(理阿弥)
待てど待てど恋ほしき人の沙汰あらずみかんの種をがりっとくだく
江戸に残して来た恋人の<お七>が火付け強盗を働いて捕まったという情報を手にしてから半年になる。
だが、その後、彼女に下された「沙汰」に関する情報は、此処<八丈島>には届かない。
本作の作者・理阿弥さんの分身たるやくざ者・悪阿弥は、流刑の地・八丈島で、彼女が<八丈送りの刑>に処せられることを首を長くして待っているのである。
〔返〕 下された刑は獄門晒し首八丈で待つ悪阿弥がっくり 鳥羽省三
(飯田和馬)
おみかんをひとつ下さい。後生です。紅い山茶花。真っ黒の腕。
帯広と神戸とで、まさか相談したわけではないでしょうが、前掲の<理阿弥>さん作の前編のような作品を、<飯田和馬>さんは投稿して下さった。
ありがとう、飯田和馬さん。
篤く篤く御礼申し上げます。
「おみかんをひとつ下さい。後生です。」と言う科白の話者は、前掲の理阿弥さん作中に登場する、後に<八丈島送り>となる<悪阿弥>であり、彼の両腕は刺青などで「真っ黒」になっているのてある。
また、「紅い山茶花」とは、件の悪阿弥がその科白を口にした時の、お白洲の周りの風景なのである。
〔返〕 「後生です、おみかんもひとつ下さいな。」お七の股には<悪阿弥命>と 鳥羽省三
(藻上旅人)
冷凍のみかん片手に乗りこめば静かに始まり往くひとり旅
前作や前々作に登場する<悪阿弥>や<お七>の場合は、裸馬に乗せられての「ひとり旅」であったが、こちらの「ひとり旅」は、「冷凍のみかん」を「片手に」しての山形新幹線での「ひとり旅」である。
「冷凍のみかん」が融け行くにつれて、<藻上>さんの<旅人>としてのお気持ちは次第に高まって行く。
〔返〕 雪未だ残して立てる蔵王見ゆ五月雨煙る最上川見ゆ 鳥羽省三
(鮎美)
冬の夜の隅の木箱でじりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく
本作の作者・鮎美さんのお宅では、お歳暮やお年賀として、木箱入りの高級蜜柑を何箱もいただいたのでありましょうか?
私共の家では、毎年一箱か二箱、しかも木箱入りの高級品では無く、ダンボール箱入りの中級以下の蜜柑しか貰えませんから、この作品をとても羨ましいと思いながら観賞させていただきました。
「冬の夜の隅の木箱で」「じりじりと」「みかんは蜜柑に潰されてゆく」とありますから、その「木箱」には、 高級な「蜜柑」が、隙き間無くびっしりと詰まっているのでしょう。
「蜜柑」の上に「蜜柑」が重なり、その「蜜柑」の上にも「蜜柑」が重なって箱に入れられている。
しかも、三段重ね、五段重ねの「蜜柑」の「箱」の上に、更に三段重ね、五段重ねの「蜜柑」の「箱」が山積みされている風景。
それは、いかにもお金持ちの家のお正月風景らしいお目出度い風景である。
でも、その風景は単なるお目出度い風景だけで終わってはいない。
何故ならば、「冬の夜の隅の木箱でじりじりと」という、上の句の重々しい措辞を無視してはならないからである。
「冬の隅の木箱で」とは、<この世の賑わいから置き忘れられた位置で>ということである。
その「冬の隅の木箱」の中で「じりじりとでじりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく」のであるが、この段階での「蜜柑」は、もはや単なる「蜜柑」では無く、この世の賑わいから置き忘れられて棲む人間なのである。
いや、彼女(或いは彼)は、この世の賑わいから置き忘れられて一人住まいする人間なのではない。
この世の賑わいの中に居て、その最底辺に居て、人々の為す賑わいや狂態や何やらの重さに「じりじり」と押し潰されている<犠牲者>であり、暗黒と孤独ともう直ぐ訪れる筈の腐臭とを強いられている<聖者>なのである。
表面は金満家の正月のお目出度い風景のように見せかけて、その底に一抹も二抹も三抹もの、暗さや重さや寂しさや侘しさや苦しさを表現しようとしたところが、この傑作の傑作たる所以でありましょう。
親の重みで潰された息子の話は何度も耳にしましたが、「蜜柑」の重みで「みかん」が「潰されてゆく」という話は初耳でした。
「冬の夜の/隅の木箱で/じりじりと/」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」と、この傑作を、もう一度ゆっくりと音読してみる。
「冬の夜の/隅の木箱で/じりじりと」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」。
素晴らしい作品は、何度読んでも素晴らしい作品である。
歌人ちゃんたちの遊びでしかない、との評価もなされている「題詠2010」の瓦礫の中に、時折りこんな傑作が混じっているのですから、「一首を切り裂く」は止められません。
