湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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ディーリアス 管弦楽曲、協奏曲、室内楽、器楽曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月24日 | Weblog
<(1862~1934)。ドイツ系。パリやパリ郊外に暮らし活動の場はフランスにあったが、生地イギリスでは国民的作曲家としてファンの多い人である。音楽的にはアメリカで生活したときに耳にしたアメリカ音楽にワグナーからの強い影響を加え、私叙したグリーグの繊細な民族的音楽からの強い影響が独特の折衷的作風に結実した。ドビュッシーと同世代だがその影響も受けており、ドビュッシーほど尖鋭ではないもののその初期に近似した和声感覚を導入、濃厚だが清浄という作品世界を確立。19世紀末のパリではそれなりに知られた存在となる。とくに現在は無視されているがオペラに旺盛な創作意欲を持っていたようである。一方でこの作曲家のメイン領域である小管弦楽曲もしくは交響詩も作られ始めた。国際的に活躍した作曲家であり、一筋縄ではいかない作風を持っているものの、ちょっと聴きすべて同じように聞こえてしまうかもしれないが、描写的表現の巧みさと心を抉り出すような実に感動的な音楽表現はすべて清澄なひびきに彩られ、水彩画のように美しい、まさにイギリス人好みの作品群として記憶に残る。若い頃のパリでの放埓な生活が晩年体中を虫食んだが、若いフェンビーの手を借りてその死まで作曲活動を続けた。晩年の作品群は音楽が純化され、もう目にする事のできない美しい風景に対する強いあこがれを託した傑作群となっている。>

春初めてのかっこうを聴きながら

○ビーチャム指揮LPO(DA:CD-R)1936/11/19

録音が非常に遠く弱いため(安定はしている)、いつもの独特の「スマートな押しの強さ」はないが、そのぶん曲の静謐さや繊細な動きに耳を集中することができこれはこれでよい。磁気テープの実験的初録音とあるが本当かどうかわからない。雑音があることは確かだ。あっというまに「あれ?」というように風の如く吹き抜ける細部に拘泥されない演奏。肝心のかっこうすら全体の田園風景の一部になっている。○。

○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/9/26live

ごく一部に欠損があるようだが気にならない。ビーチャムらしいディーリアスでまったく粘り気がなく、しかしながら構造を実に的確に把握し立体的な音響を聴かせるようつとめている。ディーリアスのような比較的ドイツふうで機械的な書法を駆使する作曲家にはこのような表現は向いている。さらさら流れるように進む中によく聴くと郭公の声が聴こえる、この絶妙さである・・・殊更に強調したりはしない。だが、私はケレン味が欲しいほうで、いつものことだが、ビーチャムのディーリアスは印象に残らない。綺麗さをとって○。録音は悪い。

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

父スラトキンらしい強い表現で、室内楽団らしい輪郭のはっきりした(し過ぎた)アンサンブル重視の演奏。しょうじき、淡いディーリアス世界にこの即物性は違和感がある。そしてディーリアスのこのての作品はこうもあからさまに白日のもとに晒されると、よくわからない変な作品になってしまうのだ、という感慨も受ける。そう、演奏家を選ぶ。それに「室内楽団様式」では辛い。録音のせいもある。CAPITOLの太い音がLP特有のアナログな曖昧さと混ざって若干雑味を呼び込んでしまっており、それなのに芸風が上記のようだから、聴感がしっくりこないのだ。だからといって演奏技術は時代なりにではあるが研ぎ澄まされているし、情景描写的にはきついが、純音楽的に愉しむこともある程度は可能。室内楽団にしては大規模編成された楽団の上手さは他の演奏でも証明されている。○にはしておく。郭公の声がリアル。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

余りに感傷的な音過ぎて、描写的なフレーズがそのとおりに聞こえてこないほどの演奏。密やかで甘やかな、前時代的なロマンをしっとりうたう弦はハレ管にとっても絶後の表現を行なっていると言ってよいだろう。ディーリアスでは単純な弦楽合奏プラスの歌謡的音楽、こういうのを印象的に表現することこそが難しい。○。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

コリンズは強い調子でいささかディーリアスの薄明の世界を損なうところがある。響きが分厚いのでどうしてもそうなってしまいがちなのは認めるが・・・これはカッコウがとても即物的だ。実際のカッコウはけっこう(爆)こういうぶっきらぼうな鳴き方もするのであながち間違いとも言えず、見識として敢えて描写的な表現を避けているのかもしれないがちょっと違和感があった。演奏は手馴れている。○。

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川の上の夏の夜

○バルビローリ指揮NGS室内管弦楽団(NGS)1927/1・SP

厚くもモダンで洗練された響きの移ろいを、纏綿とした旋律線で繋ぐやり方はまさに前時代の演奏様式ではあるものの、既に指揮者としての非凡な才能が開花していることを垣間見させる演奏。同時代のいろいろな管弦楽曲のアコースティック録音群の平均からすれば抜きん出ている。フランス音楽でもドイツ音楽でもないディーリアス独自の薄明の世界と同化したようなバルビと演奏陣の確かさに納得。録音は悪いが。正規ネット配信中。○。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

モダンなディーリアスがあらわれている、少し大人の点描的音楽だが、バルビはリヒャルトやシェーンベルクを取り上げたとき同様、音響やドラマを堅く組み上げるより、細かい近視眼的なニュアンス変化をつらねることにより官能性を薄く軟らかくたくさん重ねていくようなやり方で前衛的な不可思議さを感傷に逃がしている。

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、ポール・シュア(Vn)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

この曲のほうがしっくりくる。地味なので、表現的に派手な楽団の個性が巧く抑えられているのだろう。薄明の音楽としてはやはり、不適当と言わざるを得ないお日さまのような演奏ではある。○。

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夏の庭にて

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

バルビローリのディーリアスは軟らかい。やさしくてまとわりつく。ディーリアスが重厚なラインを骨太に響かせ構造に意味づけようとした部分でも、高音に力点をシフトしたまま妙なる色彩変化を繊細に穏やかに表現する。独特のやり方がしかし結果として最もディーリアスらしい世界を紡ぎ出しているところにバルビの才があるのだろう。反面とめどもなさに拍車をかけてしまうところもあるが、これは牧歌であり、叙事詩ではないのだ、これでいい。○。

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夜明け前の歌

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

ディーリアスにとって夜は酒と官能のおりなすモダンな都会、朝は草いきれと靄がやわらかな日差しに照らされた田園である。前者は新ウィーン楽派ふうの洒落た硬質の響きで構成され、後者はマンネリズムも辞さないコード変化をつけられた民謡音楽となる。この曲はその変化を有機的に結合させたうえに描いたもので、バルビのようにさらに有機的に解釈されるとほんとうにとりとめもない起伏のないやおい音楽になるが、印象派的に聞けば悪くはない。○。

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北国のスケッチ

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(M&A)1959/11/4BBC放送live・CD

2011年末新譜ビーチャムイントロントというカナダ客演集の付録盤に収録されているが、そうとう前に出た同レーベルの別盤に収録されていた記憶がある。音は悪いが圧はある。むせ返るようなというか、生命力の強すぎるビーチャム流儀のディーリアスで、民謡音楽の側面の強い楽曲をコントラスト強く表現していくさまは確かにディーリアスのある側面をよくえぐり出しているのだが、グリーグへの思いを漂わせながらも、さらに水彩画的なほのかな色彩の変化を楽しませたいところ、リヒャルト的な大仰さをロイヤル・フィルという強力で色のないオケに託したようなダイナミズムに違和感はなくはなかった。しかしこの統率力、ビーチャムは侮れない。○。

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ブリッグの定期市(イギリス狂詩曲)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

オケが天晴れ、ハレOにしては素晴らしく繊細で完成度が高い。バルビ最晩年の録音(スタジオ録音としては最後)であり、ロマンティックな重さ甘さがなくなって透明な情感がソロ楽器の「感傷的過ぎない研ぎ澄まされた表現」に象徴的にあらわれている。マッケラスを思わせる冒頭からの柔らかくも冷たい響きは、しかしマッケラスにみられる、ディーリアスにしてはシンプルな書法がはっきり出てしまったがゆえの一種世俗音楽的な軽さは出てこない。バルビ特有の震えるような匂いたつ音がここにはない、しかしやはり柔軟で有機的な音の紡ぎ方はバルビである。バルビの室内管弦楽団ものに時折聴かれるステレオ録音の妙な操作がここにもなくはないが、おおむねそういった「耳障りな要素」は無い。あきらかに「春の海」あたり和楽の影響のみられるフルート独奏からドビュッシー室内楽の影響色濃い木管アンサンブルの繊細さ、接いで弦楽合奏による響きは重厚だが単純な旋律についてはバルビがよく陥るロマンティックな臭気が抑えられやはり耳障りなところはなく、フォルテ表現でペットなどがのってきても、古楽的な純粋さは無いものの、それまでの穏やかな流れが邪魔されることはない。バルビのディーリアスを私はそれほど好まないが、これは最晩年らしいどこまでも横長で透明で、涅槃的な演奏として、録音状態のよさ含め薦められる。○。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

