Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

完全な安全なんて存在しない…

2006年04月29日 | Weblog
人生は、勇敢に立ち向かうべき冒険であるか、
さもなくば、意味のないものか、のどちらかです。

この世には確実に安全であるということはありません。
また人間の子どもたちにも常に安全であるというわけにはゆきません。

危険を回避することが、危険にさらすことより、より安全であるという保証は、
長い目で見たときにはあり得ません。

…ヘレン・ケラー

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レールが敷かれた人生を歩むよう、子どもたちを指導することを「教育」とよぶ人たちがいます。社会に階層を作り、しきたりを設けて、その型どおりに生きることを強要する人たち。そこにはリスクを回避しようという強迫的な意識があります。たしかに安全であるように見えるのでしょう。でもその代償に、人間としてのもっとも重要な要素を犠牲にしていることには、目をそむけるのです。それは「自己実現、自己達成感」がもたらす充足感と、そして「進歩」です。決められたシナリオどおりに生きる人間の人生は「意味のないもの」です。なぜならば、人間には創作意欲というものがあるからです。第三者からは「つまらない」ように思えても、本人にとってはどうしても登りたい山なのです。自分にとって挑戦と思える目標を目指し、登ってゆくときに、人間は真に生きているという実感を得ることができます。

あなたはいったい誰と競争しているの? 「あの人たち」に負けたくない、「世間」に後ろ指さされたくない、人々から評価されたい…。だから他人が追い求めているものを自分も追い求め、そのようにして他人の土俵でやりたくもない相撲を取っている。そんな人生が楽しいわけがないです。誰も登ったことのない山だからこそ、自分が登る意味がある。自分にとっては未知の領域だからこそ、自分の流儀で切りこんで行きたい。自分が興味を持ったからこそ、自分で学びたい。だから、誰とも競う必要などない。自分の納得のゆくまで進めればいいのだから。

そんなことをして何の得になる? そういう人は臆病な人だから、怪我をしないように、間違いのないように歩むことで生きている。だから何の達成感も充足感も得られない、だから自分に自信が得られない。自信が育まれないので、劣等感を持つようになって、他人の足を引っ張ったり、一生懸命に生きている人をおとしめたりして、人を自分より低めて自分に価値を感じようとする。でもね、首尾よくそういうたくらみがうまくいっても、後に残るのは決して勝利感ではない、むしろますます自分が惨めになるだけです。

怖がらずに原生林にけもの道ていどでも切り開いてみようよ。人生は長いようで短い。安全に安全にっていうことばかり気にかけていては、ただ単に生きているだけ。点線をなぞれば綺麗な字が書けるかもしれないけれど、そこには自分だけの個性がない。下手でもいい、のびのびと、大きく自分のクセのある字で、文章を書いてみようよ、自分を主張してみよう。自分という「器」のポテンシャルをフルに発揮しようよ。それが、自分という人間の生きる意味だと思うよ、わたしは。

世渡り人渡り三訓

2006年04月27日 | Weblog
人の小過を責めず、人の陰私を発(あば)かず、人の旧悪を念(おも)わず。
三者、以て徳を養うべく、また以て害に遠ざかるべし。

(「菜根譚」前集の第106 / 洪自誠・著/ 吉田公平・訳)

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現代語訳は以下の通りです。

「他人の小さな過失を責めたてない。他人の隠しごとをあばきたてない。他人の昔の悪事を覚えておかない。この三つで人格を養えるし、同時に危害を遠ざけることができる」。

ここの「危害」を今ふうに、「人間関係の歯軋りせずにはおれないストレス」とおけば、他人の小さな過失をあばかないように、という諭しは分かりやすいですよね。でも時に、あえて鬼の首を取ったように、小さなものから忠くらいのもの、大きなものはそれはもうもちろん、大声で吹聴して回るタイプがいますよね。敵意があるのか、妬みに狂っているのか、とにかく相手を失脚させようと躍起になっています。見苦しいんだけれど、権力者だと見てみぬふりをします。だって、その人の下で生きていかなければならないのですから…。

洪さん:いや、ちがうんだってば! 権力者に対して見て見ぬ振りするんじゃなくて、身近なパートナーの小さな過失を見過ごせと言っておるのだ!