〔返〕 冬の夜の囲炉裏の側でじりじりと雄と雌とは焙られて行く 鳥羽省三
と言っても、この場合の「雄と雌」は、人間の男女のことでは無く、麹漬けのハタハタの「雄と雌」のことですから悪しからず。
(ひじり純子)
冬になれば箱ごと買っていたみかん 母のこだわりの一つでもある
同じ「箱」入りの「みかん」でも、<ひじり>さんちの箱入り「みかん」は、たった一箱だけの、しかもダンボール箱入りの、大小不揃いの規格外れの特売用の「みかん」なのである。
したがって、本作での<みかん>は、「じりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく」といったような無駄なことも無く、<ひじり>家のご聖母さまが、どんなに目を光らせて、「一日、三個までよ。それ以上食べたら体に毒ですからね」などと嘘を言って管理していても、食い意地の張った純子ちゃんや純平くんたちに、たちまち食いつぶされてしまう「みかん」なのである。
「あの頃はお父さんのお給金も少なかったから、お父さんと私は、自分たちは鰯の尻尾でご飯を食べながら、あなたたちには何一つ物惜しみしないで食べさせていたのですよ。だから、毎年冬になれば、お蜜柑だって、お林檎だって、お落花生だって、箱ごと買って、食べさせていたのよ。それなのに、あなたったら、あの碌でも無い男と駆け落ちなんかしてしまって.........」と、ひじり純子さんのお母様の老いの繰り言は尽きようもない。
〔返〕 あの年のイブから来ないサンタさんちょうど純子の反抗期にて 鳥羽省三
(アンタレス)
数う程無きみかんなり熟れたればムクドリの群れ食むを追えぬ吾
本作の作者・アンタレスさんは、<古典仮名遣ひ>を用いた<文語短歌>を創作してみようとのご意志をお持ちでありましょう。
だが、遣り慣れないことは、やはり遣るべきではありません。
口語動詞「数える」の終止形を文語に改めると「数う」では無く「数ふ」となりますが、本作の場合は、その後に「程」という体言を随えておりますから、ここは、「数う」でも「数ふ」でも無く、連体形の「数ふる」としなければなりません。
もう一点、「食むを追えぬ吾」という五句目中の「追えぬ」は「追へぬ」とするべきです。
〔返〕 十指もて数ふる程の蜜柑なれ熟るれば惜しく椋鳥を追ふ 鳥羽省三
「我が家の蜜柑はそんなに少ない数ではありませんよ」などと仰るのでしたら。
〔返〕 百粒に足らぬ蜜柑の熟れたるに群がる鳥を婆々声で追ふ 鳥羽省三
或いは、もう少し気取りたかったら。
百粒に足らぬ蜜柑の熟れたるに群がる鳥をソプラノで追ふ 々
(コバライチ*キコ)
窓際の壁へと影を折り曲げて君はみかんの皮を剥きおり
照明と「君」の位置関係が問題である。
読みようによっては、作中の「君」は、本作の作者<コバライチ*キコ>さんに背中を向けて、ダブルベッドの隅っこで「みかんの皮を」剥いていたとも考えられる。
「同じ『皮』を剥くなら、何で<キコ>さんの.......。」と言いたくもなります。
〔返〕 あくる朝「行って来ます」も言わないで、君は手ぶらで会社に行った 鳥羽省三
昨夜、何があったかは存じませんが、いつも通りの筍弁当ぐらいは持たせてやりなさいよ。
しっかり「皮」を剥いてね。
(リンダ)
デコポンをみかんと呼ぶには高すぎて二人で分ける高齢の父母
同じ柑橘類ではあるが、「デコポン」は一個当たり百五十円もするから、年金生活の「高齢の父母」たちにとっては少し高価であるとも言えましょう。
でも、一個のデコポンを「二人で分け」て食べるのは夫婦和合の秘訣でもありましょうから、それはそれで宜しいのではないですか?
〔返〕 デコポンが好きだからとて五個も食べ毛穴の目立つ君のすっぴん 鳥羽省三
昨日今日 高価な寿司を独り占め 私は特価のとろろ蕎麦食い 々
(砂乃)
もう旅は終りに近いやるせなくみかんのネットをただもてあそぶ
「みかんのネット」とは、旅先の駅で買った冷凍蜜柑の入ったビニール製の蜜柑色した網袋である。
お互いに配偶者を持つ者同士の疑似不倫旅行も終末が見えて来て、もう二駅で別れなければならないのである。
「みかんのネット」のかさかさした手触りは、昨夜触れた彼の背中の手触りに似ている。
表現上の問題点について一言。
語句を少し入れ替えたり活用形を変えたりして、「旅はもう終りに近くやるせなく蜜柑のネットをもてあそぶだけ」とされたらいかがでしょうか?
「私は彼に弄ばれただけなのかも知れない」といったような憔悴感や空白感が醸し出されて来て、それなりに味のある一首になると思いますよ。
〔返〕 指の間を滑り落ち行く砂に似てざらざらとした彼のこころよ 鳥羽省三
でも、<砂乃>さんのご旅行は、単なるご家族旅行か主婦同士のグルメ旅行であって、評者が想定したようなご旅行ではありませんよね、きっと。(面白くも可笑しくもない!)
