GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

知らなかった終戦の日(菅谷・村瀬信子) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 日本橋にあった父の店と、祖母の家が3月10日の大空襲で焼け、その悲惨さにおどろいた父母と3姉妹は、とりあえず我孫子のゴルフ場近くの農家に疎開した。1ヶ月近く家財道具や布団まで背負って何度か往復している中に、今度は4月13日田端の住居も焼けてしまった。その夜は我孫子から東京方面の空がまっ赤な炎に包まれているのを見て半ばあきらめながら明くる日、田端へ行った。
 見渡す限りの焼野原、まだ残っていた家財は防空壕に入れたり井戸にしきりをして入れた細々とした物以外はすっかり焼けていた。その後暫く焼け跡でドラムかんのお風呂に入ったりして過したが今度は爆弾や機銃掃射がおそって来た。あきらめて山の中に東京の借家2軒をこわして小さい家を建てた。大工さんも見つからないは、知り合いの人に強引に泊りこんでもらって私達も手伝ってやつと形が出来上りかけたのが昭和20年の8月だった。近所の左官屋さんが約束の日を過ぎても来てくれず父が様子を見に行くとその人いわく「もうがっかりして何も手につきませんよ」それで初めて、天皇の詔勅があって戦争が終った事を知った。今では駅や学校も近くに出来て家が沢山建っているが、その頃は山の中の一軒家でまだ電気も入らず情報が全然伝わらなかった。
 家はどうにか出来たし、田端の土地は小学校に近いので半分緑地帯に取られると云われそのまま東京へはもどらなかった。あの頃は早い者勝ちで居すわってしまうと争ってもなかなか勝てなかったようで父母の苦労は大変だったと思う。
 あの難解な詔勅を初めて聞いたのは、それから何年かたった後の事でした。


     筆者は1926年(大正15)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


戦後五十年に思う(古里・吉場雅美) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 思えば昭和十九年(1944)同期兵百七十人の寄せ書を頂き各部隊にと別れ南国に又大行山脈の岩肌に多くの戦友は若い命を散らした。
 特に十九年濠北戦線に転進後は征空征海権の全く無い戦場に特に徒手空挙に等しい劣装備のまま優勢なる連合軍の真正面に投入され戦友の実に九十五パーセントを失ったのである。三大隊も「ビャック島」で玉砕して戦友飢えて密林を沈んだ戦友の思えば五十年忌に当る意義ある年である。
 昭和十九年三月南方派遣の命を受け青島に集結のち陸路朝鮮釜山港より私物に髪や爪等を同包手紙も家族に送った。三日間の揺揚作業で八隻の輸送船に物資満積し、我等第一大隊は任地西部ニューギニアに向け前進しました。
 四月二十六日真夜 バーシャル海峡にて楓部隊は雷撃にて撃沈さる。海面火と化し全滅した。
 五月六日 我々の乗船亜丁丸七、五〇〇トンはセレベス海に於て敵潜水艦の雷撃を受け二分間にて沈没す。同時但馬丸と天津丸にも命中共に火炎に包まれ瞬時にして沈没した。救助は七日朝まで績行され少人数や単独で漂流した者は発見し難く犠牲者となった痛ましい場面も見えた。難を免れた船は海難者の救助につとめた。
 五月九日 ハルマヘラ島「ワシレ」に入港して生気をたくわえた。再軍備してニューギニアに配置された。半年前に上陸した兵士は湿地帯に丸太を敷き歩道を造ってくれた。暗闇の中で揚陸開始となり密林を七〇〇米以上集積所まで必死で運び疲労も後まで績き思考力も気力も喪失し樹木の中で仮寝した。物資も下し過ぎ船にもどす有様。命により如何に作戦が混乱していたかが想像出来るが何を云っても命令は命令そのうち北岸作戦目指して進行とか其の後二大隊と三大隊共に応援支援と合流奮闘したが支隊と共に連合軍の猛攻を受けビアック島でも玉砕の報も入り、第一大隊は主力が北岸作戦に出撃したが後方からの補給も全く絶えた。次から次にと病人も蔓延し尊い命が失われました。本隊もジャングルの陽も見ない湿地帯で食と戦い兵士は脚気、マラリヤ、赤痢や皮膚病等にかかり一個中隊で四名も五名も病死し悲愴な姿。髪も殆どぬけて我が生死は刻一刻と運命の日を待つ有様であった。白水の墓標は日、一日と増え一寸角の箱に名記し親指のみ切断し焼いて納め他を埋葬しました。
 死の寸前には何か食べたいと云い残す者も多く見られ、我が同期兵も六十七人いたのが残るは唯、私一人となり若くして祖国のため全員が帰らぬ南方の土と化した。これらの戦友に対しても真の平和を祈るものである。
 実は本年二月二十六日の事、滑川町の松寿荘に於て戦友会の席に、姉妹会を四人で開き嵐山町の勝田の杉田松夫という者の様子を御存じの方は居ませんか、と急報あり折よく同町の私はこの旨を告げた。松夫さんとは救われた船内で数分話した時の様子を申すと四人の方は何時かは話の聞ける日もあろうと心境を語った。今晩皆様に話し合えたのも亡き兄の導きであろうと、五十年間も身から離さず持ち績けた入営当時の写真に向って咽び泣きながら報告した。兄思いの妹さんの清い心根に一同感動したのであった。松夫さんの死の様子は分かりませんが、北岸作戦の際サンサポールに於て本県熊谷市宮町出身の大隊長岩村宕郎二十六才の戦死の時敵の猛攻により多数の犠牲者が出た。その時ではないかと云う者がいた。この作戦では殆ど全滅した。本隊復帰された大隊副官の永田隊長以下二十八名のやせきった姿などを思う時、二度と戦争を起こしてはならないという願いを強くする。
 当時の暗黒な思いを決して風化せず過去を反省し、学校に社会に伝え、具体的な平和教育を通じ明るい未来が見える様努力する事を心よりお誓い致します。


     筆者は1922年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


嵐山町が戦場になった話(広野・宮本敬彦) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験
 「嵐山駅銃撃さる!」今の時代ならば新聞やテレビなどマスコミが大騒ぎするであろうこの事件も当時ではあまりにもありふれたこと、新聞にものらず、まして五十年たった今日では人々の記憶もうすれて銃撃事件を知っている人も少ないのではないかと思います。
 昭和二十年七月中旬のある晴れた日【7月28日】、私は家で晝食をたべておりました。と広野の上空に突然はげしい飛行機の爆音、と同時にバリバリバリというすざましい機銃掃射の音、私は思わず座ぶとんを頭に外にとび出しました。しかし敵機は一撃だけで飛び去ったらしく機影は全く見あたりません。
 丁度このとき近くの田んぼで田の草取りをしていた永嶋慶重さん、白い帽子に白いシャツ、一番敵機にねらわれやすい姿でしたが、あわてて水田に伏せたので、ずぶ濡れの泥だらけ、それでも元気な声で「金鵄勲章もらいそこなったい!」(注1)といったので心配して集って来た皆、安心したのとそのかっこうのおかしいのにドッと大笑いしました。
 このときの敵機は硫黄島からやって来たP51で、嵐山駅をねらったようでした。私の七小同級生松本勇君は嵐山駅に勤務中この事件にあいました。たまたま貨車の入れかえ作業中だったからたまりません。射抜かれて蒸気を吹きあげる機関車!彼の走る先々に土煙をあげる機銃弾!それでも幸い肩に銃弾による擦過傷を受けただけで国民義勇隊員(注2)として戦死することはまぬかれました。
 今は亡き永嶋さんや松本君にこのときの話を直接語っていただけないのが残念です。それにしてもあれから五十年!今しみじみと平和の尊さをかみしめているこの頃です。
(注1)金鵄勲章=軍功のあった軍人軍属が受賞する勲章で受賞者は戦死者に夛い。
(注2)国民義勇隊=昭和二十年七月頃(?)発足した制度で鉄道職員は全員隊員とされた。
     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。

戦争の後遺症当時十才(川島・権田徑子) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 忘れもしない昭和二十年八月十五日の昼、私は満洲国営口市のお友達とわいわい言いながら楽しいお弁当を広げていた。すると先生が教室へ来て「皆さん戦争は終りました。お勉強はこれで終りです。皆さんにいつ会へるかわからないけれど皆んな元気で頑張って下さい。日本人である事を忘れずに。それでは気を付けて帰って下さい。サヨーナラ」先生は泣きながら言ってました。毎日学校へ行くと戦争の話ばかりでした。それも私達の先生は皆若い男の先生だったので兵隊に取られ何人の先生を見送ったかわからず、やっと女の先生で喜びあっていた矢先の出来事でした。戦争を知らない今の子供達には、わからないと思うが、学校では毎日四年生以上は女子はナギナタ、男子は木刀を持って銃剣術の練習をやっていた。もしソ連軍が侵入して来たら子供でも兵隊さんと一緒に戦える様に内地の子供達に負けない様、戦争に勝ちます様にと毎朝の朝礼と祝祭日には日の丸と満洲国の国旗を立て近くの神社の忠霊塔に参拝に行ったり、国防婦人会のお母さん達と女の子は赤いタスキを掛け街頭に立って、千人針と云って白い布に赤い木綿糸の玉を作ったり、戦地の兵隊さんの為に慰問袋を作ったりして勝つ事だけを信じて祈って、私達満洲の子供達も頑張って来た。学校からは日本軍の勝っている映画ばかり観に連れて行かれた。どうして負けたのかと不思議でした。家へ帰ってから母に聞いた話ですが内地では、原爆と云う恐ろしい爆弾が落されたと云う事でした。平和だった私達の満洲営口を突如として立退き命令。寝たきりだった母は気強くも床から出て幼い子供達に逃げる用意を指図し当座を凌ぐ物を持てるだけ用意した。私は幼い妹を背負い病気の母と二人の弟は健気にも力を出して持てるだけ持って住みなれた家を後にした。その時父は軍に召集されて留守だった。父が満鉄の職員だったおかげで社宅の人達と汽車に乗って逃げる事が出来た。途中町の人達が線路ずたいに子供やお年寄を連れて逃げて行くのが見えた。「助けて下さいお願いしますその汽車に子供と年寄だけでも乗せて下さい」と手を上げて泣き叫んでいる。可愛そうだが乗せるわけにはいかないんだと大人達は云っていた。それはソ連の兵隊が乗っていたので汽車を止める事は出来なかったのだそうだ。汽車は無情にも走り去った。今でもその時の状況が走馬灯の様に浮かんでくる。私達鉄道員の家族達は、大石橋と云う所まで逃げたがそこでは、市全体が一括して受け入れてはくれなかった。路頭に迷っている時に営口駅の駅長さんの計らいで戻る事が出来た。駅長さんの家族も一緒だった。社員の家族達は日本人の経営していた大きなホテルに収容された。その日から収容所生活が始まった。父のいない私達五人の地獄の様な生活が始まった。ある日収容所に父の配下の満人のボーイさんが三人訪ねて来た。父に大変可愛がられ世話になったから恩返しに、何かお役に立ちたいと申しとても嬉しかった。そのボーイさん達にお世話になり、私は妹を背負い母は杖をつき弟二人と行商に出た。ボーイさんが連れて歩いたおかげで買わずにお金をくれたり、可愛相だと言って御飯を食べさせてくれた。これが地獄に仏と言うのかなあと思い父に感謝した。一日歩いて帰って来た夜は楽しかった頃の思い出話に話が咲いた。春はアンズの花見に夏は友達とプールへ、秋はイモ掘にリンゴ狩りに、冬はスケートに話はつきない。営口ホテルの収容所生活にもなれいくらか落ち着いて来たのもつかの間で、ソ連兵と国府軍が市街戦争を始めた。一日中大砲の音や機関銃の音に脅やかされていた。生きた心地はなかった。戦争とはこうゆうものかと思った。激戦地にいるようで日本の兵隊さんもこうだったのかと思うと戦争がおわってよかったとも思った。ホテルの中はソ連兵でいっぱいになりホテルの内でも撃ち合いが始まった。すると一人のソ連兵が負傷して私達母子の部屋へ入って来た。何をされるのかと脅いた。母は私に「大丈夫だから傷の手当をして上げなさい」と云ったので兵隊さんの傷の手当をして上げたら喜んで帰って行った。日本の母はやっぱり強いなと感心した。すごい体験をしたものだ、従軍の看護婦さんの様だった。戦争に負けて悔しいと思ったのは、ソ連兵が年頃のお姉さん達をむりに連れて行く事だ。残ったお姉さん達は男装をして兵隊の目を逃れていた。だが私のお友達のお姉さんはみやぶられていやがるのをむりに連れて行かれて二度と帰ってはこなかった。ほんとうに戦争が憎い二度とするものではない。私は子供だったので助かった。恐ろしく惨酷な事で残念だった。暫くして日本へ帰れると言うので又汽車に乗せられて思い出多い営口を後にして引揚船の出るコロトウの収容所へ行った。日本へ帰れると云うので辛い事も我慢した。そこから船に乗って佐世保に着いた。二十一年十一月九日に父の生家の嵐山町に着いた。やっと日本へ帰れたのだと云う実感だった。母と子供達は父の生家へ身を寄せたが歓迎されなかった。其の日から厄介者扱いだった。穀潰しとののしられ病気の母はつらい思いをしていた。みかねた母の生家で母と妹を引取りに来た。母と別れが悲しかった。大農家なので私と弟二人は年の違わない従兄弟達に穀潰し早く仕事をしろと馴れない農作業を手伝い、私は女だからと雑巾がけや藁で作ったタワシに灰を付けて大きな鉄釜を毎日磨かされ手は皹になって血が滲むのだった。年の違わない従姉妹にいじめられ何度となく遣り直しをさせられた。毎朝の学校へ行く前の雑巾がけがとくにつらかった。きたないと云っては何度となく拭き直しをやらせられしまいには自分で従姉が拭いていた。北満でソ連軍と交戦した父の消息は不明で心配の毎日だったが二十三年の六月にシベリヤから復員して来た。弟二人と父がシベリヤから帰るまではと歯をくいしばって耐えた。父も捕虜となり苦労した事だったろう。御苦労様でした。私達引揚者は戦争の犠牲者である。五十年たった今日でもまだ続いている。苦労して幼い四人の子供を連れて帰って来た母の苦労は大変な事だったろう。今でも母の病気は治っていないのだ。二度と戦争してはいけないのだ。


