○ 清姫が水裂き渡りし日高川赤き夕日は眩しすぎぬか (練馬区) かしまふさ
<日高川伝説>に取材した作品である。
「赤き夕日は眩しすぎぬか」が宜しい。
蛇になって「日高川」の「水」を裂いて渡って行く「清姫」にとっては、「赤き夕日は眩しすぎぬか」と言うのでありましょう。
この一首に、同性たる「清姫」の行為に対する同情ないしは共感の気持ちが託されているのであるとしたら、「清姫」も恐ろしいが、本作の作者<かしまふさ>さんも亦恐ろしい。
女の執念は、「赤き夕日」よりも赤く、時には紅蓮の炎となって燃え上がるのである。
特選一席。
〔返〕 安珍の怯懦を責むる清姫の呪ひの如く紅き夕焼け 鳥羽省三
○ 幾千のグリーン噴水噴くごとく外来イネ科草の凄じ (昭島市) 奥山公子
花粉症の原因になったり、牧草や飼料作物との競合を引き起こしたりして、昨今、何かと問題となっているのが、ネズミムギやオオクサキビなどの「外来イネ科」植物である。
本作は、その生命力の逞しさと繁茂していく様子の凄まじさを、「幾千のグリーン噴水噴くごとく」と表現しているのである。
特選二席。
〔返〕 億兆の緑色悪玉球菌のはびこる如しオオクサキビは 鳥羽省三
わらわらと土手も川原も喰い荒らし侵略者かもネズミムギらは 々
○ まじないのように「きれい」と呟いて流れ出る水舌で舐めとる (長岡京市) 橋本沙恵
特選三席。
「『舌で舐めとる』この『水』は、官能的な『水』かも知れませんね」と仰る東直子氏の評言は、<NHK短歌>の選者に相応しい上品さと節度を持った言い方である。
遠い原始時代に、瀕死の重傷を負った男性の傷口を舐め、献身的な看病をしている女性の姿をイメージして詠んだ作品のようにも思われる。
〔返〕 「きれいね」の言葉と舌の情念が病める男を甦らせる 鳥羽省三
○ 水葬の死者はトポンと落とされき引き揚げ船の思ひ出を聞く (和歌山県) 助野貴美子
「水葬の死者はトポンと落とされき」までは、引き揚げ体験者から聞いた「引き揚げ船の思ひ出」である。
「引き揚げ船」の甲板から「トポンと落とされ」たら、それでお終いなのである。
〔返〕 稲藁の薦を蒲団に波枕トポンと海に落とす水葬 鳥羽省三
真裸で胸に手を組み口閉じてトポンと海に落ちてお終い 々
○ 雪積もる道央に着きラーメンを食べてこよなく水を飲み干す (和泉市) 橋本典子
「ラーメンを食べてこよなく水を飲み干す」とあるから、「水」が美味しかったことは解るが、「ラーメン」が美味しかったかどうかは解らない。
〔返〕 雪道に車輪取られて難渋しラーメンの味までは分からず 鳥羽省三
オーダーの出て来る前のひと時にまざまざと知る雪の深さを 々
○ 籠いっぱい海水(うみみず)滴るひじき背にはにかみ砂踏む少年の春 (茨木市) 久次米笑子
今どき、こんな「少年」も居て、こんな「少年の春」も在ることを知った。
〔返〕 潮水の滴るひじき背に負ひて何をはにかむ神の少年 鳥羽省三
真裸足で砂を踏み締め浜に立つ神の少年ひじき藻背負い 々
○ 逃げそうな豆腐を選びすくう手の二の腕太き店主の寡黙 (城陽市) 松尾正一
「逃げそうな豆腐」とは、型崩れしていない「豆腐」でありましょうか?
だとすると、「二の腕太き店主の寡黙」という表現に、「逃げそうな豆腐を選びすくう」「店主」に対する、本作の作者の信頼感が託されているのでありましょう。
〔返〕 二の腕の太き店主に掬われて絹目豆腐の淡き逃亡 鳥羽省三
二の腕の太き店主に掬われて木綿豆腐の無駄な逃亡 々
○ 嫁ぎたる娘の机の引き出しに「恋はみずいろ」残されてありぬ (名古屋市) 田中稔員
「恋はみずいろ」とは、1968年に<ポール・モーリア>が歌って世界的にヒットしたあの曲。
あの曲のレコードを生家の「机の引き出し」に残して行ったところに、「嫁ぎたる娘」の秘密が感じられないでもないが、結婚した頃には、既にCD時代が到来していたのかも知れない。
〔返〕 にじいろの恋の脚無く立つ瀬無く泣く泣く嫁ぎ行く他は無く 鳥羽省三
○ 水をみな抜いてしまへば砂時計三分持たぬ我かも知れず (金沢市) 前川久宜
「我」は「水」と「砂」だけで生きている、という、悲観的、否定的人生観に立って詠んだ一首である。
そう言えば、たった「三分」だけしか活躍できない限定ヒーローが何処かのバーチャル空間に居たような気がしたが、本作の作者・前川久宜さんは彼らの仲間だろうか?
