近藤勇、土方歳三、沖田総司といったスターたちに比べるとやや地味な感じがしますが、組織としての新選組にとっては欠かせないキーパーソンの1人だったのが、今回取り上げる井上源三郎<げんざぶろう>です。源三郎は武州多摩日野宿の出身で、文政12(1829)年3月1日、藤左衛門の三男として生まれました。井上家は日野在住の八王子千人同心五家の1つです。八王子千人同心とは、天正18(1590)年に関東へ入国した徳川家康が、八王子周辺や江戸西部の防備のために甲州武田家の遺臣団を土着させたのが起源です。井上家も甲州井上郷から日野本郷北原に移り住み、代々千人同心を務めていました。
井上源三郎の墓がある臨済宗の寺、宝泉寺
泰平の世になると千人同心も軍事色が薄れ、日光東照宮の火之番(消防隊)が主な任務となりました。
千人同心は千人頭<がしら>が旗本であることを除けば基本的には農民身分でしたが、勤番中は農民より上の同心身分(武家奉公人相当)扱いをされたので、半分は武士だという自負はあったのでしょう、武士の必須科目である剣術を源三郎も熱心に学びました。弘化4(1847)年頃、天然理心流近藤周助の門人となり、やはり周助の弟子で、後に新選組の支援者となる日野本郷名主佐藤彦五郎が屋敷に設けた道場で稽古に励みました。佐藤道場には勇や総司が出稽古に訪れ、同じ日野出身の歳三も通って来ました。
後に千人同心となる兄の松五郎も剣術好きで、兄弟は自宅の土間でも稽古に熱中しました。井上家には、剣術ばかりやっていて農作業が遅れて困った、という話が伝わっています。同家の柱は、源三郎たちが木刀で打ち込むので中央部分が細くなっていたといいます。
熱心に修行した甲斐あって、源三郎は万延元(1860)年5月に免許を授かりました。
近藤勇らとともに上洛した後は、新選組の副長助勤や六番隊組長を務めました。隊内での人望もあり、局長会議に参与する立場でした。元治元(1864)年6月5日の池田屋事件の際は土方隊に属し、先に斬り込んでいた近藤隊を支援すべく隊士10名と共に突入して、倒幕派志士の捕縛に貢献しました。
こうして新選組の運営でも実戦でも重要な役割を果たした源三郎ですが、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、淀堤千両松にて1月5日、討ち死にを遂げてしまいます。退却命令が出ても踏みとどまって戦い、銃弾を受けて即死したのです。40歳でした。
首はまだ12歳だった甥の井上泰助(松五郎の子)が刀と共に持ち、新選組が前年12月の王政復古の大号令にともなって拠点を移していた大坂へ引き揚げようとしました。しかし重くてしようがなかったので、途中で寺の門前の田んぼを掘って埋めたといいます。
そうなると、おそらく遺骨は納められていないのでしょうが、源三郎の魂だけは故郷に呼び戻され、JR中央線の日野駅からほど近い、旧甲州街道に面した如意山宝泉寺(東京都日野市日野本町3-6-9)で眠っています。境内に入ると、本堂の左手に昭和46(1971)年9月に建立された「新選組副長助勤 井上源三郎之碑」と刻まれた顕彰碑があります。裏面の略歴では、彼の人柄を「性真摯篤実寡黙実行の人」と評しています。こうした誠実な源三郎の支えがあればこそ、勇や歳三も思うがままに活躍することができたのでしょう。
顕彰碑からさらにその左手にある墓地を行くと、井上家の墓所に、法号「誠願元忠居士」が刻まれた源三郎の墓があります。平成9(1997)年11月に建て直されたばかりの、まだ新しい墓碑です。
宝泉寺境内に立つ井上源三郎の顕彰碑
左写真が井上源三郎の墓(右側)、右写真がその裏面。ここには亡くなった日が1月4日とある
