[作品ⅠA]
○ 雨音の聞こえぬ窓のブランイドの角度を上げて雨を見ていた (東京)江國 梓
三句目中の「ブランイド」は「ブラインド」の誤植でありましょう。
こうしたミスは、作者の不注意や怠慢に因って生じることもあるが、その責務の大半は校正者に帰するべきであり、世に言う「後世恐るべし」ならぬ「校正恐るべし」とはこうしたミスを指して言うのでありましょう。
それはそれとして、「ブランイドの角度を上げて(正しくはブラインドの角度を上げて)」とは、如何なる意味でありましょうか?
「ブラインド(blind)」は、「オフイスなどの窓の内側に取り付けて、外にいる人の視線から屋内を隠し、太陽光や風を遮るための遮蔽具」である。
その構造はスラットと呼ばれる金属やプラスチックの細長い帯状の板を糸で繋いで造られていて、「開閉する為のコード(紐)を引いたり緩めたりすることに依ってスラットの角度を調節できる」のであるが、本作の作者が謂う「ブランイド(正しくは、ブラインド)の角度を上げて」とは、この事を指して謂うのでありましょうが、江國梓作中の表現としては不本意な表現である。
本作が他ならぬ、才媛・江國梓作の一首である以上は、こうした誤植の存在は勿論のこと、こうした曖昧な言い方をすることも、到底、許されません。
本作の作者の江國梓さんは、結社誌「かりん」の今日と明日を担うリーダーの一人であり、その編集にも関わって居られましょうから、こうした初歩的なミスが認められる作品を詠んだり、掲載したりしてはいけません。
喝!喝!喝!大喝!大大喝!
[反歌] 汝が心のブラインド、そのスラットを開放せよ!汝が胸中を覗かしめよ! 鳥羽省三
○ 玄関にこいつ来てたと子は連れ来 右中足の欠けたるくはがた (東京)刀根卓代
「玄関にこいつ来てたと子は連れ来」までは極めて順調。
それだけに、五句目を「欠けたるくはがた」と一字余りにしたのが惜しまれる。
このような、末尾の字余り句を「ゆったりとした気分が感じられて宜しい」などと評する評者が居たとしたら、その評言は、彼の鑑賞力の未熟さを暴露しただけのことである。
喝!喝!
○ 不幸なる生い立ちを聴くさ緑の楡の新樹のざわめきの下 (千葉)愛川弘文
作者の愛川弘文さんは、千葉県内の県立高校の国語科教諭であるが、この頃は学校カウンセラーをも努めて居られるのでありましょうか?
生徒の「不幸なる生い立ちを聴く」場所が、校長室や生徒指導室などの厳しい室内では無くて、「さ緑の楡の新樹」の「下」であるのは、出来るだけ生徒が話し易いような雰囲気作りの為でありましょうが、折からの風で、せっかくの「さ緑の楡の新樹」が「ざわめ」いているのは、計算外の出来事であり、この「樹」が「ざわめ」いている様は、生徒のみならず教師の愛川弘文さんにも、少なからず強迫感や逼迫感を与える結果となり、カウンセリングの障害になるのかも知れません。
それとは別の考え方をすると、件の「さ緑の楡の新樹のざわめき」は、カウンセリング対象の生徒の幼さを表すと共に、件の生徒の語る「不幸なる生い立ち」の性質を、それとなく示唆しているのかも知れません。
○ からつぽのアルミ缶われ黄昏の動物園のざうをみてゐる (秦野)細井誠治
作者の細井誠治が「黄昏」刻の「動物園」で「ざうをみゐる」と、その傍らに、入園客が放りっぱなしにしていった「からつぽのアルミ缶」が転がっていた、というだけのことでありますが、作者の視線の先にある
上の句の「からつぽのアルミ缶」と、下の句の「われ黄昏の動物園のざうをみてゐる」とは、一見、関わりがなさそうであるが、「からつぽのアルミ缶」が、「黄昏」刻の「動物園」の寂寥感を醸し出し、作者・細井誠治の一日の暮らしの虚しさをも象徴しているのである。
余計な小細工をしないで、「ざう」は「象」と漢字書きにした方が宜しい。
○ 酒呑みに非ざりし父、たまさかの酒は失意の夜にありしか (秦野)細井誠治
そうです。
そんなこともありますから、「父」の「たまさかの酒」には、ご家族一同、温かい心を以て対処しなければなりません。
折も折、つい先刻、私の連れ合いの許に、義妹から「今夜は、夫も二人の息子も飲み会があると言って出掛けたので心配だ。二人の息子に就いてはそんなに心配する必要は無いのだが、夫の方は、ちょうど昨年の今頃、渋谷での飲み会の帰りに、渋谷駅の階段から転げ落ちて救急車で運ばれた、という前科があるから心配だ」という趣旨のメールが入ったとのこと。
○ なめられてゐるぞ鳥類ビニールの虎が畑にゆれて威嚇す (新潟)大石友子
「なめられてゐるぞ鳥類!」と、作者は「鳥類」を使嗾せんとしているのである。
その「鳥類」をなめているのは、「畑」のど真ん中に立ってする「ビニールの虎」なのであるが、よくよく考えてみると、虎は虎でも「畑」の中に立っている虎は、「ビニールの虎」ですから、舐めるも喰い付くもしません。
従って、鳥類諸君よ、この際、とっくりと腰を据えて、大石友子の造った畑の作物をたっぷりと食べて、雪が降って、とてもとても寒い新潟の冬に備えて下さい!
