ひろむしの知りたがり日記

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小石川植物園─日本で一番歴史のある植物園

2012年03月11日 | 日記
明治14(1881)年、第2回内国勧業博覧会を見物するために上京した19歳の牧野富太郎は、文部省博物局を訪ね、田中芳男(1838-1916)らに小石川植物園を案内してもらいました。
前回の日記で紹介した、現在は牧野記念庭園になっている自宅兼研究所の庭に、富太郎はさまざまな草木を植えて「我が植物園」と呼んで大切にしましたが、もしかしたら、青雲の志に燃えて初めて東京にやって来た時に見た小石川植物園の情景をイメージしながら、お気に入りの庭を歩いていたのかも知れません。


実は、よく知られている小石川植物園というのは通称で、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」といいます。一般公開こそされていますが、ここは東京大学の教育・研究施設なのです。

面積は161,588平方メートル(48,880坪)、台地・傾斜地・低地・泉水地などを擁する変化に富んだ地形を利用して、約4,000種もの植物が植栽されています。

所蔵する植物標本の数も膨大です。
本館に納められているのは約70万点ですが、標本は東大総合研究博物館と一体で管理されていて、全体ではなんと約170万点にも上ります!
さらに植物学関連の図書も、約2万冊収蔵しています。

また、栃木県日光市には明治35(1902)年に設立された「日光分園」があり、東京では栽培の難しい高山植物や冷温植物が栽培されていて、こちらも一般公開されています。


小石川植物園は、日本で最も古い植物園です。それだけに、園内には長い歴史を物語る遺構や植物が数多く見られます。

では、植物園の変遷をたどりながら、それらを見ていくことにしましょう。

寛永15(1638)年、それまで輸入に頼っていた漢方薬の自給と、薬草知識の普及を目的として江戸城の南北に幕府直営の御薬園が開かれました。南の方を麻生御薬園、北を大塚御薬園といいました。そのうち白金にあった南の御薬園が、貞享元(1684)年に徳川5代将軍綱吉の館林藩主時代の別邸だった白山(小石川)御殿跡地に移転して「小石川御薬園」となりました。これが小石川植物園の遠い前身です。
園内の西端には、白山御殿時代の名残である日本庭園が広がっています。

明治10(1877)年に東京大学が設立されると、すぐに附属植物園となりました。その前年に東大の本郷構内に建てられた旧東京医学校本館が、昭和44(1969)年に日本庭園の一隅に移築されています。洋風を模した校舎としては都内で最も古いという貴重な建築物で、国の重要文化財に指定されています。

 ウメ林から旧東京医学校本館を望む

話は江戸時代に戻ります。

ここは8代将軍徳川吉宗時代の享保20(1735)年、青木昆陽(文蔵)が飢饉対策用として甘藷、つまりサツマイモの試作を行なって成功した場所でもあります。園の中央やや東寄りに、高さ約2メートル、紫色のずんぐりとした岩でできたサツマイモ形の記念碑が立っています。

 甘藷試作跡に立つサツマイモ形の碑

甘藷試作跡の近くに、植物の多様性を理解しやすいよう分類体系に従って配列した分類標本園と並んで薬園保存園があります。ここではコガネバナ・オウレン・マオウなど、御薬園当時から植えられていた代表的な薬用植物約120種を集めて栽培しています。
ちなみに、現在でも薬屋さんには化粧品も一緒に売られていますが、御薬園では化粧水であるヘチマ水も作られ、大奥に納められていました。その量は年間60~190リットルにも及んだそうです。

そのほか、園の東端に建つ熱帯・亜熱帯の野生植物などを集めた温室の手前に乾薬場跡があり、石畳と呼ばれた平石の一部が残っています。御薬園時代には、その上に薬草を並べて乾燥させていました。

 乾薬場跡に残る石畳


このように、植物園内を散策しながら江戸時代の薬作りを偲ぶことができるのですが、ここで触れられるのは、わが国の歴史ばかりではありません!

温室の右側には「ニュートンのリンゴ」と「メンデルのブドウ」が並んで植えられています。
ニュートン(1642-1727)が万有引力の法則を発見する契機となった彼の生家にあったリンゴの木と、遺伝学の基礎を築いたメンデル(1822-1884)が実験に用いたブドウです。
いずれも原木からの接木や分株によって育てられた、由緒正しい子孫たちです。


さて、この地の歴史を語る中で、忘れてはならないのが小石川養生所の存在です。

享保7(1722)年、貧困者を官費で療養させる施設として「養生所(施療院)」が設けられました。ヒューマン医療ドラマの草分けとも言うべき山本周五郎の小説『赤ひげ診療所』の舞台となった小石川養生所です。
養生所は明治維新の時に廃止されましたが、ここの井戸は水質が良く、水量も豊富でした。大正12(1923)年9月1日の関東大震災の際には、焼け出された東京市民3万人以上が植物園に一時避難しました。その時、彼らの飲料水として大いに役立ったそうです。現在も植物園のほぼ中央に、その井戸が残っています。

被災者の一部は、園内に設けられた震災救護所で、さらに長期にわたる避難生活を余儀なくされました。
そして最後の1人がようやくここを退去したのは、震災発生から1年4ヵ月後の大正12年1月のことです。

 植物園内に立つ関東大震災記念碑

奇しくも今日、3月11日は東日本大震災からちょうど1年目になります。

いまだ被災地の復興は思うにまかせず、日本全体もなかなか元気になれません。
90年前の関東大震災でも、そして7年前に起った阪神・淡路大震災でも、人々の暮らしが元通りに戻るのは、やはり簡単なことではありませんでした。
今回も、これからまだまだ、長い道のりが続くのでしょうね。


小石川養生所については次回の日記で、もう少し詳しく見ていきたいと思います。



【小石川植物園 基本データ】
■所 在 地 東京都文京区白山3-7-1
■入 園 料 大人330円(中学生以上)、小人110円(小学生)、6歳未満は無料
■開園時間 午前9時~午後4時30分(入園は午後4時まで)
■休 園 日 月曜日(祝日の場合はその翌日)
        年末年始(12月29日~1月3日)
■連 絡 先 03-3814-0138
■アクセス 都営地下鉄三田線・白山駅より徒歩10分

【参考文献】
東京大学大学院理学系研究科附属植物園 社会教育企画専門委員会編
 『小石川植物園案内』小石川植物園後援会,1984年
東京大学大学院理学系研究科附属植物園 植物園案内編集委員会編
 『小石川植物園と日光植物園』小石川植物園後援会,2004年

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