臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

結社誌「かりん」9月号掲載作品の鑑賞 馬場あき子先生危うし!

2016年10月07日 | 結社誌から
 「馬場欄」と言えば、本邦歌壇の最高峰〈白きたおやかな峰〉であり、〈奥の間〉でもある!その浄き〈奥の間〉に、今しも、あの暴漢・鳥羽省三が泥足を踏み入れ、落花狼藉の振る舞いをしようとしているのだ!馬場あき子先生危うし!立ち上がれ、「かりん」会員諸氏!


[作品・馬場欄]

○  氷切る音さいさいと聞こゆるはむかしなるかなよしずへだてて  (川崎)馬場あき子

 「氷」をあのバイオリンみたいなノコギリで切れば、「むかし」だけでなく今でも「さいさい」と爽やかな音を立てて切れるのだ! 
 従って、「氷切る音さいさいと聞こゆる」のは、決して、決して、馬場あき子先生の記憶の中にだけある「むかし」の風景ではなく、ましてや、「老いたる馬場あき子先生の幻想空間の出来事」ではありません。
 馬場あき子先生は、昨今益々ご健勝、ご健詠であらせられます。

 
○  茂吉は歌になるなあ人間の原点のやうな可笑しさありて  同上
 
 ご子息・茂太のお見合いの席で、間も無く我が家の嫁女になる若い女性のお膳から大好物の鰻を失敬したり、極楽と称して、馬穴を抱えて寝間に入るなどの、斉藤茂吉ならではの、あのユニークな振る舞いに着目すると、「茂吉は歌になるなあ!」「人間の原点のやうな可笑しさありて!」という仕儀とは、相成るのでありましょう。
 さすが、馬場あき子先生!  
 先人・斎藤茂吉をも笑い者にして、老いて益々ご健勝である。


○  この今も国境越えゐむ難民の飢渇にとほく仲秋の月  (横浜)高尾文子

 今となっては、「難民」たちが「飢渇」から解放されようとして「国境」を「越え」るのも、昔物語の如き様相を呈して来ました。
 折りも折り、「仲秋」の満月。
 彼ら「難民」は、今夜の月に如何なる思いを寄せて眺めることでありましょうか?


○  あはあはとやさしきものを島崎こま子の描く栗と毬  (つくばみらい)米川千嘉子

 作中の「島崎こま子」とは、「文豪・島崎藤村の次兄・広助の次女にして、叔父・藤村が妻女を失っていた時期に、叔父・藤村と不倫な関係を結んだ女性として知られ、藤村作の小説『新生』に登場する女性・駒子のモデルになった女性」である。
 「ややもすれば、淫乱極まりない女性と見られがちな『島崎こま子』の性格が、彼女の『描く栗と毬』と同様に、意外にも『あはあはとやさしきもの』である」とするのが、本作の趣旨でありましょうか?


○  ヘルパーは犬の葬儀に行きけるか紫陽花のころは犬も死もする  (群馬)渡辺松男

 作者・渡辺松男は、難病を抱えて病床に臥す身である。
 彼の境涯を察するに、「ヘルパーは犬の葬儀に行きけるか紫陽花のころは犬も死もする」という、この一首は、必ずしも戯作とは言えません。
 「紫陽花のころ」とは、即ち「梅雨時」。
 なれば、「紫陽花のころは犬も死もする」とは、詠むも道理の名言である。


