臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(10月10日掲載分・其のⅣ)北方四頭以南、本日出血大公開!乞う、ご期待!

2016年10月14日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

○  四個入り九十五円夕食に納豆を食う毎日である  (登別市)松木 秀

 「四個入り九十五円」の「納豆」は、必ずしも〈我が家のようなかつかつの年金暮らしをしている者にとっての安価で美味しくもないオカズ〉という訳ではありません。
 何故ならば、豆腐や鶏卵と共に食品の優等生と言われる「納豆」と言えども、その種類は様々であり、私の妻が一週間に二度や三度は必ず食べる〈おかめ納豆・極小粒・ミニ〉などは、時によって、販売店によっては、五十円以下の低価格で販売されているからであり、それでも尚且つ、我が愛妻は「納豆は値段が安くて美味しいから、本当は毎日だって食べたいわ!」などと、全く質素で可愛らしい事を言って食べているからである。
 しかしながら、その「納豆」を「夕食」のオカズとして「毎日」「食う」生活を、本作の作者・松木秀が続けているとしたならば、それは納豆の栄養価や美味しさや価格云々の問題ではなく、人間・松木秀の生活姿勢の問題であり、彼の居住地・北海道登別市の社会福祉政策の問題でもありましょう。
 ところで、斯く申す私・鳥羽省三は、「納豆」を食べる事を主治医から厳禁されていて、いくら食べたくても食べられませんし、その期間が二十年以上もの長きに亘っているのである。
 私が子供の頃の我が家でき、水田の畦や開墾畑に大豆を栽培していて、毎年、冬になれば、その年の秋に収穫したばかりの大豆で納豆を自家製造して、ほとんど毎日のように食べていたのである。
 その頃の我が家では、あの赤ん坊を寝かせて身動き出来ないように拘束する為に欠かせない保育器具・嬰詰を納豆を寝かせるための保温庫としていた。
 因みにその頃の我が家の納豆製造過程を説明してみると次の通りである。
 先ず最初に、精選した大豆を真水でよく洗い、その後、半日くらい真水に浸けて置く。
 次に、浸し水から上げた大豆を大鍋に入れて茹でる。
 次に、頃合を見計らって、茹で上がった大豆を大鍋から降ろし、十分に水を切った後、蕎麦を捏ねる時に遣う漆塗りの大きな器に入れて、これとは別に造ってあった納豆菌液と十分に混ぜ合わせる。
 次に、納豆菌液の滲みた大豆を藁苞に入れた後、それを件の嬰詰に入れた上、その上に大きな藁の束や使い古しの毛布などを掛けて温かく保護し、一日半から二日ぐらい掛けて納豆が熟成して出来上がるのを待つ。
 斯くして出来上がった納豆は、私たち家族の飢えを潤し、我が家の常備食品の王座に君臨していたのでありました。 
 ところが、その〈我が家の常備食品の王座に君臨していた納豆〉の製造に欠かせない嬰詰が、私たち兄弟の寝室である我が家の二階の十畳間に置かれていたので、私と二歳上の兄は、いつも納豆の匂いに囲まれて眠っていたのでありました。
 その私が、今となってはいくら食べたくても納豆を食べる事が出来ない身の上に追い込まれているとは、何という、皮肉で悲惨な歴史的現実でありましょうか?
 その事を思うと、私は私自身の人生が、何かに呪われた人生であるかのようにも思われ、悔しくて、悔しくてたまりません。
 そのような次第で、今の私は、「四個入り九十五円」の「納豆」を「毎日」の「夕食」に「食う」と仰る、本作の作者・松木秀さんの生活を羨ましいとさえ思って居ります。
 ところで、本作の作者・松木秀さんは北海道登別市にお住まいでありますが、歌人としての彼のご盛名は、我が国の中央歌壇に蝟集する、彼の紳士淑女の間にも夙に知られて居て、彼の第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』は、彼の加藤治郎氏のプロデュースにより設立されたオンデマンド印刷形式の歌集専門レーベル「歌葉」からの出版であり、同レーベルの歌集として初めて〈現代歌人協会賞〉を受賞する、という栄誉に浴しているのであります。
 其処で、私はこの機会に、彼の第一歌集『5メートルほどの果てしなさ』及び第二歌集『RERA』、更には、最新刊の第三歌集『親切な郷愁』から、以下の通り、〈柄井川柳仕込みの彼の文才〉が遺憾なく発揮された作品を抜粋して、本ブログの読者諸氏に示し、才人・松木秀の文運の益々高からん事を祈念させていただく所存であります。


