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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

菅谷村議会傍聴記 3 関根昭二 1951年3月

2009年10月18日 | 報道・論壇

   村会傍聴の記
    全面か 単独か
     国会議員さながらの大論戦
      三月十三日第三次追加更正予算の日

 提案者の一人である根岸(寅)議員も周囲の事情がはかばかしく行かないのであらうか「どちらにも理屈があるだらうと思ふので希望のある人は村会議員として個人々々が署名することにしてはどうか」と発言するや、「同感」といふ声が幾らか起つた。松浦氏もあんまりしやべつて喉が渇いたのかお茶を飲みながら「どうですか皆さん協議会に入つて平たく話さうぢやありませんか」と一人舞台で理論を闘はしたので固苦しくなつた気分を和らげようといふつもりらしい。それに全議員とも緊張しすげて少し疲れてきたといふ格好である。然し金井議員は発言を求め「大きい問題だといふが私としては村のことをやるのが村議会だと思ふが今日のこの問題が村と無関係のやうに聞かれたがこれこそ村に関係あることだと思ふ。今までも日本が満州に軍隊を侵入した時農村は苦しんだのである。村のことでないとして打切つてしまふのではどういふ面で村の利益を闘ふかについて疑問があると思ふ」徹底的に審議しそして賛成するのが当然だといふ見幕である。松浦議員も勢を得て「六十万の交付金が減つたことにもすでに関係があると思ふ。村予算の面にもすぐ響いてきてゐる。再軍備をすれば税金で苦しみ、子弟を兵隊にとられる。生きるか死ぬかの苦しみをしなければならない。第二の朝鮮となることは受けあひである。軍隊がなければどうにでも解決ができるのである。絶対中立の国へわざわざ踏み込んでくることは恐らくないと考へられる。兎に角生命に関はる問題だから慎重に考へてもらひたい。協力しないことはうそだと思ふ」是非とも賛成しなければならないとあくまで強硬に頑張る。根岸議員再び立つて「個人々々で協力すると思ひますのでこの辺で審議を閉ぢて次の問題に移つていたゞきたい」と議長に要求した、各議員も何となく疲れてきたので「同感」の声が又も起つたが松浦議員は「私の話が下手で…」と弁解する。議長はこれを慰めて話の上手、下手は問題ではないと思ふ。全面講和に反対する人は一人もないと思ふので個人々々でやつてもらつては…と述べたので松浦議員はすかさず「此処に出席してゐる方で全員全面講和に協力していたゞけませうか」と手廻しの早いことを云ふ。何とかしてこの場で承知してもらはうという悲壮な決意を持つてゐるらしい。然し誰も賛成に署名すると言はない。山下議員が立ち上つて、「講和の問題は非常に重大な問題であると共に世界情勢も複雑してきたので個人々々の考へが隔つてきたと思ふ。考へることも言ふことも自由であるが、敗戦後日も長いし全面講和は到底不可能である。一日も早く占領を終結してもらふことを国会で決めるなら結構であると私は考へてゐる。単独講和で一日も早く講和してもらひたいので、今日はつきり意思表示を求められることは困る」と松浦議員の言に反対の意向を表す。
 議長も「全面講和を否決するといふこともうまくないが研究してもらふことにしては」と妥協案を出す。各議員も大体これを了承したが賛成派はなかなかねばる。高橋議員は「時の政府が新聞、ラヂオを通じて反ソ反共の宣伝をしてゐるからひつかかつてしまふのだ」と賛成を得られない責任を政府と報道機関に向ける。時に利あらず情勢我に不利なりと見てとつたか、金井議員は建議案撤回を申し出した。松浦議員はまだ説明したいことがあるんだがと不満さうに云つたが最後に「第二の朝鮮となることを望まないからいふのである。皆さんはさういふ事態になつてから気づくのである」
 平和への道は閉されたとでも云ひたげな絶望にも似た悲痛な一言を以てこの「全面講和協力の件」の建議案は遂に撤回されたのであつた。
 村会史上未だ嘗て見ざる建議案ではあつたが兎に角かくの如き熱烈なる討論が真剣に闘はされ然も完全なる言論の自由が行使され懲罰動議などといふチヤチなものも出なかつたことは慶賀の至りであつたことを記して筆を置かう。
                   (報道委員S記)

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日



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