○  千株のあぢさゐに名はうもれをり今若のちの阿野全成  (小金井)梅内美華子

 静岡県沼津市のホームページの記するところに拠ると、「『阿野全成』は、幼名を今若丸と言い、清和源氏の嫡流・源義朝の七男であり、頼朝の異母弟である。母は有名な常盤御前で、弟に乙若丸・牛若丸が居り、後にそれぞれ義圓・義経と名乗っている。平治の乱で父義朝は死に、牛若丸を除き、今若丸と乙若丸は出家させられた。全成は山寺の醍醐寺に預けられたが、次第に逞しく成長し、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれた。/治承4年(1180)、源頼朝が韮山で挙兵すると、全成は密かに寺を抜け出し、修行を装いながら頼朝のもとに参ずると、頼朝はその志に涙して感動したと言う。/全成は頼朝を手助けした功績により、駿河国阿野庄(現在の東原、今沢から富士市境一帯)を与えられ、阿野を姓として阿野全成を名乗り、この地を根拠地とした。東井出に居館を構え、居館の一隅に持仏堂を建てて祖先の霊を弔った。これが現在の大泉寺である。/鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めた頼朝は、正治元年(1199)に没したが,その後有力な御家人が次々と世を去ったため、源氏に代わって北条氏の勢力が次第に強くなって行った。全成は源氏の血を受け継ぐ者として、この状況を黙って見ていることが出来ず、建仁3年(1203)5月に阿野庄に於いて北条氏討滅の兵を挙げたが、幕府軍に謀叛の罪で捕らえられ、常陸国(現在の茨城県)に流され、同年6月23日下野国(現在の栃木県)で処刑された。全成の首は阿野庄の全成の館へ届けられたと伝えられている。/その後、源家の将軍として頼家、実朝が相次いで北条氏の謀略のために殺され、源家の正統が絶えるに及んで、全成の長男・時元も承久元年(1219)2月11日にこの地で反北条の兵を挙げた。執権・北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後、阿野一族は敗北して、時元も自殺した。全成・時元の墓は井出・大泉寺にあり、市の史跡に指定されている。/大泉寺には、下野の国で処刑された全成の首が一夜のうちに阿野の地まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという伝説が伝わっているが、現在では首が掛かったという松はない。現在境内の保育園庭には、首掛松の切り株の複製と碑が造られている。また、乳の出の悪い母親にイチョウの実を焼いて食べさせたところ、乳が出るようになったという。公孫樹観音の伝説も残っている」とか。
 本作中の「千株のあぢさゐ」の在る土地は、前掲の記事にある、「井出・大泉寺」であると思われ、その大泉寺は、愛知県犬山市栗栖に現存し、補陀落山を山号とする臨済宗妙心寺派の古刹であり、紫陽花の名所でもある。
 本作の作者・梅内美華子さんは、梅ならぬ「紫陽花」の咲く頃に、補陀落山・大泉寺をご参詣なさったのでありましょう。


○  アベノミクスなどと自分の名をつけて奢れる人の久しくもあり  (東京)草田照子

 「アベノミクスなどと自分の名をつけて奢れる人」とは、何方さんでありましょうか?
 「アベノミクスは久しからず」という世俗的例えが在るのを、本ブログの読者諸氏はご存じでありましょうか?


○  初夏さむし海芋好むと聞きたりし塚本邦雄没後十一年  (京都)中津昌子

 作中の「海芋」は「かいう」と読み、あの夏の尾瀬湿原を彩る「ミズバショウ」の別称である。
 「西方に海芋咲きたり咎ありてわれは死なざる六月の墓群」とは、塚本邦雄の第十歌集 『されど遊星』所収の一首である。
 掲出の中津作に「初夏さむし」とありますが、塚本邦雄がご逝去されたのは、2004年6月9日である。
 是に依って推測するに、本作の作者・中津昌子さんは、塚本邦雄没後十一年に当たる、今年の6月9日、京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875の本門法華宗・妙蓮寺境内に在る、塚本邦雄(玲瓏院神変日授居士)の墓地を参拝されたのでありましょう。
 塚本邦雄は、生前に「朱の硯洗はむとしてまなことづわが墓建てらるる日も雪かという」という一首を詠み、心中密かに冬期間の死を予期していたようであるが、本願叶わず、入梅の雨降り頻る6月9日に入寂なさったのは、何ともお気の毒なことである。


