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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

1952年開始の埼玉県海外派遣農業実習生制度も見直し期に 1978年

2008年12月12日 | 戦後史

   海外派遣農業実習生 27年目 見直し期に
 来年三月、アメリカヘ出発する海外派遣農業実習生三人が決まった。二人は県派遣。一人は県海外派遣農村青年協議会(経験者OBの組織)の推薦だ。この実習生制度、スタートしたのは昭和二十七年(1952)。当時は「大学卒。妻帯者に限る」などの条件で、戦後の農村復興期のリーダーづくりがねらいだった。いわば食糧増産をアメリカの開拓者精神の移入で切り抜けようとしたもので、競って応募したなかから県が厳選した農村青年を送り出した。それから二十七年たったいま、農村から青年の姿は消え、「農業後継者育成」を国や県が行わなければならない時代に。海外での農業実習生制度も見直し期にさしかかってきたようだ。

  むしろ後継者育成 応募が激減 開拓魂移入も今や昔
 今年の県募集は二人。旅費などはアメリカの受け入れ農家が一年間の実習手当を「先払い」の形で世話する。そのほか、事前費用二十万円のうち十五万円を県が負担するから自己資金五万円で一応一年間のアメリカ実習が実現するわけだ。
 今回の応募者は三人だった。県農業経営大学校から二人(上尾、秩父出身)と川口市の一人。いずれも男性で二十一歳-二十五歳までの人たち。県のワクは二人だけだったため一人はOB会推薦で合格一〇〇%。
 送り出し機関は、社団法人の国際農友会。三人は先月十六日-廿九日まで東京で行われた合宿講習会に参加、あとは来春出発前に行われる講習会を受けるだけだ。アメリカの場合は、酪農、肉牛、養豚、養鶏から果樹、柑橘(かんきつ)、野菜、花き、飼料作物が実習内容だ。どれでも希望するものを選び、農家に泊まり働きながらアメリカ農業を体験する。
 県農業経済課の調べでは、二十七年(1952)以来一年間の農業実習生としてアメリカに渡ったのは六十二人。ほかにヨーロッパが九人。四十一年(1966)からスタートした二年間の農業研修生の方は五十二人で、三十二年(1957)から三十八年(1963)まで行われた農業労働者派遣(三年間)では十七人がアメリカに渡っている。
 こうした海外実習、研修の経験者たちは、帰国後、「県海外派遣農村青年協議会」を結成している。経験者のほとんどが参加しており、今年五月の総会で来年二月、関東地方を中心にした海外研修生、実習経験者たちを集めた「営農研究会」を入間市で開くことを決めた。「海外から日本の農業を見直すということは、日本にいてはとてもわからないこと。仲間がどんどんふえれば、農業後継者不足なんてことはなくなります。自分の力を十分発揮できる農業は、サラリーマンにはかえってうらやましいことでは」と、会員の一人は自信たっぷり。かつての開拓者精神の移入からもうかる農業としてのアメリカ式経営法を学ぼうという意欲が満ちている。

  農村復興の指導者養成 ねらいは成功したが
 二十七年(1952)、たった一人選ばれた県派遣の第一回農業実習生はどうしているのか。その人は嵐山町の関根茂章町長(五三)だった。二十六年(1951)、サンフランシスコ講和条約で、やっと日本が戦後の独り歩きを始めた時期に、アメリカ式農業、開拓者精神の移入をめざし、全国から選ばれた二十六人が海を渡った。当時は横浜から十二日間の船旅だった。
 条件は二十五歳-三十五歳までの大学卒の妻帯者。九州大学農学部を卒業後、同町で農業をしていた関根さんは二十六歳。二十六人の中で三人だけだった独身者の一人。「町にあった日本農士学校(現在の県農業経営大学)で講師をしていました。日本の農村の民主主義のリーダー養成の意味もあったようです」と当時をふりかえる。
 カリフォルニアの酪農家のところで三カ月、日系二世の開拓地で三カ月働いたあと、国務省の映画づくりに一カ月間“主演”させられた。「カリフォルニアからの便り」というタイトルのこの映画は、日本の農業実習生がアメリカに到着、高層ビルのまちに驚いたりしながら、農場での仕事をおぼえるまでを描いたPR映画だった。
 完成後、日本に送られ、各地のアメリカ文化センターで、アメリカ紹介用として上映された。「当時驚いたのは一世、二世の必死の活躍ぶりと日本人に対して残る差別感でした。日本への愛国心というものがアメリカヘ渡って逆にわいたような気がします」と関根町長。
 一緒に渡米した全国の仲間たちの中には、その後、国連のコロンボプランでエチオピア、パキスタンなどへ米づくりの指導に行ったり、南米開拓で活躍した人たちがいた。帰国後、外国から日本農業の視察団や研修生が県にやってくると、「農業実務者で英語が自由にできる」と、案内者の役がよくまわってきた。
 所沢市で養豚業を経営する平田昇さん(三七)の場合は、四十年(1965)の派米農業実習生。倍以上の応募者の中から三人が選ばれた。「私が実習した場所は五大湖に近い地方で冬場はマイナス三〇度にもなるところ。きびしい気象条件の農場でがんばりました。その時の苦労が役立っています」という。でも、最近は、外国へ行こうと思えば手軽に行ける時代。海外へ出てじっくり外国の農業技術を学ぼうという若者たちはめっきり減って、この制度も曲がり角に来ていることは関係者みんなが認めていた。

『朝日新聞』1978年(昭和53)10月12日記事。1952年(昭和27)5月の『菅谷村報道』21号に「関根茂章君渡米」の記事がある。22号の「論壇」には小林博治「関根君の渡米」、24号には「永光の門出 関根茂章君壮行会」の記事が掲載され、7月11日に高崎達蔵菅谷村長が発起人となり、「明治、大正、昭和の三代に亘る、各界、各層の人々が一堂に会して盛大な壮行式」が菅谷中学校で開催されたことを伝えている。http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/12/post_cd15.html



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