臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・6月13日放送・改訂版)

2010年06月15日 | 今週のNHK短歌から
○ 透明なレインコートを着ていると私も雨のしずくになれる  (能美市) 山上秋恵

 「透明なレインコートを着て」雨の中を歩く時の、「雨」や「雨のしずく」に対する親和感を述べたものであろうとは思われるが、それだけでは些細な思いつきに過ぎず、これを詠んだ作者に対しては勿論、これを<NHK短歌>の特選一席にお選びになった、選者・加藤治郎氏に対しても大変失礼でありましょうから、もう少し深読みしてみたい。
 「透明なレインコートを着ている」時の人間の気持ちはかなり複雑である。
 何故ならば、自分の身を包んでいる「レインコート」が「透明」であることから、それに包まれている彼女(又は彼)は、一種無防備な状態で吾が身を世間様や冷たい雨の中に曝け出しているという感覚に囚われる一方、自分が身に纏っている物が「透明なレインコート」であることは、それに包まれ、保護されている自分自身もまた、まるで透明人間にでもなったかのような感覚に陥ることも有り得るからである。
 ここでもう一言注釈すると、「透明人間にでもなったかのような感覚」にも二種類在る。
 一方は、<透明人間=穢れ無き崇高な存在>とする考え方であり、他方はそれとは全く裏腹で、「自分は透明人間であり、他の人からは見えない存在であるから何でもやれる。例えば、向こうからやって来るヨン様に抱きついて犯す事だって出来るし、彼が指に嵌めている時価数千万円のダイヤモンドの指輪を強引に奪い取ることだって出来る」という考え方である。
 さて、本作に戻って、「透明なレインコートを着ていると私も雨のしずくになれる」と詠んだ時の作者の感覚は、一体どんな感覚だったのでありましょうか?
 これ以上のことは評者も知らない。
   
  〔返〕 百均のレインコートを着ていると私はなんでもやれる気がする   鳥羽省三
 こちらは、ダイソウで買ったレインコートを着ている時の評者の無頼感を述べてみたものであるが、この一首について、昨日夕刻、<りり>さんからご丁重なるコメントを頂戴した。
 そのコメントに於いて<りり>さん曰く、「こんばんは。/この中で一番好きだったのは鳥羽さんの返歌/百均のレインコートを着ていると私はなんでもやれる気がする/でした。/百均のレインコートってところがよかったです。」
 お褒めに与りまして、りりさん大変有り難うございます。
 そこで、<りり>さんに一言。
 「この作品は、あくまでも<山上秋恵>さん作に対する<返歌>として、即興で詠んだものであり、自立性のある作品とは申せません。それに、<百均のレインコートを着ていると私はなんでもやれる気がする>のですから、透明人間になった、この戯作の作者は、あなたの心を掠め取ることだって出来るし、あなたの家の畑の梨を無断で摘むことだって出来るのですよ。したがって、ご注意が肝要です。でも、冗談、冗談。これは冗談です。」
 

○ 岩肌にかそけく浮けるみ仏の衣のひだに雨粒宿る  (生駒市) 西田義雄

 五句目の「雨粒宿る」が秀逸である。
 「み仏」の寛大なる<御心>は、「雨粒」だろうが<御飯粒>だろうが受け容れるのである。
 とは、鑑賞力の不足を誤魔化す為の評者の苦肉の策であるが、私はかつて安曇野の一廓で、顔一面にご飯粒を付けたお地蔵様をお見受けし、「このお地蔵様の御心は寛大で、ご飯粒だろうがなんだろうが、気にせずに受容するんだなあ」と感じ、敬虔な気持ちになったことがある。
  〔返〕 身にまとう衣の襞に露宿す磨崖仏はも山の辺の道   鳥羽省三


○ ふにゃふにゃの教科書はみなあのどしゃぶりの夕方彼と帰った証  (田川市) 上水麻緒  

 「ふにゃふにゃ」を採ったのは、いかにも加藤治郎氏らしい。
 「教科書」が「ふにゃふにゃ」になってしまったのは、「どしゃぶり」の雨の中を回り道したからであろう。
 それとは別に、最近の「教科書」は、文科省の馬鹿官僚たちの陰謀に因って、中身が薄くなって、「どしゃぶり」の雨に打たれなくても「ふにゃふにゃ」になってしまった。
 その「ふにゃふにゃ」教育に毒されたような感じの若者たちが、一斉に歓声を上げている場面が、我が家のテレビ画面に映ったので視ていたら、昨夜のサッカーで日本が勝ったのだとか。
  〔返〕 びしょびしょに髪を濡らして雨の中バイト帰りの麻緒さんに会う     鳥羽省三
      ふにゃふにゃの顔して泣いて「カメルーンに勝った勝った」と大騒ぎする   々   
 以上三作は、特選一席・二席・三席に選ばれた作品である。


