末期に存在したとされる日本の超古代文明である。
極めて高度な科学技術や独自の哲学体系を持っていたことが、神代文字で記された文献(通称「カタカムナ文献」)から推測されるが、この文明の存在を示す遺構や遺物は、この文献以外は見つかっておらず、原本の所在も不明である。日本で初めてカタカムナ文明の存在を唱えたのは楢崎皐月であった。楢崎は『古事記』や『日本書紀』等を参考に、5年をかけて「カタカムナ文献」の解読に成功。その内容が自然科学的な実用書であった事を突きとめた。この文字はそれが祀られていたとされる神社の名から「カタカムナ文字」と呼ばれ、その文字を使用していた文明として「カタカムナ文明」が提唱された。


◎カタカムナ文献

「カタカムナ文明」の実在を示しているとされる古史古伝の書物である。カタカムナ文字によって記された80首の詩歌で構成されており、第1首が「カタカムナ ヒヒキ マノスヘシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナ ウタヒ」と解読された事から、『カタカムナのウタヒ』、略称「カタカムナ」と呼ばれる。古史古伝の研究者である吾郷清彦は「神名歌集」と称している。原本は所在不明の「カタカムナ神社」の御神体とされており、江戸時代に作成された巻物であるという。この左から右へ開かれる長い巻物の中に80個の渦巻状の文字(カタカムナ文字)で記されていた。文中に「アシアトウアン ウツシマツル」という言葉があり、この「アシアトウアン」という人物が写本を作成した可能性が高いともいわれる。またその語感から陰陽師の蘆屋道満(道摩法師)との関係を主張する人もいる。
内容は全てカタカムナ文字で構成された詩歌の形で書かれており、人間の本質や世界の構成について記されている。


◎発見の経緯

楢崎が、植物細胞電位変動波農法(植物波農法)の研究中に出会った、平十字(ひら とうじ)と名乗る人物が所持する文献により発見したとされる。
楢崎によれば、1949年(昭和24年)12月から大地電位の測定のために兵庫県六甲山系の金鳥山中で調査を行っていたところ、父が「カタカムナ神社の宮司」と名乗る平十字という猟師と出会い、その神社の御神体である巻物を見せてもらったという。そこに書かれていたのは円と直線で作られた幾何学的な文字であった。これが貴重な文献であると直感した楢崎は、平十字に書写を願い出ると快諾され、楢崎は研究用に持っていた大学ノートにその文字を全て写し取ったという。その文章量は一日で写し終わるようなものではなく、それから20日間、楢崎のところへ巻物を手に平十字が毎日通ったという。楢崎の娘によると、楢崎はそれまで度々実家に葉書を送って安否を知らせていたが、このときは一ヶ月間葉書を寄越さなかったと述懐している。


◎カタカムナ文字

カタカムナ図象文字と呼ばれる。カタカムナ文献はこの文字で記述されている。
中央に「ヤタノカカミ」と呼ばれる図章が記されており、楢崎が満州で交流していた老師から聞かされた、上古代の日本に存在したアシア族の八鏡化美津文字(はっきょうかみつもじ)ではないかと直感し、後に、いろは48音に対応するカタカムナ音声符(単音)と、複数の単音を重ねて一つの単語を表すカタカムナ図象符に分類した。楢崎はカタカムナ音声符が片仮名の起源としている。
なお、八鏡化美津文字を略して八鏡文字(はっきょうもじ)、化美津文字(かみつもじ)又は上津文字ともいう。


◎タカムナ文字の特徴

いわゆる神代文字であるが、他の神代文字に草書体のような曲線形が多いのに対し、カタカムナ文字は幾何学的な円と直線からのみ成り立っている。
一般的な神代文字が右から左へ縦書きされるのに対し、カタカムナ文字は渦巻状に時計回りで記され、中央から読み進める。このため複雑な文章は書けず、カタカムナ文献は全て簡潔な歌で表されている。
濁点や半濁点、小さい「ァ」や「ッ」などの小書き文字は存在しない。
渦巻きの中央にはそれぞれ「ヤタノカカミ」「フトマニ」「ミクマリ」と呼ばれる図章が記されている。
二文字あるいは三文字が重なり合って一文字の新しい字形(カタカムナ図象符)を作る。


