GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

第二十七師団極二九〇二部隊記 長台関の悲劇(古里・兵長・田島 菊)

2008年07月28日 | 戦争体験

  南満から北支の前線へ
 中国を北から南に縦断し更に中支まで戻った時、突然思いもかけぬ終戦を迎えた、おまけに約一ヶ年半誰も外部からの通信を出すことが出来なかった。農村や職場を離れ、日夜顔を合せていた肉身とも別れて遠い異国の大陸で私達が個々に体験した事柄は私の記憶からうすれるにつれ歴史から消へ去って行くのである。その事を少しずつ思い浮かべて書いて見る事にしました。昭和十八年(1943)一月東部八連隊に入隊、下旬には釜山から京城奉天を通り北支唐山に下車こゝで約半年教育を受ける、十九年(1944)三月綿洲から少し西に当る綿西という所に二ヶ月ばかり南満とは言へ大陸の寒さは万物を凍結し尽くし零下二十度の中で毎日戦闘訓練だ。ある日訓練が終って半土窟式の兵舎についた時出動命令と云う事で緊張と多忙の日が三日程続いた。兵営の附近の民にも平常と何ら変りなく事を運ばなければならない。いよいよ出発の日だ。各隊は黙々と集結する。真夜中の十二時月の無い小雪模様の晩だった。氷点下二〇度車中には敷藁が充分入れてあって客車より楽だと思った。京漢線を南下して居るかソ満国境か、それとも支那に行くのか見当がつかなかった輸送列車からおりた場所は泌陽城外だった。さすがこの辺は満洲と違って、もう麦が四、五寸に伸びていた。久しく緑の色彩に飢えていた私達をこの上なく楽しませてくれた。故郷を思いながら露営に移った。三日ほどでまた移動命令。この辺からはもう鉄道も道路もところどころ寸断されて居る。時々銃声も聞えて来る。道傍には人間の屍体、牛車が転がって居る。中には一部白骨となって居るのもあり実に異様に感じられた。には一人前の男は先づいない。皆支那軍にとられ、日本軍の苦力にされてしまった。ただ老人子供がうずくまって行軍を見つめて居るだけ。食糧がないのか柳の木に登って若芽を食って居るのもあり馬ふんを水でこし麦を出しそれを食べて居る。本当に悲惨な土民の有様だった。後で聞いた話だとこれらはすべて餓死者、または寸前の者とわかった。

  ずぶぬれの強行軍
 一昼夜七十五粁の強行軍完全軍装をすると三十五粁位あろう。夕方出発し翌日夕方迄に宿営地につくという、毎日で五分間の休けいでも皆心身ともつかれ、所かまわずどっかとこしをおろし出発といっても背のうが重く一寸では立上がれない。ただ気力だけで、落後者も続出する。其の後二十三日すぎて、私は中隊の命令で連隊本部の計理に勤務するようになった。戦地での計理はあ宿営地につくと糧秣の分配内地からの慰問文、下給品等の分配で休むまもない。ほっとすると出発準備。いよいよこの頃になってからは通信も内地からの便りも遠ざかってしまう。なんといっても一番難関だったのは長台関である。京漢線が淮水を渡る地点が長台関である。前日夜行軍で予定より朝早くこの地点に着いて夕方迄休養し再び夜行軍で前進する筈だったところが物凄い雨にあい泥濘の通りが難渋を極め昼間一ぱい歩いて漸く夕方になってたどり着いたのだった。全員ずぶぬれのまま一昼夜歩きどうしで疲れきって居た。それでも淮河を渡れとの事情けないが己むを得ない。雨の中で一時間ばかり休んだきりで直ちに出発。鉄橋に通ずる道幅は十米位、師団の各部隊でごったがへして出発の時刻がメチャメチャになってどの部隊が先やら分らないどんどん横を通って追い抜いて行く部隊もある。真暗の中雨はザアザア降るし道いっぱいに部隊が並行して進んで行く其の内に段々先がつかえて前進できない。早く進めとどなる者もいる。前から後へ自動車部隊が前方でつまって居て前進出来ないと伝言されて来る道の両側は水田らしい、あたりは墨を流したような真の闇だ雨は相変らず衰へない。五月というのに腹の底まで冷えきって皆ガタガタふるえている。時々睡魔がおそって来て気が遠くなりそうだ。皆足ぶみを止めるな、軍歌を歌へと互にはげましあう。

  豪雨と暗黒の一夜
 天に代りて不義を撃つ、から露営の歌、歩兵の歌、愛馬進軍歌、師団、連隊、皇軍の歌等々。あとから軍歌が出るが皆疲れきってしまって、時々足下の水たまりにしゃがみ込むものが出て来た。隣の兵隊が激しくどやしつけて立たせるが自分もポーツとして生命も何もいらなくなってしまいそうだ。一時間、二時間それからどの位経ったろう、精神力も限界に達しかけて来た。遂に大隊長も意を決して田圃にはまらぬようにをさがして避難せよ。明るくなったら道路上に集合せよ。という命令が出された他の部隊との連絡が全くとれないし、その上雨にうたれじっとて居れば全員死ぬより他はない。前々日から歩きづめの疲労、二日間の徹夜、ズブぬれ、暗黒の不安、長時間の停止で実に百万の敵より恐しい事だった。然しこの豪雨と暗黒の中で民家をさがす事も容易でなかった。漸く水をかぶった畦道を見付けて田にはまらぬように家をさがしに行った。全く個人行動だ。どの位歩いたか、フト目の前の闇の中に家らしいものを感じたのでホットしてそこにとびこんだ。勿論中はまっ暗、それでも先客が何人か入っていた。マッチをぬらさずに持って来たらしく時々すってくれた。小屋は二間、三間位で小さな納屋だった。その中には馬も一頭兵隊が五、六人入っている。私が入った後からも続々とつめ込んで来て、せまい納屋の中にズブぬれの兵隊が二、三十人はいってしまった。馬が真中に居るのにその肢の下から腹の下迄人でつまってしまった。それでも後から後から入って来るが誰も断る者はなかった。ずぶぬれの身をうごかす事も来ずうつらうつらとして居るうちに、外の方が白んで来た道路上に出てみると全く目も当てられぬ悲惨な情景だった。各隊の捨てた荷物、ろ馬の屍体、それと牛の屍体少し行くと兵隊もいた。私の隊にもかえらぬ人もあった。他の中隊には相当の死者があったらしいとの事だ。私の戦友もかへって来なかった。どちらかといえば弱いほうで時々荷物を持ってやった。連日の雨で濁流が渦を巻いて居た。鉄橋の一部が敵に破壊されて自動車が渡れず、あとからあとから、たまったのだ。から身でも闇の中では渡れないはずだと思った。長台関の悲劇は陸軍の戦史でも珍らしい事だといって居た。この事は今でも時々思い出す度に身がちぢむようだ。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載



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