ひろむしの知りたがり日記

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私の愛した『空手バカ一代』 ─ 大山倍達とブルース・リー

2014年09月02日 | 日記
   

1973年7月20日、32歳の若さで急逝したブルース・リー。その没後40周年に当たっていた昨年末の12月15日にアップした「ブルース・リーのドラゴン拳法(1)」から、先月3日アップの「『ロングストリート』実戦ジークンドー講座(完)」まで、いろいろと切り口を変えながら延々と彼がらみの話題を取り上げてきました。それらの記事は、数えてみたら28本にもなっていました。
なんでそんなに書いたのかといえば、それはもう、好きだからとしか申し上げようがないのですが、ぼくがブルース・リーに夢中になるのには、1つのきっかけがあったのです。

それは、ある少年マンガとの出会いでした。
国際空手道連盟極真会館の創始者で、“ゴッド・ハンド(神の手)”と謳われた大山倍達<ますたつ>を主人公に、『巨人の星』や『あしたのジョー』で一世を風靡した梶原一騎が原作を手がけ、後に『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』などを描いてオカルトブームの一翼を担ったつのだじろうが作画を担当した『空手バカ一代』です(作画は途中から影丸譲也に変わります)。
子どもの頃のぼくは強い男に憧れて、熱心に柔道の稽古に励んでいました。それと同時に生来の“知りたがり”の性質から他の武道にも興味を持ち、いろいろと本を読んだりするようになりました。
そうして、本屋さんでふと手にしたのがこのマンガです。

どこまでも強さを追い求め、人間の空手家に敵がいなくなれば牛や熊と闘い、日本を飛び出して海外のプロレスラーやボクサーにも挑戦するその生き様は、まさにぼくの理想像そのものでした。たちまち魅了されてしまいましたが、まだ小学生だったぼくは小遣いも少なく、毎日本屋さんに通っては立ち読みをしていました。

そんな時、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」が公開されます。
当時の日本では、中国拳法のことなどあまり知られておらず、この映画も“空手映画”と紹介されました。大山倍達でさえパンフレットに寄せたコメントで、「感銘致しました。今まで空手劇映画でこれほどすばらしいのを見たことがありません」と語っているくらいです。

もしかしたら“地上最強の格闘技”かもしれないと思い始めていた空手の映画があると聞いて、知りたがり屋が見逃せるはずもありません。かといって、公開してすぐだったのでまだ小学生の間にまでブームは広がっておらず、一緒に行く友だちはいませんでした。
こうして「燃えよドラゴン」は、ぼくが生まれて初めて1人で映画館へ見に行った作品となったのです。
その後、ぼくがどれだけブルース・リーの虜になってしまったかは、先に挙げたブログ記事を読んでいただければよくおわかりになるでしょう。

 
  大山倍達や梶原一騎もコメントを寄せる「燃えよドラゴン」日本初公開時のパンフレット(1973年)

話を『空手バカ一代』に戻します。
昭和46(1971)年に講談社の『週刊少年マガジン』でスタートし、ブルース・リーブームとの相乗効果もあってか大人気を博し、同52年まで6年間にわたって長期連載されました。
昭和48年10月から翌年9月にかけてテレビアニメも放映され、千葉真一主演で50年には実写映画「けんか空手 極真拳」「けんか空手 極真無頼拳」、52年に「空手バカ一代」が公開されています。
かくいうひろむしは、柔道の稽古日とでも重なっていたのか、テレビアニメはあまり見た覚えがありません。映画は少なくとも「極真拳」は見に行ったように記憶しています。


アニメ「空手バカ一代」全47話を収録したブルーレイ・ボックス(製作・著作 トムス・エンタテインメント)

やがて時が流れ、大人になったぼくは、『空手バカ一代』に描かれた大山倍達が、実像とはかなり違っていることを知りました。
彼は実は、最初から日本人だったわけではありません。1921年6月4日に韓国の全羅北道金堤郡龍池面臥龍里に生まれ、元の名を崔永宜<チェ・ヨンイ>といいました。彼が日本に帰化したのは、昭和43(1968)年のことです。しかしそんなことは、『空手バカ一代』のどこを読んでも出て来ません。

また、倍達は特攻隊員の生き残りとされていますが、これも事実とは違います。
彼が戦闘機乗りや軍人に憧れていたのは確かです。そのために彼は、山梨航空技術学校を卒業して受験資格を得、陸軍士官学校の入学試験にチャレンジしています。しかし残念ながら合格できず、軍人になる夢は叶いませんでした。結局彼は、軍用の道路を作ったり、トンネルを掘る徴用工として、太平洋戦争に参戦することしかできなかったといいます。

さらに彼には、マンガに描かれている智弥子夫人と築いた日本における家庭のほかに、韓国にも妻子がいました。しかも、戦後の在日朝鮮人に対する処遇の杜撰さから二重国籍者となった彼は、いずれの家庭も、それぞれの国において正当と認められていたのです!

