Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「異常な事件」は圧しひしがれた「日常」のつみかさね

2014年08月08日 | Weblog

 

 


 

叱られたことしかないから、ほめ方わからない
保坂展人
ASAHI Digital 2014年7月22日   

 

 

 

 


 いまから20年前、私は「早期教育」の取材を続けていました。

 

 バブル経済が崩壊し、日本社会が急速に勢いを失って収縮していった時代に、早期教育はひとつだけ気を吐いている成長産業でした。とりわけ、「生まれたらすぐ読み聞かせ」「早ければ早いほど赤ちゃんの才能は伸びる」などと宣伝し、乳幼児を抱える母親たちの多くが無我夢中でそのプログラムにはまりこんでいました。

 

 当時、早期教育の渦中にいた乳幼児の母親たちのインタビューを重ねて1冊の本(『ちょっと待って! 早期教育』、1996年)にまとめたのですが、そのなかに、A子さんという母親のことを紹介しています。

 

 早期教育の題材を子どもに与え、成績に一喜一憂する自身の中に、かつて自分が子どもだった時に親から育てられたときの「記憶」が強く作用していることに気がついた、というのです。

 

「私は幼稚園から大学まである私学のエスカレーター校に通っていました。3歳からピアノのレッスンを始め、母は音大をめざせと練習にもつきっきりで叱咤(しった)激励していました。間違うとピアノの椅子ごと突き飛ばされるぐらいに厳しい母でした。また、父はサラリーマンでしたが手製のオリジナルプリントをつくっていて、学校の勉強を叩き込まれました。そのせいで、私はいつも学年で1番だったのです」

 

 しかし、A子さんは「学年1位」でありながら、「次はどうなるわからない」と次のテストで転落することにおびえ、心休まる日はなかったと打ち明けてくれました。

 

 子どもの頃、楽しいと思った記憶がなく、幼稚園の頃から「自殺願望」さえあったといいます。両親との会話でも、「なぜ、こんなことができないの!」「あんたやっぱりダメね」という言葉が耳に残っているそうです。徹底したスパルタ教育のもと、A子さんは両親の思い通りに成長しているかに見えました。

 


 ところが、まもなく亀裂が生まれます。高校卒業後の進路をめぐって、両親と激突したのです。成績優秀のため無条件に進学できる大学があるのに、看護師志望のA子さんは「看護学校に行く」と宣言。その通りに進み、やがて医療現場で働くようになって、両親のコントロールから抜け出したそうです。

 

 

 A子さんはその後、結婚して2人のこどもに恵まれました。

 

 あるとき、まだ幼児だった息子の前に通信教育の教材を広げ、鉛筆を持つように促しました。息子は「いやだ」と反発します。いとも簡単に母親の要求を拒む姿を見て、A子さんは冷静でいられなくなりました。身体中がカーッと熱くなったのです。A子さんは窓のサッシを手早く閉めると、息子を思い切り叩きました。「その瞬間、スーッとしました」

 

 

 なぜ、あの瞬間、怒りの感情が噴き出したのでしょう。

 

「いやだ!という一言を、幼い頃の私はどうしても言えなかった。その記憶がよみがえってきたのかもしれません」

 

 A子さんは、子ども時代の記憶と重ねて、このように言いました。

 

「自分が親から言われたことをそのまま、子どもに言ってしまうことがあるんです。私、厳しく叱られてばかりで、ほめられた経験がないから、どうやって子どもをほめたらいいのかわからないんです」

 

 さらに、子どもがベタベタと甘えてくると不快になって突き放してしまうというのです。「私自身が母親に甘えた記憶がないんです。生理的に受けつけられなくて」

 

 

 A子さんのケースはわかりやすく、特別な環境の下で育った人の悩みであるように見えますが、私はここに大きなヒントが隠れていると感じました。

 

 教育のプロセスの中で、誰もが勝ち続けられるわけではないということです。学校の成績が下がって壁にぶつかったり、志望校に入れずに落ち込んだり、習い事やスポーツで結果を期待されながら挫折したり。子どもも大人と同じように、「いい思い」だけでなく、「トラウマ」とともにあるのが一般的です。

 

 にもかかわらず、早期教育が発信する情報は単純明快で、直線的なものでした。

 

<早期教育によって勉強ができるようになり、成績が上がれば『いい大学』に入ることができ、お子さまの将来の選択肢はぐっと広がります。早く準備を始めておけば後悔することはありません。それができるかどうかは、子どもに愛情を持つ親の力なんです>