◎カタカムナ人の宇宙観

楢崎によれば、カタカムナ人は、宇宙意識との交信である「テレパシー(直観)」によって、宇宙の真相情報を得たのだそうである。

起源は、われわれの知っている「物質宇宙」ではなく、「高次宇宙」にある。地球での生命表現は全て高次宇宙にその原版「ブループリント・設計図」があり、その投影像がそれぞれの生物として映しだされていることになる。ここで言う「投影像」とは「ホログラフィック」なものを言う。また生命の起源(All Life of Origin)は、時空表現された物質宇宙ではなく「高次宇宙」にある。

カタカムナではまずわれわれの住んでいる「物質世界」がある。「その背後に物質世界を作り出している潜像世界(多次元世界)が存在している。

物質文明もしくは物質宇宙とは、3次元(縦・横・高さ)に時間軸をいれた4次元の世界のことを言う。われわれが物理的に確認出来る世界のことを言う。残念ながら、この世の中は物質崇拝主義となっており、カタカムナの言っている「宇宙論」に比べると次元の低いところに価値を見出している。

この「高次宇宙」とは、5次元以上の世界を言い、われわれ人類ではまだ解明されていない10次元、もしくは一説には13次元まであるといわれている世界のことである。 この多次元世界・潜像世界は「アマ始元量」と呼ばれる究極粒子(この粒子はおよそ10のマイナス80乗センチメートルと推定している)およびその複合体で出来ている。
この潜像世界が宇宙の本質であり、その世界にはアマナと呼ばれるヌシ(創造主)が存在している。アマナは究極粒子の集合体そのものである。

以下に、そのカタカムナ人の宇宙観を紹介する。


<宇宙の構造>

宇宙は、「物質世界(目に見える世界)」と、「潜象(せんぞう)世界(目に見えない世界)」の二重構造をしている。潜象世界は物質世界の背後にあり、両者は重なって存在している。物質世界は潜象世界から創られている。地球が存在する宇宙は、球状で有限である。宇宙球の外側には無数の宇宙球があり、大宇宙は無数の宇宙球で構成されている。結局、宇宙は無限ということになる。
ひとつの宇宙球の中に、私たちが住む銀河系や太陽系が存在している。このように、宇宙の構造は「大宇宙、宇宙球、小宇宙(人間)」の三位一体で構成されている。


<宇宙の構成材料>

宇宙球は、物質世界も潜象世界も「アマ」という一種類の材料でできている。アマは無限の「カム」の世界で発生したもので、微分された究極粒子を「マリ」という。
マリは完全な球ではなく、ひずみのある球である。マリは右回りのものと、左回りのものが対で発生し、これが陽と陰(正と反)になる。陽と陰のマリが複合的に集まって素粒子が作られ、これが物質の材料になる。


<創造主の正体>

宇宙球にはアマのヌシである「アマナ」が存在する。一方、宇宙球の外側のカム無限世界には、「カムナ」と呼ばれる究極のヌシが存在している。
宇宙球内の万物万象は、アマ(宇宙球の内側)とカム(宇宙球の外側)の共振によって発生した。したがって、カムナとアマナが創造主である。なお、カタカムナとは創造主という意味である。


<宇宙の創成>

宇宙球は、まずアマの充満した潜象世界が創られ、その中心に渦巻き状のアマの密度の高い部分ができる。これを「フトヒ」という。フトヒとカムナが共振し、核であるフトヒから八方に恒星が正反の釣り合いをもって発生し、銀河系、超銀河系などの星ができた。宇宙球は、膨張したり、収縮したりはしておらず、変化はしているが、統計的に一定の大きさが保たれている。(よって、現代宇宙理論にある「宇宙はビックバンによって発生し、今もなお宇宙は膨張し続けている」とする説は、全くの誤りである。)

地球の存在する宇宙は、半径180億光年の球体で、1回転1億年のスピードで回転している。
宇宙は、半径180億光年の宇宙球が約1億個存在する。これが宇宙のすべてである。
なお、一つ一つの宇宙球は、大宇宙の意思によって創造されたものである。