○ 無口な子髪抜けるほどの苦しみに気づけなかった父を許せよ (広島)岩本幸久
○ 一晩中無限連鎖の夢ばかりみていたんだとぼそりと言へり (広島)岩本幸久
○ 紛れこみし机上の蟻とながながと会話している子はこころ病む (広島)岩本幸久
七首連作(掲載)の中から、一、二首目と四首目を抜粋して鑑賞させていただきます。
一首目などの内容から、作者の娘である「無口な子」は、年若くして円形脱毛症に罹っているものと推定されます。
この娘の父親である作者は、「髪抜けるほどの苦しみに気づけなかった」この私、即ち「父を許せよ」と、「無口な子」に向かって謝り、かつ語り掛け、どうにかして口を開かせようとしているのであるが、そうした父親の思いが通じたのか、その子はやっと口を開いて、「私は『一晩中無限連鎖の夢ばかりみていたんだ』と『ぼそりと言』つた」ので、やっと事の真相の一部が解り掛けたのであるが、その後、その娘は室内に「紛れこみし机上の蟻とながながと会話している」のであった。其処で、その娘の父親である作者は、「この『子はこころ病』んでいるのだ」とやっと納得するに至ったという次第なのである。
○ 髪洗ひ湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみそのままねむる (静岡)泉 可奈
「髪洗ひ湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみそのままねむる」とは、私たち後期高齢者の夕食後の、遣る瀬無い生き様をそのままに活写したものである。
「湯灌を済ますごとくにも胸に手をくみ」という、二、三、四句目の叙述に漂う、高齢者特有の諦念的な心情を、同居している若いご家族の方々は、十分に汲み取るべきでありましょう。
○ 会いたいとかこの子も思う日は来るか襖を閉めてドリカムを聴く (三島)井上久美子
「あなたに会いたくてまぎれ込む雑踏」、「あなたに会いたくてひき返す雑踏」と、ドリカムの吉田美和さんは、身もよじれるようにして歌うのであるが、私の娘である「この子」にも、そんな思いをする「日」は来るのだろう、と思いながら、私は、自室の「襖を閉めてドリカムを聴く」のである。
○ 献花終え頭は垂れず目を閉じる精一杯なりヒロシマのオバマ (千葉)田中友子
「精一杯なりヒロシマのオバマ」が宜しい!
然り!
「広島や長崎に原爆を投下したために第二次世界大戦の終結を見ることに成功した」などという妄言を未だに口にして憚る事の無いアメリカ社会の中にあって、彼・オバマ氏は「精一杯」の事にしたのでありましょう。
○ ブラインド固くは閉じずひと日終え空なる姉と向き合いて寝ぬ (東京)櫻井千鶴
「空なる姉」=「今は亡き姉」である。
○ 義母がよく「立つ瀬がない」と言いにけるその瀬を思う川のぞくとき (笠間)多田智恵子
一見すると、「単なる思い付きで以て詠まれた作品、言葉遊びのような作品」とも思われるのであるが、
「義母」と作者の関係、即ち「姑と嫁との関係」を考えてみる時、「それなりの現実感と説得力を持った作品」のようにも思われる。
○ 近頃はカラス、スズメも群れぬらし個に目覚めたるかリーダー不足か (川崎)松本圭一
この一首が、『グリム童話』の如き「寓話」だとすれば、この一首で以て、作者の松本圭一さんが寓せんする対象は何か?
その「何か」の「何」は、百鬼夜行する「我が国政界」の現状か?
それとも、確たる指標なき「我が国歌壇」の現状か?
仮に、後者であるとすれば、我らが松本圭一さんは「老いたるテロリスト」、「銃刀を所持せず、言葉で以て主宰を刺殺せんとする、傷心のテロリスト」でありましょう。