わたし:あっ、はあ、はいっ…。


他人の秘密。パートナーのプライベートならなおのこと、気になりますよねー。でも、秘密はそっとしておかなければならない、それが二人の関係をもっと親密にしてゆく大事なこと。親密さっていうのはべったりぴったり重なることじゃない。中学・高校の頃に、数学で「集合」ってやりましたよね? 二つの円が一部分重なっている図があったでしょ? 「AまたはB」というのは二つの円全体で、「AかつB」というのは二つの円の重なった部分…てなやつ。この「AかつB」の状態で人間とかかわるのが良好な関係です。相手と重なるのは一部分。残りはあくまで「自分」…。良好な人間関係というのは、相手のすべてをコントロールしようとはしません。プライベートを尊重します。相手を愛しているから、信じているから。

これができないのが機能不全家族のアダチル(アダルト・チルドレン)親。子どもを自分の思いどおりに動かすことから生きがいを得る、という一種の吸血鬼、精神の成長を止めてしまう。ものみの塔もそう。個人のプライベートなことまで規則を設けてくる。聴くべき音楽、読むべき本、趣味からスポーツから、人生設計まで。彼らは信者に奉られていたい、でもプライベートを尊重すると、自分を奉っているのかどうか不安だ、だからプライベートをも自分たちのコントロール下に置かずにはいられない。彼らの「内なる人(コリント第二、だっけ?)」はまだまだ、お母さんのお世話を必要とする小さな子どもなのです。

小さな子どもはお母さんから離れようとするけれど、何か不安なことがあると(たとえばヨチヨチ歩いていくけれど、転んじゃったー、みたいなとき)、泣いてお母さんのところに戻ってくる、こうして不安なことがあってもスキンシップで再び安心を取り戻す、この繰り返しで人間は自分のうちに自信を育んでゆきます。このような甘えを十分にゆるしてもらえなかった子どもは、いつまでも漠然とした不安から、引っ込み思案になりがちです。ものみの塔の上層部の連中の精神レベルはおそらくこの時点で止まったままなのだろう。心理療法を緊急に必要としている連中なのです、彼らは。


旧悪を思わず。う~ん、むずかしいなあ。「旧悪」の内容にもよるよね。ウチのバカ親だけは、もう尊敬することはないね。あんな親の下に生まれた不運を呪うだけよ。ものみの塔はそれ以上にね。バカなアダチル親をたぶらかしやがる邪教集団。ゲへナの裁きをくらえ。でも、それ以外は、洪センセのおっしゃることを念頭に刻み込んでおこう! いい人生を過ごしたいし、それはいい人間関係にかかっているもの…。

人生は創造だよ

2006年04月25日 | Weblog

人生は反逆だよ。すべての既成概念に反逆することだ、既に在るものは燃焼した灰さ、生きるということは創造だからね。

(「火の杯」/ 山本周五郎・作/ 名言集「泣き言はいわない」より)

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人づき合いで傷つくことを何より怖れるようになった人がいるんです、実際に。心の中では連れ合いがほしくってほしくって、気が狂うほどなのに、いざチャンスが巡ってくると、つっぱっちゃう。幸せ恐怖症。回避性障害。ひとりぽっちで気が狂うほどさみしくっても、でも傷つくことよりは、何ごとも起こらない平穏さを選んでしまう。

明日を見失った人がいるんです、実際に。過去の栄光を誇らしげにしているけれど、自分じゃホントは気づいてる。もう昔のように強くはないことを。自分じゃそれを「衰え」だと定義しちゃってる。肉体は確かに衰えてゆくのだろう。だが心と知性が衰えることはない。新しいステージを迎えているっていうことなのに、自分のステージは、過去に栄光を与えられたコートだけだって、しがみついている。