(行方祐美)
母となり行きたかつたよ入河屋みかん最中の十個を買ひに
作中の「みかん最中」は、静岡県浜松市の和洋菓子司「入河屋」の売れ筋ナンバーワン商品である。
その「入河屋みかん最中の十個を」を「母となり」、「買ひに」「行きたかつたよ」と言うのは、未だに「母」になれざる、本作の作者・行方祐美さんの切なる願いでありましょう。
「母となり」及び「十個を買ひに」が、この一首の聞かせどころ、泣かせどころである。
でもねェ、行方さん。
あなたが恋い焦がれている、あの「入河屋」の「みかん最中」は、昨今ではインターネットで、「十個」どころか百個でも千個でも自由に買えるんですよ。
いつまでも夢の世界に遊んでいないで、そろそろ現実の世界に帰りましょう。
〔返〕 「もなか」とは読めぬ女が「さいちゅう」と読みつつ食べた<みかん最中>よ 鳥羽省三
「最中」を「もなか」と読めずに「さいちゅう」と読みながらも、その最中をがつがつと食べ、お腹に入れていた女性が居た、というのは本当の話です。
但し、彼女の食べた最中は、浜松の<入河屋・みかん最中>では無く、東京赤坂の<とらや>の最中でしたが。
事の序でに、彼女のスキャンダルをもう一つ暴露すると、彼女は「とらや」の看板を「やらと」と読んでいました。
昔の看板は、右から左への流れで書かれていましたからね。
(如月綾)
ニャアとしか返事はこない でもいつか『みかん』のように喋るといいな
<ニャンニャン>世界の出来事である。
「でもいつか『みかん』のように喋るといいな」という下の句が面白い。
「みかん」が饒舌という発想がユニークなのである。
〔返〕 ニャアとしか返事の出来ぬ彼だけど二人になるとニャンニャンはする 鳥羽省三
(伊藤真也)
どうしたよ嫌いなんだろ?俺のこと 殴って来いよ!愛媛みかんで
「愛媛みかん」は皮が薄いから、殴られたって痛くも痒くもないことを、本作の作者・伊藤真也さんはご存じなのである。
〔返〕 皮厚く武器になるのは夏蜜柑 萩の武家屋の白塀越しの 鳥羽省三
(野州)
春潮にかかとを濡らしメバル釣るぼくらをみかん山で呼ぶ声
数多い磯魚の中でも「春潮にかかとを濡らし」て「釣る」に相応しい魚といったら、やはり「メバル」でありましょう。
蜜柑山を背にした瀬戸内沿岸などでのメバル釣り風景でしょうか?
「春潮」は「しゅんちょう」と読むのでは無く、「はるじお」と読むのでしょう。
また、「かかとを濡らしメバル釣る」は、「かかと濡らしてメバル釣る」とした方が、一首の流れが良くなるかとも思われます。
更に欲張って言えば、下の句を「みかん山から僕らを呼んでる」としたら、いかがでしょうか?
〔返〕 春潮に脛まで濡れてメバル釣る 蜜柑山から呼び声がする 鳥羽省三
(新井蜜)
十日置きに箱のみかんを送りくる義母と僕らの心理戦争
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
これが何の「心理戦争」ですか。
卑しくも「戦争」と言ったら、<砲弾と砲弾の応酬>を指して言うのですよ。
〔返〕 義母からは蜜柑爆弾飛び来るが此方側ではそれを喰うだけ 鳥羽省三
とは申しましたが、そのお気持ちはよくよく解りますよ。「十日置きに箱のみかんを送りくる義母」の魂胆は、腹いせ以外の何物でもありませんからね。
(高松紗都子)
秋冷をたずさえてきた君の手に香るみかんの愛しきおもさ
「秋冷をたずさえてきた君の手に香るみかん」とは、伊予宇和島産の極早稲みかんである。
その重量は、重からず軽からず程が好いので、それを称して、本作の作者・高松紗都子さんは、「愛しきおもさ」と述べられたのである。
「秋冷」の一語、身に染み入りました。
「十日置きに箱のみかん」を送って来て恨まれる、愚かな「義母」も居るし、たった一個の「みかん」に「秋冷」を感じさせた「君」も居るし、この世の中、本当にさまざまですね。
〔返〕 「宇和島産極早稲みかん<秋冷>」と名付けし佳人に<秋冷>二箱 鳥羽省三
賞品の<秋冷>二箱は、副賞の旅行券・十万円と共に、八月早々、愛媛県宇和島農協から送られて来るはずです。
名付け親の高松紗都子さん、お楽しみに。
(チッピッピ)
宅急便「何も入れぬ」という母が必ず入れる故郷のみかん
贈り物はこういうのが宜しい。
高松紗都子さん作中の<秋冷>「みかん」を頂いた時も嬉しいが、「何も入れぬ」という「宅急便」のダンボール箱の中から「故郷のみかん」の香りが漂って来た時には最も嬉しい。
〔返〕 ふるさとの風の便りの早稲みかん母はこの秋傘寿を迎ふ 鳥羽省三
(南葦太)
給食のみかん果汁に染まりゆくカッターシャツの白かった夢
本作の作者・南葦太さんのご年齢から推して知るに、「給食のみかん果汁」とは、正確に言えば、国産の「みかん果汁」では無く、アメリカ帝国主義から強引に押し付けられた、有害農薬塗れの「オレンジ果汁」に違いない。
したがって、本作の作者の見る「カッターシャツの白かった夢」には、社会民主党や日本共産党が主張している<反米思想>の萌芽に類する要素が認められる。