〔返〕 結論を言へば人間独りでは三分間も持たぬ今生 鳥羽省三
○ どなたにも合わせて穏しくよく動く水のようなり姉の生涯 (長野市) 堀あき代
「水は方円の器に随う」とは言うが、遠慮無く私見を申し述べさせていただくと、「どなたにも合わせて穏しくよく動く」ような人間の「生涯」は在り得ないと私は思うし、仮に在り得たように見えるたとしたら、それはそのように見せた者の自己欺瞞であり、その自己欺瞞に他人をも巻き込んだまやかしに過ぎないと私は思う。
何故ならば、人間は「水」と異なって、無色透明な存在でも融通無碍な存在でも無いからである。
〔返〕 穏しかる水も時には湯となりて前後左右に気炎を上げる 鳥羽省三
○ 放流の稚魚さながらに幼らは背を光らせる水の公園 (水戸市) 菊池和子
「放流の稚魚」が効き目である。
「水の公園」で「背を光らせる」「幼ら」は、「放流の稚魚」同様に、その員数が数え上げられ、管理可能な範囲内で泳がせられているに過ぎないのである。
〔返〕 母川になれざる水の公園で背を光らせて泳ぐひと時 鳥羽省三
○ 忘れたいことは記憶に残りいて水は澱みぬ義母の脳に (茨城県) 吉川英治
「忘れたいことは記憶に残りいて水は澱みぬ」とは、認知症を比喩的に述べたのであろう。
「忘れたいことは記憶に残り」ながら<忘れられないこと>を忘れてしまうような種類の認知症も確かに在ると思う。
〔返〕 水澱むところに棲める魚も居てちくりちくりと藻草をつつく 鳥羽省三
<日高川伝説>に取材した作品である。
「赤き夕日は眩しすぎぬか」が宜しい。
蛇になって「日高川」の「水」を裂いて渡って行く「清姫」にとっては、「赤き夕日は眩しすぎぬか」と言うのでありましょう。
この一首に、同性たる「清姫」の行為に対する同情ないしは共感の気持ちが託されているのであるとしたら、「清姫」も恐ろしいが、本作の作者<かしまふさ>さんも亦恐ろしい。
女の執念は、「赤き夕日」よりも赤く、時には紅蓮の炎となって燃え上がるのである。
特選一席。
〔返〕 安珍の怯懦を責むる清姫の呪ひの如く紅き夕焼け 鳥羽省三
○ 幾千のグリーン噴水噴くごとく外来イネ科草の凄じ (昭島市) 奥山公子
花粉症の原因になったり、牧草や飼料作物との競合を引き起こしたりして、昨今、何かと問題となっているのが、ネズミムギやオオクサキビなどの「外来イネ科」植物である。
本作は、その生命力の逞しさと繁茂していく様子の凄まじさを、「幾千のグリーン噴水噴くごとく」と表現しているのである。
特選二席。
〔返〕 億兆の緑色悪玉球菌のはびこる如しオオクサキビは 鳥羽省三
わらわらと土手も川原も喰い荒らし侵略者かもネズミムギらは 々
○ まじないのように「きれい」と呟いて流れ出る水舌で舐めとる (長岡京市) 橋本沙恵
特選三席。
「『舌で舐めとる』この『水』は、官能的な『水』かも知れませんね」と仰る東直子氏の評言は、<NHK短歌>の選者に相応しい上品さと節度を持った言い方である。
遠い原始時代に、瀕死の重傷を負った男性の傷口を舐め、献身的な看病をしている女性の姿をイメージして詠んだ作品のようにも思われる。
〔返〕 「きれいね」の言葉と舌の情念が病める男を甦らせる 鳥羽省三
○ 水葬の死者はトポンと落とされき引き揚げ船の思ひ出を聞く (和歌山県) 助野貴美子
「水葬の死者はトポンと落とされき」までは、引き揚げ体験者から聞いた「引き揚げ船の思ひ出」である。
「引き揚げ船」の甲板から「トポンと落とされ」たら、それでお終いなのである。
〔返〕 稲藁の薦を蒲団に波枕トポンと海に落とす水葬 鳥羽省三
真裸で胸に手を組み口閉じてトポンと海に落ちてお終い 々