○  内側の輪の子を蹴った思い出のマイムマイムはイスラエルの曲

 手と手を繋いで二重三重の大きな環を作り、両足を交互に突き出したり、地面を蹴ったりしながら踊る、あの「マイムマイム」も、手を繋ぐ相手次第で面白かったり、つまらなかったりするものである。
 私の記憶するところに拠ると、私が手を繋ぐ相手の多くは、私と同性の男児だったり、ごく稀に異性だったとしても、その異性が途轍もない肥満少女だったりして、あの「マイムマイム」は少しも面白いゲームではありませんでした。
 察するに、松木秀さんも亦、手を繋ぐお相手に恵まれず、その腹いせに「内側の輪の子を蹴った思い出」をお持ちなのでありましょう。


○  輪になってみんな仲良くせよただし円周率は約3とする

 私は、本記事を草するに当たって、前述の松木秀作の三冊の歌集を取得した上で事に当たった訳ではありません。
 従って、これら三冊の歌集に、私が鑑賞対象とするそれぞれの短歌がどのように配置されているか、といった細かい事柄が分かりません。
 しかしながら、その内容からみて、本作、即ち「輪になってみんな仲良くせよ〜」は、前述の「内側の輪の子を蹴った思い出の〜」と同じ題材、即ち「マイムマイム」に取材した連作の中の一首かと思われます。
 「輪になってみんな仲良くせよ」という上の句には、彼・松木秀さんに「マイムマイム」に参加することをを強要する、件のゲームの指導者に対する松木秀さんのささやかな〈抵抗姿勢〉が示されているし、「ただし円周率は約3とする」という下の句に及んでは、その〈抵抗姿勢〉が我が国の文教政策にまで及んでいるのである。
 「ただし円周率は約3とする」という、シニカルにしてアイロニカルな言い方に認められる、「円周率は約3とする」という大雑把な数学教育を受けたが故に、科学者や医師になり損なった、彼・松木秀さんの被害者意識と、斯かる教育制度を布いた我が国の政治権力に対する抵抗精神とを、私たち、本作の鑑賞者は十分に感得しなければなりません。


○  相聞歌まずは相手を探さなきゃ空気よ空気おまえが好きだ

 そう言えば、松木秀さんの三冊の歌集の所収歌には、「相聞歌」と呼べるような作品が、皆無のように思われれます。 
 前述の「マイムマイム」に取材した連作などは、通常ならば、「幼い男女の初恋物語」にもなり得る可能性を持った甘口の題材なのであるが、その甘口の題材が、一旦、松木秀の厳しい取材網に絡め捉えられるや否や、斯くも無残な結末を齎してしまうのである。
 しかしながら、毎日、毎日、四個入り九十五円の納豆ばかり食べていたら、いい気になって「マイムマイム」なんか踊って居られないし、ましてや、相聞歌を詠む相手が居ないのも当然のことでありましょう。

 この後、数首、これと同様の松木秀さんお得意の〈自虐ネタ作品〉を続いて掲載しますが、これらの数首は、彼・松木秀さんの厳しい自己認識と、シニカルにしてアイロニカルな目線に基づいて詠まれた作品でありましょう。


○  輪廻など信じたくなし限りなく生まれ変わってたかが俺かよ

 松木秀さんが「輪廻」を信じているか否かは別問題として、「限りなく生まれ変わってたかが俺かよ」の「たかが俺かよ」には、全く吃驚仰天してしまいました。
 三流出版社が主催した短歌コンクールの懸賞金代わりの出版資金で刊行した第一歌集が、〈現代歌人協会賞受賞という栄誉〉に浴しながら「たかが俺かよ」はありませんよね、読者諸氏よ!