〔返〕 給食のオレンジジュースに侵されてカッターシャツは褐色になる 鳥羽省三
(虫武一俊)
遠くへと行きたい望みかんからと鋼の箱に骨を鳴らして
父母の遺骨を「鋼の箱」に入れて歩くと、その遺骨は彼の歩みにつれて「かんから」と鳴ると言うのである。
劇画世界の出来事かとは思われるが、「本作の作者の人生観は何と冷め切ったものであろう」と、愕然としている評者である。
〔返〕 かんからかんかんからかんと泣く骨はスペースシャトルに乗せて葬れ 鳥羽省三
(青野ことり)
暮れてゆく まぶたもみかん色に染め 藍の帳はまたたくうちに
「暮れてゆく」の後の一字空きに工夫が認められる。
「暮れてゆく」と言っても、昼から夜に一気に傾いて行くのではない。
最初、憂い顔の<青野ことり>さんの「まぶた」を「みかん色に染め」、それから徐々に周りの風景を色々な色彩で荘厳に彩り、その挙句に「藍」色の夜の「帳」が静かに下りるのである。
四、五句目に「藍の帳はまたたくうちに」とあるが、「藍」色の夜の「帳」が「またたくうちに」下りるか、徐々に静かに下りるか、の判断は、見ている者の主観によるところが大きい。
それなのに、「藍の帳はまたたくうちに」と感じられた<青野ことり>さんは、あと幾日の命を宣告されたか弱い小鳥みたいです。
〔返〕 暮れて行く 瞼を染めて出掛けてく 社交嬢さん出勤タイム 鳥羽省三
(sh)
つぶつぶのみかんジュースはきらいです 君が好きなら僕も好きです
ひと頃の文壇や哲学壇で、<主体性論争>というやつが盛んに交わされましたがご存じですか。
それにしても、この主体性の無さは、同じ日本人として非常に嘆かわしい。
でも、昨今は、主体性のあるやつは嫌われますね。あの前亀井大臣みたいに。
でも、でも、あの前総理大臣みたいに、主体性がまるで無いやつも困るし。
〔返〕 粒選りの閣僚だけに安心だ参院選も絶対勝利? 鳥羽省三
(穂ノ木芽央)
今冬の最後のみかんの皮むきてあらゆる別離のことば考へ
寂しい限りです。
〔返〕 昨今はものの盛りも旬も無し柑橘類は年から年中 鳥羽省三
(B子)
お手玉のみかん転げて日本海こたつ布団の波はうずしお
作者名<B子>の<B>は半角の<B>であるから、ついうかっりすると、本作の作者を、世に言う<歌人ちゃん>と思ったりもするが、作品そのものはなかなかの出来栄えである。
察するに、作中の「みかん」は山口県青海島産の「みかん」でしょうか?
「お手玉の→みかん→転げて→日本海→こたつ布団の→波は→うずしお」と、何よりも、必要最小限の言葉だけを並べて一首としたお手並みは、なかなかのものです。
この一首の何よりの取り得は独特のスピード感でしょう。
本作の作者<B子>さんは、「お手玉」の腕前はBクラスでも、短歌の腕前はAクラス半でしょう。
〔返〕 てんてんと転げたみかん手に取って毛利の殿様にっこり笑う 鳥羽省三
てんてんと蜜柑転げて宇和海へ宇和海名産養殖真珠 々
(ふうせん)
鉛筆で書いてみたけどまだ青いみかんだったねあの日の香り
「あの日」の淡い「香り」を、「鉛筆」の淡彩で「書いてみた」と言うのが味噌。
こうした淡彩の作品の鑑賞の要諦は、感じだけを味わい取り、意味についてはあれこれと詮索しないことである。
〔返〕 12色揃って只の105円<キャンドゥ>よりは<ダイソウ>が良し 鳥羽省三
(五十嵐きよみ)
ぼんやりとみかんの皮をむいていた答えを考えあぐねるうちに
何方にだってそういうことがあります。
そういうところが五十嵐きよみさんの人間的なところでしょう。
〔返〕 ぼんやりと爪のささくれ見つめてた宵の痛みを反芻してた 鳥羽省三
(珠弾)
巣ごもりの炬燵でうれてゆくみかん 当たり外れをえらんで食べる
晩生種の蜜柑のネーミングとしては、「巣ごもり」もなかなかのものですね。
「当たり外れ」の無い<完熟みかん>みたいで。
〔返〕 巣ごもりの甘き蜜柑を剥きながら金杯レースの予想している 鳥羽省三
金杯の予想も甘く明日はまたとぼとぼ辿るオケラ街道 々
(越冬こあら)
日本の居間のみかんの支えおる小宇宙とも言える空間
冬の「日本の居間」の風景を構成している要素として、「みかん」という存在は欠かすことが出来ません。
したがって、「日本の居間のみかんの支えおる」「空間」は、温かくも優しい、確かな「小宇宙とも言える空間」でありましょう。
〔返〕 セザンヌの画布を彩るオレンジの黄色にはつか見えたる腐敗 鳥羽省三
(あひる)
瀬戸内は小舟浮かべて微睡めりみかんに白き花咲く五月
「瀬戸内は小舟浮かべて微睡めり」という擬人化が宜しい。
また「みかんに白き花咲く五月」も宜しい。
これが「瀬戸内に小舟浮かべて微睡めりみかんの白き花咲く五月」だったならば、象徴も抽象も無く、ただの平凡な風景の写生みたいになってしまうからである。
〔返〕 島影に浮かぶ番ひは水掻きの何の鳥なるあひるにあらぬ 鳥羽省三
(牛 隆佑)
ばら色とまでは言わないみかん色ぐらいでちょうどいいんだ僕ら
「ばら色」は冷たく、「みかん色」は暖かい。
