励まし合い、支え合いの避難所生活
桃生小学校は、宮城県の中程にあり石巻市と登米市の中間に位置するところにある。このことがとても重要だったことにあとで気づくことになるのだが。
日赤から運び込まれた私たちは、その日から体育館に毛布一枚をしき、毛布一枚をかけ寒さに震えながら、畳一畳分くらいのスペースに寝て、起きてのくりかえしの生活が始まった。
ほとんどの人が病院から運び込まれてきていたので、透析患者もいれば、骨折している人、妊婦さん、糖尿病患者など何らかの病気を持っている人たちがほとんどだった。
そこに詰めていたスタッフは最初どういう人たちかよく分からなかったが、看護婦さんが一人、いちども家に帰らず自分の子供を連れて、ずうと看護に当たっていた。
また、ケアマネージャーのような人たちも何人か交代で、看護に当たっていた。あとで聞いたところ、桃生町は介護事業が盛んで、介護施設を数カ所持っているということだった。
だから、訓練されたスタッフが何人もいた。その点は私は、恵まれたところに避難できたのかもしれない。まして、米所だったので一日3回おにぎりが配給になった。時に、お漬け
物や青物のゆでた物、ジャガイモのゆでた物など差し入れがあり、本当にありがたかった。しかし、それも4日間だけで、5日目からはさすがに食料を維持させていかねばならな
いと気づいたようで、二食のみになった。
しかし、医療関係は本当に厳しかった。透析患者は一日置きに透析しなければいけないのに、それができなかった。朝早く日赤に透析を受けに行くのだが、そこには地元の患者
が当然透析日として組み込まれているので、その人たちが終わるのを待ってからするということになったようで、結局透析できず夕方帰ってくるということが何度もあった。
スタッフは、誰をどこで透析させるかで、ありとあらゆる所と連絡を取り合い、透析場所を確保しようとしていた。一方私は、足の爪をはがしていたが、薬がないということで
消毒だけで、化膿しないよう自分で気をつけてねといわれるのみ。また、腰を手術していて、痛みが激しく、以前より特殊な薬を飲んでいたのだが、その薬は全く処方されなかった。
赤十字のスタッフが一日に一回だけ、各避難所を回ってきていたが、薬が全く足りないということで、糖尿病患者も私も毎日飲まなければならない薬が、手に入らない。
本当に病人は避難所生活なんて、できるはずがない。骨折している人たちも痛み止めは一回処方されただけで、あとは、いつ薬がでるか分からないという状況だった。
本当にみんな不安と苦しみの日々だった。でも、桃生小に詰めていたスタッフの人たちと、その地域の民生委員さんやボランティアの人たちは、一生懸命お世話をしてくださった
みんな、車いすで遠く離れた校舎にあるトイレまではこんでくれたり、炊き出しのおにぎりをくばってくれたり、衣服を集めてきてくれたり、本当によく尽くしていただいた。
あの人たちが励ましてくれたから、今 私は生きていられると感謝しています。
桃生小学校は、宮城県の中程にあり石巻市と登米市の中間に位置するところにある。このことがとても重要だったことにあとで気づくことになるのだが。
日赤から運び込まれた私たちは、その日から体育館に毛布一枚をしき、毛布一枚をかけ寒さに震えながら、畳一畳分くらいのスペースに寝て、起きてのくりかえしの生活が始まった。
ほとんどの人が病院から運び込まれてきていたので、透析患者もいれば、骨折している人、妊婦さん、糖尿病患者など何らかの病気を持っている人たちがほとんどだった。
そこに詰めていたスタッフは最初どういう人たちかよく分からなかったが、看護婦さんが一人、いちども家に帰らず自分の子供を連れて、ずうと看護に当たっていた。
また、ケアマネージャーのような人たちも何人か交代で、看護に当たっていた。あとで聞いたところ、桃生町は介護事業が盛んで、介護施設を数カ所持っているということだった。
だから、訓練されたスタッフが何人もいた。その点は私は、恵まれたところに避難できたのかもしれない。まして、米所だったので一日3回おにぎりが配給になった。時に、お漬け
物や青物のゆでた物、ジャガイモのゆでた物など差し入れがあり、本当にありがたかった。しかし、それも4日間だけで、5日目からはさすがに食料を維持させていかねばならな
いと気づいたようで、二食のみになった。
しかし、医療関係は本当に厳しかった。透析患者は一日置きに透析しなければいけないのに、それができなかった。朝早く日赤に透析を受けに行くのだが、そこには地元の患者
が当然透析日として組み込まれているので、その人たちが終わるのを待ってからするということになったようで、結局透析できず夕方帰ってくるということが何度もあった。
スタッフは、誰をどこで透析させるかで、ありとあらゆる所と連絡を取り合い、透析場所を確保しようとしていた。一方私は、足の爪をはがしていたが、薬がないということで
消毒だけで、化膿しないよう自分で気をつけてねといわれるのみ。また、腰を手術していて、痛みが激しく、以前より特殊な薬を飲んでいたのだが、その薬は全く処方されなかった。
赤十字のスタッフが一日に一回だけ、各避難所を回ってきていたが、薬が全く足りないということで、糖尿病患者も私も毎日飲まなければならない薬が、手に入らない。
本当に病人は避難所生活なんて、できるはずがない。骨折している人たちも痛み止めは一回処方されただけで、あとは、いつ薬がでるか分からないという状況だった。
本当にみんな不安と苦しみの日々だった。でも、桃生小に詰めていたスタッフの人たちと、その地域の民生委員さんやボランティアの人たちは、一生懸命お世話をしてくださった
みんな、車いすで遠く離れた校舎にあるトイレまではこんでくれたり、炊き出しのおにぎりをくばってくれたり、衣服を集めてきてくれたり、本当によく尽くしていただいた。
あの人たちが励ましてくれたから、今 私は生きていられると感謝しています。
怪我病気と闘うことは生きることなのですね。
泊り込んでの看護のお仕事、町を上げての病を抱えた人へのお世話。
多くの人の支えが生きることへの意欲を高めてくれたのだと思います。
こうして当時の避難所の暮らしを残してくださることは、災害弱者の大きな叫びとして、貴重なことだと思います。
前に手術されたところ、いかがですか。
心も体も癒える日が早く訪れますようにお祈りしています。