日野駅周辺には、ほかにも源三郎がらみで見落とせない場所があります。まずは井上源三郎資料館(日野市日野本町4-11-12)です。生家の土蔵を改造し、平成16年1月にオープンしました。源三郎宛ての天然理心流免許、大和守秀国の銘がある勇から松五郎に贈られた刀、歳三から松五郎に宛てた書簡などが展示されています。ここは毎月第1・第3日曜日の午後12時から4時までしか開いていないので、行く際には注意してください(問い合わせ先 042-581-3957)。
もう1つは、日野駅を横切って走る甲州街道沿いに鎮座する八坂<やさか>神社(日野本町3-14-12)です。ここには、安政5(1858)年に近藤周助の門人たちが剣術の上達を願って、八坂神社の前身である牛頭天王社に奉納した天然理心流奉納額があります。縦47センチ、横90センチのケヤキの一枚板に26名の名が書かれ、その上に大小2振の木刀が架けられています。26名の中には、松五郎や彦五郎、勇、総司らと並んで源三郎の名も含まれています。ただし歳三だけは、入門が翌安政6年であるために名前がありません。
この奉納額は普段は見られませんが、毎年5月に行われる「ひの新選組まつり」の一環として公開されています。今年は5月12日(日)ですので、興味のある方は是非行ってみてください。
「誠」の文字も鮮やかな井上源三郎資料館(左)と天然理心流奉納額がある八坂神社(右)
ほかにも少し歩けば、佐藤彦五郎の名主屋敷で源三郎らが通った道場があった日野宿本陣(日野本町2-15-9)や、佐藤彦五郎新選組資料館(日野本町2-15-5)、新選組のふるさと歴史館(神明4-16-1)などが点在し、さらに日野市立日野図書館(日野本町7-5-4)には新選組に関する資料のコーナーが設けられていて、小説やマンガまで取り揃えています(日野市立図書館全体で所蔵する関係資料の数は、平成12年10月末現在でなんと2,348点!)。この辺り一帯は、まるで地域まるごと新選組テーマパークといった様相を呈しています。新選組について詳しく知りたいなら絶対に外せない、お勧めスポットだと言えるでしょう。
【参考文献】
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
木村幸比古著『新選組と沖田総司』PHP研究所、2002年
菊地明著『図解雑学 近藤勇』ナツメ社、2003年
日野市立新選組のふるさと歴史館製作『常設展示解説図録 新選組・新徴組と日野』日野市、2010年
井上源三郎の墓がある臨済宗の寺、宝泉寺
泰平の世になると千人同心も軍事色が薄れ、日光東照宮の火之番(消防隊)が主な任務となりました。
千人同心は千人頭<がしら>が旗本であることを除けば基本的には農民身分でしたが、勤番中は農民より上の同心身分(武家奉公人相当)扱いをされたので、半分は武士だという自負はあったのでしょう、武士の必須科目である剣術を源三郎も熱心に学びました。弘化4(1847)年頃、天然理心流近藤周助の門人となり、やはり周助の弟子で、後に新選組の支援者となる日野本郷名主佐藤彦五郎が屋敷に設けた道場で稽古に励みました。佐藤道場には勇や総司が出稽古に訪れ、同じ日野出身の歳三も通って来ました。
後に千人同心となる兄の松五郎も剣術好きで、兄弟は自宅の土間でも稽古に熱中しました。井上家には、剣術ばかりやっていて農作業が遅れて困った、という話が伝わっています。同家の柱は、源三郎たちが木刀で打ち込むので中央部分が細くなっていたといいます。
熱心に修行した甲斐あって、源三郎は万延元(1860)年5月に免許を授かりました。
近藤勇らとともに上洛した後は、新選組の副長助勤や六番隊組長を務めました。隊内での人望もあり、局長会議に参与する立場でした。元治元(1864)年6月5日の池田屋事件の際は土方隊に属し、先に斬り込んでいた近藤隊を支援すべく隊士10名と共に突入して、倒幕派志士の捕縛に貢献しました。
こうして新選組の運営でも実戦でも重要な役割を果たした源三郎ですが、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、淀堤千両松にて1月5日、討ち死にを遂げてしまいます。退却命令が出ても踏みとどまって戦い、銃弾を受けて即死したのです。40歳でした。