この一首で、作者の牛隆佑さんがお示しになって居られる、「ばら色とまでは言わないみかん色ぐらいでちょうどいいんだ僕ら」という姿勢は、一見すると、極めて謙虚な姿勢のように見られるが、実の所はなかなかの計算尽くの頭のいい姿勢なのである。
世に「華去就実」という金言が在る。
〔返〕 ジョニ黒とまでは言わないユニクロのTシャツぐらい買いたい気分 鳥羽省三
待てど待てど恋ほしき人の沙汰あらずみかんの種をがりっとくだく
江戸に残して来た恋人の<お七>が火付け強盗を働いて捕まったという情報を手にしてから半年になる。
だが、その後、彼女に下された「沙汰」に関する情報は、此処<八丈島>には届かない。
本作の作者・理阿弥さんの分身たるやくざ者・悪阿弥は、流刑の地・八丈島で、彼女が<八丈送りの刑>に処せられることを首を長くして待っているのである。
〔返〕 下された刑は獄門晒し首八丈で待つ悪阿弥がっくり 鳥羽省三
(飯田和馬)
おみかんをひとつ下さい。後生です。紅い山茶花。真っ黒の腕。
帯広と神戸とで、まさか相談したわけではないでしょうが、前掲の<理阿弥>さん作の前編のような作品を、<飯田和馬>さんは投稿して下さった。
ありがとう、飯田和馬さん。
篤く篤く御礼申し上げます。
「おみかんをひとつ下さい。後生です。」と言う科白の話者は、前掲の理阿弥さん作中に登場する、後に<八丈島送り>となる<悪阿弥>であり、彼の両腕は刺青などで「真っ黒」になっているのてある。
また、「紅い山茶花」とは、件の悪阿弥がその科白を口にした時の、お白洲の周りの風景なのである。
〔返〕 「後生です、おみかんもひとつ下さいな。」お七の股には<悪阿弥命>と 鳥羽省三
(藻上旅人)
冷凍のみかん片手に乗りこめば静かに始まり往くひとり旅
前作や前々作に登場する<悪阿弥>や<お七>の場合は、裸馬に乗せられての「ひとり旅」であったが、こちらの「ひとり旅」は、「冷凍のみかん」を「片手に」しての山形新幹線での「ひとり旅」である。
「冷凍のみかん」が融け行くにつれて、<藻上>さんの<旅人>としてのお気持ちは次第に高まって行く。
〔返〕 雪未だ残して立てる蔵王見ゆ五月雨煙る最上川見ゆ 鳥羽省三
(鮎美)
冬の夜の隅の木箱でじりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく
本作の作者・鮎美さんのお宅では、お歳暮やお年賀として、木箱入りの高級蜜柑を何箱もいただいたのでありましょうか?
私共の家では、毎年一箱か二箱、しかも木箱入りの高級品では無く、ダンボール箱入りの中級以下の蜜柑しか貰えませんから、この作品をとても羨ましいと思いながら観賞させていただきました。
「冬の夜の隅の木箱で」「じりじりと」「みかんは蜜柑に潰されてゆく」とありますから、その「木箱」には、 高級な「蜜柑」が、隙き間無くびっしりと詰まっているのでしょう。
「蜜柑」の上に「蜜柑」が重なり、その「蜜柑」の上にも「蜜柑」が重なって箱に入れられている。
しかも、三段重ね、五段重ねの「蜜柑」の「箱」の上に、更に三段重ね、五段重ねの「蜜柑」の「箱」が山積みされている風景。
それは、いかにもお金持ちの家のお正月風景らしいお目出度い風景である。
でも、その風景は単なるお目出度い風景だけで終わってはいない。
何故ならば、「冬の夜の隅の木箱でじりじりと」という、上の句の重々しい措辞を無視してはならないからである。
「冬の隅の木箱で」とは、<この世の賑わいから置き忘れられた位置で>ということである。
その「冬の隅の木箱」の中で「じりじりとでじりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく」のであるが、この段階での「蜜柑」は、もはや単なる「蜜柑」では無く、この世の賑わいから置き忘れられて棲む人間なのである。
いや、彼女(或いは彼)は、この世の賑わいから置き忘れられて一人住まいする人間なのではない。
この世の賑わいの中に居て、その最底辺に居て、人々の為す賑わいや狂態や何やらの重さに「じりじり」と押し潰されている<犠牲者>であり、暗黒と孤独ともう直ぐ訪れる筈の腐臭とを強いられている<聖者>なのである。
表面は金満家の正月のお目出度い風景のように見せかけて、その底に一抹も二抹も三抹もの、暗さや重さや寂しさや侘しさや苦しさを表現しようとしたところが、この傑作の傑作たる所以でありましょう。
親の重みで潰された息子の話は何度も耳にしましたが、「蜜柑」の重みで「みかん」が「潰されてゆく」という話は初耳でした。
「冬の夜の/隅の木箱で/じりじりと/」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」と、この傑作を、もう一度ゆっくりと音読してみる。
「冬の夜の/隅の木箱で/じりじりと」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」「じりじりと/みかんは蜜柑に/潰されてゆく」。