○  「経済より命」などとうプラカード掲げるおとこの着てるユニクロ  (東京)大井 学

 「ユニクロ」と言えば、庶民価格の衣料品の代名詞的な存在であり、「『経済より命』などとうプラカード掲げるおとこの着てる」衣服としては最適なものと思われる。


○  いづくより湧く身力や安全柵ベッドよりはづし母は遊ぶも  (横浜)関口ひろみ

 「母は遊ぶも」と仰られても、当方としては、何らの対応策も持っていませんから、娘さんの貴女が、何とか始末をして下さい。


○  アクセスの数に驚くわがブログひとひのわれの知らざる複雑  (福岡)桜川冴子

 「アクセスの数に驚くわがブログ」とありますが、当日のブログ「桜川冴子の0時間目の短歌」のアクセス数は、予期していた数よりも少なかったのでありましょうか、それとも、多かったのでありましょうか?
 それに依って、「ひとひのわれの知らざる複雑」という下の句の解釈が大きく違って来ますが?

○  孤高でも孤立でもなく椋の老樹筋だつ幹に黒蟻這はす  (東京)石井照子

 「孤高でも孤立でもなく」なんて詠まれますと、私・鳥羽省三としては、我が事に就いて詠まれたように思ってしまいます。
 ところで、「椋の老樹筋だつ幹」という叙述は、「椋」という樹木の特徴をよく捉えている叙述と思われ、「黒蟻這はす」という五句目の七音と相俟って、この一首を佳作ならしめているものと判断される。


○  しゃくりあげる声をのせたる夏風が息子の幼き日を連れて来る  (秦野)古谷 円

 つらつらと思い出してみると、斯く申す、我が家に於いても、「幼き日」の「息子」が、よく「しゃくりあげ」て泣いていたものである。
 その「息子」からの一昨日の電話に拠ると、「彼・息子は、未だ四十代前半にして、さる大手企業の支店長職登用試験に合格した」とのこと。
 此のニュースに接して、彼の母親にして我が愛妻・S子が事の他に喜悦したのであるが、彼女の夫の私としては、「息子の合格よりも何よりも、その一事が最も嬉しかった」と、この際、私の拙いブログの読者の方々に告白させていただきます。
 ところで、本作の作者・古谷円さんのお住まいの神奈川県秦野市は、私の教員生活がスタートした土地でありました。
 それが故に、私は、結社誌「かりん」を手にするや、一番最初に「馬場欄」を捲り、当月の古谷円作品を拝見させていただいている次第であります。
 それにしても、「夏風が息子の幼き日を連れて来る」とは、よく言ったものである。
 なにしろ、「子供は風の子」という例えが在るくらいですからね!    

日暦(10月7日)