<物質の発生>

カムナ(陽)とアマナ(陰)が正反に共振すると物、質が生成される。生成された物質は、内部に正(陽)と反(陰)を合わせ持った構造をしている。


<生命の発生>

生命は生命からしか発生しないのではなく、条件を整えれば自然発生する。すなわち、コロイド状態で超高速粒子アマハヤミ(宇宙エネルギー)を作用させると、生命は自然発生する。


<宇宙の特徴>

宇宙には、次のような特徴がある。これは、潜象世界のアマ(究極粒子)の性質が、相似象で現象世界に現れたものだとしている。

・万物万象は正反が対照的に作られ存在している。ただし、完全な対称ではなく、わずかにひずみがある。
・正反は親和し、同種は反発する。
・あらゆるものは、固定したものではなく、統計的存在である。
・あらゆるものは、旋転、循環の運動をしている。
・七の周期性があり、永遠の循環性がある。
・正反が共振すると、物質や生命やインスピレーションなどが発生する。
・あらゆるものに粒子性と波動性がある。
・さまざまな性質は、同時に重なって存在できる。
・宇宙は階層的な相似構造をしている。

この宇宙は、目に見える「物質世界」と、目に見えない「潜象世界(多次元世界)」の二重構造で出来ているということである。

<了>











「世界最低水準!日本6%の不安、エネルギー資源」

2015-03-08 09:14:47 | 日本

吉田光雄さんが「世界最低水準!日本6%の不安」と題してエネルギー資源の論文を出した。
これはまさに、わが国の死活問題とも言える日本の生命線(中東→インド洋→シンガポール→台湾→日本)シーレーンの防衛対策である。
同時にまた、日本近海での豊富なエネルギー資源「メタンハイドレード」の実用化を一刻も早く急ぐべきである。
以下、要約し記す。



日本6.0%、韓国18.0%、アメリカ85.0%、オーストラリア235.4%。これが何を指す数字かお分かりになるだろうか? 答えは「一次エネルギーの自給率」である。IEAの資料によると、日本はOECD加盟34か国のうち、下から2番目の水準。簡単にいえば、日本は一次エネルギーの94%を輸入に頼っていることになる。「資源の乏しい国ゆえ、日本のエネルギー自給率は低い」と知っている人でも、そんなに低かったのか!と改めて驚かされる数字ではないだろうか。(なにせお隣の韓国の1/3に過ぎないのだから)

ちなみに「エネルギー自給率」とは、その国の経済活動や暮らしに必要なエネルギーのうち、自国内で確保できる割合を指す。化石燃料の乏しい日本で「自給」できるエネルギーといえば、水力や太陽光、地熱、原子力(※)などのみ。それらを全部ひっくるめても6%しか自国で賄えないのだから、よく懸念される食料自給率どころの話ではない。食料自給率は約4割(カロリーベース)に及んでおり、エネルギー自給率に比べればはるかにマシだ。庶民感覚としても、「こんな状態で大丈夫なの?」と心配になってしまう。

だが、日本のエネルギー自給率は昔からこんなに低かったわけではない。2010年には20%ほどあったが、東日本大震災に伴う原発停止により一気に落ち込んでしまったのである。やむを得ない事態とはいえ、これは危機的な状況である。

別にエネルギー自給率が低くても生活への影響はない。どのみち日本は資源を輸入せざるを得ないのだから、輸入元と良好な関係を維持すべく外交努力を重ねれば良い。そう主張する人もいるが、これは理想論に過ぎるだろう。いくら日本が「平和」を求めても、世界各地で脅威が顕在化しているからである。とりわけ火種として不安視されているのが中東情勢である。相次ぐイスラム過激派のテロは、今や世界共通のリスク要因である。

遠く離れた中東情勢はピンときにくいが、日本は原油の約8割、天然ガスの約3割をこの地域からの輸入に頼っている。中東情勢の不安定さは、即、日本のエネルギー供給のリスクとなる。その脅威の最たるものが「ホルムズ海峡のシーレーン(海上航路)」である。