筆者は1935年生まれ。権田恒治さん・二三代さん夫妻の長女。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


奉天、営口、コロ島の収容所生活は二才(川島・小林ちか子) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 私の家族は父が満鉄に勤めていたので、営口の満鉄の社宅にいた。姉や二人の兄達は日本で生れて満州に渡った。私は昭和十八年(1943)一月十四日満州で生れた。昭和二十年(1945)八月十五日に大東亜戦争で日本が負けて終戦となった。その時母三十三才、姉十才、上の兄八才、下の兄五才、私は二才だった。八月二十九日に営口市にソ連兵が侵入して来た。その時に日本人がロシア兵をロシア兵を歓迎しなかったという事で営口にいた日本人は追い出されるはめになったという。夕方五時までに営口を立ち退かぬ者は銃殺という触れが出た。逃げる時にはもう我勝ちに逃げたそうです。自分の家族も置いて逃げた人もいたという。一旦営口市を出た。駅長さんのはからいで営口に戻ることが出来たという。収容所生活がこの八月二十九日から初まった。最初の収容所は立ち退いた日本人が経営していたホテルで奉天の収容所となったという。同じ部屋の大沢幸子ちゃんとは大の仲良だったそうだ。幸子ちゃんはいつもお菓子の袋を持って遊んでいたが、私は一度もほしがった事はなく、幸子ちゃんはお父さんがいておいしい物が食べられていいね。ちか子ちゃんちも早く兵隊さんからお父さんが帰ってくればいいなあといって二人で遊んでいたという。私は自分のことを「ちか子ちゃん」といっていたそうだ。一度だけ食事の時に「ちか子ちゃんはコーリヤンを食べているけれど幸子ちゃんちはアワのご飯を食べている。ちか子ちゃんも幸子ちゃんのようにアワのご飯が食べたいなあ」といったので、すぐに母は私を外に連れ出したそうです。その様子を見ていた松田のおばさんが「ちか子ちゃんのお茶碗を貸してごらん、私がアワのご飯を貰って来てあげるといい中に入って行き、ちか子ちゃんに少し分けてあげなさいよ」という声がしたという。本当に貰って来てくれたという。その時の私の嬉しそうな顔と仕種がとても可愛かったという。母が私にアワのご飯を食べさせてやりたいと姉と二人の兄に相談したところ、行商をすれば買ってやれると話がきまり満人にお菓子を卸してもらい行商が初まってアワを買うことが出来たという。ある時子供のいない金持ちの中国人が私に手土産をもって来て私を貰いたいと言って来たという。又、満人がアヒルの玉子一個と私を取りかえないかとも言って来たそうでしたが、母や姉達がきっぱりとことわったのでそれからはこなくなったそうです。三階から母子五人で外を見ていた時、満人がジャガイモを一個落したのを見て母と姉兄が私に「あそこにジャガイモが落ちているけれどどうしたらいいだろうね」といったら、ちか子ちゃんが拾って来てあげようかといって、着物の裾をはしょると階段を行きジャガイモのそばについたらあたりをキョロキョロ見てから懐にしまい帰って来たという。私の仕種がとても可愛らしくて思わず四人でふきだしてしまったという。そのジャガイモはこぶし大で夕食の味噌汁の身になったそうです。私のはき物は母が皆なから教わって作った藁草履です。その藁も収容所でトイレの境にしていた荒編の藁から引き抜いて編んでくれたそうです。着る物は満人がくれた一ツ身の格子柄は赤、黄、白の色だったという。営口の収容所では子供達はいつも玄関で遊んでいたそうです。満人が落花生を食べて空が下向きになっていると子供達は一つづつひっくり返えしては中身が入っているかをたしかめて歩いていたそうです。私も一緒にやっていたそうですが一粒も中身は入っていなかったという。それが何日も続いたそうです。いつも見ているソ連兵が私を可愛いゝといって抱き上げたら泣き出したので赤い軍票を一枚くれたらすぐに私は泣きやんだそうだ。ちか子は軍票がお金だというのを知っていたのだねといって大笑いしたとか。最後の収容所はコロ島だ。コロ島では母が下痢をしたために腸チフスではないかと疑がわれて収容所から遠い満人街にある収容施設に連れていかれたために初めて母と子が二週間もはなればなれになってしまったという。診断の結果普通の下痢だったそうでした。その間の私達の食事は一日二食の配給だったそうです。その為に私は栄養失調になり視力が弱くなり一人で歩くことが出来なくなりいつも姉が背負っていたそうです。上の兄がコックさんと仲良くなり時々ご飯のオコゲをもらって来てくれたそうです。そのおこげがとてもおいしかったとの事です。昭和二十一年十月十六日、コロ島の収容所から囲いのないトロッコに乗せられ最後の引揚げ船がまつ港へと向かった。私の家では毎年十一月九日には引揚げ記念日をする。父の生家にたどりついた日です。この日は満州での思い出話し等をします。私は当時三才でしたので何も覚えていません。家族の話しを聞いて知りました。


     筆者は1943年生まれ。権田恒治さん・二三代さん夫妻の次女。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


命からがらの記(川島・権田二三代) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗けた。満洲でソ連兵に追われ、乞食のような生活をしながらも、誇りを失わなかった母の記録、今年は戦後五十年と言うが、戦争を知らない世代の人達には戦後と言う言葉は通じないと思う。いつの間にか五十年の過去となった。戦争はいやだ。最愛の夫を、息子をお国のために召されて征った。迂濶な態度や言葉を発すれば非国民として罪せられた。大日本帝国の軍国主義であった時代は遠のいたのだ。
 戦争はいやだ。二度と繰り返すな。昭和二十年八月十五日、日本が戦争に敗れた日、忘れ得がたい、いまわしい日
   ソ連軍に立ち退かされし敗戦の忘れ得がたき八月の空
 昭和二十年八月二十九日午後五時までに奉天省営口市在住の邦人は、立ち退かぬ者は銃殺と言う触れが、侵入して来たソ連軍より出された。後日知った事だが、ソ連軍を日本人は歓迎しなかった理由との事であった。
   病床に八ヶ月余りの我なれど子供等に指図し立ち退く支度す
 関節ロイマチスでやっと杖にすがって四人の子供達と逃げた。翌日営口駅長の計らいでソ連軍の許可を得て、営口駅職員の家族は営口市へ戻った。がその日から収容所生活が始まる。当時営口駅に勤務していた夫は
   一片の赤紙に夫は病むわれと幼な子四人残して征きにき
 秘密動員令で関東軍北の譲りに応召中だった。出征家族のわが家は、主人の俸給が九月分で止められた。持ち合わせのわずかなお金で先が思いやられた。衣食すべてに事欠き主人の有難さがつくづく身に感じさせられた。
   敗戦の痛手をつつむあらば家の収容所に必む師走の吹雪
   身一つで命からがら立ち退きし敗戦の冷え飢えもきびしき
   恵まれし毛布一枚病む足腰に巻きて満洲の冬を耐えたり
   ひなを抱く母鳥に似て身に巻きし毛布に子等を入れて夜明かす
   一枚の毛布に夜はかたまりて母子五人が温めあいたり
   父、夫を兵にとられし留守家族いかに年越す話しは暗し
   子供等に正月させよと駅長はまなざし温く餅代賜わる


  ああ営口駅長
   敗戦の整理解雇の満人が駅長拉致し行方くらます
   駅長は民象裁きの即決で銃殺刑と判決下る
   民衆に引き回される駅長を一目おがまんと雪道走る
   雪積る三月三日駅長は人民広場にあえなく果つる
   駅長の赤き血潮は雪染めて人民広場にうらみぞ深き
   正月に餅搗ける今も駅長の徳を偲びて少なめに搗く
   三ケ日餅断つわが家の仕来たりに駅長の徳をも加えて継がん
                           営口駅長の御冥福を祈る