2016年10月07日 | 我が歌ども
○  爾後吾は横浜歴博常設展を展観すべき時を喪ふ  鳥羽省三

○  館内に漂ふ彼らの加齢臭厭ひて誰も入館し得ず

○  昨日今日採るべき歌のさらになし驚くべきか悲しむべきか

○  老いぬれば驚くこともなかりけり男狂ひの継母の死さへ


 連れ合いと義妹・М子が港北ニュータウンのユザワヤに手芸用品を買いに行くというので、М子が運転するオレンジ色の車に同乗して私も二日ぶりに外出した。 
 女性二人の買い物先が、横浜市立歴史博物館の直近なので、私一人を同博物館前で下車させた後、姉妹二人だけで気侭にゆっくりとショッピングを楽しもうという算段なのでありましょうか?
 同博物館では、折から開催中の「杉原千畝と命のビザ」という特別企画展を小一時間ほど掛けて観覧した後、事の序でに昔馴染みの常設展まで観覧し,復路は、私一人がバスを三本乗り継いで帰宅したのである。
 特別企画展の「杉原千畝と命のビザ」は、我が国が第二次世界大戦に参戦する直前の1940年に、ナチスの迫害から逃れる唯一の手段として南米などの海外渡航を図ろうとして日本通過のビザを求め、その当時の〈リトアニア国在カナウス日本領事館〉に殺到した、ポーランド系ユダヤ人の為に、本国・日本政府の許可を得ないままに自らの独自判断で「命のビザ」二千通を発給した、我が国の少壮外交官・杉原千畝氏(リトアニア国在カナウス日本領事館の領事代理)の事績を紹介し、顕彰するという趣旨の企画展でありましたが、杉原千畝氏及び杉原氏ご一家の家族写真や、氏の事跡に関わる新聞や雑誌などの記事などの他に、氏の故郷・岐阜県の八百津町や、氏の発給した「命のビザ」を得て、南米などの海外に渡航することに成功した、ポーランド系ユダヤ人の避難経路に当たる、当時のソ連や中国の各都市、そして、彼らを乗せた汽船が入港した我が国の敦賀港や、彼らが日本に入国してから希望する諸外国に向かって出国するまでの滞在地であった神戸などの風景写真や関係記事、更には、無事に海外脱出する事が出来なかったら、彼らが収監されて殺戮されるはずだった、アウシュビッツ収容所などの縮小模型のなども展示するなど、いろいろと工夫が凝らされていて、極めて興味深い内容のものでありました。
 同企画展を観た後、「何でも観てやろう主義」の私は、今から十六年前の私たち一家が未だ横浜市内に居住していた当時に、数十回ほども見学したはずの、同博物館の常設展示を観ようとして同展示場に入ったまでは宜しかったでありましたが、それからがいささか宜しくなかったのでありました。
 と申すのは、同展示場の受付付近には、一見しただけでそれと判る、ボランティアの展示案内職員諸氏が、五、六名ほども暇を持て余して屯していて、私が入室するや否や、彼らの中の一人が、私にぴったりと身体を寄せて来て、加齢臭漂う口から唾を吐きながら、展示内容の詳細に亘って縷々説明し、案内方これ努め始めたのでありました。
 展示内容そのものも、私が同博物館に再三に亘って入館していた十六年前当時そのままであり、それほど私の興味をひくものでは無かったのでありましたが、私にとってそれ以上に魅力がなかったのは、ボランテイア職員氏の説明でありました。
 私は、彼・ボランティア職員氏が、私に加齢臭の漂う身体をお寄せになられ、口をお開きになった当初から、「是は全く以て望ましくない事態に陥ってしまったぞ!斯くなる上は早々に退散しなければならないぞ!」と覚悟した次第でありましたが、彼・ボランティア職員氏は、そんな私の気持ちを他所にして、「吉田新田がどうしたの」、「象の鼻がこうしたの」などと、私にとってはどうでも宜しい事を、蕩蕩と捲し立てるのでありました。
 かく申す私は、横浜市在住期間が三十五年に亘り、高等学校国語教諭免許の他に、博物館学芸員資格や図書館司書教諭をも取得していて、人も羨む人並み以上に優れた容貌や体躯は別としても、日本史の知識に関しては、我が国国民の平均値以上のそれを所有している、と自負している次第であります。
 その私を前にして、「先土器時代の我が国に於いては……」、「開化期の横浜は……」などという長口上をお述べになるとは、彼・ボランティア職員氏は、いさいさならず焼きが回っている、と言うべきなのでありますが、それにも関わらず、平常から腰の低さで知られた私としては、「この度は真にご丁重なるご説明ご案内を賜り、衷心より御礼申し上げます」というお礼の言葉を口にしなければならなかったのであり、何と驚いた事に、その回数たるや、十指に余るほどの多きを数えたのでありました。
 斯くして私は、「高校教員などという、碌でもない職務に従事して口に糊していた者としては、定年退職してから死没に至るまでの数年間は、せめてもの罪滅しとして、博物館や美術館などのボランティア職員として活動しなければならない」との、真に手前勝手な生活信条を改めざるを得ない、との、極めて悲観的な思いに因われながら、家路を急いだ次第でありました。

  [注] 爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ(春日井建『青葦』より)