日本に石油を運ぶタンカーの8割はここを通っており、その数は年間3000隻を超す。単純計算すると、毎日10隻近い石油タンカーがホルムズ海峡を通過していることになる。このシーレーンの“安全”が保たれているからこそ、我々の暮らしは成り立っているといっても過言ではない。

万が一、中東で紛争が起きたり、ホルムズ海峡がテロの標的になったりすれば、まるで“断水”のように石油の供給がストップする恐れがある。集団的自衛権をめぐる議論のなかで、「シーレーンの機雷除去」という想定が浮上したのも、そうした危機感を背景にしたものである。

「でも、日本は有事に備えて石油や天然ガスを備蓄しているから、しばらくは持ちこたえられる。中東で何かあれば世界中が混乱するから、国際社会が歯止めをかけるはず」と楽観視する人もいるが、これも誤解に基づいている。石油の国家備蓄は約3ヶ月分、民間備蓄も約2か月分に過ぎない。

さらに問題なのはLNG(液化天然ガス)で、こちらの備蓄量は13日分のみ。LNGは性質上、備蓄に向かないからである。日本は現在、LNGへの依存度を高めており、電力構成比に占める割合は4割を超える。世界情勢が平和なら良いが、各地で紛争の火種がくすぶる今、脆弱な基盤の上に成り立っていると言わざるを得ない。

加えてもうひとつ、化石燃料はいずれ枯渇するといわれている。可採埋蔵量は原油が約40年分、天然ガスが約60年分、石炭が約130年分、ウランが約100年分とされ、アジア圏の人口増・経済成長と共に、資源獲得競争の激化が予測されている。世界情勢が「平和」であり続けても、一次エネルギーの94%を輸入に頼る状況がリスキーなことには変わりない。

こうした危機感を背景に、世界各国はエネルギー自給率の向上に取り組んでいる。エネルギー環境は国ごとに大きく異なるが、供給源を他国に頼って良しとする国は世界中どこにもない。

ロシアからの天然ガスに依存していた欧州諸国も、かつて痛い目にあった教訓から、依存度を下げつつある。日本と同じく資源のないフランスが原子力を重視しているのは、まさにそうしたリスクを避けるためだ。アジア新興国が原発導入に積極姿勢を示しているのも、自国の責任でエネルギー需要の高まりに対応していくためである。

福島の事故を経験した日本からすると、なぜ?と首をかしげたくもなるが、それが世界の趨勢であり、「化石燃料頼み」では立ち行かなくなることは、もはや世界の常識と言っても良い。現在、発電電力量の約9割を化石燃料に頼っている日本にとっては、死活問題といえよう。

ならば自然エネルギーで…と言いたいところだが、現時点での技術力では、エネルギー需要を満たす基幹電源になりえないことは多くの専門家が指摘している通り。今後の研究開発に期待しつつも、まだ時間がかかることは間違いない。

では、薄氷を踏むような「海外からの化石燃料頼み」の状況を脱し、エネルギー自給率を高めるにはどうすれば良いか? まずは現在のエネルギー供給が脆弱な基盤の上に成り立っていることを、われわれ自身が認識することが第一歩だろう。日本の莫大な赤字財政と同様、問題の先送りは次世代にツケをまわすことに他ならない。いつまでも目を背けてはいられない問題である。

※原子力発電に使うウラン燃料は海外から輸入しているが、備蓄が容易であることに加え、使用済燃料を再処理して再利用できるため、「準国産エネルギー」と位置付けられており、「エネルギー自給率」に含まれる。原子力発電を除くと、エネルギー自給率は5%となる。











「全中解体の実態」

2015-03-07 09:01:24 | 日本

全中(全国農業協同組合中央会)の動向に関して、古賀茂明さんが言う。
以下、要約し記す。



農協の組織は、地域と機能の両面で縦横のネットワークが張り巡らされており、結構複雑である。以下、大づかみに整理しておく。

全国の農協組織の頂点に立つのが、今話題になっている全中(全国農業協同組合中央会)。その傘下には、保険事業を束ねる共済連、金融事業を束ねる農林中金、農産物販売などを行なう全農があり、地域別には、全国の約700の地域農協とそれを都道府県ごとに束ねる都道府県の中央会がある。全中は、これらの傘下団体に対して、監査や指導を行なう権限を法律で与えられている。全中は、監査・指導を名目に年間80億円もの収入を得るという構図である。

