お散歩日記 復興の日目指して

写真付きで見たことや日々感じたこと、震災に遭い今感じていることなど、記録にとどめたい。

震災1500日目 男たちの戦いと桜の悲劇

2015-04-19 18:00:30 | 記録
 
東日本大震災から、今日で1500日目。

毎年桜の季節は地元に戻り、桜の美しい高校から被災地の復興の様子を、定点撮影してきた。

今年はびっくり、と桜の花の悪さに愕然として帰ってきた。
どこに行っても美しかった桜の名所に花が、咲いていない。咲いていても、ポツポツとまばらだ。

いったい、今被災地では何が起きているのだろう。観光というか応援に都会から来てくださる方は、こんなものだろうと思いながら帰るのでしよう。

でも、一か月に1回くらい帰ると、故郷がどんどん破壊されているのがわかる。復興って何なのだろうと、考えさせられてしまう。

毎日何トンもの土を削り、土盛りし津波から守ろうと、土地のかさ上げをしているが・・・。

ものすごいトラックからの振動、舞い上がる土煙。中国の大気汚染とそっくりの日常。

あれでは、桜たちは落ち着いて新芽を出すことなんてできないだろう。自分の生存の危機を敏感に感じ取っているから、枯れ木のようになっているのだと

私は思う。私たち人間のため自然をこんな風に犠牲にしていいのか・・・。申し訳なさでいっぱいである。

                                                               遠くからでも美しかった、高校の桜がまったく色がない。
                                                               防災庁舎が土盛りの中に うずまってるようだ。ただ、津波はこの庁舎のてっぺんまで来た。

            震災で最後まで防災庁舎で避難を呼びかけた遠藤未希さんのお父さんが建てた民宿                          民宿   未稀の家               
 
   1000年先に震災を伝えようとボランティアの人たちが植えた桜の苗木                同じく震災の年に 被災地に桜を植えようという会が定植した桜の今現在の様子 ほとんど成長していなかった。

       桜の名所の今の様子 

 支援してくださる方たちに申し訳ないが、手入れもできない毎日でこの苗木は1000年後に伝わりません。桜たちがこの写真のように悲鳴を上げているのです。
 だからといって、かさ上げをやめるわけにいかない。ただこんな現実があったという歴史は後世に残さなければ。
 舞い上がる埃は、海に流れ行くから、まだここはいいほうだろう。東京で同じことが起きたら、おそくら復興の仕方を根本的に考え直さないと、住んでいる人たちは喘息をおこし肺をやられたりして、生活できないでしょう。
 何をしても自然の力には、人間の力はかなわないのですから。かさ上げなんてする必要はなかったと今は思う。
      
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キラキラ丼から春告げ丼へ 

2015-03-31 14:34:16 | 記録
久しぶりに、南三陸町に行ってきました。
ずいぶん土盛りが進んでいます。
防災庁舎も土盛りされた土のあいだにはさまれ、遠くから見れない状態。

ちょうど今日、県知事と防災庁舎で亡くなった遺族とで、庁舎の保存、解体について意見交換がなされているはず。

複雑で難しい問題ではあります。

さんさん商店街は月曜日にも関わらず、全国からお客さんが見えていました。ありがたいことです。
 これまでは、海の幸たっぷりのキラキラ丼でしたが、今は春らしい食材を使って、春告げ丼というものを競って出していました。
  新鮮なマグロ、カジキ、ヒラメ、サーモン、卵焼きとアワビそして、細切り                                                                              めかぶが乗せてある。また特産のつぼみ菜も乗せています。
                                                                                                                  味噌汁、おしんこ付                                                             アワビは、粕漬にしてあるようです。今は時期でないからね

                                                     おいしかったよ。ごはん少し酢飯のほうがいいかなあとも思ったけれどもめかぶのせてるからね、酢飯にはあわないかな?

少し山の中に入っていくと水仙ロードがあります。南側が咲いてました。
  なんにせよ、空気は相変わらず一番うまいですなあ。
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デジブック 『4年目 3.11』 阪神淡路大震災から20年

2015-01-16 15:27:54 | 記録
               デジブック 『4年目 3.11』
             


 阪神淡路大震災から,20年が立つのですね。
 何年経っても心に受けた傷は癒えることがないでしょう。
 3.11で被災した 奥松島も4年たっても荒涼とした風景しか見えません。
 この風景を見ていると,心が締め付けられます。でも,現実を伝え続けていくことが大事だと思っています。                                               
                   奥松島 野蒜海岸より 太平洋を望む
          
                   嵩上げの光景
                                                        松原は これしか残っていません。                                                 

          

少し心温まる写真を。 毎年ガラスの干支を買いに行ってる松島のガラス館展示より
                 
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あの日・・・ 3月11日  生かされた命を語り継ごう その1

2011-05-18 14:28:44 | 記録
 3月11

 あの日、私は地震がおさまった時すぐに車で高台に逃げた。ここまでは、津波は来ないといわれていたところに。

 しかし、誰かが下のほうで つなみだ  と叫んだ。
  え、なに。避難していた友達の家の二階に駆け上がった。
 
 気づいたときは、私は瓦礫に囲まれ、海の上にいた。幸い胸から上が、海の上にあった。友達の名前を叫んでも答えず、姿も見えない。

 必死で、瓦礫から逃げ出そうとするも一つも動かない。ここで死んでしまうのか。
 
 いや、波は必ず引く。そのとき、瓦礫も動くかもしれない。それにかけようと、自分をひたすら冷静にした。
 
 グググという音がしたら、瓦礫が少し動いた。その瞬間、私は無我夢中で瓦礫の中を抜け出し、目の前にあった鉄骨に飛び乗った。

 助かったと思った瞬間、引き波に呑まれ、また、海に落ちた。もうだめか、どうしようと思ったら、本当に天の助けか、網が見え、それにすがりついた。

 でも、下は海。鉄骨にあがることができない。何とかしなければと、もがいても もがいてもどうにもならず、ああ、こんな形で死にたくないと一心に天に祈ったとき、
 
 何かが私の足元に流れてきて、それに足をかけ鉄骨に上がれた。
 
 あとは、声を限りに山に向かって助けを呼び続けた。山で声を聞きつけて人が姿を見せるまで、何分くらい立ったのか覚えていないが、男の人たちが見つけてくれた。

 「自力であがってこいと」、叫ばれても、もうつかれきっていてそれもままならず。

 やっと一人の男性が、ほかの人が危ないからやめろというのを振り切って、駆け下りてきて私を背負ってくれた。

 本当に、本当にありがとうございました

 志津川の写真館の方が津波の様子を撮られていたのをお借りしました。

 あの日から、2ヶ月が過ぎ、何もする気になれなかったけれども・・・しかし、あの場所で助かったのは私一人。亡くなられた人のことを思うと、泣いてばかりいられない。
 
 南三陸町が復興に向かって生きようとする姿を、私なりに語りつないでいかなければとおもい、やっとブログを書き始めた。亡くなった友のためにも。
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