素晴らしい作品は、何度読んでも素晴らしい作品である。
歌人ちゃんたちの遊びでしかない、との評価もなされている「題詠2010」の瓦礫の中に、時折りこんな傑作が混じっているのですから、「一首を切り裂く」は止められません。
〔返〕 冬の夜の囲炉裏の側でじりじりと雄と雌とは焙られて行く 鳥羽省三
と言っても、この場合の「雄と雌」は、人間の男女のことでは無く、麹漬けのハタハタの「雄と雌」のことですから悪しからず。
(ひじり純子)
冬になれば箱ごと買っていたみかん 母のこだわりの一つでもある
同じ「箱」入りの「みかん」でも、<ひじり>さんちの箱入り「みかん」は、たった一箱だけの、しかもダンボール箱入りの、大小不揃いの規格外れの特売用の「みかん」なのである。
したがって、本作での<みかん>は、「じりじりとみかんは蜜柑に潰されてゆく」といったような無駄なことも無く、<ひじり>家のご聖母さまが、どんなに目を光らせて、「一日、三個までよ。それ以上食べたら体に毒ですからね」などと嘘を言って管理していても、食い意地の張った純子ちゃんや純平くんたちに、たちまち食いつぶされてしまう「みかん」なのである。
「あの頃はお父さんのお給金も少なかったから、お父さんと私は、自分たちは鰯の尻尾でご飯を食べながら、あなたたちには何一つ物惜しみしないで食べさせていたのですよ。だから、毎年冬になれば、お蜜柑だって、お林檎だって、お落花生だって、箱ごと買って、食べさせていたのよ。それなのに、あなたったら、あの碌でも無い男と駆け落ちなんかしてしまって.........」と、ひじり純子さんのお母様の老いの繰り言は尽きようもない。
〔返〕 あの年のイブから来ないサンタさんちょうど純子の反抗期にて 鳥羽省三
(アンタレス)
数う程無きみかんなり熟れたればムクドリの群れ食むを追えぬ吾
本作の作者・アンタレスさんは、<古典仮名遣ひ>を用いた<文語短歌>を創作してみようとのご意志をお持ちでありましょう。
だが、遣り慣れないことは、やはり遣るべきではありません。
口語動詞「数える」の終止形を文語に改めると「数う」では無く「数ふ」となりますが、本作の場合は、その後に「程」という体言を随えておりますから、ここは、「数う」でも「数ふ」でも無く、連体形の「数ふる」としなければなりません。
もう一点、「食むを追えぬ吾」という五句目中の「追えぬ」は「追へぬ」とするべきです。
〔返〕 十指もて数ふる程の蜜柑なれ熟るれば惜しく椋鳥を追ふ 鳥羽省三
「我が家の蜜柑はそんなに少ない数ではありませんよ」などと仰るのでしたら。
〔返〕 百粒に足らぬ蜜柑の熟れたるに群がる鳥を婆々声で追ふ 鳥羽省三
或いは、もう少し気取りたかったら。
百粒に足らぬ蜜柑の熟れたるに群がる鳥をソプラノで追ふ 々
(コバライチ*キコ)
窓際の壁へと影を折り曲げて君はみかんの皮を剥きおり
照明と「君」の位置関係が問題である。
読みようによっては、作中の「君」は、本作の作者<コバライチ*キコ>さんに背中を向けて、ダブルベッドの隅っこで「みかんの皮を」剥いていたとも考えられる。
「同じ『皮』を剥くなら、何で<キコ>さんの.......。」と言いたくもなります。
〔返〕 あくる朝「行って来ます」も言わないで、君は手ぶらで会社に行った 鳥羽省三
昨夜、何があったかは存じませんが、いつも通りの筍弁当ぐらいは持たせてやりなさいよ。
しっかり「皮」を剥いてね。
(リンダ)
デコポンをみかんと呼ぶには高すぎて二人で分ける高齢の父母
同じ柑橘類ではあるが、「デコポン」は一個当たり百五十円もするから、年金生活の「高齢の父母」たちにとっては少し高価であるとも言えましょう。
でも、一個のデコポンを「二人で分け」て食べるのは夫婦和合の秘訣でもありましょうから、それはそれで宜しいのではないですか?
〔返〕 デコポンが好きだからとて五個も食べ毛穴の目立つ君のすっぴん 鳥羽省三
昨日今日 高価な寿司を独り占め 私は特価のとろろ蕎麦食い 々
(砂乃)
もう旅は終りに近いやるせなくみかんのネットをただもてあそぶ
「みかんのネット」とは、旅先の駅で買った冷凍蜜柑の入ったビニール製の蜜柑色した網袋である。
お互いに配偶者を持つ者同士の疑似不倫旅行も終末が見えて来て、もう二駅で別れなければならないのである。
「みかんのネット」のかさかさした手触りは、昨夜触れた彼の背中の手触りに似ている。
表現上の問題点について一言。
語句を少し入れ替えたり活用形を変えたりして、「旅はもう終りに近くやるせなく蜜柑のネットをもてあそぶだけ」とされたらいかがでしょうか?
「私は彼に弄ばれただけなのかも知れない」といったような憔悴感や空白感が醸し出されて来て、それなりに味のある一首になると思いますよ。
〔返〕 指の間を滑り落ち行く砂に似てざらざらとした彼のこころよ 鳥羽省三
でも、<砂乃>さんのご旅行は、単なるご家族旅行か主婦同士のグルメ旅行であって、評者が想定したようなご旅行ではありませんよね、きっと。(面白くも可笑しくもない!)