グレインジャー譲りの夏祭りの民謡に依拠した限りなく透明度の高い曲でマッケラスあたりで聴くと美麗な反面中身も薄く聴こえてしまうが、アンソニー・コリンズはディーリアス集においては勢力のある態度を一貫してとっており、透明感とは程遠いロマンティックな重さと力強さを与えている。ディーリアス慣れしていない向きはわかりやすくこの世界への導入口を見つけることができるだろう。和声的な面白みもさることながらやはり旋律の盛り上げ方が絶妙でぐっとくる。私はバリエーションを好まないのだがディーリアスの変奏曲はブラームス的な臭さが無く、非常に注意深く独自の方法で構じられているので好きだ。○。

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交響詩「夏の歌」(1930)

◎バルビローリ指揮LSO(EMI)CD

グレ・シュール・ロアンの美しき夏。低弦の薄明の轟きからフルートの上昇音形とホルンの4音の遥かな対話にはじまり、長い序奏の中で明確な旋律を紡ぎだすことなく展開されてゆく朝の情景。絶妙の配合と起伏によって管弦楽が描くひろがりは、鳥達の囁きや草原のさざめき、農夫の欠伸、断片的なフレーズがいつのまにか一種の旋律構造を形成し、これが変奏の形をなしていることがわかる頃、別の民謡主題が加わってゆく。・・・農夫の口ずさむ歌。ディーリアスの開かない瞼の下に、耳から入った農村風景はどんなに美しく描きだされているのだろう。朝露の煌きに彩られて広がる音詩は、もはやそれ以上の何ら言葉を必要としない。バルビローリの感傷はわれわれの感傷として、クライマックスの哀しくも輝かしい慟哭をも、どうしようもなく込み上げる暖かい感動の中に、深く沈み込ませてゆく。ディーリアスにしては単純な曲かもしれない。フェンビーの口述筆記によるということは、他人の手が入っているということだ。しかし、これはディーリアスの傑作である。そしてこの盤は、バルビローリの傑作である。
(是非参考にしていただきたい本:「レコードのある部屋」三浦淳史著、1979湯川書房より第1章「夏の歌」)2005以前

単純でワグナー的な晩年作、演奏にも粗があるが、それでもバンスタにとってのマーラーのようにこれは、バルビにとって不可分の音楽になりきっており、もうそれほど長くはないこの指揮者が、死を目前とした~その目は既に開かなかったのだが~作曲家の、フェンビーの筆を使って描いた最後の想像の世界に自己を投入し、けして退嬰的ではなく、前向きとすら言える映画的な明るさのある音楽を、内部から再構築したものである。夏というはかない季節にたくした生命の賛歌であり、瞬の永遠性に対する「希望」。この作曲家の、それでも貪欲な生への希望が、この指揮者の、音楽をかなでることこそが生であり希望であるという信念と、まばゆいところで合致した。技術的にはいくらでも越えるものが現われようとも、未だ印象を拭うものがあらわれない名演。(2008/3/6)

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

最晩年のディーリアスがフェンビーの手を借りて書いたとされるものだがほとんどフェンビーが書いているのだろう。最盛期にくらべ極端に単純化されたスコアである。ディーリアスは自筆でものを書かなかったともいわれる(歌劇を書いていたころから既に訳者でもあったイエルカの手を煩わせていた)が、ここではもう「書けなかった」。四肢が麻痺し視覚も失われていた。でも70代まで長生きはしたんだけど・・・もう見られない美しき英国の夏の光景、その憧れがこのワグナーふうの黄昏を響きに籠めた名作を生み出した、と思われるが、表現によっては他の壮年期の管弦楽曲と変わらぬものになるのだなあ、と思ったのがアンソニー・コリンズの演奏で、書法の脆弱さや個性の退嬰がまったく感じられない。曲集の最後に収録されているからかもしれないがひときわディーリアス的な、とてもディーリアス的な曲として心に響いた。モノラルなのでおすすめはしないが。○。

