齢仙寺を開創した拙山惟清和尚の時代を調べてみます。
ちなみに、開創とはお寺を開くことで、開創した和尚のことを開山といいます。
齢仙寺の開創は1653(承応2)年といわれています。
江戸時代ですね。
後光明天皇、徳川家綱将軍の時代になります。
インドのタージ・マハルが完成したのも1653年のようです。
どれくらい昔でどんな時代だったのか見てみたいですよね。
さて、拙山和尚に話を戻しまして・・・
彦根に江国寺というお寺がありますが、拙山和尚は当時そこにおられました。
江国寺開山の天岫和尚とともに、彦根市笹尾町の少林寺、彦根市薩摩町の無量寺を開創されたそうです。
そして、1653(承応2)年2月のある寒い夜、観世音菩薩降臨の夢を見られました。
その夢の中で、観世音菩薩がお告げになったとのこと。
「我れ小堂に埋没し、今池中に沈む事久し、只恨らくば人の知ること無うして度生の悲願に便りなき事を、早く我れを出すべし、我が所在は西南に当り、慈雲靉靆(じうんあいたい)する所、是れなり」
翌朝、拙山和尚は取るものも取らず、西南の地を目指して中山道を上られました。
道々探し求められて、小堂に観世音菩薩が安置されていたこの地に辿りつかれたそうです。(正確には南南西になります)
現在の齢仙寺の門の前の池(鳰戸)は、地下水の湧水。寒い日には白くもやがかかったようになります。
靉靆とは雲や霞などがたなびいていること、とても神秘的な光景だったのではないでしょうか。
そして数年後、村の方々と相談し、1655(明歴元)年9月、堂舎を建てて奉安(ほうあん)され、禅宗としての寺の総てが始まりました。
当時は霊像山慈雲寺とされており、その後、慈雲山霊泉寺としました。
拙山和尚は、その後も犬上郡豊郷町の普門寺を開創されたりしたようです。
1665(寛文5)年10月15日には霊元天皇より、妙心寺住持職の御綸旨(命令文書)をいただいたとか。
そして1672(寛文12)年9月18日、この世を去られました。
ちなみに、開創とはお寺を開くことで、開創した和尚のことを開山といいます。
齢仙寺の開創は1653(承応2)年といわれています。
江戸時代ですね。
後光明天皇、徳川家綱将軍の時代になります。
インドのタージ・マハルが完成したのも1653年のようです。
どれくらい昔でどんな時代だったのか見てみたいですよね。
さて、拙山和尚に話を戻しまして・・・
彦根に江国寺というお寺がありますが、拙山和尚は当時そこにおられました。
江国寺開山の天岫和尚とともに、彦根市笹尾町の少林寺、彦根市薩摩町の無量寺を開創されたそうです。
そして、1653(承応2)年2月のある寒い夜、観世音菩薩降臨の夢を見られました。
その夢の中で、観世音菩薩がお告げになったとのこと。
「我れ小堂に埋没し、今池中に沈む事久し、只恨らくば人の知ること無うして度生の悲願に便りなき事を、早く我れを出すべし、我が所在は西南に当り、慈雲靉靆(じうんあいたい)する所、是れなり」
翌朝、拙山和尚は取るものも取らず、西南の地を目指して中山道を上られました。
道々探し求められて、小堂に観世音菩薩が安置されていたこの地に辿りつかれたそうです。(正確には南南西になります)
現在の齢仙寺の門の前の池(鳰戸)は、地下水の湧水。寒い日には白くもやがかかったようになります。
靉靆とは雲や霞などがたなびいていること、とても神秘的な光景だったのではないでしょうか。
そして数年後、村の方々と相談し、1655(明歴元)年9月、堂舎を建てて奉安(ほうあん)され、禅宗としての寺の総てが始まりました。
当時は霊像山慈雲寺とされており、その後、慈雲山霊泉寺としました。
拙山和尚は、その後も犬上郡豊郷町の普門寺を開創されたりしたようです。
1665(寛文5)年10月15日には霊元天皇より、妙心寺住持職の御綸旨(命令文書)をいただいたとか。
そして1672(寛文12)年9月18日、この世を去られました。