GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

知らなかった終戦の日(菅谷・村瀬信子) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 日本橋にあった父の店と、祖母の家が3月10日の大空襲で焼け、その悲惨さにおどろいた父母と3姉妹は、とりあえず我孫子のゴルフ場近くの農家に疎開した。1ヶ月近く家財道具や布団まで背負って何度か往復している中に、今度は4月13日田端の住居も焼けてしまった。その夜は我孫子から東京方面の空がまっ赤な炎に包まれているのを見て半ばあきらめながら明くる日、田端へ行った。
 見渡す限りの焼野原、まだ残っていた家財は防空壕に入れたり井戸にしきりをして入れた細々とした物以外はすっかり焼けていた。その後暫く焼け跡でドラムかんのお風呂に入ったりして過したが今度は爆弾や機銃掃射がおそって来た。あきらめて山の中に東京の借家2軒をこわして小さい家を建てた。大工さんも見つからないは、知り合いの人に強引に泊りこんでもらって私達も手伝ってやつと形が出来上りかけたのが昭和20年の8月だった。近所の左官屋さんが約束の日を過ぎても来てくれず父が様子を見に行くとその人いわく「もうがっかりして何も手につきませんよ」それで初めて、天皇の詔勅があって戦争が終った事を知った。今では駅や学校も近くに出来て家が沢山建っているが、その頃は山の中の一軒家でまだ電気も入らず情報が全然伝わらなかった。
 家はどうにか出来たし、田端の土地は小学校に近いので半分緑地帯に取られると云われそのまま東京へはもどらなかった。あの頃は早い者勝ちで居すわってしまうと争ってもなかなか勝てなかったようで父母の苦労は大変だったと思う。
 あの難解な詔勅を初めて聞いたのは、それから何年かたった後の事でした。


     筆者は1926年(大正15)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。



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