首はまだ12歳だった甥の井上泰助(松五郎の子)が刀と共に持ち、新選組が前年12月の王政復古の大号令にともなって拠点を移していた大坂へ引き揚げようとしました。しかし重くてしようがなかったので、途中で寺の門前の田んぼを掘って埋めたといいます。
そうなると、おそらく遺骨は納められていないのでしょうが、源三郎の魂だけは故郷に呼び戻され、JR中央線の日野駅からほど近い、旧甲州街道に面した如意山宝泉寺(東京都日野市日野本町3-6-9)で眠っています。境内に入ると、本堂の左手に昭和46(1971)年9月に建立された「新選組副長助勤 井上源三郎之碑」と刻まれた顕彰碑があります。裏面の略歴では、彼の人柄を「性真摯篤実寡黙実行の人」と評しています。こうした誠実な源三郎の支えがあればこそ、勇や歳三も思うがままに活躍することができたのでしょう。
顕彰碑からさらにその左手にある墓地を行くと、井上家の墓所に、法号「誠願元忠居士」が刻まれた源三郎の墓があります。平成9(1997)年11月に建て直されたばかりの、まだ新しい墓碑です。
宝泉寺境内に立つ井上源三郎の顕彰碑
左写真が井上源三郎の墓(右側)、右写真がその裏面。ここには亡くなった日が1月4日とある
日野駅周辺には、ほかにも源三郎がらみで見落とせない場所があります。まずは井上源三郎資料館(日野市日野本町4-11-12)です。生家の土蔵を改造し、平成16年1月にオープンしました。源三郎宛ての天然理心流免許、大和守秀国の銘がある勇から松五郎に贈られた刀、歳三から松五郎に宛てた書簡などが展示されています。ここは毎月第1・第3日曜日の午後12時から4時までしか開いていないので、行く際には注意してください(問い合わせ先 042-581-3957)。
もう1つは、日野駅を横切って走る甲州街道沿いに鎮座する八坂<やさか>神社(日野本町3-14-12)です。ここには、安政5(1858)年に近藤周助の門人たちが剣術の上達を願って、八坂神社の前身である牛頭天王社に奉納した天然理心流奉納額があります。縦47センチ、横90センチのケヤキの一枚板に26名の名が書かれ、その上に大小2振の木刀が架けられています。26名の中には、松五郎や彦五郎、勇、総司らと並んで源三郎の名も含まれています。ただし歳三だけは、入門が翌安政6年であるために名前がありません。
この奉納額は普段は見られませんが、毎年5月に行われる「ひの新選組まつり」の一環として公開されています。今年は5月12日(日)ですので、興味のある方は是非行ってみてください。
「誠」の文字も鮮やかな井上源三郎資料館(左)と天然理心流奉納額がある八坂神社(右)
ほかにも少し歩けば、佐藤彦五郎の名主屋敷で源三郎らが通った道場があった日野宿本陣(日野本町2-15-9)や、佐藤彦五郎新選組資料館(日野本町2-15-5)、新選組のふるさと歴史館(神明4-16-1)などが点在し、さらに日野市立日野図書館(日野本町7-5-4)には新選組に関する資料のコーナーが設けられていて、小説やマンガまで取り揃えています(日野市立図書館全体で所蔵する関係資料の数は、平成12年10月末現在でなんと2,348点!)。この辺り一帯は、まるで地域まるごと新選組テーマパークといった様相を呈しています。新選組について詳しく知りたいなら絶対に外せない、お勧めスポットだと言えるでしょう。
【参考文献】
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
木村幸比古著『新選組と沖田総司』PHP研究所、2002年
菊地明著『図解雑学 近藤勇』ナツメ社、2003年
日野市立新選組のふるさと歴史館製作『常設展示解説図録 新選組・新徴組と日野』日野市、2010年