GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

大東亜戦フィリッピン奮戦記(越畑・久保寅太郎) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 昭和十九年(1944)九月十日召集令状を受け十五日歓呼歓声に送られ愛する妻と別れをつげ嵐山駅を出発征途についた。そして赤坂の部隊に入り三日後に部隊にて妻の姿を見た。その時の心境たるや言葉にいえないものがあった。部隊名は威一四二〇八部隊であり、そして秋とはいえ夏服が支給された。同志達はすぐに戦火の激しい南方戦線なることを口々にした。そしてまもなく品川駅より戦争物資と共に東京を後に列車にて広島に到着し早速輸送船に乗り込み二昼夜位であったと思ふ。到着した処は中国のウースンであった。そこに一夜停泊して満州孫呉よりマニラへ向ふ東京出身の第一師団と合流し船内は身うごきも出来ない程の超満員となった。再度出発目的地は大東亜戦最激戦地フィリピンのマニラであった。そしてこの船団は五千屯級の五隻の船団であった。十九年の秋といえば最悪の激戦区台湾沖を通過ですから広島を出発してよりマニラまで二十八日目にて無事五隻共到着した。その間五隻は敵船団ではないかと友軍機が哨戒したら驚くことに遊軍船団とのこと当時はいくら内地より送り出しても一隻としてマニラに到着しておらず驚かれた。当時は制海権は米軍に握られていたことが想像できると思います。そして軍団は一たんマニラに上陸したが第一師団は再度乗船しすでに米軍が上陸を開始しているレイテイ島へと向けられ水際で玉砕されたことを聞いた。我々の部隊はマニラのリザール公園野球場スタンドで戦地の一夜をすごしたが早速米軍戦闘機グラマンにより機銃掃射を受け驚いた。それより南部ルソン島を轉戦、始めてマラゴンドンと云ふ町を襲撃したが実弾の下異国の夜をさまよい身の危険と恐ろしさを痛感した。ひたすら神に祈るのみであった。その時始めて戦友の一人が戦死した。その遺体を私と戦友二人で後方友軍まで運び隊長より表彰を受けた。始めて見た敵弾には想像もしなかった閃光弾がまじり飛んで来るので敵からこちらが昼のよう丸見えになるのには驚きの一語であった。そして命からがら駐屯していた地に戻った。何しても常夏の国であり馴れない野戦場の毎日が続く。それより強行軍がつゞき南部ルソン島の町レガスピーに到着した。戦火をのがれ町は人気のない無気味な町であった。その間何回ともなく空襲を受けた。レガスピーよりマニラを目ざし轉戦となりその中間位と思ふテルナテと云ふ町に陣地をかまえてしばらくの間この地ですごした。この頃はまだ戦火が余り激しくなかった。そして内地では想像もできない裸での一月をすごした。近くの田圃は稲穂に又空田にと色々の状態であり南方常夏の国ならではの風景であった。しばらくして戦火も激しさをましこの地を後に強行軍が開始された。この時負傷した者あるいは病弱者は少量の食糧を受け涙の生別れを告げ、さらに敵中突破の強行軍が続いた。いよいよ米軍の攻撃は日に日に激しさを増す。天下無敵の軍教育を受けた我々には夢にも思はぬ米軍の威力を目の当たり見たとき驚くばかりであった。土民軍及び米軍のすべてが小銃を始め自動式及びそれ以上のすぐれたものばかり。我が日本軍とは装備に於て雲泥の差であり話しにならない。ただ大和魂のみであった。ある台地での応戦の時であった。長い南方一日中朝から晩まで呑まず食はず。飛行機からは機銃掃射又海上からは艦砲射撃。これが一番おそろしい。なんとしても一発ごとにおちる処が違ふからであり互いに声をかけても返事のない者はごみと一しょに空中に散ってしまふ。それに対して野砲の弾は一ヶ所にきまっているので安心だ。たゞ最後に焼夷弾がうちこまれ一面火の海となり、身体のおき場のない程であった。あの手この手の攻撃に戦友達もどんどんと消え恐ろしい毎日が続いた。長い一日が終り夕暗やみがせまると生残り同志で明日も又生きようと誓ふけれど野辺の露みたいのものであった。この時の戦友達の年令は二十六才と二十七才の新婚さんばかりであり、毎日のように戦死及び病死で消えて行く。我々数少ない部隊もそれより山中にたてこもり戦火をのがれ、今までから思えば静かな日々を送った。しかし食糧がなく遠くはなれたの夜襲等又は畑作物の陸稲及びさつまいもの盗み取りをして毎日を送るこれ又命がけであった。此の頃だと思ふ。米軍よりポツダム宣言のビラ、それに東京大空襲の焼跡の画報、いづれもカラーであり無数に空からまかれ、中には捕虜になった戦友達の楽しげな生活の写真あり、お前達も早く投降してこのようになりなさいと書いてあるけれど誰一人と信ずるものはなかった。そして又兵隊さん御苦労様今より砲撃しますからとのビラが舞ふと同時に激しい砲弾が身辺に炸裂する話のようであった。そして此の地に居ることは出来ず又死の行軍が始まり最後の地マニラ湾入口にあたる右側の山深い通称三〇〇高地と云ふ深山にたてこもる。此の頃よりフィリピン戦線も終盤を迎え日ごとに米軍の攻撃の激しさは空と海上共にマニラ湾をうめつくした。対岸あった最後の要塞コレヒドールは二回に渡り猛攻により全島火を吹き陥落しそして友軍の玉砕の姿を目の前で見た。此の時のマニラ湾は空は限りない空軍機又海上は艦船であふれんばかり猛攻撃を受けた。米軍の威力にはたゞ驚くの一語である。そして間もなく我が方に攻撃が向けられ命からがら逃げるのみであった。大東亜戦争の最大の激戦地であったと思う。旧満州関東軍の精鋭部隊及び内地から等百万人近い軍を向け内地への侵略をくい止めようとしたが及ばず、終戦の連絡を受け収容してみたら二十万人位であったとのこと。如何に激戦であったことが察しられと思います。この終戦の連絡も一ヶ月遅れの九月十五日頃であったと思ふ。しかし敗戦とは誰れも信じられず米軍の謀略と思っていたら心実であり驚くばかりであった。そして収容所生活を一ヶ月ばかりして帰還となりマニラ港より迎えの紫雲丸に乗船し久し振りに見る海上からの富士山を見た時は感激そのものであり涙が浮かんだ。そして浦賀上陸したが米軍支給の服にPWと書いてあり子供達にもPW*が帰って来たと笑はれた。そのまゝ変り果てた列車に乗り夜遅く夢の我が家に到着家族に泣いて迎えられ長い一年二ヶ月であった。帰還は昭和二十年十一月二十五日。


  *Prisoner of War。戦争捕虜。
     筆者は1919年(大正8)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。



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