○ ドライバーにぎり家中のネジ全部締めてゆきたい雨の休日  (豊中市) 武富純一

 そうした気持ちになるのも解らないではありませんが、作品の出来としては、韻律の悪さが決定的である。
  〔返〕 鞭握り岡田ジャパンのイレブンを叱咤激励したい激戦   鳥羽省三


○ 雨降らぬ東京ドームに傘開くヤクルト七回好打順なり  (南丹市) 中川文和

 「雨降らぬ東京ドームに傘開く」という発見の面白さ。
 この頃は、七回の表になると「東京ドーム」でも「傘」の花が咲き、東京音頭の大合唱が始まるのである。
  〔返〕 雨降れば一度萎んだ傘の花ヤクルトアトムズ九回の裏   鳥羽省三
 こちらは神宮球場のスタンド風景です。


○ ワイパーに片寄せられて花びらは見知らぬまちにはこばれていく  (名古屋市) 吉田周子

 「まちにはこばれていく」という部分のひながな表記には、どんな意味があるのだろうか?
 「ワイパー」が何かを意味し、「花びら」も何かを意味するとしたら、<見知らぬ街に運ばれて行く>ということも、何かを意味して読者の哀れみを誘う。
  〔返〕 東風(こち)吹けば西に向かってレジ袋風を孕んで運ばれて行く   鳥羽省三 


     -Blowin` In The Wind-
○ あめのひのしょうきゃくじょうをでるはいはよけいにすったとうあんようし  (名古屋市) 中島くり人

 詞書風の「-Blowin` In The Wind-」にどんな意味が在ると言うのだろうか。
 まさか、本作の作者があの<Bob Dylan>の縁者だという訳ではないだろう。
 また、一首全体を<ひらがな表記>にしなければならない理由は、どの辺りに在ったのでしょうか?
 軽薄な<思わせ振り>だけが目立つ駄作である。
 何処かの学校でこういう風景が展開されているとしたら、たまらない気持ちにもなる。
 資源の無駄でもあるし、ご近所迷惑でもある。
 この一首は、将に<学校公害>を実証している。
 作者も選者も同罪である。
 〔返〕 吹き付ける風に飛ばされ飛ぶ紙は余計に刷った答案用紙   鳥羽省三
 

○ 大好きなお散歩今日もお預けでおそとしとしとわたししくしく  (名古屋市) 伊藤百恵

 作者はともかくとして、これを<NHK短歌>の入選作とした選者の短歌観を疑う。
  〔返〕 犬ころが<わたし>などとは言うかしら平成元禄ここに極まる   鳥羽省三
      犬ころを<わたし>など呼び恥知らぬ犬好きママの傲慢なこと     々


○ 雨のなか都心を流れる人の河われも流れて42.195㎞  (千葉市) 塚谷隆治

 <東京マラソン>、人呼んで<石原マラソン>。
 市民ランナーと称する人たちが、仮装したり、途中でおにぎりを食べたり、トイレに寄ったりして、東京の目抜き通りの交通をほぼ一日遮断して、大騒ぎをしているのである。
 そういう訳で、「都心を流れる人の河われも流れて42.195㎞」は、極めて適切な表現と言えましょうか?
  〔返〕 幹線を一日止めてなんのその石原マラソンあれがマラソン   鳥羽省三
      幹線を一日ストップなんのその石原マラソンあれで数億      々


○ 雨がやみ雲の切れ間の青空にすいこまれてく十九の私  (市川市) 小栗ひろみ
 
 一首の要点は、「雲の切れ間」に「すいこまれて」行く「十九の私」に在るのだろう。
 だとすれば、それ以外の語句、即ち「雨がやみ」「青空」は単なる字数合わせの過剰表現にに過ぎないだろう。
 という訳で、作者の年齢を考慮に入れても、入選作とするに相応しくない作品と思われる。
  〔返〕 夕空の雲の切れ間に彷徨うは十九の我の果てなき願い   鳥羽省三  


○ 雨音は私を私に閉じ込める私は永久に異邦人(エトランジェ)でいい  (さいたま市) 柳瀬和宏

 「雨音」に包まれている時の閉塞感を詠んだのであろうが、「私は永久に異邦人(エトランジェ)でいい」という下の句は、やや安易に流されたような感じである。
  〔返〕 雨音に包まれている日曜日私の心は明日も晴れぬ   鳥羽省三  


○ 雨の日は「ジャズ喫茶で」の合言葉、コーヒーいっぱい百円の頃  (アメリカ)  澪ローレンス

 作者の居住地が外国だったからとも思われますが、正直に言って、どこがいいのか解りません。
 懐旧感だけで作られた<C級風俗短歌>とでも申しておきましょうか。
  〔返〕 雨の日も「出掛けようか」と声かけて一日万歩の散歩にお出掛け   鳥羽省三