臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・5月23日放送・改訂版)

2010年06月01日 | 今週のNHK短歌から
○ 真鰯がわたしをじっと見つめてる人の鮮度を測る目つきで  (佐賀市) 河原ゆう

 「人の鮮度を測る目つきで」とあるが、元より「真鰯」がそのような「目つきで」人間を見つめるわけがないから、本作の作者の河原ゆうさんは、ご自身を少し所帯じみた女性とお思いになっていらっしゃるのでありましょうか?
 でも、河原ゆうさんよ、決してそんなことはありませんよ。
 こんな「鮮度」のいい作品をお詠みになったという一点からしても、貴女は、貴女ご自身をこの地上で最も美しい女性として誇ることが出来、最も素晴らしい教養の持ち主として胸を張って大道を闊歩出来るのです、とまで申し上げたら、それは少し誉め殺しになるのでありましょうか?
 この一首は、見つめられている者、見下されている者としての意識に立ってお詠みになられた傑作である。
 昨今の世の中には、自分は見つめられたり見下されたりしているという意識を持っている人種よりも、見上げられたり見惚れられたりしているという意識を持っている人種が圧倒的に多く、それが諸々のトラブルの原因となっているとも言えるのである。
 この国に一万人ぐらいは居るかも知れないと噂されている歌人と称する人たちの中にも、そうした人種が50%程度居て、人の良い評者などがまかり間違ってそういう人たちの作品を採り上げ、いささかなりとも批評めいたことを口にすると、たちまち吊し上げを食ってしまうような始末である。
 そうした現状に在って、「真鰯がわたしをじっと見つめてる人の鮮度を測る目つきで」といった劣等意識をあからさまにされたような短歌をお詠みになって居られる作者は、この世に希なる善良で謙虚な女性であると思われる。  
 本作の面白さは、「人の鮮度を測る目つきで」「わたしをじっと見つめてる」魚が、数多い魚類の中でも最も低価格の魚と言ってもいい「真鰯」であることである。
 ところで、そうした「真鰯」から人間としての「鮮度を測る目つきで」見られているという意識は、通常の見方からすれば明らかに劣等感とも言える意識でありましょうが、それは作者流の逆説であって、本作を通じて作者が表現しようとしたものは、それとは裏腹な高踏的な美意識ではないでしょうか、などと述べたら、あまりにも穿った見方として、作者から非難されるでしょうか?
  〔返〕 昨今は鰯もなかなか漁れなくて養殖鯛などよりは高値(こうじき)   鳥羽省三    
      タイは下下イワシ中ほどクロマグロあまり高くて口に入らぬ   鳥羽省三


○ 子をもちし社宅を発たむ見送りの友が最後の町の風景  (三沢市) 佐々木千絵子

 一人の男性と結ばれて其処に住み、其処で「子」を生した「社宅」。
 その「社宅」は基地の「町」三沢市の一廓に在る。
 今日はその「社宅」を引き払って、他の土地に「発たむ」とする日である。
 その記念すべき今日の、今しも長年住み慣れた「社宅」の扉を閉じ、明日からの生活舞台となる土地へと飛び「発たむ」とした時、一人の「友」が本作の作者・佐々木千絵子さんたち一家を「見送り」に来てくれたのである。
 自分たちを見送ってくれるその「友」の姿をこの「町」で見る「最後」の「風景」として、本作の作者らはこの「町」を出発し、新世界へと旅立って行こうとしているのである。
 あの良き友に見送られて旅立つからには、明日からの生活は、夢と希望に満ち溢れたものであるに違いない。
 この「町」を去っても、あの「友」のことは決して忘れない。
 この「町」での「最後」の「風景」のことは決して忘れない。
 作中の「町」が基地の町・三沢であることを思うと、評者には、「この作品をもう少し深読みしてみよう」などといった気持ちもあるが、上の句が「子をもちし社宅を去らむ」では無く、「子をもちし社宅を発たむ」となっていることに気付き、作者の人生の益々盛んなることを祈願して、これ以上の深読みを断念することにしたのである。
  〔返〕 三沢市と聞けばすぐさま思い出すあの夏の日のあの熱投を   鳥羽省三
      寺山に太田投手に貴ノ浪 元斗南藩三沢市出身        鳥羽省三         

○ デデッポーを「チチンプイプイ」と聞く夫とおくりし四十年そうは聞こえず  (高松市) 嶋本和子

 作中の「夫」たる人物は故人であり、その人物を「夫」として、本作の作者は「四十年」もの間、結婚生活を営んで来たのである。
 亡き「夫」との思い出を詠んだ作品でありながら、この作品の世界は明るく、作者はユーモアセンスに溢れた人と思われる。
 でも、この評者にも、土鳩の鳴き声はあくまでも「デデッポー」と聞こえ、決して「チチンプイプイ」とは聞こえませんよ。
 「デデッポーを『チチンプイプイ』と聞く夫とおくりし四十年」は、本作の作者にとっては、最高に幸せな四十年間であったことでしょう。
  〔返〕 デデッポーを「チチンプイプイ」と聞く人で泣き言などは少しも言わず   鳥羽省三 
      チチンプイプイプイなどと飛ばぬまま治癒せぬままに逝きし夫よ   鳥羽省三


