龍の声

龍の声は、天の声

「活人禅と平田精耕」

2017-08-25 06:01:49 | 日本

◎「水急不流月」・・・・水、急なれど、月を流さず。


◎もともと、それは人間が心で思うにすぎないのであって、本来何もないものだという。
それで一切は空、無明は無いという。
それでは何も無いのかと言うと、そうではない。何も無いのだけれども、人は目でものを見、耳で音を聞くのです。だから、そうやって外界のものとと結びつくから、いろいろの迷いが起こってくるのだという。
だから、生きている限り、目でものを見、耳で音を聞き、心には次から次へと思うことが尽きることはない。


◎嬉しい時は、天地一杯喜べばいい。悲しい時は、天地が張り裂けんばかりに泣けばいい。それでそのまま、心はもともと何も無いのです。


◎美味しいものは、やっぱり美味しい。不味いものはまずい。美人が来たら、ああ、美しいなーと思う。不細工なのが来たら、ああブスだなーと思う。そのままでいいのです。
そのままでいて、しかも、本来、そんなものは無いのです。無いのだけれども、目で見、耳で聞く。生涯生きている限りは、ものを見るし、聞きます。味わうし、身体で触れて、よしあしを味わう。
そのたびに、いいなあー、悪いなー、嬉しいなーと思う心が起こります。人間である以上、これが生きている証拠なのですから、それはそのままでいいのです。


◎十全部やろうと思うから迷うのです。
五分取れなくても、もともと、なにもないのですから、それでもいいのです。そのことによって、たとえ失敗することがあったとしても、もともと何も無いのですから、一方を選ぶ。一方を選んだら迷わず選んだ道をいく。そういう力を養う。それが座禅である。


◎本当は「生きておること自体が目的」である。生きておるということのために、我々は、生きているのです。
たとえば、鉛筆は書くためと言う目的があって存在しているのであって、鉛筆が鉛筆のためにあるわけではない。すべての物がそうである。それ自身のためにあるのではなくて、何か他のことにのためにあるのである。
ところが、人間は生きていることのために生きている。生きていること自身が目的という奇妙な目的を持っているわけである。
そこのところが、動物の生きていると言うことと、それから我々人間が生きているということの、大きな違いである。


◎人間が生きていると言うことは、これは同時に生かされているという面が必ずある。
人間と言うものは生きていると同時に、それはいろんな人によって生かされている。だから自分が生きていると言うことと、人によって生かされている、人だけではない。土地、自然、天地、そんなものによって生かされている。そういう生きているということと、生かされているということの上に乗って、我々はこの世に生存しているわけである。
これが私は、人間が生きているというととを自覚をした場合の、生き方の原点となるものではないだろうかと思う。








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