今国会に提出される関連法案に盛り込まれるのは、地域農協を束ねる全中を一般社団法人(特別に法律で与えられた権限や特権などがない)に転換し、地域農協への監査・指導権限をなくすことがその中核になる。

公平に見て、これは確かに大きな変更ではある。しかし、その中身が「解体」とか「抜本的改革」と呼ぶにふさわしいものかどうかと言うと、私の見立ては極めて否定的だ。少なくとも岩盤規制を突き崩すというような効果は期待できない。客観的に言えば、今放っておいても進んでいる地域レベルの改革の動きを邪魔することが少なくなるという程度の効果しか期待できないだろう。

では、どのように「改革」が骨抜きにされているのか。

そのヒントは、佐賀県知事選にも見られるとおり、全中だけでなく、地域の農協が「全中解体」に反対していたことにある。本来、全中の権限をなくし、地域の農協はより自由になり、監査・指導料も払わなくて良いということであれば、地域農協は反対する理由はないのではないかという疑問が湧く。

しかし、現実には、地域農協には非常に心配なことがあった。その一つが、准組合員問題だ。農協には農家である組合員と農家ではない准組合員がいる。現在は、准組合員の方が多い。この准組合員を対象にした金融・保険事業の収益の方が、本来の農業分野の収益をはるかに上回っていて、農協にとっての生命線になっている。

この金融関連事業は、民間の銀行や保険会社から見れば不当に優遇された条件で事業を営むライバル企業であり、農協バンクもJA共済もその規模は日本のトップレベルに匹敵するまでに膨らんでいて、明らかに民業圧迫となっている。

当初の改革案では、この金融事業の膨張に歯止めをかける意味も込めて、准組合員の利用に制限をかけることが検討されていたが、これが実施されれば地域農協にも大打撃になるはずだった。したがって、地域農協も反対ということになるわけだ。しかし、この劇薬はあっさりと撤回された。

もう一つの懸念が実は今回の妥協劇のポイントになる。それが全中の監査権限である。これがなくなるということは、全中にとっては、80億円の収入がなくなる可能性があり、監査部門は廃止することになり、多くの人員が路頭に迷う。

一方、地域農協は、全中以外の一般監査法人の監査を選ぶことができて自由度が増すから、一見、地域農協にとっては得なように思える。しかし、実は、この改革の結果、仮に地域農協が一般の監査法人の監査を受けるしかなくなるととんでもないことが起きる可能性がある。

何故なら、今までの全中による監査は、身内が行うことによって、なあなあの緩い監査だったというのが一般の評価である。そうした監査を受け続けている地域農協に、普通の民間企業並みの監査を行なえば、多くの地域農協が実は破綻していたとか、経営状態が公表されているものよりもはるかに悪いことがわかってしまうという懸念があった。本来は、その方が長期的には地域農協の健全経営につながり望ましいはずだが、その対象となる農協から見れば、急にルールを変えられるようなもので、絶対に受け入れたくないという反応になる。

そこで、今回の改革案を見てみると、全中の監査権限はなくすので監査部門は単純に廃止されるのかと思ったらそうではない。この監査部門は独立させて新しい監査法人に衣替えする。地域農協は、この新しく設立される監査法人に監査を依頼するか、一般の監査法人に監査を依頼するかを選択できることになる。

普通に考えると、全中から切り離される監査法人は、一般の監査法人との激しい競争にさらされ、場合によっては、今行っている事業が大幅に縮小してしまうかもしれない。しかし、実は、そうはならない構造的な保証がある。

全中の監査法人は、今までの地域農協との馴れ合い関係を武器に、これまでどおりの甘い監査を売り物にして地域農協の監査業務を受託することができるのである。

地域農協にとって、これまでの貸し借りがない一般の監査法人に監査を任せるのは非常に大きなリスクを感じるだろう。全中から移行した監査法人なら、過去の不適切経理があっても、言わば、共犯者だから、時間をかけてうまく処理してもらえるという期待感がある。したがって、地域農協は今回の改革以降も全中から独立した監査法人を多少料金が高くても使い続けることになるのである。

