和賀氏南部境界線の拠点
北上市相去地区、国道4号線北上バイパス沿い洞泉寺そばの小高い丘の上にその城跡はあります。
相去城は、楢山城・鶴野館とも呼ばれ、相去城、高前壇館を中心に相去一帯を相去清三郎の支配下にあったと云われています。
相去城の存在は、永禄八年(1565)に明らかで、胆沢西根城主新渡戸摂津守頼長と伊澤(柏山)伊勢守の対立で、頼長が相去城で自刃しています。

相去城跡は、洞泉寺駐車場から登ることが出来ます。
洞泉寺は天正年間に廃寺になりましたが、相去安芸守の元家臣千田修理が慶長十七(1612)年に開基しました。
伊達領内では最北端相去に臨済宗の寺院が置かれたことから「仙台藩の香華所」とも呼ばれてきました。

城の構造は標高30メートルの高台を利用して頂部には鉤形の空堀を巡らし、曲輪を造っています。
所々に平場を造って、尾根は二重堀で切断しています。

堀跡らしきところを登っていくと、平場を見ることができます。
平場には、小さな社が祀られています。
平場と平場は空堀で区切られています。
頂部には、鐘楼堂があります。
縦堀跡や堀切の跡は見ることができませんでした。
永徳二年(1382)の鬼柳氏に関する文書に相去壱岐守の署名が見られるところから、その時代に相去氏がいたことは確かになっています。
明徳二年(1391)、それまで江刺郡に属していた会佐利(相去)郷が、和賀(鬼柳)伊賀入道の領地となりました。
文明二年(1470)には、和賀・江刺両氏との間で兵乱があり、翌年には和賀・葛西両氏が相去の地で合戦に及ぶなど相去の地は、和賀氏の南部境界線となっていました。
(出典 岩手県の歴史 (県史)
)
【相去城跡MAP】
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