  生きる道
 収容所生活中親切な満人のお世話で行商をする。小麦粉で作った揚げ物の菓子をピンガーン、ツマターン、マフワーと、長男、次男は満人から戴いた柳の枝で作った岡持のつるを腕にかけ声を張りあげて、市外の満人の家並や道を歩きながら客を呼んだ。満人から恵んで戴いた下駄や、満人の手作りの靴の底がすり切れ、穴があく程歩いた。収容所の仲間が作る手巻きの煙草も売らせてもらった。満語もできない八才、六才の子供達が頑張って売ってくれた。出征した夫の消息不明に、日夜幼き子等と安否を気遣い、影膳据えて無事を祈りながら過した不自由な収容所生活であった。やがて日本帰国のため十ケ月余りをすごし慣れた営口収容所を奉天へと移送された。ここでの生活は監視がきびしく、国府軍の兵士が昼夜見回っていた。数日にして又、コロトーへ移送され、その収容所では我等母子に割り当てられた部屋は湯殿跡だった。コンクリートの上にゴザとうす切れた毛布を敷いて寝起きした。十月半ばの満洲の寒さも加へて冷気は一そう厳しく主人の居ない我ら母子は何事にも耐えて来た。いよいよ待望の祖国への送還が自分達の番となった。十月十六日満洲よりの二十一年度のコロトー最後の引揚船となった。勢津丸は、一万トンの捕鯨母船を改造したという。間違いなく内地へ連れていってもらえると思うと、やっと安堵の胸をなでおろす思いだった。私達の班が最後で私は勢津丸に最後の乗船者だった。船はコロトーを離れ、エンジンの音高く祖国日本へと大海原を向っていた。上陸は佐世保と聞かされた。夢にまで見た祖国日本へ満洲から引揚者となって帰って来たのだ。日の丸を見た時には郷愁が全身をゆさぶった。これが祖国愛だと知り深い感動を覚えた。澄み切った秋晴れの空おいしい空気を安堵の深呼吸で心身を洗われた忘れ難い思い出となった。あれから五十年たった今日まで苦しかった事を忘れないように引揚記念日をやっている。
   引揚の日を記念して親と子の誕生会として祝うわが家
 毎年十一月九日には、家族の者達が料理を持ちよって、孫達と記念撮影をし楽しい一時を過す。そんな折いつも話題にのぼることがある。末っ娘の事だ。その娘を養女にと中国人が収容所に見に来た事も度度で、また母子五人が行商していた時、私が病身ゆえ生活の足しに「そのクーニャン(娘)とアヒルの卵と交換しないか」と長女の背負っている末の娘を指さして言われたりもした。ほんとうに意志が弱くて中国残留孤児になっていたらと思うと我れながら意志の強かった事を自分自身たたえている。
 テレビの中国残留孤児の肉親探しを見て、「うちのお袋は強かったね」と我が子達がもらすその母を称える感謝の一言が、私にとって何物にも勝る贈り物で、今さらのように此の老いの胸に迫りくるのである。平和に暮らせていただく今も過ぎ去りし五十年がよみがへり、めぐり来る引揚記念日には、老いてますます元気に孫子達と顔合わせが出来る事を祈ってやまない今日この頃です。


筆者は1912年生まれ。権田恒治さんの妻。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


思い切なる今日(川島・権田恒治) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 「戦争」何と悲しい言葉か。戦後五十年、私達の頭の中には、こんにち現在でも拭い切れない記憶として残っていることは、いかに悲惨なことであったか、ということである。
 戦争体験記といっても、決して懐古趣味や復古主義からではない。戦争が人々の心に残した傷跡を通じて、人が人を殺すことの愚かさ、虚しさ、そして哀しさを見つめ、人間の命の貴さを再発見し、再び戦争の惨禍が起こることのないように、今の子供達に言って置きたいからである。
 私が子供のころ、おじいさんから聞いた日清戦争、日露戦争の話など、こぶしを握り耳を傾け、その勇ましい戦争ごっこ(戦争を遊戯かゲームと思っていた)に聞きほれ、男の子は兵隊さんに、女の子は看護婦さんになるのが夢であった。昔の人は武勇談とし戦争を美化したが、これはその当時の日本国の指導者の行きすぎで、一般国民がそれに躍らされていたのであった。つまり戦争を聖戦と呼び国民を戦場へ送った。明治、大正、昭和と世は変わり、平成となった現在の子供達よ、戦争はドラマではない。人と人との殺し合いだ。ほんとうに恐ろしいことなのだ。



  マル秘召集令状
 そんな或る日、私にも住居地の市役所職員が「ご苦労様です」と一通の封書を恭しく呈示した。瞬間私はドキリとした。このところ同輦が幾人か極秘に招集されていたからである。私は丁重に挨拶して受け取った。誰も居らぬ一室にて、わなわなと震える手で開封、矢張り赤紙である。
   病む妻と幼児四人のわが家に電撃下る極秘動員
   緩急の備えのわれは補充兵朕の命なり畏こみ受ける
 畏み受けたものの突如頭に閃いたのは、第一番の家族のこと、この家族らはどうなるかである。一番頼りになるべき妻は、足腰不自由な寝たきりの病人である。長女は十才、長男が八才、次男は五才、次女は二才の乳離れ直後で、まだオッパイをさわっていないと安心出来ない幼児だ。私はこの事を妻に知らせるべきか、大きなショックを受けるだろう。会社の出張と言ってトボケてでかけようか、幾日かの猶予期間を悩みぬいた。
   応召と知らず幼な子気嫌よしとみにやさしくわがなりたれば
 令状を受けてからの私は、子供達に……やさしいお父さん……という印象を与えておきたかったから、子供達の自由奔放を黙認していたのであった。然し、「おかあさんは病気だから、言う事をよく聞くのよね、おとうちゃんが勤めで居ない時も、おかあちゃんを大事にしてね」とやさしい口調で言いふくめ、当分の間家に帰らぬ時の準備を教へておく事も忘れなかった。そんな毎日を妻はケゲンに思い私に釈明を求めた。致し方なく「驚くなよ」と小声で念をおし「実はね」とマル秘とある秘密召集令状を受けたこと、こらがその赤紙と、やっとの事でふるえる声が出たのだった。妻はハッとした表情で毛布に顔をうずめてしまった。私も放心状態になり、二人の間に深い沈黙が続いた。世の中が真暗になって来た。しばらくして妻は毛布から顔を出し「わたし軍国の妻よね」と力強く言ってくれた。この一言で私はどんなに救われたことか。「ありがとう頼むよね」と言葉少なに言って、差し出す妻の手をかたく握り〆めた。「そういえば、おとうちゃんはこの頃子供達に随分甘くなったわね、おかしいと思ってたのよ」と妻。
 では早速と
   神棚に灯明あげて赤紙を供え身ぬちのひしとしまりぬ
   神棚にぬかずきいとし妻も祈る病床あげて銃後守ると
   防人の心ひらめけり神棚に赤紙供え力湧き満つ
 朋友(ぽんゆう)満人の言の裏付成る
   隠し持つラジオの言と朋友の満人が耳打つ日本の雲行き
   日本の雲行き悪しと朋友の裏付となる極秘召集
   日本の敗けを予言す満人を他山の石とわれひた愛す
   大人(たいじん)がもし征く時は家族みな守ると言へり満人の友は
   家族みな守ると言いし満人に託す日は来ぬ赤紙みつむ
   出張と言いて家族を朋友に託して征きぬ極秘召集
   上司のみ知る応召に乾杯し出張の名のわれの送別
 応召の日
   病む妻に幼な子四人負わせおき醜のみ楯と勇み我征く
   赤紙と奉公袋を風呂敷にわれひそと発つ極秘の動員
   出張と言うて頭を撫ぜやれば土産をねだる幼らいとし
   出張と思い幼らはしやぎつつ袖にすがるもあわれなりけり
   極秘なれば万才歓呼の声もなく妻子の見送りいつもの如し
   赤だすき心にしかと吾れかけて行き合う人に軽く会釈す
 かくして昭和二十年五月十九日、満鉄職員だった私は応召し、鬼といわれた関東軍北満緩陽歩兵連隊へ入隊、国境警備の陣地づくりに当った。八月六日未明、ソ連軍が越境し交戦状態に入ったとの電令に身の毛がよだった。
   対峙して敵をばにらむわが体に凝りかたまりし大和魂
 とは言え、日本軍はその時頭数だけで、攻めるも防ぐもほとんど素手であった。体当りだけでは戦争にならない。子供の戦争ごっこではないのである。竹棒を構えて口で「パンパン」と叫んでも相手は死んでくれない。八月七日には満鉄の無蓋車で負傷兵が続々と運ばれて来た。ムーリン台陣地にいた私達には、すでに負け戦がはっきりしており、このままとどまれば死を待つのみであった。八月九日にはソ連の砲兵部隊が接近、ムーリン台陣地は砲撃の的になった。幸い敵も弾丸が少なかったから助かった。
 翌八月十日、連隊本部から「退去せよ」の緊急命令が来た。だが谷野中隊長はその命に従うことを潔しとせず、「君達は引き揚げろ」と一言を残し、手榴弾を頭に勇ましく自刃を遂げた。「死の美学」といったものがすべての軍人を支配していたような気がする。

 終戦地の思出
   北満の第一線を撤退し理由明かされず軍務解かるる
   戦陣訓軍人勅諭振り捨てて逃亡よろしく軍務解かるる
   軍団を放たれさまよう北満の荒野に捨てたり大和魂
   ソ連機の低空施回しぐくして命のかぎり草にもぐれり
   日暮れ待ち夜行動物さながらに星を頼りの逃避をつづく

  だまされて抑留
 私達の逃避行中、ある山の中で日本軍人に見つかり、初めて日本の敗戦を教えられ、そして甘い言葉に釣られソ連軍に抑留された。その人は宣撫班といって、ソ連軍の指導下にあるのだった。
   ダモイダモイと明日にも帰国をほのめかし慮囚のわれらをシベリヤに曵く
   海征かば山征かばわれ遂にゆくシベリヤ寒き俘虜のラーゲル
   シベリヤの雪野に曵かれし捕虜のわれ大和魂失せて影もなし
 シベリヤの捕虜重労仂の成り行きと生活状況、或は、捕虜出航地ナホトカ港待機中に於ける共産党の洗脳、共産党史の勉強、デモの実習、復員船の所見、舞鶴上陸、帰郷直後の心境等、戦争後遺症が脳裡に埋まり、短歌に濃縮してありますが、紙面の都合もありますので、またの機会に発表させていただきます。



     筆者は1908年生まれ。権田二三代さんの夫。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


夫戦死後の私の一生を振り返って(菅谷・水野今子) 1995年

2008年10月27日 | 戦争体験
 夫は大阪府警察部衛生課に勤務していました。召集令状が来たのは昭和十四年(1939)十一月の半ばでした。当時私は産後風邪をひき肺炎から肋膜に水が溜るという九死に一生の病後で、子供は私の母が一切世話をしていました。夫は近歩二に入隊してから一回帰宅しただけで、中支へ。そして南支から仏印へ。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争が始まると同時にマレー半島を進撃し、シンガポール陥落の前日昭和十七年(1942)二月十四日戦死しました。
 昭和二十三年(1948)春頃に遺族会が出来るから婦人部長にな夫戦死後の私の一生を振り返って 菅谷・水野今子
 夫は大阪府警察部衛生課に勤務していました。召集令状が来たのは昭和十四年(1939)十一月の半ばでした。当時私は産後風邪をひき肺炎から肋膜に水が溜るという九死に一生の病後で、子供は私の母が一切世話をしていました。夫は近歩二に入隊してから一回帰宅しただけで、中支へ。そして南支から仏印へ。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争が始まると同時にマレー半島を進撃し、シンガポール陥落の前日昭和十七年(1942)二月十四日戦死しました。
 昭和二十三年(1948)春頃に遺族会が出来るから婦人部長になるようにと話がありました。戦地へ送る時は十五は心配するなと言って見送ったのにと遺族の現状を思うと、これではひどい。皆で国に訴えたいと思っていたので、引き受けました。今は次のことを国の為政者に御願いします。
 八月十五日終戦記念日の公式参拝の実施、戦争は悲惨で無益なことを語り伝え、地球の平和を守ってゆくことを。

 かかる朝夫は征でたりプラタナス軍靴の如き音を立てて散る
 夕映えの山の彼方に幸ありと信じて待ちぬ夫征でし後
 沈丁花ほのかに匂ふ午後なりし戦死の内報手紙にて来ぬ
 赤き服着て父迎ふ筈の子が白き服着て遺骨を持てり
 乏しき服教材買はぬ生徒等の父は戦死とふ国の扶助なく
 初めての大会なりき木炭バスで熊谷市まで往復せしは
 陳情に行きて議員にいたはられ声あげ泣きし妻たちも老ゆ
 祭典の終らぬ中に帰り来し道に落花の雨に流るる
 我と共に帰り来ませと語りかけ異国の墓碑に水を注げり
 絵をかくを好みし夫は戦地にて他国の景色クレパスに残せり
 大学の卒業アルバム数年後いくさに死すと誰か思ひし
 トランクの中整然とおかれゐるマレー戦線へ向ふ前夜か
 終戦後半世紀経ぬ戦争を知らぬ世代の片隅に生く
 戦へる国の未だあり我が国は憲法九条守り抜くべし

