湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ホルスト:組曲「惑星」

2017年05月31日 | Weblog
バーナード・ハーマン指揮LPO他(decca)CD

左右の分離の強いステレオで最初は戸惑う。録音操作もあり、でもそれだけに音場の拡がりがあってしっかり圧もかかり、木管など細かい楽器の動きが明瞭で、スペクタクルでメロディアスな音楽がいっそう引き立ち、同時代クラシックの指揮にも積極的だった映画音楽家の「わかりやすくさせる腕」が光る。この演奏を惑星の決定版とする人がいるのもわかる。元より小編成、ほとんどピアノ四手版だったものに、非常に理解ある協力者らを得て創り上げた(米英ではしばしばある)大管弦楽曲であるからして、手を加えるのが通例なところもあり、火星についてもいきなり銅鑼が大きく鳴らされ続けて面白い。テンポはゆったりしていてじっくり横の流れに重い響きのうねりをのせて楽しませていくやり方で、しかし激しい曲で縦もそれほどしっかり揃ってないながらさほど弛緩を感じさせないのは、アタックを尽く激しく付けさせているからで、それ含めて効果の狙い方が通俗的と思われるかもしれないが、息遣いまで聴こえてくる明晰な録音(撚れている箇所もあるが)で各楽章の性格をはっきり描き分けてきて、この比較的穏健なテンポとアーティキュレーション付けの穏当さでも飽きない。木星は聞かせどころとみて力が入っている。土星では民族音楽要素と現代音楽的な金属音のコントラストを鮮やかに提示している(このトライアングルなど使った金属質の音響はホルストが好み神秘主義的に他の曲でも使った「常套手段」である。ラストの海王星では多用されている)。両大戦間の不安な空気を伝える曲でもあり、楽天的な中に空疎な勇ましさや夜の空気を漂わせる、構造的に複雑ではないながらも内容には重層的で、他の作品にみられないものが詰め込まれ、指揮者はすでにリヴァイヴァルしたスペクタクル作品と捉えてはいるが、ゆっくりしたテンポを崩さず内声まで音を余さず出し切らせているのは、答えはここにはないが、聴く者の中に何か立ち上らせようとしているのだろう…アイヴズの時のように。最後のクライマックス、軍隊行進曲となる天王星の過激で壮大な音楽、カラヤンもやっていたオルガンのグリッサンドで上り詰めてからの死滅するラストは一聴に値する。海王星で甘美さが戻るのが、原曲のせいとはいえ少し安っぽいが。スター・ウォーズといった感じである。無歌詞女声合唱に至っては宇宙戦艦ヤマトである。それでも、これは聴きやすい。長くじっくり楽しむ人向けである。
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☆スクリアビン:プロメテ~火の詩(交響曲第5番)

2017年05月31日 | スクリアビン
◎カステルスキー(P)イワーノフ指揮モスクワ・フィル(RCD)1975live・CD

力強く、烈しく、引き締まったベートーヴェン的スクリアビン。幻想よりオケの力が勝り、その各声部のやりとりのスリルが堪らない(スリルと言っても技術的スリルではない)。ピアノはオケの一部と化し殆ど目立たない。余り派手なピアニストではないようだ。それでもとにかく、たとえばこんな迫力の演奏を実演で目の当たりにしたら圧倒されてしまい、このライヴの終演後のザワザワする会場の反応同様、どう反応したらいいのか、途方に暮れる可能性もあろう。イワーノフの実力、このころまでのロシアオケの真髄を見る思いだ。ペットが凄い。即興的感興を流すようなつかみどころない曲ではあるし、最後の壮大な盛り上がりも録音の音場がやや狭いせいか広がりが足りない感じもするが、リアルな音の交歓だけでも十分味わうに足るいわば純音楽的演奏だ。ステレオ。

※2006/2の記事です
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

2017年05月31日 | Weblog
◎ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(CAPITOL)CD

ショスタコーヴィチの後期交響曲の中では不人気なほうの作品だろう。11、12番、とくに12番は不成功という評価が一般的のようだ。11番は「血の日曜日」を題材とした表題音楽だが、表題性から切り離して、さらにこれがショスタコとは思わずに聞けば、けっこう面白く聞けるだろう。旧弊な民族交響曲的なところが少しあり(とくに民謡臭い旋律に顕著)極めて平易でわかりやすい。長い長い旋律をただひたすら歌い続け(但し終楽章はちょっと違うが)、楽器の用法もシンプルである。対位法的な箇所も少なく、音響的な新味もないし、オーケストレーションは異様に単純。どうしてしまったのだろう、と思う反面、ショスタコ・マニアまでいかない私のような者にとっては取りつき易く楽しみやすいものとして価値がある。2楽章アレグロが1月9日という悲劇の日を自作の十の詩の中の同名曲を引用して(この引用は単なる手抜きなのかもしれないが)克明に表現した描写音楽であるという前提条件がなくても楽しめるし(楽しんではいけないのだが)、だいいちショスタコ自身の本領としての暗く哀しくささくれだった音楽とは比べ物にならない平凡な楽想を用いているから、そういう楽しみかたもよしとしてもらいたい。群集がさわぎ行進し、通奏主題である1楽章宮殿広場の静かなコラール主題による一瞬の静寂ののち殺戮の銃撃、最後は阿鼻叫喚。2楽章はこういう内容であると知らなければプロコフィエフのようなスポーツ音楽という感覚をおぼえかねない。続いて3楽章葬式の音楽は平凡だが美しく悲しい挽歌。そして強烈なコントラストで雪崩れ込むアレグロ・ノン・トロッポの終楽章はちょっとショスタコらしさがあるというか、まあ過去の音楽の剽窃主題や民謡風主題(というか革命歌)がちょっとげんなりさせるものの、構成上決してきちんと解決しないのが面白い。内容的には壮大強烈なクライマックスを構じたあとそのまま終わらずに1楽章主題を回想させ静かにした後、2楽章の民衆のテーマを唐突に配して終わる。5番などでも見られる擬似クライマックスだ。ストコフスキはさらにダイナミックにこの音楽の表層的な娯楽性を浮き彫りにして秀逸である。名盤の誉れ高い演奏だが私の手元の2枚組LPが雑音まみれで残念。でも元の音はクリアなようなのでCDでは問題無いだろう(未確認)。この曲は深読みの余地がないのでストコフスキは大正解。この人、弦の扱いうまいなー。気合の入ったオケも聞き物。うまいですよ。

