GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

昭和21年1月~4月の新聞記事から 1946年

1946年04月29日 | 戦後史

   比企の供米成績
比企郡下各町村の供米成績は農民の理解により逐次上昇しつつあるが前年度末における各町村の成績は平村の完納を始として次の通り。
平(百%)玉川(72)竹沢(69.5)大河(62.4)唐子(59.9)七郷(59.2)宮前(57.7)八條(57.3)東吉見(52.4)松山(50.0)八和田(49.2)南吉見(48.7)高坂(43.8)北吉見(42.4)伊草(42.9)三保野(41.2)福田(40.9)出丸(40.3)明覚(40.1)西吉見(40.0)菅谷(35.5)中山(31.0)小川(29.8)亀井(23.3)今宿(22.1)大岡(20.5)小見野(17.8)
     『埼玉新聞』1946年1月10日


比企文化会発会式 仝郡下各町村に支部を設けて新発足した比企文化会は十日午後一時から松山町松山神社社務所で役員会を開催、十三日午後一時松山箭弓記念館で発会式を挙行準備打合せを行ふが当日は式後室伏高信氏の講演、引続き会員の雄弁大会を行ふ。
     『埼玉新聞』1946年1月10日


 村政公吏粛正へ 七郷青年団員起つ
比企郡七郷村男女青年は下からもり上る青年団を去る十五日結成し団長に市川紀元君を、副団長に千野久雄君を推薦して発足した。団員は男女合せて六百名を網羅し、新生日本の建設を目指して自己の修養練磨と、手近の明朗村建設に着目、従来稍(やや)もすれば高圧的に村民に接した不浄公吏の退陣、粛正から第一歩を踏み出す。
     『埼玉新聞』1946年1月26日


 行き過ぎた文化運動
比企郡下では松山町を中心に付近隣村にまで文化運動の興隆を見せ大事の食糧増産の勤労態勢が崩れかけてゐる。日常の勤労もそこそこに薄暮から夜更まで一定箇所に青年男女さては学童までが押しかけて郷土の芸術とばかり歌舞音曲に踊り狂ってゐる傾向はゆき過ぎだと心ある人々をひんしゅくさせてゐる。
     『埼玉新聞』1946年1月30日


  鬼鎮社節分
 『福は内福は内悪魔外』と変った呼称で節分豆撒きを行なふ比企郡菅谷村川島鬼鎮神社の節分祭は、[不明]二千五百名が参集して盛大に[不明]当日午後二時と八時の二回に亘って散豆式が行はれるが、年男には親米博愛党総裁小川万三氏が参列する。
     『埼玉新聞』1946年1月30日


 農村の伝統を尊べ 大和町新倉地方有志
政府が金納制にしたため、地主は還元米を貰ふようになり、これを嫌ふ地主は小作地の返還を迫り、かへって小作人に苦労をかける恐れがある。かうした条件の下では供米意欲は起るまい。しかも農民には永年の伝統や人情もからんでゐるから法的処置のために、地主も小作も不満足を感じ政府に協力出来なくなるのは当然である。
     『埼玉新聞』1946年2月11日


菅谷民生会誕生 比企郡菅谷村大字菅谷根岸丑太郎外二十二氏が発起人となって菅谷村民生会を組織すべく七日午後一時から菅谷農業会内で結成式を挙げ総則、趣旨、綱領を決定。引続き座談会を開催して五時散会した。
     『埼玉新聞』1946年2月11日


けふの話題 ▽私は虎屋の小僧です。この間ある官庁の注文で羊羹を約二万八千本作って納めました。その大部分は大臣以下のお役人が食べ中には自分の家へ持ち帰った人もゐました。その費用はそこの機密費のなかから出てるさうです。
▽うちの近くでは乳が足りなくて死んだ赤ン坊もゐます。また子供に飴一本買ってやれない人もゐます。かういう勝手な人達を早く日本からなくしたいものです。
▽悪い人をやっつけて下さいと題して右のやうな貼紙が街の電柱にはってありました ― これは東京の話 ―
     『埼玉新聞』1946年4月29日


 松山で農組連合結成
松山町を中心として付近町村に結成された農民組合の連合結成式は一日午後一時から松山町箭弓神社記念館で開催されるが、主宰は野本農民組合長金井塚勇一氏で高坂、菅谷、宮前、福田、大岡、唐子の各農民組合員多数が参集して規約、綱領等を決議し共同戦線を張る。当日社会党県支部からも幹部が出席して指導、講演がある。
     『埼玉新聞』1946年4月29日



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