     『想いあらたに-終戦50周年記念誌-』(埼玉県遺族連合会・埼玉県傷痍軍人会・埼玉県軍恩連盟、1995年8月15日)

五十年前を省りみて(将軍沢・忍田政治) 1995年

2008年10月11日 | 戦争体験

 昭和十七年(1942)十二月十五日東部片岡部隊に入隊した。入隊式で渡満の輸送指揮の江口少尉以下六名を紹介された。
 一週間の渡満教練中の三日目教育係からビンタをとられ奥歯五本を折損して食事もとれなくなった。これが軍隊だと実感した。
 二十三日二十二時品川発の軍用列車で下関港に流れる玄海灘をこれが故国の見納めだと山崎軍曹に言われ遠去かる島影を眺めて涙し多勢が二度と故国の土を踏まず大陸に骨を埋めた。朝鮮半島釜山に上陸してまた鉄路で北上、十二月三十日、正午北満の大都市ハルピン着。迎えの車に分乗して明治三十五年(1902)ロシアのミルレル中将が建てたという兵舎に入隊した。
 満洲派遣第六二四部隊、聯隊長横山伊三郎大佐であった。第一中隊に編入され初年兵教育をうけた。第一大隊は輓馬であった。兵科は輜重である。教練の中心は乗馬である厳しく両ひざに衣袴をけづって穴があくまで鍛えられて一人前の乗馬兵となった。なぐられけとばされていくうちに初年兵教育も馬術の模範演技兵となって実技をこなし検閲を終った。師団派遣の査察官は参謀長長勇少将であった。下士官候補者と命令を受け第一大隊の集合教育が行われ、また他部隊からの集合兵も来隊した。ハルピンは白系ロシア人の興した街で各国人が住み柳の大木のある処、松花江の大河が流れた素晴らしい都市だった。
 集合教育を終って十九年(1944)一月牡丹江第四七八部隊に下士官教育のため派遣となって同期十一名の引率者で入隊した。関東軍中の輜重下士官の養成所で鎬をけづるような学術科の教育が実施された。ここで高園大尉に坑命して軍刀斬殺の運命となったが剣術修練の賜で一命を許されて、四七四人中四番で卒業し原隊復帰した。ハルピンを動員下令で部隊がチチハルに移駐、聯隊長、副官に同行して大草原の新任地に行き、即日中隊長に申告、当日付で内務班長、初年兵教育係を拝命された。見渡す限りの大草原、北満の猛将馬仙山の兵舎だった屯営は小さく馬が天上につくほどであった。乗馬長路騎乗で見た会津若松騎兵十八聯隊全滅の碑は軍人の哀しさを知った。
 七月動員下命、出陣式を行いチチハルを後に南方戦参加となって鉄路を釜山に下った。ここで特命が下り多くの部下と惜別して隊長以下三十八名の編成で下士官中心の隊となった。
 江差丸で輸送指揮官横山伊三郎大佐、六千余名は沖縄県宮古島に上陸、日本防衛軍としへ第三十二軍の配下となってわが内山隊は師団直轄となって島の中央に飛行場建設に当る軍民共に不眠不休の重労働を重ねて聯合軍の沖縄侵攻の時我軍の特攻基地として米軍の日夜をわかたぬ艦砲射撃、艦上機の爆撃、それらの間げきをぬって多くの特攻隊を送り出した。島は天地を覆した如く変り果て多くの戦友を失った。
 あれから五十年、来る十月十一日、生き残った輜重二十八聯隊の戦友と宮古島に慰霊の旅に立つ。諸霊の冥福を祈りて。