※2004年以前の記事です。
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☆マーラー:交響曲第3番

2017年05月31日 | マーラー
◎ユーストラティ(Msp)スツェンカー指揮ケルン放送交響楽団(ARCHIPHON)1951/3/5LIVE・CD

大変に立派な演奏で録音や演奏技術上の瑕疵はこのさいどうでもいい。ドイツ的な重厚壮大解釈の範疇にあるが、密度の高い音響への鋭い感覚とスコアに埋もれたフレーズへの緻密な配慮が、古典的な堅牢さとロマンチシズムの両端を満たしたまさにマーラー的な音楽を表現主義的に描き出す、響きの軽さをもって奇怪なメルヒェンを感じさせるいかにも前期交響曲的な表現ではなく、6番以降の後期交響曲を思わせる分厚く立体的な聴感を与える演奏になっている。芸風からしてもオケの表現の指向からしてもロマンに流されることはないが、構成の妙で、横のフレーズが表立ってきたときにはとてもロマンチックに聞こえるし、情緒的に揺り動かされるところも多い。力強くドラマチックな1楽章やリアルで雄渾な終楽章もよいが(人によっては後者はやや飽きるかもしれない)、聞き物は中間楽章で、時には9番、時には大地の歌の頃を思わせるようなところがあり、スコアの構造をくっきり抉り出し特に中低音域に散置されたフレーズに重心を置きなおすことで、「角笛交響曲」と呼ばれる歌曲編曲音楽にとどまらない、たんに旋律線と音響というのではない、交響曲としての聴き応えというものを構造的に明確に提示してきている。中間楽章でダレる演奏というのは類多々あり、それを終楽章の謳いまわしで挽回したりすることは多いが、これははっきり違う。「原光」の歌唱と管弦楽の対比においても、あくまで歌曲としてではなく交響曲の一部として器楽的に捉えているような節があり、全体のフレームのしっかりした歌唱付き管弦楽になっており、前後ともコントラストのついた楽章として聞き流さずに聞き込むことができる。

全般、近視眼的には揺れず予め作りこまれた解釈が緊張感溢れる演奏として提示されている、これはオケの共感なしには成り立ち得ない。ちょっとオケが暴走気味になるところも含め、ライヴとしてかなり聞ける演奏という位置に置くことに躊躇は感じない。◎。

※2007/6/12の記事です。
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ホルスト:組曲「惑星」

2017年05月31日 | Weblog
ストコフスキ指揮ロス・フィル他(EMI/Capitol) 1956・CD

数々の一流オケを相手にしてきたストコだけあってこの外様相手だと相対的にオケの音が痩せて迫力不足にきこえ(1956年のステレオ録音だからと言って20年余の実験をへて、2年前に世界初の商業録音として満を持してレコード発売、直後驚いた各社競ってステレオに取り組むなか3トラック録音により、原音そのもの(僅かなノイズや曇り、レンジの広さ)を除けばほぼ現在の録音と遜色ない記録となっている。そこに原因は求められない)、カラヤンもやっているような(ストコフスキー・クレッシェンドや打楽器増強とか休符無視とか独特ではあるが)一部スペクタクル的改変を除き、むしろ音符を切り詰め即物的に演奏しており、そのくせテンポは標準的というかほぼ速めのインテンポで揺れず、なぜか響きは重心が低くドイツ的な純音楽志向すら感じさせ、バランスは良いが期待する以上のものは、デモーニッシュな天王星以外恐らく得られない。思い入れなくスコアに少し手を入れたものを再現させたような演奏だ。音色に魅力がないのは厳しい。LAフィル特有の映画音楽的な艶や雑味もなく個性的ではない。巨視的なドラマを作らず小技を除けば平板で、迫力でいえばストコフスキ自身のスタイルが押せ押せだった古いNBCライヴを取る人がいてもおかしくはない。このあと同曲の録音を残さなかったのはイギリスの作曲家と近しかったストコにしては不思議でもあり、セッション録音には何かしらレコード会社側の事情が絡んでいたとしても、ライヴ記録すらないのはボールトなのかカラヤンなのか、力ある指揮者に道を譲ったのか。といっても普通に楽しめるし、普通に聴くのに問題はない。さすがに60年以上前のステレオ録音なので最新のライヴを生で聴くのとは違うが。
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