「生きるっていうことは創造」だよ! 状況が変わったら、自分の立ち向かうステージも変わってくる。うつ病思考の人々の言うことは、気にしないでいい、ホントに。自分の人生にだれも外から枠をはめることはできない。他人の人生に枠をはめようとするのは、その人自身が安心したいからです。自分の自己抑圧的な人生に、自分じゃホントは大いに不満を抱いている、でもそれを認めたくない、ほんとうはもっと充足できる選択はあったのに、臆病だったので安全な道を選んで、不満だらけの生涯を終えようとしている、でもみんなこうなんだって信じたいだけ。自分が安心できるようにネ。でもそんな人たちに気兼ねして、後悔するような選択を「私」までする必要はない。

さあ、勇気を出して、見たこともない場所へ、足を踏み入れよう! 
弱気に生きてきた自分に、今、反逆しよう!
波風の立たない日々にしがみつく自分の心の「既成事実」を、今、打破しよう!
自分の殻を破って、「やった!」っていう喜びを経験できたという、すばらしい人生を得るために!


人を助けるのに特別な技能はいらない

2006年04月23日 | Weblog
日本人は、他人を助けるには特別な技能がなくてはならないと考えがちですが、そんなことはないと思うんですよ。    

(「あなたにもできる災害ボランティア」/ スベンドリニ・カクチ・著~より、岩瀬幸代さんのことば)

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岩瀬幸代さんという方は、このような人です。

「岩瀬さんは旅行記事を書くトラベル・ライターで、これまでスリランカに6回行っています。アーユルヴェーダという伝統医療を取材するために滞在したのがきっかけで、いまではスリランカの友人がたくさんいます。
『被災者のために何かをしたいと思っているときにスリランカ大使館が寄付金を募っていることを知り、すぐに銀行に駆けつけて送金をしました。でも帰宅後、それだけでは気持ちがおさまらなかったのです。お金では表しきれない自分の気持ちをもっと目に見えるかたちで表現して、彼らを励ましたかったのです』と岩瀬さんは言います(上掲書より)」。

困難な状況にある人には、たしかに、まずお金ですよね。お古の衣料を処分がてらに送られるよりはずっと役に立てます。でも、暮らしの糧が与えられたからといって、それで被災者は慰められるでしょうか。これは個人的な想像ですが、食べ物や生活用品を施されるって、けっこうプライドが傷つくんじゃないかと思います。この点について読者のみなさんはどう思われるでしょうか。実際に慰めを得るのは、そばにいてもらえて気持ちを理解してもらい、おしゃべりや食事などを一緒にすることなのではないでしょうか。つまり、慰めを与えられる一番のものは人間そのものではないでしょうか。

岩瀬さんはまた、実際的な援助を考え出しました。「施し」を与えることではなく、生活の再建の手助けをしようと思いついたのです。現地の被災者が再び、自分で生計を立てられるようにしよう、ということです。そこで岩瀬さんは、津波被災地応援ツアーとして、「スリランカ応援プログラム」を企画されたのでした。

「観光産業に大きく依存しているスリランカを助けるには、スリランカにツアーに行くことだと、岩瀬さんは気がついたのです。観光客が旅行をキャンセルし始めたために、観光産業は大打撃を受け、ホテルやレジャー施設で働いていた多くの人たちが困っていました。津波で家族や親族を亡くし、生活を立て直そうとしている地元の人たちにとって、観光客のキャンセルは二重の痛手です。そこへニュージーランドのある旅行会社が、ボランティア活動を組み込んだ観光ツアーを企画したのをインターネットで見つけたのです。岩瀬さんは、スリランカに日本人を連れて行くことで二つの重要な目的を果たせると思えてきたのでした。一つは、被災して苦しい生活をしているスリランカの被災者たちが収入を得るチャンスをつくること、もう一つは、津波被災者に何かできることはないかと思っている日本人が救援活動に参加できるようにすることです。でもどこからはじめたらよいのでしょう。岩瀬さんはこのように言いました。『成功させるには、とにかくやってみるしかないと思ったのです』(上掲書)」。