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マルシェ・カプリス

○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/8/15・CD

ボールトのディーリアスはきわめて珍しいが、ディーリアスの特にしっかり描かれた最盛期までの作品はドイツふうの重量感のある和声と明確な旋律性を帯びており、リズムは明確に打ち出されるもののそれほどリズミカルになる必要もないからボールトには寧ろ向いていると思う。この演奏もかなり上位に置ける素晴らしく立派な演奏になっており、晩年のボールトがまだまだ指揮において衰えをみせていない、しっかりした足取りにディーリアスのまだ初期の香りをとどめた民謡風旋律にも格好悪さを感じさせない響きの重量感で演奏を非常に上手くまとめている。短いのでこれだけで評価というのは難しいがボールトらしさというのが渋くて鈍重というイメージでは語れない部分というのを感じさせる演奏。RVWが演奏できてディーリアスが演奏できないわけはないのだ。

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アリアとダンス

○ボイド・ニール弦楽合奏団(HMV)1948-49・SP

ディーリアスはドビュッシーを先駆けた等々言われることもあるが思いっきりロマン派の人であり新しい領域に踏み出したというのはあくまでその「個性」という範疇を出ないもの。ディーリアス民謡とでも言うべき儚い旋律と重いハーモニーの連続がここでも物憂げな雰囲気をかもし出しており、ダンスでいきなりテンポが変わったとしても結局ディーリアスでしかない音楽。演奏もディーリアスとしかいえない音楽を提示している。

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ダンス・ラプソディ

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CD-R)1951live

しわがれた声による軽妙なトーク付きだが演奏はいたって締まった爽やかなもの。録音は極めて悪いが、それでも心地よく、まだ初期の香りの残る曲の旋律性を楽しめる。1,2番どっちかわかんない。たぶん2番。○。

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二つの水彩画(フェンビー編)

○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE

ウォルトンなどと一緒に演奏・放送されたもの。この曲は非常に簡素なオーケストレーションの施された弦楽合奏曲で、合唱曲「水の上の夏の夜に歌わる」から編纂されたものだが、動きのない和声的な一曲目と、民族舞踊ではあるが「早くはなく」との指示があるいかにもディーリアス的な二曲目からなり、演奏技術よりも、いかにアーティキュレーションを効果的につけるか、表現の振幅をこの揺れの無い微温的な楽曲のうえに描き出すかが鍵になっている。バルビは好んでこの曲を演奏したが、ディーリアスの他の「簡素なほうの」曲で示した独自の耽美世界をここにも描き出そうとしている。しかし曲自体それほど長くも激情的でもないだけに、バルビ的というほどの個性はきかれず、フレージングの節々でみられる微細なポルタメントなどバルビ特有のものはあるものの、爽やかに聞き流せてしまう。いや、この曲ではそれで十分か。○。録音の位相がおかしい。元からの可能性もあるが、左右逆かもしれない。

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ヴァイオリン協奏曲

○プーネット(Vn)ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)CD

即物的でちょっと聴き単調ではあるが非常に充実した演奏ぶりで、技術的にも解釈的にも完璧なのではないかとソリスト・オケ共に思わせる(両者が絡みあい不可分になっている曲だ)、では◎にしないのはなぜかといえば録音の悪さだ。正規録音とは思えない音質の箇所がいくつもあり、ディーリアスの要ともいえる微細な音調や装飾音、オクターブ重音といったものが聞き取れない。演奏振りからしてちゃんと弾いているとわかるがゆえに更にもどかしく、この一見とりとめのない狂詩曲ふう協奏曲・・・しかしディーリアスの真骨頂ともいえる様々な独創的表現の万華鏡ぶりが楽しめる・・・の構造すら見えにくくし、晦渋でわけがわからない雰囲気音楽という、ディーリアス本人にとって恐らく不本意な印象をあたえかねないものになってしまっている。

これはソロ譜をさらってみるとよくわかるが決して構造的に気まぐれな曲ではなく、巧みにオケとソロパートが組み合って初めてそれとわかるような旋律構造や音響的配慮が縦横に張り巡らされており(とくに前半)、退嬰的な後半部においてはディーリアスに期待される黄昏の情景が和声的なオケとラプソディックなソロという単純化された対比の中に効果的に描き出されたりし、聞き込むとけっこうにいろんな音が聞こえてくる。「ディーリアス」=民族音楽的、「ディーリアス」=リヒャルト・シュトラウス的、「ディーリアス」=ドビュッシー的、「ディーリアス」=スクリアビン的といったさまざまな局面での特徴が全て兼ね備えられているといってもいい。色彩的で煌びやかで決して重くならないスマートなビーチャムに弓圧をかけひたすら骨太に紡いでゆくプーネットという組み合わせはその多要素混在状態を綺麗に交通整理してあっさり聞かせてくれる。だがこの音質では「あっさり」「骨太」の二つの強い要素だけが印象付けられてしまう、それだけだと冗長でわけがわからない曲になってしまう。