     筆者は1924年(大正13)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


喜びの日(むさし台・中島時次) 1995年

2008年09月14日 | 戦争体験

 今から40数年前、私の体験したソ聯抑留生活は3年8ケ月、苦しみの中での3年8ケ月は長かった。連行当時から書き綴る事は文才のない私には到底出来る事ではない。抑留生活の締めくくりとも言うべき帰国に至る最后部分を書いて見たいと思う。ひと口にシベリア抑留と言われているが、シベリアとは沿海州を指すよび名である。日本人抑留者の居た地域はシベリアにかぎったわけではない。遠くはヨーロッパ近辺までも行っていたのである。現に私が抑留生活を送ったカザフスタンは中央アジアである。今でこそカザフスタンはオリンピック等の活躍で誰一人知らぬ者はない。当時カザフスタンはソ聯領で一共和国だった。ずっと南に下った所に首都アルマアタがある。この辺は綿花の生産の盛んな地域でもある。我々の所はそれより北西にかなり遠く位置する。ペトロパヴロスクがシベリア鉄道の分岐点でそこから鉄道で3日ばかりカザフスタンへ入った所にカラガンダと言う地方にしてはかなり大きな街がある。ここはソ聯の第3の炭坑都市であってそこから10数キロもはなれた我々の所からもボタ山がいくつも見える。とにかく我々の居た所は見渡すかぎりの草原でその中にポツンポツンと人家が点在すると言った様なひどい所であった。立木は一本もなく殺風景この上ない地域であった。かなりの高地らしく何時も風が吹いている。無風状態の日は年間を通じて1週間か10日位しかないだろう。この風が冬ともなると一変して悪魔となる。天気が良くても氷点下30度にもなる。加えて風である。身体に感じる温度は、零下40度にもなってしまう。一度だが零下42度を体験した事がある。これは寒暖計の温度でその時風速20m近い風が吹いていた。この時に肌に感じた温度は零下62度と聞いた。まさに殺人的な寒さである。これに雪でも加われば大変な事になる。気温が低いのと風が強いので雪は灰の様に細かく風にとばされて風通りの良い所は地面が出ている。反対に障害物のある所は雪の山になってしまう。そんな状態の中で我々はひどい体験をしている。
 その朝何時も通り7時に衛門前に整列した。冬の7時は真暗である。今日は雲っていたが、天気が良ければ満天の星の筈だ。守衛所に大きい寒暖計が下っている。現在の気温は零下25度。この辺では当り前の寒さだが相変らず風が強い。一面の雪だが風が強いのであまり積らない。やがて出発する。顔にあたる風は寒いと言う表現は通用しない。ビリビリと痛い。強風が粉雪を舞い上げる。お互いが顔を見ながら歩く。鼻が凍傷になるからである。鼻は感覚がにぶいから気付かない中に凍傷になっている場合が多い。用意に防寒帽の中からボロ切れを巻く。はく息が上にあがりマツ毛が凍りついて目がふさがってしまう。不吉な予感がしたがまさかブラン(吹雪のひどいもの)が来るとは思わなかった。道程半分もすぎた頃雪が降って来た。灰の様な雪である。現場に着く頃になるとますますひどくなって強風が粉雪を吹きまわしとても前が見えない。ソ聯兵は危ないからラーゲル(収容所)へ引返すと言う。ラーゲルに向って出発した。前を歩く人の背中が見えない。思い切りかがんで前の人の足元を見て歩く、地表から30cm位までは割り風が弱いので前の人の足が見える。もし前の人を見失えば盲目同然となって方向がまるっきりわからなくなってどこへ行ってしまうかわからない。それにこの寒さである。死を待つだけだ。必死の思いでやっとラーゲルに着く。落伍者がないのが幸いだった。どこをどう歩いたのか40分位で帰れるのに2時間近くもかかってしまった。
 この辺の夏はどうかと言うと割とすごしやすい。気温は日本と同じ様に30度からになる。但し湿度がひどいのでカラッとした暑さである。一寸家の中へ入るとクーラーの部屋と変りない。それなりに夜はぐっと冷え込む。カザフスタンには昔から住んでいる民族が居る。我々はカザックと呼んでいた。有色人種で肌も日本人と同じか少し黒い、髪も黒い。彼等は独自の言葉を持つ。ソ聯兵の中にも沢山いる。彼等同志ではカザック語でしゃべる。ロシア人や我々と話す時はロシア語だ。カザック語はモンゴル語によく似ている。このあたりにはラクダもいる。彼等がよく小荷物を乗せて引いているのを見る。この辺のラクダはコブが一つしかない。
 さて、重労働、空腹、殺人的寒さに明け暮れた抑留生活も4年目となった。たしか今年は昭和24年(1949)の筈である。14才で軍属を志願し渡満してから6年、私も20才となった。まさかこの年が復員の年になろうとは夢にも思わなかった。その8月も押しつまったある朝、その頃我々は12分所に移っていた。本部から営内司令が来て、今から名前をよばれる者は作業に出ないで9時迄に衛門前に集合との事であった。よばれたのは20名位と記憶している。何も荷物はないので定められた時間に衛門前に集合する。すると収容所長が通訳を連れてやって来た。ここの所長は小柄だがズングリ太った少佐だ。大変日本人には好意的な人物だった。彼はにこにこしながら君達はこれから日本へ帰る為第6分所に移動すると言う。我々はまたかと思った。何故なら、何時もラーゲルを移動のたびに同じ事を言われだまされつづけて来たのだ。でも命令では仕方ない。9時に衛門前に集合した。やがて迎えのトラックが来た。自動小銃を持ったソ聯兵が2名荷台に乗っていて早く乗れと言う。やがて我々は車上の人となってカラガンダへ出発した。草原の中の道をひどい土ぼこりを上げて走る。どの位走ったろうか。第6分所の衛門に着いた。所長はダモイ(帰る)と言ったが我々はとても信用出来ない。それがあくる日になって真実性を持たせる様な事になった。新品の衣服が支給されたのである。それに抑留以来始めて金をくれた。一人40ルーブル位だったろうか。考えて見ると帰国を前にした我々日本人の対ソ感情を和らげる為の配慮とも思えるのである。金が有ると物が買える。当り前の事だがもう3年8ヶ月も金を持った事はない。久しぶりに物を買う喜びを味わった。第6分所の中に小さなマガヂン(売店)がある。空腹の毎日である我々は食物を求めてマガヂンへ行った。ここは民間人がやっている。入って見ると棚に白パンがズラリと並んでいる。我々が日常食べている黒パンはひどいものだ。まるで比べものにならない。どこのスーパーにも並んでいる食パンと何等変らないがスライスしないでそのままだ。一斤買って帰る。かぶりつく、実に旨い。忽ちの中に一斤平らげてしまった。作業に出されないから帰国も本当なのかも知れない。又あくる日もマガヂンへ行く。又白パンを買った。中をキョロキョロ見ているとアメ玉があった。目方を計って賣ってくれる。煙草も不足しているので買う事にした。我々に支給される煙草はキザミ煙草で新聞紙などを切って巻いて吸う。店に並べてあるのは全部巻煙草で両切煙草とパピロスと2種類ある。パピロスとは吸口付煙草の意味で吸口がうんと長い。寒い地方であるだけに厚い。手袋をしても吸える様に作られている。私は両切5箱とパピロスを2箱買った。パピロス2箱は大事に家迄持って帰り煙草好きの父に上げたら大変喜ばれたものである。煙草だけは自由に持って帰る事が出来た。
 午后になってソ聯兵がやって来て5、6名来いと言う。言われた通りシャベルを持ってついて行く。しばらく歩いて行くと小高い所に墓地があった。墓地と言っても土が盛ってあるだけの粗末なものだった。見ると風雪にたたかれて土がひどくくずれ落ちている。ソ聯兵は第6分所で死んだ日本人の墓だと言う。仲間の墓だと言うのでていねいに土を盛り補修をする。その中に割と新しい墓があった。ソ聯兵は何でもよく知っていた。その墓の主の部隊は半月程前に帰国の為第6分所を出発していると言う事だった。するとその人は帰国の1ヶ月に死んだ事になる。ソ聯兵の言うには炭坑作業中トロッコにはさまれ死亡したと言う。我々は話を聞いて目頭が熱くなった。帰国を目前に死んで行ったこの兵隊。さぞ無念であったろう。我々は持っていたアメ玉を供え静かに手を合わせた。ここに眠る亡くなった人達を残して帰国しようとしている自分達。申し訳ない気持でいっぱいだった。
 ラーゲルへ帰ると何となくあわただしい空気につつまれていた。聞いて見ると帰国の為の梯団編成だと言う。夕方迄に1500名の梯団が編成された。この編成で集結地のナホトカ迄行くのである。弾む心を抑えつつその夜も明けた。朝食后にすぐ整列する。9月2日、日本では未だ残暑がきびしい時期であろうがここはもう日本の晩秋と変りない。草はとっくに枯れ霜が真白に降りている。梯団はカラガンダの駅に向って出発した。足どりも軽いカラガンダの駅に着くとすでに引込線に列車は入っていた。列車と言っても貨物列車だ。各貨車に人員が割当られる。ナホトカ迄仲良くつき合って行かなければならない。乗って見て驚いた。4年前チタから西ヘ送られて来た時と大変な違いだ。あの時はガッチリと戸は閉められカギまでかけられていたのだった。今度の場合は二枚共戸は開っぱなしで人が落ちない様に太い角材がくくり付けてある。更に驚いたのはソ聯兵の少ない事だ。自動小銃こそ持っているが前后に数える程しか見えない。もっとも帰国するのに逃げる奴も居ないだろう。やがて列車はカラガンダを出発した。
 ここで書き忘れた事があるので書き残しておき度い思う。シベリア抑留者と言うと一つのものに思われ勝ちである。ソ聯側はこれをはっきり二つに分けていた。戦后関東軍は部隊そのままソ聯兵に連行された。ソ聯はこれを軍事俘虜として扱った。抑留者は違う。軍事俘虜の前職はあく迄軍人だが抑留者の前職はさまざまだ。警察官も居れば私の様に軍属も居る。鉄路警護隊、又反ソ行為を問われて連行された民間人も居る。中国人も居れば朝鮮人、モンゴル人も居た。いずれも日本軍に協力したと言う事だろう。また抑留者の中に特務機関に勤務して居た人達も混じって居たのである。特務機関とは、当時の人であれば誰でも知っている。これは諜報活動を業とした機関でソ聯のもっとも憎んでいた機関である。特務機関を前職にもつ人は、前職をごまかし、本名も名乗らない。一緒に生活をしていても我々にも全然わからなかった。それが、何時の間にか一人二人と姿を消していった。そして二度と我々の所へは帰って来なかった。我々には何故突然に居なくなってしまったのか全然わからなかったのである。しばらくして情報が入って来た。同じ日本人による密告で前職がバレて連行されたのだ。それを聞いた時腹わたが煮えくり返った。同じ日本人でもこんな情けない奴も居るのだ。連行された人違いは恐らく刑を受け囚人ラーゲルへ送られてしまったのであろう。本当に気の毒な人違いであった。我々抑留者はこの様な複雑な前職を持った集団なのである。ソ聯側は我々を危険分子として見ているわけで我々抑留者には一人一人に調書がついている。どこへ移動しても調書がついてまわる。ナホトカ迄もついて来るのだ。軍事俘虜との違いはそこら辺にある。軍事俘虜には調書はない。今度の俤団の編成にも抑留者だけで編成されている。これが後にナホトカに着いてから影響が現れて来るのであった。
 さて、カラガンダを出発してから3日目、ペトロパブロスクに着く。ここは鉄道の分岐点でここからシベリヤ本線に入る。ここはもうカザフスタンではない。この辺迄来るとあちらこちらに木立が見えて来る。カザフスタンには一本の木立が無かった。列車はまる一日止っている事もあるが走り始めると日中3回位しか止らない。給炭給水で止るのだが我々はその時用便をする。まわりが広い草原なので場所に不足はない。やがて列車はオムスクに着く。街中に小川が流れ落ち着いたいかにもロシア風な街だ。私はその時風景を見ながら一句ひねったが忘れてしまった。列車は走る。もう何日たったろうか。左手にバイカル湖が見えて来た。世界一深い淡水湖と言われている大きな湖だ。その辺りを列車が走るが半日走っても未だバイカル湖が見える。その近くにイルクーツクと言う大きな街がある。我々はそこで降りた。シャワーを使わせてくれるらしい。一寸こぎれいな建物に入ると全部シャワー室になっている。小さく区切ってあるがその中に一基づつシャワーがある。ゆっくりとシャワーをあびさっぱりして外に出る。そして又出発する。
 もうすでに沿海州に入っているのであろうか。ある小さな駅で止った。何時もの通り用便に降りる。終って乗車しようとすると大勢の人が貨車のそばへ寄って来た。各貨車の前に集まり何かをねだっている。ソ聯兵が追い払って見るが逃げようとしない。我々の貨車の所へも来たので、君達は何者だと聞いた。彼等はチェチェンだと答えた。チェチェンはずっと西の方の国の筈だ。何故シベリアに居るのかと聞いたら、第2次世界大戦の時我々はドイツに味方した。その為戦后シベリアに送られひどい生活を強いられているのだと言う。私のそばに小さい男の子が来た。身なりは汚いが可愛い子だ。小さい声でダイチェ カレンダッシ(鉛筆が欲しい)と言って手を出した。ポケットに鉛筆の使いかけが2本入っていたので1本やると喜んで帰って行った。私はチェチェンについては何も知らないが今のロシアとチェチェンの関係など見るとチェチェンの民族性が少しはわかる様な気がする。
 又何日か走る。やがて列車はハバロフスクにすべり込んだ。白っぽい駅舎にミドリ色の文字でハバロフスクと書いてあった様に記憶している。ナホトカ迄どの位あるだろうか。それ程日数はかからなかった様に思う。とにかくやっと目的地であるナホトカに着いた。まる1日停車の日も幾日かあったが私の記憶に残っているのは19日半日でいかに広い国であるかがわかると思う。ナホトカと言う所は以前は名も知られていない小さな漁村であったらしい。それが日本人の復員業務が始まって急激に発展した所らしい。ここはラーゲルが4ヶ所ある。第1、第2、第4が一般ラーゲルで第3ラーゲルは税関の様な役目を果す所で帰る時は身辺の検査等で通過するだけだ。第3ラーゲルに入れば間違いなく乗船出来る。我々は何故か第4ラーゲルに入れられてしまった。ここで約1ヶ月すごす事になる。この第4ラーゲルの日課は軽作業と共産主義教育の毎日である。毎日の様に奥地の方から集結地に梯団が着く。そして1週間もすれば第3ラーゲルへ移って行く。何故我々だけ帰れないのか。情報によれば、我々は病院船で帰すのだそうだ。何故病人でもない我々が病院船に乗らなければならないのか。こんな時いろいろなウワサがとぶものだ。それによれば我々民間人まで抑留するのは国際法の違反だ。その為に抑留者梯団を病人に仕立てて帰すのだと言う。カムフラージュだと言いたいのであろうがその真実は知らぬ。軍事俘虜の人達は全部日本の貨物船で帰って行く。前に復員の時に影響が現われると言ったのはこの事だった。
 長い1ヶ月もすぎソ聯側より病院船入港の知らせが入った。待ちに待っていた我々はとび上って喜んだ。第3ラーゲルできびしい検査を受ける。やがて全員が検査を終り衛門前に整列する。我々を送る赤旗が何本もひるがえっている。やがて出発。しばらく平坦な道を行く。小高い丘が見える。あの向うがナホトカ港だ。丘の頂上に出ると、眼下にナホトカ港が一望出来る。見れば高砂丸がその巨体を横たえている。赤十字のマークもあざやかだ。桟橋に着く。タラップを上る。役人であろうか背広を着た人が数人我々に、長い間御苦労様でしたと言葉をかけてくれた。看護婦さんもチラホラ見える。船室に入り居住区を割当られる。病院船だけあって全部畳が敷いてある。やがて夕食となった。白米の飯と味噌汁だ。何年ぶりの味噌汁の味だろうか。やっぱり私は日本人だったんだなあとしみじみ思った。開放感からかその夜はぐっすり眠る事が出来た。あくる日あまりにたいくつなので甲板へ出て見た。どちらを見ても海ばかりで島影も見えない。日本海の荒波と言うがさすがに波が荒い。6年前満洲に渡る時は小さい船でひどい目に逢ったが高砂丸は一万トンの船であるからびくともしない。明朝舞鶴港に入港するとの情報が入った。その夜が大変だった。明朝舞鶴へ着くと言うので誰も寝る奴はいない。唄う者、踊る者みんな気狂いの様にさわいだ。私も全然寝る事が出来なかった。うつろな目をして横たわっていると誰かが大声で、オーイ日本だぞ!!とさけんだ。もうすでに夜が明けていたある。みんな甲板にかけ上った。高砂丸は静かに舞鶴湾に入りつつあった。6年ぶりに見る日本の山々、夢にまで見た故国。私は思わずあふれ出る涙に生きて帰れた喜びを深くかみしめるのであった。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


私の終戦(むさし台・中島時次)