阪神大震災のとき、心ない人たちがいて、被災者を眺めにくる人というのが実際にいたのです。そういう不快な思いをしたことがある感覚からすると、被災地に観光なんて…、と思ってしまいそうですが、被災地は観光で生計を立てている土地ですから、この観光ツアーは地元にニーズにぴったりマッチしたのです。実際的な援助というのはこういうことをいうのです。相手の必要は何かを真剣に考える、これは良好な人間関係の基本でもありますよね。

「はじめに岩瀬さんは旅行会社に『観光とボランティアの仕事』をうまく組み合わせた格安のツアーを作ってもらおうと働きかけました。でもなかなか色よい返事をもらえませんでした。あちらこちらに当たっているうちに、ようやくスリランカ航空が快諾してくれました。なんと7万円弱という、通常料金の半分以下の金額で1週間のツアーができることとなりました。岩瀬さんはまた、このツアーを紹介して参加者を募集するために、生まれて初めてホームページを作りました。そしてそこに、スリランカに行くことで救援活動に貢献できるのだというメッセージを掲載したのです。『この時期に飛行機に乗ってスリランカに行くだけでも津波の被災地にとって大きな意味があるということや、滞在中に少しでも救援活動のお手伝いをして、それがスリランカの人々の苦しみを和らげることに役立つなら、自分たちのできることをやりましょう、というようなことを書きました』。」

「こうして岩瀬さんは、2005年2月と3月に二つのスリランカ行きツアーを成功させたのです。参加者は合計107人、人道支援目的のツアーは初めてという人がほとんどでした。旅行の4日目からいよいよ救援活動が始まりました。朝食を終えた参加者は大きな日よけ帽をかぶり、首にはタオルを巻き、被災した学校に向けて出発しました。ツアーの第一陣はカルタラ地区のバンダラナヤケ・ビジャラヤ学校、第二陣はヒッカドゥワ地区にあるマハマヤ学校とゴール市にあるドダンドゥアワ学校に二校に行きました。これらはスリランカ航空が紹介してくれた学校です。ここでは家を失ったり、家族や親族を亡くした子どもたちが、拍手をして一行を迎えてくれました。

「参加者が任された仕事は校舎のペンキ塗りで、みんないそいそと仕事に取りかかりました。そのうちに教室にいた子どもたちは勉強をやめて日本人たちの仕事に加わってきました。ペンキを一緒に塗りながら、おしゃべりをして笑ったり、言葉の壁はありません。片言の英語と覚えたての簡単なシンハラ語で十分にわかりあえました。ボランティアとして働く日本人を見て、地元の人たちは、外国の人たちがどんなに自分たちのことを気にかけてくれているかがわかって感動したと言ってくれました。ある男の子は、自分がひとりぽっちじゃないことがわかったと、ツアー参加者に話したそうです。最後に、地元の人たちは、感謝の言葉を伝えながら、一生懸命働いてくれた参加者に、お礼のしるしとして、砂糖のたっぷり入った熱いセイロンティーを出してくれたのでした(上掲書)」。

この岩瀬さんの企画したツアーの最大の貢献はなんだったと思われますか? わたしは、塗装された校舎ではなく、地元の人たちの心に感動を与えたことだと思います。人間は孤独から解放してくれることをもっとも喜びます。だから、岩瀬さんはこのように述べられたのです。

「日本人は、他人を助けるには特別な技能がなくてはならないと考えがちですが、そんなことはないと思うんですよ」。

見上げるもの…

2006年04月11日 | Weblog
すべてがうまくゆかなくなったとき、
しかも、何かを決めようとしているときには、
高みを見やりなさい。
そこには、紛糾の要因はひとつもないからだ。

チャールズ・ド・ゴール

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以前には大空の高みは、
望みはしつつも、決して届かないものの象徴だった。