○ 雪積もる道央に着きラーメンを食べてこよなく水を飲み干す (和泉市) 橋本典子
「ラーメンを食べてこよなく水を飲み干す」とあるから、「水」が美味しかったことは解るが、「ラーメン」が美味しかったかどうかは解らない。
〔返〕 雪道に車輪取られて難渋しラーメンの味までは分からず 鳥羽省三
オーダーの出て来る前のひと時にまざまざと知る雪の深さを 々
○ 籠いっぱい海水(うみみず)滴るひじき背にはにかみ砂踏む少年の春 (茨木市) 久次米笑子
今どき、こんな「少年」も居て、こんな「少年の春」も在ることを知った。
〔返〕 潮水の滴るひじき背に負ひて何をはにかむ神の少年 鳥羽省三
真裸足で砂を踏み締め浜に立つ神の少年ひじき藻背負い 々
○ 逃げそうな豆腐を選びすくう手の二の腕太き店主の寡黙 (城陽市) 松尾正一
「逃げそうな豆腐」とは、型崩れしていない「豆腐」でありましょうか?
だとすると、「二の腕太き店主の寡黙」という表現に、「逃げそうな豆腐を選びすくう」「店主」に対する、本作の作者の信頼感が託されているのでありましょう。
〔返〕 二の腕の太き店主に掬われて絹目豆腐の淡き逃亡 鳥羽省三
二の腕の太き店主に掬われて木綿豆腐の無駄な逃亡 々
○ 嫁ぎたる娘の机の引き出しに「恋はみずいろ」残されてありぬ (名古屋市) 田中稔員
「恋はみずいろ」とは、1968年に<ポール・モーリア>が歌って世界的にヒットしたあの曲。
あの曲のレコードを生家の「机の引き出し」に残して行ったところに、「嫁ぎたる娘」の秘密が感じられないでもないが、結婚した頃には、既にCD時代が到来していたのかも知れない。
〔返〕 にじいろの恋の脚無く立つ瀬無く泣く泣く嫁ぎ行く他は無く 鳥羽省三
○ 水をみな抜いてしまへば砂時計三分持たぬ我かも知れず (金沢市) 前川久宜
「我」は「水」と「砂」だけで生きている、という、悲観的、否定的人生観に立って詠んだ一首である。
そう言えば、たった「三分」だけしか活躍できない限定ヒーローが何処かのバーチャル空間に居たような気がしたが、本作の作者・前川久宜さんは彼らの仲間だろうか?
〔返〕 結論を言へば人間独りでは三分間も持たぬ今生 鳥羽省三
○ どなたにも合わせて穏しくよく動く水のようなり姉の生涯 (長野市) 堀あき代
「水は方円の器に随う」とは言うが、遠慮無く私見を申し述べさせていただくと、「どなたにも合わせて穏しくよく動く」ような人間の「生涯」は在り得ないと私は思うし、仮に在り得たように見えるたとしたら、それはそのように見せた者の自己欺瞞であり、その自己欺瞞に他人をも巻き込んだまやかしに過ぎないと私は思う。
何故ならば、人間は「水」と異なって、無色透明な存在でも融通無碍な存在でも無いからである。
〔返〕 穏しかる水も時には湯となりて前後左右に気炎を上げる 鳥羽省三
○ 放流の稚魚さながらに幼らは背を光らせる水の公園 (水戸市) 菊池和子
「放流の稚魚」が効き目である。
「水の公園」で「背を光らせる」「幼ら」は、「放流の稚魚」同様に、その員数が数え上げられ、管理可能な範囲内で泳がせられているに過ぎないのである。
〔返〕 母川になれざる水の公園で背を光らせて泳ぐひと時 鳥羽省三
○ 忘れたいことは記憶に残りいて水は澱みぬ義母の脳に (茨城県) 吉川英治
「忘れたいことは記憶に残りいて水は澱みぬ」とは、認知症を比喩的に述べたのであろう。
「忘れたいことは記憶に残り」ながら<忘れられないこと>を忘れてしまうような種類の認知症も確かに在ると思う。
〔返〕 水澱むところに棲める魚も居てちくりちくりと藻草をつつく 鳥羽省三