リマスター版が出ているかどうか知らないが、それが施されるにふさわしい録音であり、また、楽曲自体が非常に繊細で細密であるがゆえにモノラルで聴くことにそもそも向いていないということから、たとえ何か欠けていたり過剰であったりしても新しい録音をとるべきかもしれない。

~抜粋

メイ・ハリスン(Vn)オースティン指揮ボーンマス・マニシパル管弦楽団(SYMPOSIUM)1937/5/13live・CD

シンポジウムの「状態の悪いSP並音質」はいつものこととしても、とにかく演奏が恍惚としすぎてウンザリしてくる。いや、さすがディーリアスと親交深かった人だけあるにはあるのだが、ちょっと法悦的すぎる。長いのだ。かつ、四箇所に分断されたSP録音なだけに聞きづらい。雑音まみれの物凄いロマン臭をはなつ曲だなあというかんじ。無印。

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ピアノ協奏曲

モイセイヴィチ(P)サージェント指揮BBC交響楽団(Guild)1955/9/13プロムスlive・CD

僅かに旋律や和声に工夫を加えた偽グリーグと言ってもいい三流ロマン派ピアノ協奏曲。ディーリアスを聴くには物足りなさこの上無い古臭い脂肪のついた重い楽曲だ。短い単一楽章であることが救いか、いや物足りなさに拍車をかけるか。モイセイヴィチの演奏は無難。なんか書くことが思いつかない。録音悪。無印。

モイセイヴィチ(P)C.ランバート指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI,HMV/testament)1946/8/24studio・CD

華麗なピアニストに腕利きのオケ、きびきびした指揮者による演奏・・・なのだが曲が余りに不恰好だ。単一楽章だが一応三部にわかれ、有機的に繋がっているというより古風なロマン派協奏曲が接合されていると言ったほうがいいような形式。何より余りに気まぐれな転調の連続と楽想展開に聴いている側が気持ちが悪くなる。これがピアノだけ、もしくはオケだけ(できれば弦楽だけ)であればそれぞれの楽器の持ち味を活かした「ディーリアスの夕凪」を描き出せたものだろう。ピアノには明瞭過ぎる音線が任される一方、オケには芳醇な響きと微細な動きを与え、それはグリーグの協奏曲がいびつに進化したようなもので、むず痒くも入り込めない。また録音が悪いのも悪評価のゆえんの一つ。ライヴ音源も辛い評価を与えたけれども、それよりは精度は高いものの、曲含め無印。

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チェロと管弦楽のためのカプリスとエレジー

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、エレノア・アレア(Vc)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

やはりバックオケの分厚さが気になる。バランスが悪い。小編成で繊細に描くべき曲を多く書いたディーリアス、この指揮者が何故こういう録音をしたのか・・・比較的珍しい曲だが聴きやすいので、その点紹介盤にはなる。○。

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弦楽四重奏曲(1916)

<イギリスの心を謡う優しい作曲家のイメージがある。 しかし活躍の場はむしろフランスにあった。半音階的な音線や濃厚な管弦楽にはリヒャルト・ シュトラウスの影響がみられ、初期ドビュッシーの和声的影響も強く(年代的には ドビュッシーと同世代)、流行のロシア音楽や若い頃のフロリダでの黒人音楽経験も、 直接・間接的な影響を残している。根底に心の師グリーグの民謡音楽が流れている事は 誰しもが認める事だろう。ディーリアスは19世紀に既に活躍を始めており、 ヴォーン・ウィリアムズやラヴェルなどに比べて古い世代に属する。垢抜けないのは当たり前で、様々な要素を吸収し肥大化・退廃化していった後期ロマン派音楽の末路、 所謂「世紀末音楽」の作曲家なのだ。「人生のミサ」や「村のロメオとジュ リエット」など退嬰的でペシミスティックな作品が目立つのも、その時代性と 切り離しては考えられない。若い頃には 放蕩の限りを尽くし、ムンクらと共に昼も夜も区別 のつかない生活を送っていたわけで(「パリ~大都会の 歌」の心情)、結局性病の汚泥が晩年に一気に雪崩込み、目、耳、手足の自由全てを 失うことになったといわれる。尤もこの時代までの芸術家というのはそんなものだっ たわけだが、 ディーリアスの場合、そんな悲惨な最晩年に産み出されたノスタルジックで諦観に満ちた 作品群(遂に亡くなってしまったフェンビー氏の助力がなければ無理であったのだ が)のイメージが強く、夕映えに輝く哀しい幻想として心酔する者を続出させたわけ である。その末路は自業自得かもしれない。それゆえ、類希な魅力的な香気を放つのであり、大人しい人間であったならただたんに美麗な曲しか書けない群小 作曲家に過ぎなかったろう。個性は灰汁の強さに裏打ちされている のだ。曲想の豊かさはピンからキリまでの人生経験の深さによってもたらされているのだ。この曲は唯一といってもよい室内楽曲である。>

