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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

私の軍隊日記(勝田・伍長・田中隆次)

2008年07月28日 | 戦争体験

  「は号研究」班
 昭和十五年(1940)三月一日、千葉県市川市国府台の独立工兵第二十五聯隊に現役兵として入隊、この中隊は電気中隊で一万ボルトの発電車を持ち前線基地に電流鉄条網の敷設或は破壊された市街等の電気設備の復旧等前線に於ける電気設備一切の作業に従事する部隊であり、第三中隊は写真中隊で主として航空機による撮影写真を地図に作る作業に従事する部隊であります。私の入隊しました第二中隊は作井中隊で前線或は駐留地区に於けるボーリングに依る部隊用水の確保が主でありましたが国際情勢風雲急を告げる昭和十五年夏、即ち私の入隊した年に於て参謀本部より機密指令として「は号研究」を下命され、これに基づいて訓練が行はれた訳であります。この「は号研究」とは、東南アジアに於ける石油資源の確保及びこれに附帯する諸施設に関する研究であります。今少し具体的に申しますと、当時蘭領印度支那(今のインドネシア)には年間約三〇〇〇万屯、又その他の地区に約二〇〇〇万屯の石油資源が産出されて居り日本の軍部がこの資源を対象として研究を命じたものであります。斯く私達の部隊で、幹部以下全員が何等かの技術を持った者で構成され我々はその第一回目の初年兵として教育を受け、特に内務班の教育を受け、特に内務班の教育に就ては他の部隊とは比較にならぬ程に峻厳を極め、又専門教育も非常に多く我々初年兵は戸惑うばかりでした。
   流れも清き江戸川の富士が嶺仰ぐ台の上
   秀麗の地に皇軍の重き使命を但いつつ
   科学の粋を集めきて生れ出でたる吾が部隊
 部隊歌に唄はれて居る様に、東京の街を越えて富士を眺む国府台の地に初年兵として、そして教育隊員として、或は教育掛班長として満三ヶ年を経過致しました。その間、小川町日赤病院、大宮市日赤病院、参謀本部、陸軍省、茨城県勝田の日立製作所等関東全域に亘り重要施設の作井、又静岡の相良油田、新潟の新発田油田、千葉の茂原天然ガス油田等に於て石油資源の研究実習を重ねた次第であります。

  パレンバンの生活
 昭和十八年(1943)三月一日補充兵五十四名と共に野戦作井第五中隊に転属を命ぜられ広島宇品港を出航、台湾、シンガポールを経て四月十二日スマトラ島パレンバンの任地に到着、戦地に第一歩を印しました。このパレンバンには精油所が二ケ所有りまして私の部隊のおりましたKPM精油所は開戦間もなく落下傘降下で有名であり、私の部隊も当時ムシ河より敵前上陸を敢行しこの地区を占領した部隊でありました。一辺十粁以上もある整然と区画された広大な地域に精溜塔を始め諸設備、貯汕タンク等が無数に並び大した戦禍も受けずに占有されており偉観を誇っておりました。この地に於ける生活は誠に快適であり、食料を始め全ての物資が豊かであり、敵の攻撃もなく我々はひたすら石油の生産に励げんでおりました。ただ私の任務は一日一万余の出入者のあるこの広大な地域の衛兵であり盗難、謀略等には細心の注意を要し、非常に神経を使った訳であります。

  チモール島の採油作業
 昭和十八年(1943)七月中隊より選抜された我々六十三名は採油隊を編成し濠北派遣軍の直属部隊としてジャワ島を経て小スンダ列島の最東端にあるチモール島に於ける採油作業及び油田開発を命ぜられ、その任に着く事になりました。このチモール島とは濠州大陸の北端より約六〇〇粁の地点にあり東西約五〇〇粁、南北約一〇〇粁の細長い島で南緯十二度の線上にあり日本軍進駐の最南端に位置し所謂最前線だった訳であります。全島珊瑚礁で出来、これと云った産物もなく当時の人口二〇万足らずの土着民が居住しておりました。この土人達の生活の一端を申しのべて見ますと、衣類は男女共ほとんど裸で褌一枚と云う程度、地質の関係上水が少く従って体、頭髪、顔等は洗う事はありません。食料はとうもろこしのお粥を一日二食少量づつ、その他山の芋少々程度。住居は竹の柱に茅の屋根、部屋の間支切りはアンペラ一枚、床は竹の割ったもの。普通は土間に寝起きするのがほとんど。文字、絵等は知らない者が大部分で、村、区等の行政の制度は有りますが全部土候の専制支配下に置かれており先づ世界最低の生活程度であったろうと思はれます。島を離れる迄の丸二年間の我々の生活も、これらの者達を使って居った関係上似たり寄ったりであった訳であります。
 このチモール島に到着したのが七月二十五日夕刻、我々の下船を待たず爆撃機十数機による歓迎の御挨拶、命からがら上陸、我々の乗って来た五千余屯の船はその場に沈没され、斯くしてこれから満二ヶ年間は朝に、昼に又夜に毎日欠かす事のない爆撃の連続を見舞はれる次第となった訳であります。

  爆撃で足を負傷
 確か九月初旬の或る夕刻、船の到着により資材揚陸のため、クーパンの港は兵員、土人等五百人程で相当混雑しておりました。然も揚陸作業は夜間のため仲々に捗らず、敵の爆撃機がこれを見のがす訳はありません。早速十数機によるお見舞です。兵員の行方不明者続出、折角の荷揚げ物資も粉々と散り、火の海と化し、我々はこれが消火作業に懸命となっておりました。敵は波状爆撃を繰返して来ます。その間約六時間、延べ六、七十機は来たであろうと思はれます。至近距離に爆弾の落下する事数回、我々は夢中で働きました。東が明るくなる午前四時過ぎ敵機も去り、我々も部隊員掌握のため集合致しました。「分隊長、足を如何しました」、云はれて左足を見ると軍袴も袴下も巻脚胖も股から下はぐっしょりと真赤にぬれ膝の上が二〇糎程破れ、肉がパックリと口を開けておるではありませんか、私は少しも知らなかったが爆弾の破片による動脈切断だったのです。その後爆風による気絶三回、防空壕の中に生埋め二回延べ被爆八〇〇回程は有ったろうと思はれます。

  斬り込み隊を編成
 任地に着いた我々は先づ精油所の開設、油井の復旧、又油田がほとんど山岳地帯で作業機が運搬不可能のため手掘りによる油井の開発、被爆による復旧作業或は全島に亘る油資源の探索等日夜を分たず採油作業に努力して参りました。昭和二十年(1945)に入るや味方の航空機は全然姿を見せず、我々採油隊と河を隔だてた向う山には敵の陣地が出現夜などは電灯の光が煌々と輝き時には濠州兵の姿も散見する事もありました。又島の周辺には敵の潜水艦が平然と浮上し、爆撃機の編隊は悠々とフィリッピン方向を目ざして飛行して行きます、時々威嚇射撃をする程度でもう爆撃は致しません。この様な情況下で食糧補給の途は断たれ、従って食料も日々少なくなり、野草、野生動物が栄養の補給源となった次第で、これにより病気も益々猛威を振い、一時は作業員三名という最悪の事態ともなり、能率も低下の一途を辿り任務の遂行も危ぶまれる結果となって参りました。四月に入るやニューギニアのビアク島に転進した中隊本部は長以下全員戦死の報も伝わり、フィリッピン戦線その他の地区の情況等も風の便りに聞え始め、幹部以下心の動揺を覆いきれないものがありました。
 昭和二十年(1945)七月十三日軍司令官の命により我々は任務を解かれ全ての採油機材を海中に沈めジャワ救援のため斬込隊を編成しチモル島を離れました。これより島伝いにジャワに向け行軍が始まりました。即ちバンタル島、ウエタル島、フロレス島、スンバワ島と島の間は小舟を利用、他は全部徒歩、然も爆撃を避けるため夜行行軍です。同じ命を受けた各部隊が入り交り蛇々と列は続きます。体力の衰えた兵員はばたばたとたおれます。終戦を聴いた九月始めには我々の部隊は私以下八名となりフロレス島に到着致しました。ここに於てオランダ軍の下に武装を解かれ収容地であるスンバワ島に向け行軍、十二月二十三日目的地であるスンバワブッサルに到着、終戦処理事務に入りました。この行軍の間、私の任務である命令受領、伝達、人事功績関係連絡事務のため行軍距離三〇〇〇粁以上に及んだものと考えられます。現在では到底考えられない行軍だった訳であります。

  紺碧の海よ南十字星よ
 斯くして昭和二十年(1945)も暮れ、この地に集結した人員は約四万、その三分の二は病人、ここに於て病気栄養失調等で斃れた者約半数近く、何時帰国出来るかも解からぬまま現地自活を余儀なくされた訳であります。
 【昭和二十一年】五月に入るや帰国の報も伝はりその準備事務のため私も選ばれ毎日の司令部通い、和、英文による留守宅名簿及び乗船名簿の調製です。就中乗船名簿は一字の訂正も許されず、通し番号で五通のコピー取りです。この仕事を八名の書記で行った訳ですが、死亡者の出る度毎に全部書き替えを要求され三万に近い人員ですので徹夜作業も幾回となく繰返される事がありました。併し我々は書類不備のため帰国出来ない人の無い事を願いつつ、薄暗いローソクの灯の下で懸命の努力を続けました。
 五月十三日乗船名簿に私の名が記される時が来たのです。一字一句も間違いのない様に書きました。五月十五日乗船、師団長以下数名を残し残留者はおりません。我々は任務を完遂しました。再び訪れる事の無かろうと思はれる南の島スンバワ島を後にしました。
 フロレス海の碧かった事、南十字星が次第に水平線に近くかくれて行った事、忘れる事の出来ない人生の一駒です。私の軍人としての任務はここに全く終りました。南冥の島々に永遠に眠る戦友達の冥福を祈りつつ筆を擱きます。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載



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