一方、全中としては、監査部門を切り離しても、従来どおりの甘い監査を続けていけば、地域農協はついて来てくれるという読みが成り立つので、ここは矛を収めたということである。しかも、実施は19年3月末というから、まだまだ先の話。安倍政権が続いているかどうかもわからない。郵政民営化や政府系金融機関の民営化も小泉内閣の時に決まったものの、その後、どんどん後退している。農協改革もまだまだ巻き返しの余地ありと考えているのかもしれない。

いずれにしても、監査の分野では、大きな変化は期待できないということになる。












「自民党が60年間改憲をしなかった本当の理由」

2015-03-06 09:06:40 | 日本

憲法改正が現実的な課題として浮上する中、ジャーナリストの田原総一朗さんが、今まで改憲をしなかった理由をこう分析する。



安倍首相は、どうやら来年の参院選後に憲法改正を敢行する腹を固めたようである。2月4日に首相官邸で自民党の船田元・憲法改正推進本部長と会談した際に、その確認作業を行ったと私はみている。

現憲法がつくられたのは敗戦の翌年、1946年2月であり、日本は占領下にあった。連合国軍総司令部(GHQ)が10日足らずで書き上げた憲法案に日本政府が少々書き足しただけで、その意味ではGHQから押し付けられた憲法である。

GHQがこの憲法をつくった目的は、一つは日本を再び戦争ができない非武装の国にすること。次に、民主的な国家にするということ。三つ目は個人の権利を重視し、国家に対する義務や責任を個人に押し付けないということであった。憲法の前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたっているのも非武装が前提となっているからであり、憲法9条も非武装の念押しをした条項であった。

自由民主党づくりの中核となった鳩山一郎、三木武吉、岸信介らは、これではとても独立国とは言えないと考え、憲法を改正してイギリスやフランスのような、いわば普通の国になることを目指した。1955年に自由党と民主党が合併して自民党が設立されたときの主要目標の一つが憲法改正であった。

ところが、それから60年間、憲法は改正されないままできた。この間、ほとんど自民党が政権の座を占めていて、しかも自民党の中には主権のない占領下にGHQによって押し付けられた憲法を「無効」とする考え方の人物が少なくなかったにもかかわらずである。

自民党の歴代の幹部たちに問うと、衆参両院とも、一度として3分の2議席を占めたことがないからだと説明する。確かに憲法を改正するには、衆参両院ともに3分の2以上の議席が必要で、現在までいずれの選挙でも自民党が3分の2以上の議席を獲得したことはない。

だが、本当に憲法改正を狙うのならば、何も自民党単独で3分の2議席を占めるのではなく、公明党や民社党などが同意できる改憲案を示して、抱き込みを図ればよかった。

なぜ、抱き込みを図らなかったのか。宮沢喜一氏は首相時代に、「改憲をしない最大の理由は、実は自民党内に改憲反対の議員が少なくないからだ」と説明した。宮沢氏を含め戦争を体験した議員たちに改憲派は少なく、9条を断固守るべし、という議員が多かったのである。

改憲が現実味を帯びてきたのは、国際情勢が変わったためなどではない。戦争を体験した議員が自民党にほとんどいなくなったからなのだ。現に野中広務氏、青木幹雄氏、古賀誠氏など戦争を知るOB議員たちはいずれも改憲に強く反対している。

安倍首相は、祖父の岸信介が改憲できずに辞任せざるを得なかった悔しさがトラウマになっているのかもしれない。しかし、来年の参院選後の改憲を図るとするならば、現実に公明党の協力を得ることが必要であり、公明党は平和政党であることを売り物にしていて、憲法9条に手をつけることには反対のはずである。

船田元氏に憲法改正について確かめると、公明党との協力が必要であることを認め、参院選前に、憲法のどの部分をどのように改正するのか明らかにしなければならないと表明した。