湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

バーンスタイン:ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」抜粋

2018年03月16日 | Weblog
○ゴーバーマン指揮管弦楽団、ラリー・カート、キャロル・ローレンス他オリジナル・ブロードウェイ・キャスト(sony)1957・CD

第一幕(前半)を中心に編まれたオリジナルキャストによる録音。オリジナルではバーンスタイン自身は振っていない(複数ある録音もシンフォニックダンスが殆ど)。音こそ古びて色彩的な派手さがないし歌も素朴、管弦楽もこの頃の雑味を帯びているが、生のままというか、リズムを中心とした粗野な味わいは劇音楽というより劇そのものを直接感じさせる。歌いながら踊っているわけでそこも評価に加味せねばなるまい。平易な英語なのでわかりやすいのも、これがダンス・ミュージカル、「アメリカのミュージカルの真の誕生」であることを実感させる。舞台では啓蒙的であろうとしたバーンスタインが、劇の構成要素であるプエルトリコからの舞踏音楽をジャズの要素と巧みに織り交ぜて、通俗的だが永遠に残る伝説的な素晴らしい歌のメドレー、「トゥナイト」「アメリカ」など(各々さほど長く何度も歌われるわけではない)、踊れるダンス、「マンボ!(体育館のダンス)」「クール」などといった曲でのはっきりしたリズムの連環という形で構成している。コープランド的な「アメクラ」の部分はあるのだが、バーンスタインにとってそれは同時代の風物として「中に取り込む相手」であり、明るく空疎な響きと複雑なリズムだけに純化されたそれとは違い、厚みある響きや色濃い旋律表現によってバーンスタイン化されており、他の要素も同様で、全部を見事に構造的に融和させている。世俗性は何も客受けだけを狙ったわけではなく、たった2日の間に大都会の底辺で起こった、対照的な移民系の若者同士の悲劇を、「刹那的なもの」の連続によって「ロメオとジュリエット」のフォーマットを使い表現したということだ。これは「アメリカ」を代表するミュージカルであるとともに「アメリカ」に問題提起する、今もし続けているミュージカルである。シェークスピアのフォーマットを使って若者を取り巻く社会問題を音楽化したというと、ディーリアスのケラーによる「村のロメオとジュリエット」があるが、ここではディーリアスの時代から半世紀を経、より肌につくような内容が語られている。ケラーは美談を書いたわけではないがディーリアスは世紀末の雰囲気そのままに二人の死を美化してしまった。バーンスタインは、トニーだけが死んで終わる。日常の続きまで描く。このオリジナルキャスト抜粋版では美しい高音でディミヌエンドはするが、あまりにあっけない、現代の悲劇は一瞬で終わると言わんばかりの「銃弾一発」(ま、筋書きはローレンツだが)。さすがに全編聴くのはしんどいが、バーンスタイン自身の豪華盤は話題にもなり、当時はよく聴かれていた(それすら全曲ではない)。ダンスを楽しむには舞台であり、音ではどうにもこうにもだが、それでも、バーンスタインの作曲の腕をもってこの録音くらいなら聴かせる力がある。けしてシリアスなバーンスタインの作風ではないが、ユダヤの出自を押し出した交響曲などよりある意味結局は「アメリカ人」である(トニーのような)自身を素直に投影した作品として聴くことも可能である。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲

2018年03月16日 | イギリス
○ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI)1967/7/27アビーロードスタジオ・CD

ステレオで、時代なりではあるが明快な録音状態。それだけにボールトのリズム感が気になる。前に向かわずブラームスのような縦型の取り方なのだ。自作自演でもステレオのものは似たような感じになっているのでそもそも曲がまとまりにくいせい(改訂のせい?)かもしれないが、自作自演よりはいいものの、ちょっと気になる。音響感覚もやや鈍重だが、ボールト的にはまだいいほうかもしれない。確か初演もボールトで古い録音は改訂前のものだったと思うが、古いほうが寧ろ若気の至り的な曲の若々しさを引き出していたようにも思う。オーケストレーションは明らかに中欧ふうの重いものだったんだけど。○。

※2008-12-19 11:51:07の記事です
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ルーセル:組曲

2018年03月16日 | Weblog

◎ザッヒャー指揮ラムルー管弦楽団(PHILIPS)

