いとゆうの読書日記

本の感想を中心に、日々の雑感、その他をつづります。

富嶽百景 太宰治 著

2010年11月01日 | 小説
砂上の楼閣をつくるような先の見えない忙しさに読書もうつろな日々でしたが、先日久しぶりに我が家に戻って部屋を片付けているうちに数年前に購入したニンテンドーのDSが出てきました。今年2010年は本の革命の年と言われ、アマゾンの「Kindle」や アップルのタブレットPC「iPad」など電子書籍のブームが到来しました。去年までの私なら、かなり簡単に飛びついたかもしれないと思いましたが・・・。今年は、そんな電子書籍による読書を楽しめる時間がちょっと・・・。というわけで、店頭でほんの少しお試しをしただけで終わってしまいました。

久しぶりに手にしたDSを充電してみると「あら、まだちゃんと動くじゃないの!」
文学全集はたった百冊だけど今の私には充分!昔読んだ本だって内容はかなり忘れてるし・・・。

というわけで何気なくこの太宰治の「富嶽百景」を選んで読み始めました。

最初にこれを読んだのは十代の半ばころでした。今から〇十年前、当時の私は青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市)の太宰治の生家「斜陽館」を見に行ったり、太宰治の小説の背景となった土地をあちこち訪ねたりするほどの太宰ファンでしたが、これはそれほど好きな小説とはいえませんでした。今読み返しても、何かとても健康的な文章で、人間失格や斜陽に見られる太宰治独特の純粋無垢な若者の心をえぐるような鋭さは感じられません。でもそれは逆に今の疲れきった私が読み返すのにちょうどいいような癒し系の題材であるように思われました。結婚も決め、太宰がもっとも健全だと、周りから見てもそう思われていた時期の作品なので、安定感があるとでもいうのでしょうか。

私の故郷は晴れた日には富士山を眺めることができるところですから、富士と聞くと自然に懐かしさを感じます。特に海外生活をしていた頃はテレビや写真の前に釘付けになったこともありました。姿はもちろん美しいと思いますが、高さも日本一で皆が注目する山ですから初冠雪だなんだかんだですぐマスコミにも登場します。テレビの画面に富士山が登場して、レポーターが「ほら、こんなにきれいです。」とかなんとか言ったりして・・・・。そうなるともう太宰の富嶽百景くらいの捉え方の富士がちょうどいいなんて思い始めたりします。

今や太宰治の名言ともなった「富士には月見草がよく似合う」の月見草は本当は待宵草だとかいろいろ言われているようですが、私はそんなことはどうでもいいかなと思います。

太宰は御坂峠からの富士について「あまりにおあつらえむきの富士である」「まるで、風呂屋のペンキ画だ」「どうにも註文どほりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」という評価していますがそれも受け流しながら、「『月見草!』と指さした老婆」と「富士山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合ふ」という表現も「ふうん、そんなんだ!」という感じで素直に受け止めながら一気に読み進めてしまいました。

そんな風にじっくりと富士を鑑賞する時間が欲しいなあ・・・。

人には邪魔されずに自分で納得しながら美しいと感じられる景色を眺める時間も時には持ちたいものです。



さて、これはちょっと蛇足ですが、この作品は約70年前に書かれたのもので、当時の完全な口語体に近い形で書かれています。今は死後になりつつある当時使われていた言葉が何箇所か出てくるのでこの作品が書かれてから30年後、40年後に読んだ時には気づかなかった日本語の変遷とでもいうのでしょうか。70年の時の流れが感じられ、その点もとても興味深かったです。


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