◎ブロドスキー四重奏団

3楽章は取り出して弦楽合奏で演奏されることが多い。「遅いつばめ」である。 退嬰の極みの音楽だが、バルビローリなど寧ろ恍惚を感じさせる危うき美を 演じている。だが、原曲の4本になると、かなり鄙びた感じがする。他楽章に並んで、農村牧歌的な趣を強くする。全曲で非常にまとまった作品に仕上がっていて、 一部曲を抽出(フェンビー編)した弦楽合奏とは別物として聞いた方が良いだろう。 1楽章は伸び縮みする不思議な民謡主題に始まるが、半音階でたゆたったり、俄かに駆け上る 妖しさは非常に個性的である。2楽章はファースト偏重傾向の強い同曲中でも一番偏重 していて、下3本は和音の部品を刻むだけの部分が多い。でも旋律そのものに魅力があり、 中間部ではドビュッシー的な入り組んだ構造も(個性的ではないが)特徴的に響く。 4楽章はボロディン的というべきか、やや長い。途中息切れするような部分もあるし、 後半収集がつかず断絶して終わるような感もある。影響関係を指摘されるヴォーン・ ウィリアムズの四重奏1番を彷彿とさせるところもあるが、よりラプソディックに自由に 歌われる牧歌といえよう。全編を通して比較的音符の数が少ない曲にもかかわらず、 良く響く独特の和音に彩られていて、ここに聞けるのは個性的なディーリアス世界 そのものである。協奏曲のような掴み所の無さは皆無。イギリスの数少ない 近現代室内楽の佳作としても貴重であり、一聴して損は無い。 フィッツウィリアム等他にも演奏がCD化されているが、先ずはブロドスキーの感傷的な音で たっぷり楽しんでみたい。またフェンビーによる弦楽合奏版についても耳にする 機会があれば、是非。ちなみにこの曲はオックスフォード版の楽譜ではビーチャムの手が入っていることになっている。

~遅いつばめ(弦楽四重奏曲第三楽章~フェンビー管弦楽編)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

レイト・スワローズをどう訳すかで諸説あるが単純に遅いつばめとしてみた。原曲はかなり鄙びた調子のしかしわかりやすいボロディン二番的な作品で、ビーチャムが手を入れたようだがディーリアス完成期後に特異な位置を占めている弦楽四重奏曲の、中でも特に妖しい響きの揺れる、えんえんと続くアルペジオに彩られた沈潜する楽章だ。フェンビーはこれも含めいくつかの編曲を組曲としてまとめているが、原曲とはやはり違うものとなっていて、余りに繊細すぎて合奏でやるには難しさもあり、弦使いバルビならではの巧さのみが可能とする部分があることは否定できまい。カルテット編曲ものはたいてい、スカスカになるものだがこれは軟らかくも詰まっている。○。

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ヴァイオリン・ソナタ(ロ調)

ストーン(Vn)スレルフォール(P)(PEARL)

私が最初に触れたディーリアスの譜面は、なぜかこの習作(といっても作曲家30歳の作品)ソナタだった。第一印象は全体的にはフランクのソナタ、旋律線はドイツ・オーストリア系のリヒャルトとかそのあたりのもの、そして、かなり冗長(3楽章制)といったところ。音源などなく、自分でかなでてみて、いかにも習作的で合理的でない曲、今思うとドビュッシーの初期作品に非常に近いと思うのだが、とにかく後年のディーリアスの隙の無い楽曲に比べ、スカスカな感じがした。だが、何度かかなでてみて、旋律の半音階的なゆらぎ、五音音階の奇妙な軋み、これらが同時期の「レジェンド」のいかにもあざとい前時代的な旋律に比べて、ずっと新しいものを示していて、しかもかなりすがすがしく気持ちがよく思えてきた。今無心でレコードを聞く。じつに雄弁なヴァイオリン、印象派的な音色のうつろい、習作は習作なのだが、捨てておくには忍びない美しい楽曲。これは技巧的にはそれほど難しくないので、もし触れる機会があったら演奏してみてほしい。きっとディーリアスの秘められた宝石を発見した気分になるだろう。この盤はヴァイオリンが心もとない。この曲は雄弁に太筆描きで弾いて欲しい。無印。

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ヴァイオリン・ソナタ第1番

メイ・ハリスン(Vn)バックス(P)(SYMPOSIUM)1929・CD

SP復刻で音が悪いせいもあるが、冒頭こそオールドスタイルの音色で引き込まれるものの、運指のアバウトさが目立ってきて、旋律線を見失うほどにわけがわからなくなる。曲のせいでもある。ディーリアスの室内楽や協奏曲は独特である。旋律が途中で半音ずれていくような進行、瞬間的で無闇な転調の連続、不規則な入り組んだ構造が気まぐれ感をかもし、非常にわかりにくい(しかし何か秩序だってはいるのである)。ある意味とても前衛的で、習作期の素直さが微塵も残らない番号付きヴァイオリン・ソナタや協奏曲は、作曲時期的には頂点にいたはずなのに、弾いている当人ですら根音がわからなくなるほどマニアックだ。そういう曲にはこういうソリストやメニューヒンのような柔らかいスタイルはあだとなる。鋼鉄線のように鋭く正確な音程を機械的に放っていかないと本来の意図は再現できまい(弦楽器向きではないという批判はあるにしても)。こういった晦渋さはRVWよりはホルストに受け継がれた。しかし、牧歌的なひびきの中に一種哲学的な抽象性が浮かび上がるような演奏では、疲れたものへの慰めになるものではある。その意味でもやや適任ではないと思うが、作曲家ゆかりのヴァイオリニストであり、むしろヴァイオリンより力強く個性的なコントラストをつけて秀逸なピアノは同僚バックス、資料的価値はある。無印。

サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1929/11/1・CD

年代からして驚異的な音質ではあるし、SPの硬質で明瞭な音を再現しようとした意図は認められるが、音色感が損なわれ人工的に操作された感が否めない。ここできかれるサモンズの太くて揺れの無い音はまったく色あいに変化がないため、とりとめのないディーリアスの音楽にあっては退屈至極、この両者の相性の悪さゆえか、録音操作の失敗のせいか。とにかくディーリアスはもっと綾のある作曲家で、目の詰まった音であるからこそ弱音部が要になってくるから、弱音なりの音質をきちんと出してこないとわけがわからなくなる。つまり、無印。DUTTONが初出らしい。

○カウフマン(Vn)ザイデンベルク(P)(concert hall society)LP

最初こそ無愛想で素朴だが、やはりルイス・カウフマン、只者ではない。安定感のある表現を駆使してぐいぐいと曲を引き立てていく。ドイツ・オーストリアや東欧のヴァイオリニストのような鋭く金属質で耳に付く感じが無く、この曲には太くてざらざらしたこういう音が似合う。連続して演奏される3楽章にいたって技巧派たる部分も見せ、ディーリアス特有の名技性を浮き彫りにする。これは最初で投げ出したら駄目。メイ・ハリスンとは対極的な設計。○。

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ヴァイオリン・ソナタ第2番

○サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1924/12・CD

縮緬のようなビブラートに甘く旧びた太い音、しかし非常にしっかりしたフィンガリング、ボウイングが現代的な精度を保証しているので安心して聴ける。かなり個性の強い美音が嫌いな向きには勧められないが、ディーリアス最盛期の雄弁な作品にサモンズ最盛期の技術が重なって、同時代最高峰の演奏となっているさまは一聴に値する。あっという間。旧いので○。

○マックス・ロスタル(Vn)ホースレイ(P)(westminster)LP

M.ロスタルが大人の音で落ち着いた雰囲気を醸す。技巧的にも余裕がありなお、ただ演奏するのではなく含みを持たせたような、ディーリアスの中に一歩踏み込んだような解釈をみせる。ディーリアスのヴァイオリン・ソナタは1,2番がほぼ同じスタイルの、気まぐれな半音階進行を駆使し旋律性を失わせる煩雑な曲となっており、最晩年の3番だけは使徒フェンビーが調整したせいもあり旋律があやういところではあるが原型を保っている。ロスタルで1番を聴いてみたかった。○。

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ヴァイオリン・ソナタ第3番

○サモンズ(Vn)ロング(P)(DUTTON)1944/1/20・CD

さすがにやや演奏精度が落ちているサモンズだが、この退嬰的な曲に即物的な感情を籠めて意気ある演奏を繰り広げている。音色が美しいとはいえやや生臭くもあり、曲想にあうかどうかは別れるところかもしれない。