(行方祐美)
母となり行きたかつたよ入河屋みかん最中の十個を買ひに
作中の「みかん最中」は、静岡県浜松市の和洋菓子司「入河屋」の売れ筋ナンバーワン商品である。
その「入河屋みかん最中の十個を」を「母となり」、「買ひに」「行きたかつたよ」と言うのは、未だに「母」になれざる、本作の作者・行方祐美さんの切なる願いでありましょう。
「母となり」及び「十個を買ひに」が、この一首の聞かせどころ、泣かせどころである。
でもねェ、行方さん。
あなたが恋い焦がれている、あの「入河屋」の「みかん最中」は、昨今ではインターネットで、「十個」どころか百個でも千個でも自由に買えるんですよ。
いつまでも夢の世界に遊んでいないで、そろそろ現実の世界に帰りましょう。
〔返〕 「もなか」とは読めぬ女が「さいちゅう」と読みつつ食べた<みかん最中>よ 鳥羽省三
「最中」を「もなか」と読めずに「さいちゅう」と読みながらも、その最中をがつがつと食べ、お腹に入れていた女性が居た、というのは本当の話です。
但し、彼女の食べた最中は、浜松の<入河屋・みかん最中>では無く、東京赤坂の<とらや>の最中でしたが。
事の序でに、彼女のスキャンダルをもう一つ暴露すると、彼女は「とらや」の看板を「やらと」と読んでいました。
昔の看板は、右から左への流れで書かれていましたからね。
(如月綾)
ニャアとしか返事はこない でもいつか『みかん』のように喋るといいな
<ニャンニャン>世界の出来事である。
「でもいつか『みかん』のように喋るといいな」という下の句が面白い。
「みかん」が饒舌という発想がユニークなのである。
〔返〕 ニャアとしか返事の出来ぬ彼だけど二人になるとニャンニャンはする 鳥羽省三
(伊藤真也)
どうしたよ嫌いなんだろ?俺のこと 殴って来いよ!愛媛みかんで
「愛媛みかん」は皮が薄いから、殴られたって痛くも痒くもないことを、本作の作者・伊藤真也さんはご存じなのである。
〔返〕 皮厚く武器になるのは夏蜜柑 萩の武家屋の白塀越しの 鳥羽省三
(野州)
春潮にかかとを濡らしメバル釣るぼくらをみかん山で呼ぶ声
数多い磯魚の中でも「春潮にかかとを濡らし」て「釣る」に相応しい魚といったら、やはり「メバル」でありましょう。
蜜柑山を背にした瀬戸内沿岸などでのメバル釣り風景でしょうか?
「春潮」は「しゅんちょう」と読むのでは無く、「はるじお」と読むのでしょう。
また、「かかとを濡らしメバル釣る」は、「かかと濡らしてメバル釣る」とした方が、一首の流れが良くなるかとも思われます。
更に欲張って言えば、下の句を「みかん山から僕らを呼んでる」としたら、いかがでしょうか?
〔返〕 春潮に脛まで濡れてメバル釣る 蜜柑山から呼び声がする 鳥羽省三
(新井蜜)
十日置きに箱のみかんを送りくる義母と僕らの心理戦争
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
これが何の「心理戦争」ですか。
卑しくも「戦争」と言ったら、<砲弾と砲弾の応酬>を指して言うのですよ。
〔返〕 義母からは蜜柑爆弾飛び来るが此方側ではそれを喰うだけ 鳥羽省三
とは申しましたが、そのお気持ちはよくよく解りますよ。「十日置きに箱のみかんを送りくる義母」の魂胆は、腹いせ以外の何物でもありませんからね。
(高松紗都子)
秋冷をたずさえてきた君の手に香るみかんの愛しきおもさ
「秋冷をたずさえてきた君の手に香るみかん」とは、伊予宇和島産の極早稲みかんである。
その重量は、重からず軽からず程が好いので、それを称して、本作の作者・高松紗都子さんは、「愛しきおもさ」と述べられたのである。
「秋冷」の一語、身に染み入りました。
「十日置きに箱のみかん」を送って来て恨まれる、愚かな「義母」も居るし、たった一個の「みかん」に「秋冷」を感じさせた「君」も居るし、この世の中、本当にさまざまですね。
〔返〕 「宇和島産極早稲みかん<秋冷>」と名付けし佳人に<秋冷>二箱 鳥羽省三
賞品の<秋冷>二箱は、副賞の旅行券・十万円と共に、八月早々、愛媛県宇和島農協から送られて来るはずです。
名付け親の高松紗都子さん、お楽しみに。
(チッピッピ)
宅急便「何も入れぬ」という母が必ず入れる故郷のみかん
贈り物はこういうのが宜しい。
高松紗都子さん作中の<秋冷>「みかん」を頂いた時も嬉しいが、「何も入れぬ」という「宅急便」のダンボール箱の中から「故郷のみかん」の香りが漂って来た時には最も嬉しい。
〔返〕 ふるさとの風の便りの早稲みかん母はこの秋傘寿を迎ふ 鳥羽省三
(南葦太)
給食のみかん果汁に染まりゆくカッターシャツの白かった夢
本作の作者・南葦太さんのご年齢から推して知るに、「給食のみかん果汁」とは、正確に言えば、国産の「みかん果汁」では無く、アメリカ帝国主義から強引に押し付けられた、有害農薬塗れの「オレンジ果汁」に違いない。
したがって、本作の作者の見る「カッターシャツの白かった夢」には、社会民主党や日本共産党が主張している<反米思想>の萌芽に類する要素が認められる。
〔返〕 給食のオレンジジュースに侵されてカッターシャツは褐色になる 鳥羽省三
(虫武一俊)
遠くへと行きたい望みかんからと鋼の箱に骨を鳴らして