 

 振り返ってみれば、あの頃は、「日本型終身雇用」の残影がまだくっきりとありました。いわば「いい学校から、いい会社へ」つながる道の入り口さえくぐることができたら、生涯安泰という信念にも似た感覚が一般的だったのです。

 

 ところが、この20年で雇用環境は激変しました。20代の多くは非正規労働につき、日本を代表するかに見えた大手企業が外資に売却されて再編されるなど、「会社が人生を守ってくれる」という疑似コミュニティは崩れつつあります。

 

 それだけではありません。この間に子どもの数は大きく減りました。1992年に205万人だった18歳人口は、2012年に119万人と、およそ6割まで落ち込んでいます。社会はこれだけ変わったのに、あいかわらず、「人間の価値は学歴だ」と信じ込み、「偏差値」や「有名校進学」などを絶対視する傾向が根強いのはなぜでしょう。

 

 私自身は、1970年代の半ばに「日本型学歴社会」の軌道を大きく外れました。人の幸せは学歴につきるという「学歴信仰」から言えば「落伍者」、あるいは「気の毒な失敗作」ということになります。ただ、私自身は早めに軌道を離れてよかったと思います。強がりではなく、悔いはありません。

 

 だからといって、私自身の経験を次世代に押しつける気持ちは毛頭ありません。「学歴信仰」もまだしばらくの間は残るでしょう。この伝統的な価値観はそこそこ意識しながらも、絶対化することなく、できれば相対化してほしいものです。

 

 それにともなって、新しい子育てや教育についての価値観が広がっていくように思います。「子どもの中に宿っている『成長する力』を信じる」。そんな若い世代の親たちの声が少しずつ増えてきたように感じています。

 

 ミヒャエル・エンデが『モモ』で描いたように、子どもたちは「時間貯蓄銀行」のような「時間泥棒」に囲まれて日々を過ごしています。

 

「大人になるための準備」だけに追われる子どもたちから、遊びが奪われています。全身を使って動き、大きな声を出し、走り、転び、笑い、泣く……。疾風怒濤(どとう)の子ども時代だからこそ味わえる遊びの興奮とカタルシスが、人間として生きていくための感情の基盤、すなわち自己肯定感をつくりだすのです。

 


PROFILE
保坂展人(ほさか・のぶと)
 1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。

 

 

 


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早期教育で「失地回復」はかる母の危うさ
文 保坂展人
ASAHI Didital 2014年7月29日   

 

 

 

 


 早期教育の取材を続けていた20年前のことです。

 

「朝、起きたらまずプリントをやります。次に教室に行って、それから…」と、びっしり我が子の学習日程を組んで、叱咤激励しているタイプの親たちに何人も会いました。

 

「この子は、私がそろそろ勉強してほしいなと思うと、さっと自分からプリントを持ってきて始めるんですよ」

 

 そう言って、母親は目を細めます。

 

 自由時間はないのですか――などと聞くと、すぐに答えが返ってきます。

 

「本当はもっと、のんびりとさせてあげたいんですが、厳しい競争がありますから。子どもにのびのびと育ってもらうためにも、今は少々の無理は仕方がありません」

 

 私学難関のエスカレーターに早く乗せることが目標だというのです。

 

 乳幼児から小学校の低学年まで、親の言うことを忠実に実行して、お母さんが喜ぶ姿を見て、ますますその期待に応えようとする子どもがいるのは事実です。

 

「子どもってすごいですねえ。まるで吸い取り紙のように、新しい知識をどんどん吸収して伸びてくれています」と語るお母さんは、桃源郷にいるようでした。

 

「子どもの学力増進が自分の幸せ」という母子一体化の二人三脚を、全国チェーンの教育産業がかきたてます。大きな舞台で年齢別、学年別の「優秀児表彰」が行われ、「優秀児の母」として子どもと共に母親も顕彰されるのです。

 

 そんな母親たち自身は、どんな子ども時代を過ごしたのでしょうか?  