2008年09月14日 | 戦争体験

 私が終戦を迎えたのは、918部隊である。部隊と言っても軍隊ではなく陸軍の兵器廠で我々はそこで働く陸軍々属であった。昭和19年(1944)、今の年で14才で志願したので終戦の年は15才である。
 昭和20年(1945)終戦の年、当時我々には未だ敗れるなんて事は考えられなかった。内地と音信不通となったり現地の新聞で広島の新型爆弾投下も知っていたが日本が負ける筈がないと云う気持が強かったせいかさほどに戦局の悪化を感じなかった。但し米軍機が飛来するに及んで信ぜざるを得なくなった。中国成都に基地を持つ在支米空軍は満洲各地も爆撃する様になったのである。我々文官屯から近い奉天鉄西区の工場地帯はこっぴどくやられた。その時に部隊上空へ現れたのである。空襲警報と同時に敵機上空!!である。我々は急いで外に出てタコツボにとび込んだ。当時は工場のまわりにタコツボが無数に掘られていた。上空には飛行雲と爆音だけで機影は見えない。かなり高々度の様である。ゆっくりと旋回しながら降下して来る。4発の大型の機影がはっきりするとすかさず文官屯高射砲陣地が火ぶたを切った。見る間にB29編隊のまわりに弾幕がひろがる。当らないものだ。彼等は編隊もくずさず落ち着いたものであった。但しそのあとびっくりする事がおこった。直撃弾である。高射砲弾がまともに機体に命中し機体はバラバラとなり機片がヒラヒラと満人の方へ落ちて行った。
 高射砲が小止みになると北陵飛行場から戦闘機が舞上りB29に向って行く。但しなかなか追いつけない。歯がゆい位だった。戦闘機より速い爆撃機などある筈がないとその時は思った。でもB29は高度9000mで時速574kmのスピードを持っている事を知りびっくりさせられた。やがて激しい空中戦も終りB29も去った。
 この頃我々の工場など満洲国内の工業・商業校の男生徒や女学生までも動員され兵器生産に協力させられていた。我々の工場は刃・工・検器具の生産が主であったがその頃にはハ-13甲と言う航空機部品に切替えられていた。そして8月に入ると国籍不明の飛行機の飛来とかいろいろな不吉なうわさが流れる様になった。その実ソ聯軍は戦車部隊を先頭に満洲国内に進攻を開始していたのである。
 やがて8月15日となった。運命の日である。我々は平常通り機械についていた。正午近くであったろうか全員集合がかかった。何か重大放送があると言う。やがて現場事務所からラヂオ放送が始まったが雑音ばかりでさっぱりわからない。そのあと工場長の泣き乍らの話によって我々は敗戦を知った。思はずその場へヘタヘタとすわり込んでしまった。それから今后は平和産業に切り替え云々の話もあったが誰一人機械に取りつく者は居なかった。否その後も再び工場へ足をふみ入れる事はなかったのである。
 戦后についても今となっては本当に断片的にしか記憶にないがいくつかを拾って見よう。ソ聯軍の進駐は速かった。小部隊ではあったが我々の部隊にも進駐、第1製造所本館に本部を置いた。正門には歩哨が立ち出入りをきびしく検問した。始めてソ聯兵を見た私は自動小銃を持ったゴリラに見えた。日本人に対してあまり敵愾心を持っている様子もなく割合人なつこいのにはびっくりした。
 それからはソ聯軍の命令で武装解除となる。8月下旬頃であったと思う。ソ聯軍と交戦すべく北上中であった63師団も我々の部隊で武装解除された。63師団の部隊の中に松山町出身の兵隊が居た。松本と言う兵長でなつかしく話をしたものであった。その人に新品の軍靴を貰った。私が復員后尋ねて来てくれた。なつかしい想い出である。ソ聯側の命令で工作機械を全部木枠の箱にして引込線迄運び出せと言うので我々もかり出された。戦車のうしろに太いワイヤーをつけ厚い鉄板に結びつけその上に機械をのせて引きづって行くのである。その音のうるさい事。軽戦車に乗せて貰うのもそれが最后だった。戦車と言えば私は始めてソ聯の戦車を見た。T34かT35かわからないがそのでかいのに驚かされた。
 余談になるが一寸戦車に触れて見よう。我々の属していた第1製造所は主として戦車関係の仕事をしていた。その関係で軽装甲、95式軽戦車、97式中戦車等はよく見ていたし乗せても貰った。ソ聯戦車に比べれば日本のはまるでオモチャだ。前面装甲の厚さにしても戦車砲にしても大人と子供である。南方戦線でアメリカのM4戦車に歯が立たなかったのと同じである。T34に日本の速射砲がはね返された話は本当だろう。
 大分横道にそれた。戦后は毎日がソ聯軍の使役であった。ある時ゴミの山の片付けをさせられた。ソ聯将校が一人ついていた。あまり馬鹿らしいので仲間の橋本とコソコソと逃げ出した。ところがすぐ見付かってしまった。いきなりピストルを発射した。頭の上をビューンと来たので二人共しゃがみ込んでしまった。スゴスゴと帰るとイヤと言う程どつかれた。
 いつ頃からか外棚を破り満人が残った武器とか物資を持ち去る事件がふえてきた。そこで先ず外棚の修理から始まり其の后各所に警備に立つ様になったのである。広い部隊故その数は数え切れない程あったのではないだろうか。私が書いているのは部隊内のほんの一部の行動でしかない。
 我々が初めて警備に行ったのは部隊で使用していた水源地である。いくら負けたとは言え、部隊内には何千人の日本人がいる。その大事な水を確保しなければならない。何名位で行ったかあまり記憶にないが、たしか15、16人しか居なかった様に思う。警備とは名ばかりで木銃の先に槍の様なものをつけたのを持っているだけだ。心細い事この上ない。この時期になると日本軍の武器を手に入れたわけのわからん武装集団が各地にウヨウヨしていたのである。
 この水源地は柳條湖と言う所で我々の文官屯から奉天に行く途中である。満洲事変の引き金となった柳條湖鉄道爆破事件はあまりにも有名である。その場所に高く白い表忠塔が立っていた。又すぐその近くに張学良の兵舎跡がある。建物こそないがその区画は歴然としていた。かたわらに小さな記念館があり、入口に戦利品と思われる大砲が置いてある。中へ入ると銃弾で穴の開いた背のうとか、日本軍の血染めの軍服などが有りほかに大小の銃火器が展示されてあった。この辺一帯が満洲事変の戦場であった事を示すミニチュアがある。その中にレンガを焼くかまどが各所にある。記念館の近くに点在するかまどを見ても事変当時から有った事を物語る。
 満洲事変が起った日、それは昭和6年(1931)9月18日、我々の部隊名918もこれに由来する。何れにしてもこのあたりは、日露戦争、満洲事変の戦場であった事は事実だ。我々が警備の間何事もなかったのは幸運であったと思う。
 その次の警備は火薬庫であった。我々悪ガキにとってここの警備は危険な反面大変面白かった。場所は第二製造所の片隅で隊内では一番はずれにある。第二製造所は主として火薬、軍刀類を作っていた。火薬庫はコの字型に土盛りがしてありその中に火薬庫の建物がある。何ヶ所位あったか失念してしまったがもし外敵に火薬や弾薬等をぬすまれたりすると大変な事になる。一番治安が乱れている時期でもあるので我々の責任は重大であった。それをたった10名でやれと言う。5名づつ交代で警備する。丁度角になっている所に円筒形の鉄筋コンクリートで出来たトーチカがある。トーチカの中に2名、あとは外棚の動哨である。武器はと言えば相変らず木銃が数本だが幸いここには38銃が1丁あった。弾丸は火薬庫だからいくらでもある。実弾と空砲を箱のままトーチカの中へ運び込んだ。ソ聯兵の居る場所ははるか遠いし、当時はそこら中で銃声がしていたので少し位の銃声はもうなれっこになっていた。トーチカのはるか彼方にサンチャーズがある。その辺でも何が起っているのか散発的な銃声が聞える。交代前仲間と二人でガランとした倉庫の中をキョロキョロしていると木箱に入った軍刀を見付けた。一度は吊ってみたかったあこがれの軍刀である。二匹の悪ガキは一本を腰に差し一本を背中にしよった。そんなものでも持つと大変心強い。更に火薬庫の中から木箱に20本づつ入っている。柄付の手榴弾を持ち出した。ほかに武器がないのでもしもの場合はこれを使う事にした。やがて立哨交代となる。背中に軍刀、腰に手榴弾を4発、何ともすごいかっこうで部署につく。
 昼間は平凡すぎてあきて仕方がない。草むらに向って手榴弾を投げて見ようと思い、柄についているブリキ製のふたを開ける。中からひもにつながった丸い金具が出て来た。日本軍が使った手榴弾とはまるっきり違った代物だ。金具に中指を入れ投げる。ガバとふせる。何事もない。不発弾だ。金具に指を入れて投げるとマッチ式に点火され破裂するものは柄からシューツと火を吹いて行く。そしてひもと金具が指に残るわけだ。一箱の中半分は不発だった。破裂するとギーンと金属性のすさまじい音がする。あまり不発弾がたまったのでそれを木箱に入れ、遠くの方へ置きトーチカから射つ事にした。みんな下手くそだからちっとも当らない。その中数うちや当るで、その中の一発が当った。ドカーンと言う大砲の弾丸でも落ちた様だった。警備長がたまげて飛んで来て、あまりハデにやるなとおこられたので、しばらく鳴りをひそめる事にした。悪ガキ共はろくな事は仕でかさない。
 又交代し、今度は夜の警備となる。前の警備班の申し送りでは夜になって数回何者かが復数で侵入を試みたそうだ。実砲をぶっ放して追い払ったそうだ。私ともう一人トーチカに入り小銃を銃眼からつき出して待つ。他の3名は手榴弾を4発づつ持って外棚をまわる。何者も近づく様子もないのであきてしまった。やたらと空砲をぶっ放す。何も来ないのに草むらに向って手榴弾を投げる奴もいる。とにかくそうぞうしい夜が明け交代となった。あれからどうなったのか記憶にない。
 やがて秋風も立ち始める頃今度は官舎地帯の警備となった。ここは文官屯から奉天に至る重要な道路に面した官舎地帯で1km程向うに連京線が通っている。とにかく住宅地なので婦女子が沢山いる。もし外敵が侵入すれば大変な事になる。責任重大だ。この時も10名か15名位で警備についた様に思う。三交代位だったろう。丁度官舎のはずれが角になっていてそこにトーチカがある。火薬庫の時と同じ円筒形のトーチカだ。
 ある時大変な事が起きた。その前に奉天に東北大学と言うのがあった。戦后ソ聯に送られる日本兵の一時的な収容所になっていた。そこから毎日の様に長い列車で兵隊がソ聯へ送られて行ったのである。我々が警備に立った時、それは多分午后であったろうと思う。私はトーチカの中から前方を見ていた。折からシベリア送りの列車が通りかかった。貨車と貨車の間に臨時の哨所が設けられそこに自動小銃を持ったソ連兵が乗っている。我々の正面よりやや右に寄ったあたりがゆるいカーブになっており列車のスピードが多少落ちる。丁度そのあたりに列車が差しかかった時何やら白っぽいものがとび出した。みんな見て居たらしく、あっ脱走だ!!とさけんだ。間もなく列車が止り数名のソ聯兵が自動小銃を射ちながら追いかけて来た。あとは背の高い草むらで何が起きているのか見る事が出来ない。もしつかまっていれば助からないだろう。どの位の時間がすぎたであろうか。ソ聯兵も去り列車が動き出した。心配してもどうにもならない。やがて交代となった。
 それからしばらくして警備長がみんなを集めた。警備長は言った。「先程の件であるがあの兵はおそらく殺されているだろう。あのままほって置くわけにはいかん。埋葬するから非番の者はスコップを持って集れ」と言う事で我々数名で現地へ向った。現地とは言っても路線に沿って雑草が背丈程も生いしげり、何処かさっぱりわからない。探し廻る事しばしそのうち仲間の西川と言う奴が突然ウワーッとものすごい声を上げた。とんで行って見るとそこには目も当てられない光景があった。こんな恐ろしい光景は見た事もない。頭は割られ、血とも脳ミソともわからぬものが頭の上にたまりそこに銀バエがブンブンしていた。目はつぶれ鼻の形もない程グシャグシャになっていた。我々は恐ろしさに声も出なかった。見ると太ももに二発弾丸が貫通している。おそらく足をやられ動けなくなった所をメッタ打ちにされて殺されたものであろう。とにかくすぐわきに穴を掘り埋葬した。土を盛った上にかたわらに咲く白い野菊をたむけ手を合わせた。恐ろしさに走って詰所に帰った。
 やがて夕食となったがあのむごたらしい情景が目にやきついてとても食べる気にならなかった。夜になって再び警備に立つ。ついあの方角を見てしまう。真暗だが何となく無気味だった。やがて朝になり警備交代となり自分の部屋へ帰った。ゴロリと横になって目をつむる。毎日の様にソ聯へ送られる人達、極寒のシベリアでどんな苦しみが待っているだろうか。それから数ヶ月後、私自身がシベリアへ送られる運命になろうとは……。あの非業な死をとげた兵隊。埋葬した場所を知っているのはあの時の我々数名だけではなかろうか。とすれば四十数年たった今でもあの兵隊はあの場所で人知れずひっそりとねむっておられるのではないだろうか。心からご冥福を祈りつつこの手記を閉じたいと思う。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


