の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

スコータイの2日目・シー サチャナライへ (2)

2014年02月19日 | スコータイ
■サンカロークのコレクションを見せてもらいにいきました。一部を紹介します。
シー・サチャナライ都城のヨム川上流域にはたくさんの古窯址が残っており、一部は発掘状態を屋根で覆い博物館として公開されています。
タイ湾沿岸の環濠遺跡からは交易によってもたらされた漢時代、唐時代、宋へと続く陶磁器が発掘されています。元時代の陶磁器はタイ中部、北部からも大量に出土するようになり、陶磁器が中国の主要な輸出品目の一つであったことが窺えます。
シー・サチャナライもモン・クメール族の進出と共に製陶技術がもたらされ、やがて、スコータイ朝には中国から大量の陶磁器が入ってくるようになり、シー・サチャナライでも技術向上が目まぐるしかったようです。当時のスコータイは中国人の居住者がたくさん居たようで、中には中国人の手によって作られたと思われる陶器もあり、陶工の移動があったことも考えられています。1438年スコータイ朝がアユタヤ朝に併合されてからはサンカローク陶器は輸出の主要品目になり、日本をはじめ琉球、東南アジア島嶼部、および遠く中近東からも出土しています。しかし、1569年のビルマ侵攻でアユタヤが陥落する頃には陶器生産も終焉をむかえていました。

灰釉を掛けて焼かれたパーヤン窯の魚形小壺です。

青磁釉の鳥形小瓶です。

鳥形小瓶は平底ですが、魚形小壺には高台が付いています。

青磁の蓋付瓶(ライム・ポット)と青磁の授乳婦人です。
ライム・ポットには嗜好品である[キン・マーク]に用いる、焼いた貝殻を潰して粉末にしたものが入っています。
現存するライム・ポットは青銅製が大半ですが、陶器製もあります。青磁以外に鉄絵文もあります。
人形も「シィア・カバーン」という病気回復儀礼に使われたもので頭部は男性を接続してあります。小型で青磁が青くきれいに発色した女性像は非常に少ないようです。

蓋付瓶は使われていたもので、蓋を開けると貝殻粉が入ったままです。

子供を洗う婦人像です。やはり頭部には男性を継いでいます。

双子を抱く婦人像です。頭部は別人のようですが、髪を左右で丸くまとめている風俗は中国人でしょうか。

青磁の子安貝(宝貝)です。2.7cmほどの小さいものです。

子安貝の内側は無釉です。スコータイ時代も子安貝は貝貨として流通していたようで、戦乱を恐れ壺に納めて埋められていたものが都市遺跡から発掘されています。

極小人形です。手前の子安貝(宝貝)と比較すれば小ささが際立っています。

鉄絵ライム・ポットと極小人形です。

パーヤン窯の寺院装飾でしょうか、かなり小さい細工です。

白褐釉鉢の高台に彫られた獣面像です。

ビルマの緑釉小壺です。

緑釉小壺の底面、回転糸切痕です。


カロンのくっ付きです。ライム・ポットが焼成中に見事にくっ付きました。

カロンのコオロギの家です。

カロン緑釉水注の取っ手部分です。

青磁小皿です。発色が非常にきれいです。

カロンの水注です。

未整理の小品群です。

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■午後3時20分、ロイ・クラトンのスコータイ歴史公園へ戻ります。
国道1294号線から国道1113号線を走行しますが、シー・サチャナライ歴史公園とサワンカロークの中間のパー・ルアン通り(スコータイ時代のシー・サチャナライとスコータイ、ピサヌロークを結ぶ旧街道)の「ムアン・バン・クラン」に寄ってみます。
北壁625m、東壁1165m、南壁300m、西壁600mに囲まれた都市で、シ-・サチャナライとスコータイの中継地だったようです。現在23カ所の遺跡が確認されているそうです。
都市遺跡の東には、ランパーンから流れてくる「ラム・ナム・ファ・クラダン」

ワット・ボット」です。14世紀から15世紀に建立、16世紀に改修工事が行われています。
モンドップ(本堂)は14メートル四方で東に入口があり、26メートル四方のラテライトの二重壁に囲まれています。背の低い門が東西にあり、東には礼拝堂があったようです。









「ワット・ヤイ・チャイモンコン」です。「ワット・ボット」から500m離れています。14世紀から15世紀のスコータイ時代の建立された寺院跡です。ラテライトの基壇しか残っていません。アユタヤにも同じ名前の寺院があります。





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