そういったマンガと実際の倍達の経歴との相違は、挙げていけばキリがありません。
作品の冒頭で、梶原・つのだは「事実を事実のまま完全に再現することは、いかにおもしろおかしい架空の物語を生みだすよりもはるかに困難である」というアーネスト・ヘミングウェイの言葉を引用し、いかにもこれから描くことが真実であるかのように強調しています。
しかし、うがった見方をすれば、それほど難しいことに挑戦しているんだから、ちょっとくらい事実と違っていても許してよね、と言い訳していると取れないこともありません。

事実との相違といえば、なんと、ブルース・リーが極真門下だったことになっているのです!
ハワイ支部に入門した彼は、その才を見込んでかわいがってくれた師範代ブルース・オテナの名にあやかって、ブルース・リーと名乗ったというのです。
ちょっとブルースについて知っている人にとっては、両親から李振藩<リー・チェンファン>という名を授かった彼が、俳優だった父のアメリカ巡業中にチャイナ・タウンの病院で生まれた時に、看護師につけてもらった英語名であることは常識でしょう。

ブルースは格闘に関するあらゆる知識と経験を貪欲に吸収しようとしていましたので、多くの空手の技の名称を日本語で知っていましたし、それらを実演して見せることもできました。
しかし、それはあくまで書物などを通してであり、1度も空手を習ったことはありません。ましてや彼が、極真会に入門したなどという形跡は、まったくありません。

         
     1997年にリバイバル公開された「燃えよドラゴン」のパンフレットに付されたシール

このように『空手バカ一代』に多くの虚構が含まれているのは、梶原の脚色によるところ大なのはもちろんですが、倍達自身がさまざまな場面で語ったり、書いたりしてきたことが、すでに虚飾に満ちていたのです。
その主な理由として、彼が韓国出身で、民族運動に深く関わっていた時期があるという事実を、秘匿しようとしたことが考えられます。彼は戦後混乱期の修羅場をくぐり抜け、韓国と複雑な歴史的因縁を持つ日本で、日本の武道である空手の道で大成するために、自分の過去を“創作”したのです。

    
 極真会館からの1975年の暑中見舞と翌年の年賀状。第1回世界大会や映画に触れています

終戦直後、『空手バカ一代』が描く大山倍達は、1度は命を捨てる覚悟をしたにもかかわらず、死に損ねて何の生きがいも目標も見出せずにいました。ヤクザの用心棒に身をやつし、闘争に明け暮れることによって心の虚しさを紛らわしていた彼は、吉川英治の『宮本武蔵』を読んで衝撃を受けます。そして、武蔵が剣を通して人間としての高みを目指したように、自分も空手の道に生涯を賭けよう決意するのです。

『宮本武蔵』は昭和10(1935)年8月23日から同14年7月11日まで、途中1年弱の休載を挟んで朝日新聞に連載されて大ヒットした剣豪小説です。武蔵は無論実在の人物ですが、その生涯は謎に包まれています。本当に強かったのかどうか、剣の技量さえも論争の種になるくらいで、吉川版に見られるような求道一筋の武蔵像は、史実とは異なると考えられています。
だからといって、それが小説『宮本武蔵』の価値を下げることにはなりません。なぜならば、“吉川武蔵”は宮本武蔵という実在の人物を素材にしてはいるものの、文豪吉川英治が真の武芸者とはこうあるべきだ、こうあってほしいとの理想を注ぎ込んで作り上げた、事実上“オリジナル・キャラクター”であり、それが人の心をとらえる魅力を備えていたからです。

同じことは『空手バカ一代』にもいえるでしょう。
そこに描かれた“梶原倍達”は、実在の大山倍達とは似て非なる存在かもしれません。しかし、それは梶原一騎が、当時の空手界で主流だった相手の身体に突きや蹴りを当てる寸前で止める寸止めルールに異議を唱え、直接打撃制を主張して総スカンを食らっていた倍達を、なんとか日の当る場所に出してやりたいと願って生み出したキャラクターでした。そして、梶原は倍達をより魅力的に見せるために、彼を吉川武蔵と同様に、求道一筋の理想的な武道家に仕立て上げたのです。

ただ、ここで忘れてはならないのは、実在の武蔵や倍達が、決してスポット・ライトを当てる価値のない人間ではなかったということです。武蔵は単なる剣客ではなく、水墨画や彫刻の名品を遺し、『五輪の書』を著すほど多芸多才な人物であり、多くの研究者や作家の関心を掻き立ててきました。そして倍達もまた、梶原にマンガの主人公にしたいと思わせるだけのものを持っていました。

小島一志とともに、日韓を股にかけて5年に及ぶ緻密な調査を行い、倍達伝説の真相に迫る力作『大山倍達正伝』を著した塚本佳子は、序章で次のように書いています。
「『伝説』に包まれていた『虚像』を取り払ってなお、大山倍達が十分に魅力溢れる人間であり、超人的な実力を持った空手家であったという『真実』は微塵も揺るがない」

平成6(1994)年4月26日、大山倍達は肺ガンのために73歳で亡くなりました。巨大なカリスマなき後、求心力を失った極真会はその名を引き継いだ「国際空手道連盟極真会館」や、「全世界空手道連盟新極真会」などに分裂することになります。
しかし、たとえ会派は分かれても、地上最強の空手を目指した倍達の魂は、後進たちに脈々と受け継がれています。今も世界中の道場で、老若男女を問わずたくさんの門下生が、血と汗を流して自らを鍛え上げ、切磋琢磨を続けているのです。

  
 国際空手道連盟極真会館総本部。迫力に満ちた気合が外にまで聞こえます(東京都豊島区)


【参考文献】
梶原一騎原作、つのだじろう・影丸譲也漫画『空手バカ一代』(文庫版・全17巻)講談社、1999~2000年
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
基佐江里著『真説 大山倍達』気天舎、2007年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE: Fighting Spirit』PARCO、1998年
加来耕三著『宮本武蔵剣豪・剣聖事典』東京堂出版、2001年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年