○  平日の住宅地にて男ひとり散歩をするはそれだけで罪

 然り!
 私の教員時代の同僚の一人は、かつて、彼の居住地区で女生徒殺人事件が発生した際、警察官の任意捜査の対象者とされて、再三に亘って自宅訪問や身辺調査をされたそうですよ!
 尤も、彼・私のかっての同僚教師の場合は、持ち前のブロドックさえも驚いて逃げてしまうような風貌が災いしての事なのではありますが………。

 
○  二十代凶悪事件報道の容疑者の顔みなわれに似る

 作者自らが自らの人相風体に就いて、そうしたご認識をお持ちであったとしたら、そういう事も有り得ましょう。
 だが、彼・松木秀さんのみならず、私たち日本の若者は、自らの風貌にもっともっと自信と責任を持たなければなりません。


○  LAWSONへSEIYUそして武富士へだんだん青くなり死ぬだろう

 おしまいには、コンビニで納豆を買うお金にも不自由するようになって、「武富士」直行という仕儀とは相成るのでありましょう。


○  「生涯独身」と「一生独身」の言わずもがなで後者のわれか

 「ああ、ああ、その顔で!その身の丈で!」という訳でありましょうか!
 自虐ネタもこれくらいのレベルに達すると………!


○  おやこんなところにぼくが落ちていた机の中の古い封筒

 「机の中の古い封筒」が「ぼく」とは、現代歌人協会賞受賞者も堕ちる所まで落ちたもんだ!


○  果てしなき自己言及に飽きてきてみかん一房二房と食う

 「みかん」を「一房二房」食ったぐらいでは、腹の足しにもなりませんし、ましてや、何の癒しにもなりません。


○  ゆうらりとわれのうしろをゆくものはこの世のことのほかにはあらず

 彼・松木秀さんは、今しも、〈武富士〉の貸金取立てを代行している暴力団員から追跡されているのである。
 彼・松木秀さんは、今しも、彼自身の背後霊から追跡されているのであるが、彼を追跡している件の背後霊は、「この世のことのほかにはあら」ざる諸問題(即ち、借金とか)を抱えているのであり、その解決を図らんとして、その元凶たる松木秀さんの背後に迫らんとしているのでありましょう。


○  身に覚えなきやましさを覚えたるチャイルドポルノ禁止法かな

 「身に覚えなき」状態だったら、「やましさを覚えたる」も何もありませんよね!


○  カップ焼きそばにてお湯を切るときにへこむ流しのかなしきしらべ

 納豆をオカズにして、「カップ焼きそば」をお食べになるとは、まさしく極貧の歌詠み!
 「お湯を切るときにへこむ流しのかなしきしらべ」とは、部外者ながらも泣けて来ますよね!


○  試みにわたしと書いてみる夕べわたしはひとりわたしはふたり

 身に迫る、孤独感と寂寥感とかに解放されようとして、彼・松木秀さんは、手垢まみれのパーカーの万年筆を持ち、涙で濡れたコクヨの原稿用紙に「わたし」に書いてみたのであるが、それだからと言って、彼が生誕前から背中に背負っている孤独感や寂寥感から解放されようはずはありません。
 然るに、斯くの如き無駄な行為を敢えてせんとする、彼・松木秀さんの憔悴した姿を見つめんとするもう一人の松木秀さんが居たのである。
 無駄な行為を敢えてせんとする松木秀と、その松木秀を見つめているもう一人の松木秀!
 「夕べわたしはひとりわたしはふたり」とは、この事ならん!