○ スカートのひらめくままに泣き濡れて君を送りし乙女の我は  (熊本県) 岡辺初代

 一首全体の措辞によって、作者・岡辺初代さんのご年齢を自ずから推測することが出来ましょう。
 「スカートのひらめくままに泣き濡れて」という上の句が印象的であるが、たった一枚きりの「スカート」を閃かせたことが、その当時の岡辺初代さんに出来るたった一つのおめかしであり、出征して行く彼への餞であったのでありましょう。
  〔返〕 矢絣の浴衣姿で見送りしあの日の汝を今も忘れず      鳥羽省三
      閃けるスカートの襞濡らしたるあの日の涙いまも乾かず   鳥羽省三


○ 夕暮れの停止禁止の雲に乗りゆるり過ぎゆく翁を送る  (福岡県) 田上義洋

 天国行き特急は「停止禁止」の特別編成である。 
 少し分かり難いが、「夕暮れの停止禁止の雲に乗りゆるり過ぎゆく」のは、作中の「翁」であり、その「翁」は天国に召されたのでありましょう。
 一人の老人の死を「夕暮れの停止禁止の雲に乗りゆるり過ぎゆく」と捉え、そして表現した、作者の発想の妙を買いたい。
  〔返〕 夕暮れの思考停止の薄雲を払い除けつつ歌詠む我は   鳥羽省三
      今はもう停止禁止の我が国の景気上昇策は無いのか   鳥羽省三


○ 「こなかりでかえれよかえれ」麻殻の送り火振れば夕つ星見ゆ  (鳥取県) 中村麗子

 「こなかり」とは「此処の辺り」の意の方言かと思われる。
 民俗学的興味から一言発言させていただけば、本作の作者がお住いになって居られる辺りでは、お盆以外に行われる仏事の際も、「麻殻の送り火」をお焚きになられるのでありましょうか?
 或いは、本作は往時を懐旧しての作品でありましょうか?
 「こなかり」という方言を用いた大胆さが、本作を傑作に導いた原因である。
  〔返〕 送り火を振れば益々哀しくて忘れ難かり我が亡き母よ       鳥羽省三
      「ここいらで一人で帰れ」と言いつつも盆灯篭の灯りは消さず   鳥羽省三


○ リュウグウノツカイは任務途上に斃れ世界を変える手紙届かず  (射水市) 中本ねこ

 龍宮の神様は、その使者「リュウグウノツカイ」に、どのような内容の「手紙」を託したのでありましょうか?
 中国の温家宝首相はどんな果報を携えて我が国に訪れたのでありましょうか?
 「空けてびっくり玉手箱」なんてことにはならないように。
  〔返〕 海兵隊訓練基地は龍宮と書いた手紙はバラクに届かず      鳥羽省三
      リュウグウノツカイが非業に斃れしは越前水母の毒牙の故か   鳥羽省三


○ 敗れたる無念はあれどろうろうとエール送れば君と繋がる  (長野県) 井上孝行

 好みの問題でもありましょうが、本作は唯一、私の観賞意欲をそそる作品ではありませんでした。
  〔返〕 選ばれた作品なれど朗々と声高らかにエール送れず   鳥羽省三


○ 早送りすればテレビの画面から通過電車のような風受く  (江戸川区) 鈴木美紀子

 <Blu-ray>全盛の今となっては昔のことになってしまったが、あの頃、TDKのビデオテープを「早送りすれば」、「テレビの画面から通過電車のような風」が吹いて来るような気がしたのは、うそ偽りも無く、誇張でもない、本当の話でした。
 それ故に、私はこの作品を、懐かしさと不思議な現実感を覚えながら観賞させていただきました。
  〔返〕 スイッチを押せど回らず風吹かず古色蒼然たる扇風機      鳥羽省三
      早送りすれば時たま切れたりし息子のようなビデオテープよ   鳥羽省三  