父母の遺骨を「鋼の箱」に入れて歩くと、その遺骨は彼の歩みにつれて「かんから」と鳴ると言うのである。
劇画世界の出来事かとは思われるが、「本作の作者の人生観は何と冷め切ったものであろう」と、愕然としている評者である。
〔返〕 かんからかんかんからかんと泣く骨はスペースシャトルに乗せて葬れ 鳥羽省三
(青野ことり)
暮れてゆく まぶたもみかん色に染め 藍の帳はまたたくうちに
「暮れてゆく」の後の一字空きに工夫が認められる。
「暮れてゆく」と言っても、昼から夜に一気に傾いて行くのではない。
最初、憂い顔の<青野ことり>さんの「まぶた」を「みかん色に染め」、それから徐々に周りの風景を色々な色彩で荘厳に彩り、その挙句に「藍」色の夜の「帳」が静かに下りるのである。
四、五句目に「藍の帳はまたたくうちに」とあるが、「藍」色の夜の「帳」が「またたくうちに」下りるか、徐々に静かに下りるか、の判断は、見ている者の主観によるところが大きい。
それなのに、「藍の帳はまたたくうちに」と感じられた<青野ことり>さんは、あと幾日の命を宣告されたか弱い小鳥みたいです。
〔返〕 暮れて行く 瞼を染めて出掛けてく 社交嬢さん出勤タイム 鳥羽省三
(sh)
つぶつぶのみかんジュースはきらいです 君が好きなら僕も好きです
ひと頃の文壇や哲学壇で、<主体性論争>というやつが盛んに交わされましたがご存じですか。
それにしても、この主体性の無さは、同じ日本人として非常に嘆かわしい。
でも、昨今は、主体性のあるやつは嫌われますね。あの前亀井大臣みたいに。
でも、でも、あの前総理大臣みたいに、主体性がまるで無いやつも困るし。
〔返〕 粒選りの閣僚だけに安心だ参院選も絶対勝利? 鳥羽省三
(穂ノ木芽央)
今冬の最後のみかんの皮むきてあらゆる別離のことば考へ
寂しい限りです。
〔返〕 昨今はものの盛りも旬も無し柑橘類は年から年中 鳥羽省三
(B子)
お手玉のみかん転げて日本海こたつ布団の波はうずしお
作者名<B子>の<B>は半角の<B>であるから、ついうかっりすると、本作の作者を、世に言う<歌人ちゃん>と思ったりもするが、作品そのものはなかなかの出来栄えである。
察するに、作中の「みかん」は山口県青海島産の「みかん」でしょうか?
「お手玉の→みかん→転げて→日本海→こたつ布団の→波は→うずしお」と、何よりも、必要最小限の言葉だけを並べて一首としたお手並みは、なかなかのものです。
この一首の何よりの取り得は独特のスピード感でしょう。
本作の作者<B子>さんは、「お手玉」の腕前はBクラスでも、短歌の腕前はAクラス半でしょう。
〔返〕 てんてんと転げたみかん手に取って毛利の殿様にっこり笑う 鳥羽省三
てんてんと蜜柑転げて宇和海へ宇和海名産養殖真珠 々
(ふうせん)
鉛筆で書いてみたけどまだ青いみかんだったねあの日の香り
「あの日」の淡い「香り」を、「鉛筆」の淡彩で「書いてみた」と言うのが味噌。
こうした淡彩の作品の鑑賞の要諦は、感じだけを味わい取り、意味についてはあれこれと詮索しないことである。
〔返〕 12色揃って只の105円<キャンドゥ>よりは<ダイソウ>が良し 鳥羽省三
(五十嵐きよみ)
ぼんやりとみかんの皮をむいていた答えを考えあぐねるうちに
何方にだってそういうことがあります。
そういうところが五十嵐きよみさんの人間的なところでしょう。
〔返〕 ぼんやりと爪のささくれ見つめてた宵の痛みを反芻してた 鳥羽省三
(珠弾)
巣ごもりの炬燵でうれてゆくみかん 当たり外れをえらんで食べる
晩生種の蜜柑のネーミングとしては、「巣ごもり」もなかなかのものですね。
「当たり外れ」の無い<完熟みかん>みたいで。
〔返〕 巣ごもりの甘き蜜柑を剥きながら金杯レースの予想している 鳥羽省三
金杯の予想も甘く明日はまたとぼとぼ辿るオケラ街道 々
(越冬こあら)
日本の居間のみかんの支えおる小宇宙とも言える空間
冬の「日本の居間」の風景を構成している要素として、「みかん」という存在は欠かすことが出来ません。
したがって、「日本の居間のみかんの支えおる」「空間」は、温かくも優しい、確かな「小宇宙とも言える空間」でありましょう。
〔返〕 セザンヌの画布を彩るオレンジの黄色にはつか見えたる腐敗 鳥羽省三
(あひる)
瀬戸内は小舟浮かべて微睡めりみかんに白き花咲く五月
「瀬戸内は小舟浮かべて微睡めり」という擬人化が宜しい。
また「みかんに白き花咲く五月」も宜しい。
これが「瀬戸内に小舟浮かべて微睡めりみかんの白き花咲く五月」だったならば、象徴も抽象も無く、ただの平凡な風景の写生みたいになってしまうからである。
〔返〕 島影に浮かぶ番ひは水掻きの何の鳥なるあひるにあらぬ 鳥羽省三
(牛 隆佑)
ばら色とまでは言わないみかん色ぐらいでちょうどいいんだ僕ら
「ばら色」は冷たく、「みかん色」は暖かい。
この一首で、作者の牛隆佑さんがお示しになって居られる、「ばら色とまでは言わないみかん色ぐらいでちょうどいいんだ僕ら」という姿勢は、一見すると、極めて謙虚な姿勢のように見られるが、実の所はなかなかの計算尽くの頭のいい姿勢なのである。
世に「華去就実」という金言が在る。
〔返〕 ジョニ黒とまでは言わないユニクロのTシャツぐらい買いたい気分 鳥羽省三