○  自動改札をくぐれば月の下ひとりひとりはひとり/ひとりへ

 彼・松木秀の居住する北海道登別市の登別駅に、「自動改札」なる文明開化の賜物の如き便利なシステムが存在するか否か、と、只今、当方から調査隊を派遣して居りますから、その解決を見るまでに、ひと先ず、本文の執筆を中止せざるを得なくなりましたので、本ブログの愛読者の皆様方に於かれましては、何卒、ご理解賜りたくお願い申し上げます。
 尚、この機会に、本論評文の〈文体の不統一、不徹底〉を深く深くお詫び申し上げます。

   
○  夕暮れと最後に置けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ

 然り!
 或る短歌通(半可通かも)曰く、「我が国の短歌の特色の一つは、結びの句(五句目)に季節や時刻を表したり、天候や気象や明暗を表したりする言葉を置けば、それなりの短歌が出来上がるという点にあり、またそうした点が、我が国の短歌の限界でもある」とか?
 となると、件の「夕暮れ」という語は、時刻を表すと同時に明暗を表す語でもありますから、本作の作者・松木秀さんの謂う「夕暮れと最後に置けばとりあえず短歌みたいに見」えるとは、真に理に適った考え方なのである。
 ところで、本作の作者・松木秀さんは、当日、どんな短歌を詠んだのでありましょうか?
 [答]  納豆を食ひたしと思ふ吾なれど財布が空であはれ夕暮れ


○  二十五時、コンビニ時間 ローソンはいつも要点だけでいっぱい

 作中の「要点」とは何か?
 真面目な考え方をすれば、この場合の「要点」とは、作者・松木秀さんにとっての生活必需品、即ち、ティッシュペーパー、練り歯磨き、洗剤、絆創膏、納豆、カップ焼きそば、といった類のものでありましょうが、作中の冒頭の語「二十五時」に留意して推測すれば、「賞味期限切れ寸前になって、8割引になったお惣菜や弁当やおにぎりの類の食品」でありましょうか?
 即ち、真夜中の「二十五時」こそは、作者・松木秀さんの「コンビニ時間」なのである。

    
○  かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫

 なるほど、よくよく観察してみると、彼の「キティちゃん」には目と鼻はありますが「口」はありません。
 その点は、彼の超人気キャラクター人形「キティちゃん」を創出させた〈株式会社サンリオ〉のデザイナーの手抜きなのかも知れませんが、「口」がないから「何も言えず」という訳で、彼女・キティちゃんは、「何も言えず」に、彼女を買って来た女ガキどもの腰のあたりに「吊り下がる」しか芸のないメス「猫」ならぬエセ「猫」なのである。


○  似ていないラムちゃんの絵の旗ゆれて田舎の隅のパチンコ屋あわれ

「ラムちゃん」とは、当代人気の女性漫画家・高橋留美子作の『うる星やつら』のメインヒロインであるが、
〈うる星(ラム星、アニメでは鬼星)〉から地球侵略のためにやってきた鬼型宇宙人の娘であり、語尾に「だっちゃ」または「~っちゃ」を付けて話すのが、その特徴である。
 作中の「『田舎の隅のパチンコ屋』には、誰が描いたのかは分からないが、そのラムちゃんを描こうとして描いた、という事だけは辛うじて解るが、本物のラムちゃんとはさっぱり『似ていないラムちゃんの絵の旗』が『ゆれて』いるので、作者に一抹の『あわれ』さを感じさせた」というのが本作の趣旨である。
 元禄の俳聖・松尾芭蕉は「枯れ枝に鴉」が止まっているのを見て、「もののあわれ」を感じたのであるが、現代の似非俳聖・松木秀は、「田舎の隅のパチンコ屋」に「似ていないラムちゃんの絵の旗ゆれて」時に「もののあわれ」を感じるのである。


○  夢よりは鮮やかでしょうこの虹は百円ショップで売っていたのよ




○  ベニザケの引きこもりなるヒメマスは苫小牧駅にて寿司となる



○  鼻濁音使えぬわれがに・ん・げ・んと言うときのあつかましき音「げ」




○  「沈黙のわれを見よ」との饒舌な群れから群れへネットを泳ぐ




○  死ぬときは餅で死のうと決めている最後ぐらいは伝統守る