27日は、「二都物語」の3回目。
私の楽でした。
ファンクラブでは初日と18日のチケットしか取れなかったのですが、どうしても見たくて、見切れ席ですが追加しました。
明治座名物の幟。

全員の名前がちゃんと道路側を向いているのって、なかなかないそうです。
18日は、上手のブロック前方、センターよりの通路席。
舞台に近く、視界がひらけていて、ストレスなく楽しめる席でした。
シドニーやチャールズは目の前で歌ってくれるし、しかも、憎々しいエヴレモント様と何度も視線が合う美味しい席でした。
何度か視線が合う瞬間を感じた「勘違い席」でした。
今日は、その2列前の端っこの席。
見切れ席ですが、下手の袖から登場する役者さんの姿や、セットの裏で作業するスタッフの姿まで見えるある意味では神席?でもありました。
また、バーサッド役の福井貴一さんが、客席から見えないであろうところがから、ちゃんと端っこいバーサッドの細かい演技をされているのも見えて、感激しました。
福井さんは、初代アンジョルラスさんだったのですね。
なかなか豪華なキャスト陣だなと思います。
ガーデン・コールでは、オケビの中も見えました。
満員御礼の看板は出ていませんでしたが、今日はこれまてで一番、客席が埋まっているように感じました。
楽に向かって盛り上がっているのを感じました。
3人の子役ちゃんたちは、みんなすごく達者です!
小さなルーシーは、シドニーの口癖をマネして客席を楽しませてくれるのですが、そのモノマネのレベルがどんどん上がっていました。
シドニーの心だけじゃなく、観客の心も和みました。
ガスパール少年は本当に可愛らしく、みんなに愛されているのが、アンサンブルの皆さんの演技からも伝わってきて、毎回、涙をこらえられませんでした。
小さな子どもが犠牲になるのは、本当に辛いです。
守られたルーシーと、守られなかったガスパール。
パリの少年とロンドンの少女、
「二都物語」にはいろんな対比が描かれていますが,悲しい対比でした。
初日、18日、今日と、どんどん物語の世界が深くなっていくのを感じました。
同時に、重たい作品の中にも、小さなルーシーの場面のようにお笑いの要素もちりばめられていて、結構笑い声も漏れていました。
でも、やっぱり重いのです。
罪もないお針子までも犠牲になるような革命の暴走は、なんの罪もないルーシーたちまで殺そうとするマダム・ドファルジェの憎しみと重なって、サトシさんの「どこまで続ければ気が済むんだ」という苦しい叫びは、現実の世界にも繋がっていきます。
そういう混沌とした世界の中で、シドニーの選択は、本当に尊い。
けれども、自己犠牲を賛美するのはちょっと違うかもしれないとも思いました。
今回、チャールズの新しいナンバーが入って、物語の流れがすごく明瞭になったから気がついたのですが、チャールズは貴族という身分から逃れようとしても逃れられず、全ての災難の原因は全てその生まれ。
名前を捨て貴族の称号を捨てても、逃れられない。
初演のときは、不幸を自分で抱え込んでいるみたいで、なんか馬鹿だなあと思っていましたが、貴族であることから逃れられず、宿命に弄ばれる不自由な存在だと思うようになりました。
チャールズが掴んだたった一つのものがルーシーへの愛。
けれども、信頼する友(使用人)の命を守るために、危険を冒してパリへ行く。
歌詞の中に、僕は愚かだ、という言葉があって、愚かであっても信頼するもののために命を危険にさらするチャールズの姿は、ルーシーの幸せを守るために命を捨てる決心をするシドニーと全く同じなのですよね。
二人が似ているというのは、そういうことなのだと思いあたりました。
シドニーが清々しい思いで断頭台へと登って行けたのは、自分が死んでも、自分の魂はチャールズの中で生き続けることを信じていたからで、シドニー自身は自己犠牲だなんて思ってもいなかった。
なぜなら、この後チャールズはシドニーのパスポートに守られ、ロンドンでシドニーとして生きていくことになる。
つまり、チャールズが貴族の身分から逃げられなかったように、シドニーの記憶からは一生逃げられない。
シドニーは、命を捨てることで、愛するものたちの心の中で生き続ける幸福を選んだ。
だから、それはきっと、自己犠牲ではない!
12年かけて、私の中のもやもやが、やっと、晴れたように感じます。
もう一度、ディケンズの原作を読み返してみようと思います。