パウル・ザッヒャー氏が亡くなっていたということをつい半年前まで知らなかった。数年前、90代の現役指揮者として来日するとかしないとかいう記事を新聞で読んだ記憶があり、バルトークやオネゲルなど20世紀前半の大作曲家を後援し作品委属ならびに演奏を行った時代の生き証人が、まだ現役であるということに感慨を覚えたものだ。このまま死なずにえんえんと生き続けるのではないかと思うほど精力的な活動を続けていたこの人も、結局鬼籍に入ってしまったのか、と落胆した。言わずと知れたスイスはバーゼルの室内楽団の主宰者で、ごく若い頃から既にバリバリ演奏活動を行っていて、演奏精度は他の追随を許さなかったと言われる(そのわりに録音が極端に少ないのはどうしたものか、私もこのほかにはオネゲルの1枚くらいしか持っていない)。それにしてもロザンタールも亡くなってしまったし、いよいよ20世紀音楽も過去のものとなりつつあるのか。

うーん、悲しい。さて、

これはもうほぼ同時期の3番シンフォニーと並んでルーセルの代表作と言っていいだろう。バレエ音楽で見せた溌剌とした躍動性と硬質な叙情性がオーバード、牧歌、仮面舞踏会の3つの楽章に凝縮されている。シンフォニーよりわかりやすく、簡潔で引き締まった楽曲だ。ザッヒャーは明るくしなやかな音楽を描く。それは不思議なほど垢抜けていて、ルーセルの欠点であるリズムの鈍重さもまったく感じさせない。これも欠点、分厚く脂ぎった響きも見事に灰汁抜きされ、非常に軽やかに、まるで遊園地の音楽のように懐かしいセピア色の感傷を秘めたものへと昇華されている。楽天性はルーセル本来の持ち味だが、それがたとえばミュンシュがやると管弦楽の重たさと相克してしまい、今一つ入り込めない人を産み出してしまう。だがザッヒャーはこの曲で一番晦渋な緩徐楽章「牧歌」においても、ミヨー的なひびきの晦渋さを極力おさえ、わかりやすい調性的な主題を過剰にならないように巧く浮き彫りにしている。ともするとストラヴィンスキーの影響を過大に誇張するようなどぎつい色付けをされがちなルーセル作品であるが、ザッヒャーの適度な透明感と適度な艶美性があいまったきらめくように鮮やかな色彩感は実に見事と言うほかなく、そのすがすがしさ、楽しさはもうこの上ない。アンサンブルも完璧。引き締まった弦楽、規律正しい木管・金管はしかし堅苦しさの微塵もなく、音色やフレージングには遊び心すら感じられる。曲がザッヒャーの性向と見事に一致していると言ったらいいのか。至上の幸福感を味わえる演奏だ。文句無し◎。

※2004年以前の記事です

FRでCD-R化していると思う。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ワイル:歌劇「三文オペラ」

2018年03月16日 | ドイツ・オーストリア
○H.ロスヴェンゲ、R.アンダイ、C.アドラー指揮ウィーン・フォルクスオーパー・アンサンブル(VOX,MAJESTIC)1963版・LP

マーラーの最後の使徒として有名なチャールズ・アドラーはアメリカに居を構えてのち戦後はウィーンにも拠点を置き、SPAレーベルを通して比較的保守的な現代音楽を紹介することに情熱を注いだ。録音は少なくないのだがLP単発のち再版せず、マーラーを除いては今も評価を得られていない感がある。だがこのいかにも中欧臭い演奏には同時代の空気が紛々とし魅力的である。ほつれのないがっしりした構えの中、ブレヒト劇にふさわしい歌唱、正しく戦前ドイツの世俗的情景を描き出している。また兵士の物語や、サティの晩年作を思わせる皮肉な調子(意図的引用も含め)も、それとわかるようにくっきり明瞭に表現し分けられる。ガーシュインとは違うヨーロッパの「ジャズ」。引き締まった書法だが基本ミュージカルのような曲だけに、少し真面目過ぎるところは気にはなるが流れはいい。ウィーン風でないところがむしろいい。なかなか。○。

※2010-01-25 20:03:38の記事です
Comments (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする