GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

硫黄島での遺骨収集(菅谷・内田忠次)

2008年06月15日 | 戦後史

 硫黄島の概況。硫黄島は東京の南方約一・二五〇キロメートルにあって、緯度は台湾の台南とほぼ同じである。島は、摺鉢山をかなめとして北東に八・三キロに伸びる最大幅約四・五キロの扇形をなしていて、島の面積は約二二五平方キロメートルである。標高は摺鉢山が一六九メートル、河川湧水は全くない。
 植物はバナナ・ヤシ・パパイヤ・パイナップル等が散見された。動物類は鳥・ねずみ・むかで・さそり・アフリカマイマイなど生息している。が注意をすれば危険は少ない。
 今年は硫黄島が玉砕して三十三年忌にあたる。奇しくも遺骨収集奉仕に参加出来た事に、この上もなき喜びをかみしめています。しかし至って地味な仕事探壕調査である。
 毎日ジャングルを切り拓き濡れて転んで、雨の日も風の日も断崖を登り降りして、今はない戦友の遺骨を探して、歩けばいくらもある壕、要するに断崖のつぶれた処は十の内七、八は人工か自然壕である。戦斗中から壕口と言う壕口は全部爆破された体験を記憶している。
 この様なことから、三十三年経過した今、地形の変化は激しく当底玉砕時の地形との調和はとれず労多くして実りの薄い調査行であった。それでも各調査班の努力により、著名な壕をかなりな数を発見している。
 この度、何よりの戦果は、四年越に調査をしていた南方諸島海軍航空隊本部壕が、(南方空壕と云う)一部開壕となった。この南方空壕の規模の大きいことを紹介しますと、壕内には工作自動車が入っていたことです。しかしわずか一部分の開壕で、壕内は熱気物凄く、焦熱地獄、なかなか温度が下らない。六〇度~六五度、壕の奥には御遺骨がうず高く見える。
 七月十七日収集奉仕期間も切迫したので、奉仕団員全員を集結して収骨作業に取組むことになった。この収骨作業の主力は、遺族会日本青年遺骨収集団の方々、六〇度の熱気の中に突撃する。服装は全学連よろしく、体全体を覆って目だけ出して、軍手は二重にはめ、三人一組、器具は懐中電灯と手箕縄梯子を下げるだけで息苦しい。入って熱気を吸うと息がつまる様だ。御遺骨を■きよせ手箕に入れる。時間は二、三分。それ以上は耐えられない。それ上がるぞ。大きく息がしたいが出来ない。大きく吸うと咽喉を焼くからである。耐えられない。小走りに外の光りの見える処まで上って一息、衣服はびっしょり、正にミイラ取りがミイラになる様だ。
 こんな熱い熱い壕に三十三年間も苦しみ続けられた英霊。内地にお連れしますと念じながら、若い方々に伍して熱い壕に六回入った高齢者は無理だと言われながら、そうせずにはいられない気持である。こうして収骨された御遺骨は一二三柱、うち身元判明六柱。収骨された御遺骨は、宿舎の南にある霊安室から、厚生省事務室阿部団長の先導で、御遺骨捧持者一同静々と進み、「国のしづめ」の幽かな吹奏楽のかなでられる中を司令室に至る。
 今抱いている御遺骨の箱、三十三年前のあの修羅の巷、生と死の境を彷徨したあの凄惨な光景を思う時、慟哭を押えることが出来ない。硫黄島海上自衛隊員の見送りを受けて輸送機に乗り込んだ。長い長い感じの二週間も過ぎ去った。様々の事を思えばなつかしく轟々と轟く爆音とともに離陸したさよなら硫黄島、未収骨の英霊よまた来ます。全員の収骨出来ない事に心を残して帰る。
 奉仕団は二時間十五分で入間基地の帰搭、基地自衛隊、厚生省協会員の方々の出迎えの中を、厚生省差廻しのバスに乗り午後三時三〇分厚生省に向けて出発、四時二〇分厚生省着御遺骨の授受を終り厚生省大臣出席のもと解団式、帰宅したのが七月二十七日午後八時三〇分であった。



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