蝉の鳴声が印象的であった(越畑・福島 和) 1975年

2008年07月29日 | 戦争体験

 連日連夜の空襲警報で肉体的に特に精神的にくたくたと綿のようにつかれた体を、あの夜もすぐ飛び出せるようにズボンをはいたまま、巻脚絆を巻きつけたまま、うとうとするうち空襲警報のサイレンの断続的なウウーウウーウーに、ああ、またかと云うようなすてばちな気持のうちに、ねぼけまなこで反射的に飛び起きる(当時は夜は電灯を全部、布でおおいをして真下でないと本も読めなかった)。灯を消してあるのだが暗さには目は、なれていた。身支度を整えながらラジオに耳をそばだてる。 当時はラジオの性能は敵に電波をキャッチされないようにとかで厳しい電波管制がしかれていて音、感度も最悪でブツブツといったような雑音の中に「ガー東部軍管区情報、東部軍管区情報、敵B29何機は……」と聞き終わらぬうちに何時もとは違ったあわただしい雰囲気の中にドドドドーンという爆発音と共にあたり一面が急に真昼のように明るくなった。 急いで家の北側の防空壕(どこの家でも当時は必ず一つは防空壕を掘らされ、この中にちょっとした衣服や非常食糧を入れてあった)に飛び込む。それ迄は一度も壕に入らず遠くの空襲で燃えている光景を近所の人々と共になんだかんだと噂しながら眺めていたが……。続けざまにゴーッというものすごい爆音と共に(多分B29が相当低空から爆撃したのだろう)、壕のわきに作付けてあった唐もろこしがザザザーッと横になびく。雨が降っていたような気がしたが、急にガソリンの匂いが強く感じられる。真昼の如く青白く、そしてゆっくりとあたりを照らしながら落ちてくる閃光弾。三〇乃至五〇平方米に一本位づつと考えられる。油脂焼夷弾が次から次と落下し、家々の屋根をつきやぶり、丁度床の上で止まり、またたく間に、燃え拡がる。当時私は敵の心神経戦略であると知らされていた。連日の本土襲来にすっかり神経が疲れ果てて(襲来する時間は人々が丁度寝込む一〇時頃あたりから)、すべての感じ方がなんとなくにぶくなってしまったのか、しばらくの間、身の危険も考えず燃え広がる光景を見まわしていた。 その中に家の南へ二軒目の家だったと記憶するがガラス戸越しに床のまん中に焼夷弾が一本、それこそ発煙筒のようにもえ始めているのを発見。家の前に積んであった砂袋をいくつか投げつけてみたが効果がなく、バケツで水をかけて見たが全然消えるどころか、ますます火勢は強まるばかり(当時は隣組、班単位で防空演習が毎日の如く行われていたが、若い男は勿論、男という男はほとんど見ることはまれであった。今回は前の○○さん、次の日は横の誰々さん、それも体格が誰が見てもとうてい兵隊さんにはなれないと思われる人にも召集令状が来て日本の窮状をまのあたりに見る状態であった。故に女、子供で主に行われた。時たま憲兵が視察に来て何かと注意していた。又毎戸強制的に貯水槽、バケツ、砂袋を備え置くことが義務づけられていた)。そのうちに家の人の呼び声で初めて危機感を憶え、布団をかぶり、有明荘の裏、桐の木のそばの壕に避難した。 その時に雨がふっていたのか?服と布団のぬれていたのが避難する途中、まわりの焼ける熱で乾いていた。又有明荘のわきで若い女の人三、四人バケツで一生懸命ハシゴを使い、チョロ、チョロもえ始めていた火を消していたのが思い出される。壕の所は、表通りから約五、六〇メートル離れた処で、ついたとたん左足がづぶりと土の中へ、とたんに「あゝっ」声が下から聞えた。壕のそばには一二、三人位だと記憶する。 又多分弁天町あたりの人だと思うが、子供の「母ちゃんがいないよう、いないよう」と泣きわめきながらもえさかる方へ行こうとするのを「大丈夫!後でみつかるよう!必ず見つかるよう!」と無理に引き止めていた声が今も耳にこびりついて離れない。 それと現在の八木橋の右よりあたりと記憶するが、まるで仕掛花火のようにくっきりと鮮明に屋根の形もそのままにすべて骨だけが赤く燃えさかり、ものすごくきれいであったことが眼の底に焼きついていて忘れられない。悪夢のような一夜もこれ以外のことは全然記憶にのこっていない。 八月十五日、あの日は昨夜の出来事をまるですっかり忘れたかのように晴れ渡った。そして真夏の太陽がじりじりと照りつけあたり一面すっかり焼け野原と化し、鎌倉町から熊谷駅の一部が良くみえ、そしてガチャンポンプだけがニョキッと取残され、これからはき出た水の冷たくうまかったこと。家の裏にある桐の木にどこから来たか蝉が我が世とばかりミンミンと鳴いていたのが印象的であった。 正午過ぎ、誰とはなしに陛下の玉音放送で戦争が終った。アメリカ軍がやって来て皆殺しにされてしまう筈のデマが伝わったが、何かほっとした気分であった。 艦載機P51一機がものすごく低空で飛んできて飛行帽をかぶったアメリカ兵の姿がはっきり見えたのを茫然と見送ったのを憶えている。 数日後荒川へ行ってみると、五、六平方米に一本ぐらいづつ焼夷弾の、又わけのわからぬ金属の破片があたり一面に散らばっていた。これらを町の中にまともにうければおそらく熊谷市も全滅であったに違いないと思った。自転車のパンクをはるのに油脂焼夷弾の生ゴムをひろって来るのだといっては、危険をおかして拾いに行った人もいた。 あれから三〇年、整然と区画整理され近代的なビルの立ち並ぶ大都市熊谷から戦災の姿を見出すことはむづかしいが、これまで断片的に思い出すままに綴って来た戦災の体験を我が子、現代の人々にとっていくらかなりとも参考になり、再びこのような悲惨な歴史をくり返さないよう御役にたてば幸いである。
 
熊谷市文化連合発行『市民のつづる熊谷戦災の記録』(1975年8月刊)316頁~318頁より作成。筆者は1928年生まれ。当時、熊谷市鎌倉町四丁目在住。1945年(昭和20)3月、熊谷商業を卒業、東京製綱(株)熊谷工場の試験部に勤務していた。


君の名は(越畑・福島和) 2005年

2008年07月29日 | 戦争体験

「忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」 懐かしい連続ドラマ「君の名は」の冒頭のナレーションである。 敗戦色濃厚の昭和20年(1945)6月頃、私が勤務して間もない軍需工場、東京製綱(株)熊谷工場の試験部(現在の熊谷商業高校や広瀬住宅団地)にも、学徒勤労動員された熊谷桜雲女学校の生徒さんがワイヤーロープなどの試験業務に従事されていた。ある日、空襲警報と同時に、アメリカの小型戦闘機P51により突然機銃掃射を受けたことがあった。ダダダーンと耳をつんざくような激しい銃声に防空壕に逃げ込む間もなく、皆、工場の片隅に防空頭巾で耳をふさぎ、互に身を寄せ合い恐怖におののいていた。 しばらくして銃声が止み爆音が遠のくと、ほっとして我にかえり、生徒をかばっていた手をはなした。ほんのりとほほを紅(あか)らめ、そしてにこっと微笑(ほほえ)んだその清純な顔、今も忘れられない。激動の青春時代を過ごさざるを得なかったあの生徒さん達は、その後、幸せな人生を送っているのだろうか。 なんだか、「君の名は」のストーリーがだぶっているような我が人生。忘れ得ないでこれからも有意義な日々を送っていこうと心がけている毎日である。(参考)右の工場は軍事秘密保持のために「皇國四五九三工場」とされていた。                                                               
     熊谷商業卒業写真(1945年3月28日)

  『朝日新聞』声欄に投稿(平成16年11月24日)した原稿を平成17年(2005)7月24日に改稿。筆者は1928年生まれ。当時、熊谷市鎌倉町四丁目在住。1945年(昭和20)3月、埼玉県熊谷商業学校第23回卒業(甲種第6回4年制)。東京製綱(株)熊谷工場の試験部に勤務していた。


私の軍隊日記(勝田・伍長・田中隆次)

2008年07月28日 | 戦争体験

  「は号研究」班
 昭和十五年(1940)三月一日、千葉県市川市国府台の独立工兵第二十五聯隊に現役兵として入隊、この中隊は電気中隊で一万ボルトの発電車を持ち前線基地に電流鉄条網の敷設或は破壊された市街等の電気設備の復旧等前線に於ける電気設備一切の作業に従事する部隊であり、第三中隊は写真中隊で主として航空機による撮影写真を地図に作る作業に従事する部隊であります。私の入隊しました第二中隊は作井中隊で前線或は駐留地区に於けるボーリングに依る部隊用水の確保が主でありましたが国際情勢風雲急を告げる昭和十五年夏、即ち私の入隊した年に於て参謀本部より機密指令として「は号研究」を下命され、これに基づいて訓練が行はれた訳であります。この「は号研究」とは、東南アジアに於ける石油資源の確保及びこれに附帯する諸施設に関する研究であります。今少し具体的に申しますと、当時蘭領印度支那(今のインドネシア)には年間約三〇〇〇万屯、又その他の地区に約二〇〇〇万屯の石油資源が産出されて居り日本の軍部がこの資源を対象として研究を命じたものであります。斯く私達の部隊で、幹部以下全員が何等かの技術を持った者で構成され我々はその第一回目の初年兵として教育を受け、特に内務班の教育を受け、特に内務班の教育に就ては他の部隊とは比較にならぬ程に峻厳を極め、又専門教育も非常に多く我々初年兵は戸惑うばかりでした。
   流れも清き江戸川の富士が嶺仰ぐ台の上
   秀麗の地に皇軍の重き使命を但いつつ
   科学の粋を集めきて生れ出でたる吾が部隊
 部隊歌に唄はれて居る様に、東京の街を越えて富士を眺む国府台の地に初年兵として、そして教育隊員として、或は教育掛班長として満三ヶ年を経過致しました。その間、小川町日赤病院、大宮市日赤病院、参謀本部、陸軍省、茨城県勝田の日立製作所等関東全域に亘り重要施設の作井、又静岡の相良油田、新潟の新発田油田、千葉の茂原天然ガス油田等に於て石油資源の研究実習を重ねた次第であります。

  パレンバンの生活
 昭和十八年(1943)三月一日補充兵五十四名と共に野戦作井第五中隊に転属を命ぜられ広島宇品港を出航、台湾、シンガポールを経て四月十二日スマトラ島パレンバンの任地に到着、戦地に第一歩を印しました。このパレンバンには精油所が二ケ所有りまして私の部隊のおりましたKPM精油所は開戦間もなく落下傘降下で有名であり、私の部隊も当時ムシ河より敵前上陸を敢行しこの地区を占領した部隊でありました。一辺十粁以上もある整然と区画された広大な地域に精溜塔を始め諸設備、貯汕タンク等が無数に並び大した戦禍も受けずに占有されており偉観を誇っておりました。この地に於ける生活は誠に快適であり、食料を始め全ての物資が豊かであり、敵の攻撃もなく我々はひたすら石油の生産に励げんでおりました。ただ私の任務は一日一万余の出入者のあるこの広大な地域の衛兵であり盗難、謀略等には細心の注意を要し、非常に神経を使った訳であります。

  チモール島の採油作業
 昭和十八年(1943)七月中隊より選抜された我々六十三名は採油隊を編成し濠北派遣軍の直属部隊としてジャワ島を経て小スンダ列島の最東端にあるチモール島に於ける採油作業及び油田開発を命ぜられ、その任に着く事になりました。このチモール島とは濠州大陸の北端より約六〇〇粁の地点にあり東西約五〇〇粁、南北約一〇〇粁の細長い島で南緯十二度の線上にあり日本軍進駐の最南端に位置し所謂最前線だった訳であります。全島珊瑚礁で出来、これと云った産物もなく当時の人口二〇万足らずの土着民が居住しておりました。この土人達の生活の一端を申しのべて見ますと、衣類は男女共ほとんど裸で褌一枚と云う程度、地質の関係上水が少く従って体、頭髪、顔等は洗う事はありません。食料はとうもろこしのお粥を一日二食少量づつ、その他山の芋少々程度。住居は竹の柱に茅の屋根、部屋の間支切りはアンペラ一枚、床は竹の割ったもの。普通は土間に寝起きするのがほとんど。文字、絵等は知らない者が大部分で、村、区等の行政の制度は有りますが全部土候の専制支配下に置かれており先づ世界最低の生活程度であったろうと思はれます。島を離れる迄の丸二年間の我々の生活も、これらの者達を使って居った関係上似たり寄ったりであった訳であります。
 このチモール島に到着したのが七月二十五日夕刻、我々の下船を待たず爆撃機十数機による歓迎の御挨拶、命からがら上陸、我々の乗って来た五千余屯の船はその場に沈没され、斯くしてこれから満二ヶ年間は朝に、昼に又夜に毎日欠かす事のない爆撃の連続を見舞はれる次第となった訳であります。

