5月ももう半分以上過ぎてしまいました・・・
5日には齢仙寺の、9日には五個荘北仏教会の花祭りもありました。
遅くなりましたが今月のことばです。
今月のことばは
「随処作主(ずいしょにしゅとなる)」
です。
この後に「立処皆真(りっしょみなしんなり)」と続きます。
中国九世紀半ば、唐代の臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(りんざいぎげんぜんじ)の言葉です。
「随処(ずいしょ)」とはいたるところ、いつどこでもという意です。
「主(しゅ)と作(な)る」とは囚(とら)われの無い本来の自己であること
その結果、続く句では 居場所でそのまま真理が具現(ぐげん)し自在の働(はたら)きができるという意になります。
「主」とは決して中心人物として振る舞うことではありません。
その意味では、脇役であったとしても その人がその役に徹し切り、その人でなければできない演技を外連味(けれんみ)なく演ずれば、その人は主となっているのです。
私たちは娑婆(しゃば)に生きています。
瞬間瞬間に自分を取り巻く環境は変化し、その都度、他人の目が気になる 欲も出る 耳障(みみざわ)り 目障(めざわ)りなものに取り囲まれる どんどん思い通りにならない自分にストレスがたまる
何事にも距離をおいて関与を避けるのはどうでしょうか
これもすでに囚われであり そのこと自体に既に気を遣(つか)っています
何とか安心(あんじん)を得たいものです。
囚われのない 渦に巻き込まれない 翻弄されない それでいてイキイキと生きる自分がのぞまれる
ここのところ さあ、どうしましょうか
薫風自南来(くんぷうじなんらい)です ???
平成二十七乙未皐月
5日には齢仙寺の、9日には五個荘北仏教会の花祭りもありました。
遅くなりましたが今月のことばです。
今月のことばは
「随処作主(ずいしょにしゅとなる)」
です。
この後に「立処皆真(りっしょみなしんなり)」と続きます。
中国九世紀半ば、唐代の臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(りんざいぎげんぜんじ)の言葉です。
「随処(ずいしょ)」とはいたるところ、いつどこでもという意です。
「主(しゅ)と作(な)る」とは囚(とら)われの無い本来の自己であること
その結果、続く句では 居場所でそのまま真理が具現(ぐげん)し自在の働(はたら)きができるという意になります。
「主」とは決して中心人物として振る舞うことではありません。
その意味では、脇役であったとしても その人がその役に徹し切り、その人でなければできない演技を外連味(けれんみ)なく演ずれば、その人は主となっているのです。
私たちは娑婆(しゃば)に生きています。
瞬間瞬間に自分を取り巻く環境は変化し、その都度、他人の目が気になる 欲も出る 耳障(みみざわ)り 目障(めざわ)りなものに取り囲まれる どんどん思い通りにならない自分にストレスがたまる
何事にも距離をおいて関与を避けるのはどうでしょうか
これもすでに囚われであり そのこと自体に既に気を遣(つか)っています
何とか安心(あんじん)を得たいものです。
囚われのない 渦に巻き込まれない 翻弄されない それでいてイキイキと生きる自分がのぞまれる
ここのところ さあ、どうしましょうか
薫風自南来(くんぷうじなんらい)です ???
平成二十七乙未皐月