きっと、自分が死ぬときには、
大空を見上げて、
その透明なブルーに諦観を連想する、

「いいの…、これでいいの。
 きっとこうなるだろうって、
 あたし、わかってたから…」

だが、マルスがあたしの心に入り込んでいた、
あんなヤツに負けたくない!
でもここでは地の利が向こうに味方している…

あたしはそれこそ、火をくぐり抜けて来たような、
そんなありさまで、バプテスマの水を払い落として来た。
自分の命となけなしのおカネだけしか残っていなかった。

自由は得たが、自由は責任の重いものだった。
甘えは赦されなかった。
自分で決めねばならず、
その結果が苦いものであっても、
だれをも責めることはできない。

あたしは、目を閉じ、空の遠くを空想して、
決して届かないものを、詩的に表現しようとした。
だがそのとき、恐怖があたしの心を襲った!

このままで、自分は死んでゆくのか?
静けさ、諦観、決してたどりつくことのないあの透明な空…
そういった空想をどうしてかその一瞬から、
美しいものとは感じなくなった。

何かがあたしの中に胎動している…
あたしの目が、一点に集中している。
そこにあるのは、半透明のとらえどころのない空気の層ではなく、
その空に向かってせりあがるような、鋭くとがった岩山の頂!

あそこにはたどりつくことはできる、
はっきりそう思った。
だって、地面はあの頂につながっているんだから!

その時以来、険しい道をあごを上げながら、
荒々しく呼吸をしながら、
何度も座り込んだりして、
でも、あの頂上を見上げては、また歩き出している。

あそこを見上げると、
生きている意味がわかる。
どんなに回り道をしても、
どんなに足が引きつっても、

見上げれば、あそこに頂がある、
歩いていくことのできる地面の延長に。
何もかもうまくいかないとき、
でも何とかしなきゃって、焦るとき、

あの頂を見上げよう。
自分の行くべきところが見えれば、
自分の選ぶ道も見えてくる。
あの頂は、わたしのほおに笑顔を与えてくれる。


新版 1

2006年04月03日 | Weblog
大事に当たっては、好機を生じさせようとするよりも、
到来する好機に乗ずることを第一に心がけるべきである。

「箴言集」/ ラ・ロシュフコー

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実は、「絶好の機会」というのに恵まれることは、人生においてそうたびたびあるものじゃないんです。たいていは、もうちょっといい機会がありそうだな、と思うようなシチュエーションなんです。でも、「もうちょっといい機会」はそんなに頻繁に巡ってはきません。

「もし人からとやかく言われないように、
 完全にできるようになるまで待っていたら、
 何ごともなすことはできないだろう」(ニューマン)

この「ニューマン」さんがどんな人なのかは、
「人生を思いどおりに生きる知恵の言葉」の著者、スーザン・ヘイワードさんは明らかにしていないんですが、この言葉は、慎重なのも度を越すと達成に至ることがない、ということを言っているようです。その通りだと思います。

でも、この言葉は、「絶好の機会」を待っていることにも当てはまると思います。完全に条件のそろった機会なんて滅多に巡りあえるものじゃないんです。今、いけるかも、と思ったらその時がチャンスです。そのチャンスに乗ずることが、自分の人生を拓いてゆくのです。人生を切り拓くのは、行動です。行動をチャンスに起こせば、何かが変わる、あるいは変わりはじめる。

ラ・ロシュフコーの言葉は、好機会をお膳立てしようとするよりも、好機会を待て、そして好機に巡りあえれたら、すかさず行動せよ、という意味にわたしは受け取っています。だから、朝起きたら漫然と朝食を取るんじゃなくて、今日はどんないいチャンスにめぐり合えるかな、と期待と緊張をスタンバイしておけば、毎日に楽しみが増すと思います。

「好機を逃さずに、
 最大に利用する人にとって
 ものごとは最善に展開する」。
アート・リンクレター:「人生を思いどおりに生きる知恵の言葉(スーザン・ヘイワード・著)」より。