 

 子どもだった時期に一番楽しかったことを覚えていますか、などと質問すると、

 

「うちの子は、毎日勉強してどんどんランクがあがっていくことを楽しんでいます。勉強が最大の娯楽です」

 

 などと、トンチンカンな答えが返ってくることが何回かありました。

 

「あなたの子ども時代は?」とたずねても、「うちの子は」と答える。24時間、考えているのは子どものことばかりで、全国順位の競争結果に一喜一憂する。そんな日々の轍(わだち)は深いのだと知らされました。

 

「私ができなかったことを、この子にはやらせてあげたいんです」という言葉を耳にして、ひらめいたことがありました。子どもの成育は、親にとっての「生き直し」であり、「失地回復(レコンキスタ)」なのだ、と。

 

 多くの人は、習い事でも、成績でも、進学先でも、人生のなかで「思うようにならなかった経験」を持っているものでしょう。そのうまくいかなかった自分の代わりに、子どもに期待を託そうとするのです。

 

 生まれてきたばかりの我が子は、まるで新品のマシンのようにまっさらで、何も入力されていない可能性の塊に思えます。それだけに、期待ばかりが高まるのです。

 

 早期教育のプログラムに猪突猛進している母親たちが自分の子どもをまるで分身のように扱い、意のままにコントロールしている姿には違和感を持ちました。でも、その一方で、謎が解けたようにも思いました。

 

 

 とくに女の子を持つ母親の場合には、自分の人生をリセットした「生き直し」という形にピタリとあうケースが目立ちました。子どもは、自分であり、自分は子どもです。そこに、人格の境界線はないのです。

 

 ところが、人間の成長過程には「思春期」が組み込まれています。それが一心同体に見えた母子関係を狂わせるきっかけになることがあるようです。

 

 


 私は、早期教育の広告塔となっていた何人かの「優秀児」「天才児」のその後を追跡したことがあります。

 

 将来を嘱望された「優秀児」たちの何人かは「嵐のような思春期」に揺れていました。同年齢の子どもたちを寄せつけないほどに高いレベルの学力を持っていたはずなのに、中学生になって自問自答を始めます。

 

「自分は親の期待にただ応えていただけの存在だったのではないか」
 「自分で望んでやっていたわけではない勉強や知識は、自分のものではない」

 

 自我の芽生えの中で苦悩を深め、外に出られずに嘔吐(おうと)を繰り返す苦しい日々をへて、ようやく脱皮したという話も聞きました。

 

 親もまた、子ども時代のみならず思春期を送ってきたはずです。でも、その記憶をスッポリを切り捨てて、子どもを所有物のように扱い、自分の期待を叶えるために無理を通していくと、思わぬ反動がやってきます。

 

「私の思うがままだった我が子」は、小学校高学年から中学・高校にかけて、「何ひとつ言うことを聞かない我が子」に変貌するのです。

 

 親につくられた自分の仮面をはいで子どもが自立していく過程で、戸惑い、右往左往することのないようにしたいものです。覚えておきたいのは、「子どもは分身じゃない」ということです。自分とよく似ていても、まったく別の人格として、別の人生をひらいていく存在なのだ、ということです。

 

 早期教育に限らず、そうした認識が、その後の長い親子関係を持続可能なものにするのではないでしょうか。

 

 

 

 

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佐世保事件 凶行の裏にある「日常」
 文 保坂展人
ASAHI Digital  2014年8月5日   


 

 

 

 灼熱(しゃくねつ)の季節に、心胆を震え上がらせるような事件が長崎県佐世保市で起きました。

 

 仲のよかった友達を、15歳の高校1年生の女子が、ひとり暮らしのマンションの一室で殺害し、その遺体を傷つけるという想像するのも辛い事件です。

 

 それから1週間、新聞やテレビで次々と報道される「事件の背景」にふれても、加害少女がなぜ「友人の惨殺」という取り返しのつかない行為に及んだのかを十分に理解することはできません。また、突然に生命を絶たれた15歳の被害少女とご遺族には心からの哀悼を捧げます。

 

 ひとつだけ、私自身が自戒していることがあります。生半可な情報の断片を並べて、「わかったふりをしない」ということです。 私たちの社会は「理解できない」「説明がつかない」という状態を続けることが苦手で、「そうだったのか」という解釈や結論を早急に求めがちです。

 

 10年前の2004年6月1日。同じ佐世保で市立大久保小学校6年生の女子が、同級生をカッターナイフで殺害するという、痛ましい事件が起きました。当時、直後からヘリが飛び始め、佐世保の街を300人ともいわれる報道陣が走りまわりました。

 

 このとき、焦点が当てられたのは「ネット上のトラブル」でした。互いにホームページや掲示板でやりとりしていたことが事件の引き金であるかのように語られ、そこだけがクローズアップされた印象があります。