ウィルコミルスカ(Vn)ガーヴェイ(P)(CONNOISEUR SOCIETY)CD

この曲も盤がまったく手に入らなくて、民音でコピーしてきた譜面をもとにつらつらと弾いていた。ディーリアスの白鳥の歌(のひとつ)で、全面的に使徒フェンビーの手に頼っており、たしかに1、2番の脂ののりきった充実した書法の作品にくらべ、音符の少ない平易な旋律と最小限の伴奏という、非常に単純な構造の作品になっている(但し短いながらも三楽章制にはなっている)。だが、これはディーリアスの最後の境地がどのようなものだったか、知らしめてくれるものだ。枯れに枯れきって、目もみえず手足も動かず、しかしそれでも最後の「うた」を、命を振り絞って吐露する、これはまさに「瀕死の白鳥」の、かなしい歌なのだ。この曲を弾くとき、私の頭の中には、シゲッティ晩年のかすれた音があった。ぼろぼろのフィドルで、毛のいっぱい抜けたぼろ弓を使って弾いてみたい。1楽章からもう退嬰的な、夕日のようなかなしくも美しい旋律が流れだす。やさしい、とても優しい旋律。2楽章は若干民謡ふうのラプソディックな曲想になっている(でも譜面づらは平易だ)。そしてふたたび緩徐楽章の3楽章、なつかしい民謡のしらべ、それこそ「最後の作品」にふさわしい、そこはかとなく懐かしくかなしい音楽がはじまる。「もっと生きたい!」という叫びのようなクライマックスも、やがてついえて、音楽はとおい追憶となって、消える。言ってしまえばピアノはいらない。無伴奏で描くのがもっともふさわしい表現の仕方ではないか?私は今でもそう思う。私はウィウコミルスカ盤を評価しない。ウィウコミルスカはこういう意味の曲であることを理解しているとは思えないほど「雄弁」だ。線の太い、乱れの無い音は生命力に満ち溢れ、無遠慮になりひびくピアノ伴奏ともども、「おしゃべりすぎ」だ。もっとデリケートな盤の出現を、期待したい。

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チェロ・ソナタ

○ベアトリス・ハリスン(Vc)クラクストン(p)(symposium他)1926/2,3・CD

ディーリアスの円熟期後の作品は旋律の半音階性を増し内省的になり(つまりそういう面では「才気が変容」し)、完成期ドビュッシーの影響下それ以上に「印象主義」的な楽想のうつろい、気まぐれ、だが一種限られた箱庭世界から出られないようなハーモニーの微妙な動き、個性的だが余りに曖昧冗長で、楽しんで聴くにはそれなりの気持ちと環境が無いと難しい。あくまで自己の音楽に忠実で技術的な難しさは無く(弦楽の書法は私は巧いと思う)、超絶技巧を楽しむことができない器楽曲というのは普通の聴衆には受けないわけで、演奏会に取り上げられないのも頷ける。チェロ・ソナタは特にそういった面が顕著に思われる。曖昧模糊とした美しさ、自然主義的というか環境音楽的な耳優しさがあるが、表現が単調だと飽きてしまうし、甘すぎると胃がもたれてくる。短い単一楽章制なので何とか聴き通すことはできるのだが。。当代一の女流チェリスト、B.ハリスンの音は前時代的な纏綿とした、ヴァイオリン的なもので、びろうどのように滑らかに震えるようなヴィブラートと有機的なフレージングでディーリアス世界に入っていく。だがそういう芸風なだけに、こういった旋律が半音階的でわかりにくく、全般平坦な風情の作品では正直、飽き無いとは言い切れない。なんとなく一回聞き流すなら美しい、でも何度も聴いたり、あるいは真剣に聞き込むという態度には向かない。何より録音が悪いのは仕方ない。この時代では確かに第一級の安定感であり、作曲家も満足したであろう確かさに優しさがあるが、曲自体の価値含め○以上にはならない。

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三つの前奏曲(1923)

パーキン(P)(UNICORN-KANCHANA)(CD2071)1983

泣いてしまいます。エリック・パーキン大菩薩の真骨頂。春にピッタリの曲。ディーリアス特有二大リヒャルトの生温い残響も、ここでは透明な抒情の中に溶けてゆきます。もうこの美しい水彩画に溶けてゆきましょう、みんな。

つづく
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