○ 夫を立てしかと押えて出ず退かず送り仮名のごと母の人生  (水戸市) 菊池和子

 「しかと押さえて出ず退かず」とは、「必要なことは欠かさずするが、必要でないことは
絶対にしない」ということであり、だからこそ、本作の作者は「母の人生」を「送り仮名のごと」と言っているのである。
 ところで、昭和四十八年に出された内閣告示第二号に拠ると、「送り仮名の付け方」には、「本則」の他に「例外」や「許容」などを定めている「通則」という条項が在り、これに従えば、「送り仮名」とは決して固定され膠着されたものでは無く、使われる場面や場合に応じた柔軟性を持ったものであることが解る。
 そういう考え方からすれば、「送り仮名のごと」と評されていた、件の「母」の場合も、「夫を立てしかと押えて出ず退かず」といった「人生」とは異なる、別の「人生」が可能であったはずである。
 そうしたことは、賢明を以って鳴る本作の作者にとっては、とっくの昔にご承知のはずである。
 したがって、本作の作者は、そういった「母」のことを、賢明で気丈な女性と思って尊敬してはいながらも、その反面、一生涯を通して「送り仮名」の<本則>の如き位置に甘んじていた「母の人生」を、「頑なで融通の利かない人生だった」と感じ、「私は母のような人生を送りたくない」とも思って居られたのではないでしょうか?
  〔返〕 腹を立て押さえる術を知らざりき送り仮名欠くごとき人生   鳥羽省三
      角立てて退かず下がらず諂わず漢字ばかりの我が人生か    鳥羽省三


○ 耳あてて胎動聴きし遠き春六畳一間は日当りが良く  (鹿嶋市) 加津牟根夫

 「日当りが良く」、風の涼しい「六畳一間」が在り、其処に君が居て、君のお腹に耳を当ててみれば「胎動」を聴くことが出来た。
 それだけで充分に幸せであった「遠き春」の日よ。
 評者にもそんな「春」の日が確かに遇ったうな気もするが、それは遠い遠い昔のことである。
 この頃の評者らの楽しみの一つは、毎朝『ゲゲゲの女房』を視ることである。
  〔返〕 畳無くフローリング張れる一部屋よその一部屋に籠れる吾子よ   鳥羽省三      来てみれば襖破れて仕事無くゲゲゲのゲのゲの如き所帯よ     鳥羽省三   

○ 改札をぬけ振り向けばもういない見送り呉れしひとにも人生  (盛岡市) 砂花ことは

 「改札をぬけ」たら最後、決して振り向いたりしてはいけません。
 其処には誰も立って無く、手を振る人など何処にも居ません。
 我にも我の「人生」が在る如く、「見送り呉れしひとにも」その人なりの「人生」が在るのだから、とは、一通りの人生哲学ではある。
 だが、人間らしい心を持っていれば、やはり振り向いてみたくなるものであり、いつまでも見送っていたくもなるのである。
 それを許さないのが現代。
 その現代を形作った責任の一半は私たちにも在るはずです。
  〔返〕 玄関を出れば妻さえ見送らずお供はゴミの袋と傘と    鳥羽省三
      花を抱き前原さんに見送られ辻元さんは国土庁去る    鳥羽省三

さだまさし解剖学(『檸檬』篇・其のⅣ)

2010年06月01日 | ビーズのつぶやき
♪ 或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
  君は陽溜りの中へ盗んだ
  檸檬細い手でかざす
  それを暫くみつめた後で
  きれいねと云った後で齧る
  指のすきまから蒼い空に
  金糸雀色の風が舞う
   喰べかけの檸檬聖橋から放る
   快速電車の赤い色がそれとすれ違う
   川面に波紋の拡がり数えたあと
   小さな溜息混じりに振り返り
   捨て去る時には こうして出来るだけ
   遠くへ投げ上げるものよ

♪♪ 君はスクランブル交差点斜めに
   渡り乍ら不意に涙ぐんで
   まるでこの町は
   青春たちの姥捨山みたいだという
   ねェほらそこにもここにもかつて
   使い棄てられた愛が落ちてる
   時の流れという名の鳩が
   舞い下りてそれをついばんでいる
    喰べかけの夢を聖橋から放る
    各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
    二人の波紋の拡がり数えたあと
    小さな溜息混じりに振り返り
    消え去る時には こうして出来るだけ  
    静かに堕ちてゆくものよ
                    (さだまさし作詩・作曲『檸檬』)

 また書き写してしまった。
 しかも、今度は題名も作詩者も書かないで。
 しかし、この際は、そんなことは気にしないことにしよう。
 今となっては、この曲は誰のものでもなく、この私のものになってしまったのだから、作詩者のさだまさしさんには失礼することにしよう。
 そもそも、私はなんでそんなにこの曲に拘るのか?
 どんな理由があって、たかが流行歌に過ぎない『檸檬』について、あれこれと三度も四度も喋くり捲ろうとしているのか?
 「そんなお前の気が知れない」と、何処からか鉄砲玉が飛んで来るのでは無いか、とも思うのである。
 しかし、田舎廻りの乞食と同様に、一度やったら止められないから、これで四回目であるが、またぞろ、あの『檸檬』を引き合いに出して、喋くり捲ろうと思ったのである。