  爆撃で足を負傷
 確か九月初旬の或る夕刻、船の到着により資材揚陸のため、クーパンの港は兵員、土人等五百人程で相当混雑しておりました。然も揚陸作業は夜間のため仲々に捗らず、敵の爆撃機がこれを見のがす訳はありません。早速十数機によるお見舞です。兵員の行方不明者続出、折角の荷揚げ物資も粉々と散り、火の海と化し、我々はこれが消火作業に懸命となっておりました。敵は波状爆撃を繰返して来ます。その間約六時間、延べ六、七十機は来たであろうと思はれます。至近距離に爆弾の落下する事数回、我々は夢中で働きました。東が明るくなる午前四時過ぎ敵機も去り、我々も部隊員掌握のため集合致しました。「分隊長、足を如何しました」、云はれて左足を見ると軍袴も袴下も巻脚胖も股から下はぐっしょりと真赤にぬれ膝の上が二〇糎程破れ、肉がパックリと口を開けておるではありませんか、私は少しも知らなかったが爆弾の破片による動脈切断だったのです。その後爆風による気絶三回、防空壕の中に生埋め二回延べ被爆八〇〇回程は有ったろうと思はれます。

  斬り込み隊を編成
 任地に着いた我々は先づ精油所の開設、油井の復旧、又油田がほとんど山岳地帯で作業機が運搬不可能のため手掘りによる油井の開発、被爆による復旧作業或は全島に亘る油資源の探索等日夜を分たず採油作業に努力して参りました。昭和二十年(1945)に入るや味方の航空機は全然姿を見せず、我々採油隊と河を隔だてた向う山には敵の陣地が出現夜などは電灯の光が煌々と輝き時には濠州兵の姿も散見する事もありました。又島の周辺には敵の潜水艦が平然と浮上し、爆撃機の編隊は悠々とフィリッピン方向を目ざして飛行して行きます、時々威嚇射撃をする程度でもう爆撃は致しません。この様な情況下で食糧補給の途は断たれ、従って食料も日々少なくなり、野草、野生動物が栄養の補給源となった次第で、これにより病気も益々猛威を振い、一時は作業員三名という最悪の事態ともなり、能率も低下の一途を辿り任務の遂行も危ぶまれる結果となって参りました。四月に入るやニューギニアのビアク島に転進した中隊本部は長以下全員戦死の報も伝わり、フィリッピン戦線その他の地区の情況等も風の便りに聞え始め、幹部以下心の動揺を覆いきれないものがありました。
 昭和二十年(1945)七月十三日軍司令官の命により我々は任務を解かれ全ての採油機材を海中に沈めジャワ救援のため斬込隊を編成しチモル島を離れました。これより島伝いにジャワに向け行軍が始まりました。即ちバンタル島、ウエタル島、フロレス島、スンバワ島と島の間は小舟を利用、他は全部徒歩、然も爆撃を避けるため夜行行軍です。同じ命を受けた各部隊が入り交り蛇々と列は続きます。体力の衰えた兵員はばたばたとたおれます。終戦を聴いた九月始めには我々の部隊は私以下八名となりフロレス島に到着致しました。ここに於てオランダ軍の下に武装を解かれ収容地であるスンバワ島に向け行軍、十二月二十三日目的地であるスンバワブッサルに到着、終戦処理事務に入りました。この行軍の間、私の任務である命令受領、伝達、人事功績関係連絡事務のため行軍距離三〇〇〇粁以上に及んだものと考えられます。現在では到底考えられない行軍だった訳であります。

  紺碧の海よ南十字星よ
 斯くして昭和二十年(1945)も暮れ、この地に集結した人員は約四万、その三分の二は病人、ここに於て病気栄養失調等で斃れた者約半数近く、何時帰国出来るかも解からぬまま現地自活を余儀なくされた訳であります。
 【昭和二十一年】五月に入るや帰国の報も伝はりその準備事務のため私も選ばれ毎日の司令部通い、和、英文による留守宅名簿及び乗船名簿の調製です。就中乗船名簿は一字の訂正も許されず、通し番号で五通のコピー取りです。この仕事を八名の書記で行った訳ですが、死亡者の出る度毎に全部書き替えを要求され三万に近い人員ですので徹夜作業も幾回となく繰返される事がありました。併し我々は書類不備のため帰国出来ない人の無い事を願いつつ、薄暗いローソクの灯の下で懸命の努力を続けました。
 五月十三日乗船名簿に私の名が記される時が来たのです。一字一句も間違いのない様に書きました。五月十五日乗船、師団長以下数名を残し残留者はおりません。我々は任務を完遂しました。再び訪れる事の無かろうと思はれる南の島スンバワ島を後にしました。
 フロレス海の碧かった事、南十字星が次第に水平線に近くかくれて行った事、忘れる事の出来ない人生の一駒です。私の軍人としての任務はここに全く終りました。南冥の島々に永遠に眠る戦友達の冥福を祈りつつ筆を擱きます。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載


第二十七師団極二九〇二部隊記 長台関の悲劇(古里・兵長・田島 菊)

2008年07月28日 | 戦争体験

  南満から北支の前線へ
 中国を北から南に縦断し更に中支まで戻った時、突然思いもかけぬ終戦を迎えた、おまけに約一ヶ年半誰も外部からの通信を出すことが出来なかった。農村や職場を離れ、日夜顔を合せていた肉身とも別れて遠い異国の大陸で私達が個々に体験した事柄は私の記憶からうすれるにつれ歴史から消へ去って行くのである。その事を少しずつ思い浮かべて書いて見る事にしました。昭和十八年(1943)一月東部八連隊に入隊、下旬には釜山から京城奉天を通り北支唐山に下車こゝで約半年教育を受ける、十九年(1944)三月綿洲から少し西に当る綿西という所に二ヶ月ばかり南満とは言へ大陸の寒さは万物を凍結し尽くし零下二十度の中で毎日戦闘訓練だ。ある日訓練が終って半土窟式の兵舎についた時出動命令と云う事で緊張と多忙の日が三日程続いた。兵営の附近の民にも平常と何ら変りなく事を運ばなければならない。いよいよ出発の日だ。各隊は黙々と集結する。真夜中の十二時月の無い小雪模様の晩だった。氷点下二〇度車中には敷藁が充分入れてあって客車より楽だと思った。京漢線を南下して居るかソ満国境か、それとも支那に行くのか見当がつかなかった輸送列車からおりた場所は泌陽城外だった。さすがこの辺は満洲と違って、もう麦が四、五寸に伸びていた。久しく緑の色彩に飢えていた私達をこの上なく楽しませてくれた。故郷を思いながら露営に移った。三日ほどでまた移動命令。この辺からはもう鉄道も道路もところどころ寸断されて居る。時々銃声も聞えて来る。道傍には人間の屍体、牛車が転がって居る。中には一部白骨となって居るのもあり実に異様に感じられた。には一人前の男は先づいない。皆支那軍にとられ、日本軍の苦力にされてしまった。ただ老人子供がうずくまって行軍を見つめて居るだけ。食糧がないのか柳の木に登って若芽を食って居るのもあり馬ふんを水でこし麦を出しそれを食べて居る。本当に悲惨な土民の有様だった。後で聞いた話だとこれらはすべて餓死者、または寸前の者とわかった。

  ずぶぬれの強行軍
 一昼夜七十五粁の強行軍完全軍装をすると三十五粁位あろう。夕方出発し翌日夕方迄に宿営地につくという、毎日で五分間の休けいでも皆心身ともつかれ、所かまわずどっかとこしをおろし出発といっても背のうが重く一寸では立上がれない。ただ気力だけで、落後者も続出する。其の後二十三日すぎて、私は中隊の命令で連隊本部の計理に勤務するようになった。戦地での計理はあ宿営地につくと糧秣の分配内地からの慰問文、下給品等の分配で休むまもない。ほっとすると出発準備。いよいよこの頃になってからは通信も内地からの便りも遠ざかってしまう。なんといっても一番難関だったのは長台関である。京漢線が淮水を渡る地点が長台関である。前日夜行軍で予定より朝早くこの地点に着いて夕方迄休養し再び夜行軍で前進する筈だったところが物凄い雨にあい泥濘の通りが難渋を極め昼間一ぱい歩いて漸く夕方になってたどり着いたのだった。全員ずぶぬれのまま一昼夜歩きどうしで疲れきって居た。それでも淮河を渡れとの事情けないが己むを得ない。雨の中で一時間ばかり休んだきりで直ちに出発。鉄橋に通ずる道幅は十米位、師団の各部隊でごったがへして出発の時刻がメチャメチャになってどの部隊が先やら分らないどんどん横を通って追い抜いて行く部隊もある。真暗の中雨はザアザア降るし道いっぱいに部隊が並行して進んで行く其の内に段々先がつかえて前進できない。早く進めとどなる者もいる。前から後へ自動車部隊が前方でつまって居て前進出来ないと伝言されて来る道の両側は水田らしい、あたりは墨を流したような真の闇だ雨は相変らず衰へない。五月というのに腹の底まで冷えきって皆ガタガタふるえている。時々睡魔がおそって来て気が遠くなりそうだ。皆足ぶみを止めるな、軍歌を歌へと互にはげましあう。

  豪雨と暗黒の一夜
 天に代りて不義を撃つ、から露営の歌、歩兵の歌、愛馬進軍歌、師団、連隊、皇軍の歌等々。あとから軍歌が出るが皆疲れきってしまって、時々足下の水たまりにしゃがみ込むものが出て来た。隣の兵隊が激しくどやしつけて立たせるが自分もポーツとして生命も何もいらなくなってしまいそうだ。一時間、二時間それからどの位経ったろう、精神力も限界に達しかけて来た。遂に大隊長も意を決して田圃にはまらぬようにをさがして避難せよ。明るくなったら道路上に集合せよ。という命令が出された他の部隊との連絡が全くとれないし、その上雨にうたれじっとて居れば全員死ぬより他はない。前々日から歩きづめの疲労、二日間の徹夜、ズブぬれ、暗黒の不安、長時間の停止で実に百万の敵より恐しい事だった。然しこの豪雨と暗黒の中で民家をさがす事も容易でなかった。漸く水をかぶった畦道を見付けて田にはまらぬように家をさがしに行った。全く個人行動だ。どの位歩いたか、フト目の前の闇の中に家らしいものを感じたのでホットしてそこにとびこんだ。勿論中はまっ暗、それでも先客が何人か入っていた。マッチをぬらさずに持って来たらしく時々すってくれた。小屋は二間、三間位で小さな納屋だった。その中には馬も一頭兵隊が五、六人入っている。私が入った後からも続々とつめ込んで来て、せまい納屋の中にズブぬれの兵隊が二、三十人はいってしまった。馬が真中に居るのにその肢の下から腹の下迄人でつまってしまった。それでも後から後から入って来るが誰も断る者はなかった。ずぶぬれの身をうごかす事も来ずうつらうつらとして居るうちに、外の方が白んで来た道路上に出てみると全く目も当てられぬ悲惨な情景だった。各隊の捨てた荷物、ろ馬の屍体、それと牛の屍体少し行くと兵隊もいた。私の隊にもかえらぬ人もあった。他の中隊には相当の死者があったらしいとの事だ。私の戦友もかへって来なかった。どちらかといえば弱いほうで時々荷物を持ってやった。連日の雨で濁流が渦を巻いて居た。鉄橋の一部が敵に破壊されて自動車が渡れず、あとからあとから、たまったのだ。から身でも闇の中では渡れないはずだと思った。長台関の悲劇は陸軍の戦史でも珍らしい事だといって居た。この事は今でも時々思い出す度に身がちぢむようだ。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載