 

 事件から2カ月近くがすぎ、私は、夏休みに入る直前の終業式の日に佐世保に入りました。大久保小学校の校長とも先生とも、じっくり話す機会を持ちました。周辺の取材を重ねて見えてきたのは、ミニバスケットボールの「クラブ活動」(社会体育)をめぐる加害少女の変化でした。

 

 部員が少ないながら好成績をあげていたチームの一員として活動してきた加害少女は、「成績低下」を理由に親の意向でクラブを辞めさせられた、とされていました。

 

 たかが、クラブかもしれません。けれども、私たち自身も胸に手をあてて子ども時代をふりかえってみれば、日常生活の中心にクラブ活動があり、定期的にある試合を目標に心をあわせて活動する「共同体」から抜けた後で、魂が抜けるような放心状態となった 人も多いはずです。

 

 のちに、クラブを辞めさせたのは、夜道をひとりで帰らせることへの不安からだった、と父親が毎日新聞記者に打ち明けています。

 

 理由はどうあれ、ミニバスケットボールのクラブをやめた加害少女はその後、選手が足りないために急にチームに呼び戻されて対外試合に出場し、勝ったことで高揚します。ところが、チームに復帰したのではなく、臨時に1回呼ばれただけだと知って言動が荒れます。

 

 

 取材から戻って、私は『佐世保事件で私たちが考えたこと――思春期と向き合う』(ジャパンマシニスト社) という本にまとめました。重要なのは、子どもたちの世界の中で「特別な事件」をとりまく「普通の日常」の何が変化しているのかを見逃さないことです。一見、わかりやすい「原因はネットトラブル」という単純な断定を避けて、事件前も事件後も変わらない子どもたちの「日常」を見直そう、という内容です。

 

 

 このコラムでは2週にわたって、早期教育をめぐる「親と子の葛藤」を書いてきました。まるで、親の所有物のように幼児の頃から、教室や習い事でスケジュールが埋まり、将来を期待される「良い子」と二人三脚で歩んでいる親たちの死角は「思春期」にあります。子どもは親がつくった枠を取り払おうと激しいエネルギーで反抗し、自立をめざしてバランスを失いかけます。まるで未来永劫に続くかと思えた従属的な親子関係は嵐の中で揺さぶられ、親と子は互いの距離感を認識していきます。

 

 成績はトップクラス、スポーツもできて、習い事にも秀でていると伝えられる加害少女が、幼児期からどのような成育環境を過ごしてきたのかはまだわかりません。事件という「特別なこと」にいたる「普通の日常」にどのようなトゲが潜んでいたのか、これから注目したいと思います。

 

「特別のこと」と「日常のこと」は地続きです。私たちは、滅多に起きない「特別のこと」を前に、「特別のこと」は日常とは断絶した「別世界」で起きると考え、思考から排除しがちです。でも実際には、「日常のこと」の積み上げのはてに「特別のこと」は起きているのです。

 

 痛ましい事件から教訓を得るとすれば、子どもたちの「日常のこと」にもっと目を向けるということではないでしょうか。10年前の佐世保事件を、被害者の父を上司にもつ新聞記者が描いた『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)のなかに、加害少女の父親の言葉が紹介されています。

 

<毎日が慌ただしい生活でしたが、もうちょっと子どもたちのスピードに合わせて考えることが必要だったと思います。時間はできても、気持ちに余裕がなかった>

 

 


 少子化社会で子どもの数はぐっと減っています。終身雇用を前提とした企業社会も様変わりしています。子どもたちが成長した後に踏み出していく社会が激しく変容しているのに、早期教育や受験競争は、親たちの時代とあまり変わらないように見えます。親たちの時代にあった、外遊びの時間は絶滅寸前となり、子どもにとっての自由時間は寸断され、限られています。

 

 ある特殊な親子関係のもとに起きた事件かもしれません。でも、目を向けなければならないのは、加害少女が置かれた環境の特殊性ではなく、私たちにもつながる共通性ではないでしょうか。

 

「生命の大切さ」を、単なるスローガンやメッセージとしてではなく、子ども自身が体験と実感から獲得していくにはどうしたらいいか。自分の力で立とうとする子どもたちの思いや力をきちんと受け止められているか。

 

 それが、私たちに突きつけられた課題ではないかと考えています。