Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

The Rose

2008年02月29日 | Weblog


人は言う 愛は川だと
ひ弱な葦を押し流す
人は言う だからだよ 
心がいつまでも疼くのは
人は言う 愛は飢えだと
終わりのない痛みだと
でも…私には愛は花
あなたはただその種

 

心は壊れることを怖れ
踊りを覚えようともしない
夢は目覚めるのを恐れ
運を試そうともしない
人は縛られることを嫌い
与えようともしない
魂は死を恐れ
生き方を大切にしない

 

夜が寂しすぎた時
そして、道が遠すぎた時…
あたなは思う
愛はツキだと…
仕方がないものだと

でも忘れないで
冬の最中に
冷たい雪の下に
種は太陽の愛を待ち
春にはバラを咲かす……


 Written By Amanda MacBroom

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自分では、「人生を選択した」つもりだった。
バプテスマの水から上がってきたとき、でも気持ちは水の中に沈んだままだった。
あたしは
…知っていた、ほんとうはそれは「選択」じゃなくって、「逃避」だったっていうことに。

同じときにバプテスマをうけた人たちはみなニコニコしていたし、会衆の仲間から祝福されて嬉々としていたけれど…

あたしは心の中で音楽を聴いていた、諦観あふれるベートーベンのハ短調のピアノソナタ。すべてのことをあきらめるときの、無感覚で沈んだ気持ち。ふつうの人なら人生の終わりに自分の人生を回想するときに感じるであろう思念…。まだ19歳の少女がそんな気持ちに浸るなんて…。

あの時。高校を卒業して、学校と縁が切れ、友人たちはそれぞれ就職し、ある子は短大へ行った。なぜ自分もそうしなかったか、今となって自分を責めてもどうしようもない。一生の後悔としか言いようがない。

大会の前日。
あたしはラジオやローリング・ストーンズのミュージック・テープをずっとヘッドフォンで聴いていた。眠れなかったのは大きな雲の渦に呑み込まれるような鈍い恐怖のためであって、決してエホバの証人としての正式な身分を得られる感慨ではなかった。




そんなに時が経ったわけではないあるとき、美しい曲がヒットしていた。ベッド・ミドラーが情感をこめて歌う「ローズ」。彼女が主演した映画の主題歌だった。意味は分からなかったけれど、なにか諭すような響きがあった。なぜかその曲は自分にメッセージを送っているような気がした。

多くの時間が浪費されていった。自分を喪失した人々と水面下で競争し、ねたみで足を引っ張り合い、人を見下し、見下され、闘いに敗れて心身ともに消耗しつくし、恋心を弄ばれ、ズタズタに傷つき、自尊心も崩壊したとき、あたしはまたベートーベンのハ短調のピアノソナタに聴きふけり、悲劇に酔っていた。悲劇に酔うなんて、子どもっぽいけれど、そうするしか自分を慰める方法が分からなかった。

もう「模範的なエホバの証人」を演じることに疲れていたあたしは、世俗の仕事に正社員として勤めるようになり、野外奉仕からほとんど手を引き、集会に出るのもやっとというようになったとき、自然と心に聞こえてきた音楽が「It's only rock'n roll 」とそしてこの「The Rose 」だった。すべてのことを使命であるかのように受けとめるんじゃなくって、「たかが」と言ってのけるストーンズ、そして変えていくこと、変わること、新しくはじめること、挑戦することを美しく歌い上げた「The Rose 」。

これが定めだ、これが自分に割り当てられた運命なのだ、そう考えなければあきらめをつけることができなかった自分を卑怯だと感じるようになった。心のどこかに、あたしには自分を信じられる何か芯のようなものがあった。どのようにしてそんな心が芽生えたのかは分からない。でもあたしはその芯のささやきにしたがって、あの宗教から脱出したのだった。



このまえ、スポーツクラブのサウナに設置してあるTVで、この「ローズ」がJ-POPとして歌われるのが放映されていた。身体はすっかり火照っていて、もう出たかったのだけれど、我慢してあたしは聴いていた。エホバを辞めた後のいろいろのことが思い出されてきた。

人からはいろいろ言われてきた。そんな年(辞めた当時37歳)で世に戻ったってどうにもならないよっていうこともエホバの人に言われた。かすかに心は動揺したけれど、あすこにいたらもっとひどく自分を追いつめてしまうことになっただろう。

「心は壊れることを怖れ
踊りを覚えようともしない
夢は目覚めるのを恐れ
運を試そうともしない
人は縛られることを嫌い
与えようともしない
魂は死を恐れ
生き方を大切にしない」

生き方を大切にしないっていうのは、傷つかないように気を配ることじゃない。傷つくことを怖れず挑戦していくことだ。自分が望む目標に達しようと登り続けることだ。エホバの証人に留まろうとする人たちは「今さら戻ったって」という。「夢から覚めることを怖れて、運を試そうとしない」人たちは、死ぬときには後悔の気持ちに満たされるだろう。でも今際に時に至っても後悔の気持ちを正直に受け止めず、その気持ちをごまかして大義名分で飾ろうとするだろう。だがことばは出てこない。人に対する恨みがましい批判だけが心に次々に上ってくるだろう。

そんな惨めな人生は送りたくない。1960年生、あたしの世代は前向きの人が目立つ世代。川島なお美、黒木ひとみ、杉田かおる、人生をあきらめるどころか攻めて攻めて、攻める人たち。芸能人というのはもひとつ親しみを持てないけれど、でも元気に目だってくれていてありがとう。あたしも攻めの姿勢で生きてるよ。

「夜が寂しすぎた時
そして、道が遠すぎた時…
あたなは思う
愛はツキだと…
仕方がないものだと

でも忘れないで
冬の最中に
冷たい雪の下に
種は太陽の愛を待ち
春にはバラを咲かす…」

一度限りの人生だから。自分の人生の傍観者でいることはしない。主人公はあたし。あたしがあたしの人生を演出する。人の指図を受けたり、人に任せたりは決してしない。

中也のうた

2008年02月09日 | Weblog


生ひ立ちの歌




 幼年期
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

 少年期
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

 17-19(歳)
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

 20-22(歳)
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思はれた

 23(歳)
私の上に降る雪は
ひどい吹雪と見えました

 24(歳)
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました


 Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのやうに降ってきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黒む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかに(=優美に、上品に)なつかしく
手を差し伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(き)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました



「中原中也詩集」より

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若いときの苦労は買ってでもしろ、と言われます。

強い心を持つことができたなら、
意思を強く持って生きのびたなら、

荒れた環境に対処し、あるいは順応することを学ぶでしょう。



時が経てば
それらの時代のことは
うつくしく、
なつかしく、
優美で、
心を熱くするものであるのを実感できる…のでしょうか。

何度もくじけながら、
それでもあきらめずに生きてきたあと、
神に感謝できるっていうのは
感慨深いものがある。

なぜって、それは逃避ではなく
あきらめずに生きて来れたことへの
勝利の凱歌だから。
心を支えることができたことへの感謝の気持ちは。

あきらめないで生きて来れたこと
くじけたり倒れたりしても
決してあきらめなかったこと、
いのちに対して潔白であったこと。
中也はそれを「貞潔」と呼んだのだろうか…。


いまのところ、
わたしはこの詩をこう読んでいるのです。

自然体でいること、これが弱さを乗り越えさせる

2008年02月09日 | Weblog
 「こうしよう!」とひとすじに思う心こそ、人が誰しも抱える病である。
 「この病を治そう」というこだわりもまた病である。

 自然体でいること。

 これが剣の道にかなう、ほんとうにこの病を治すということなのである。


  柳生宗矩 (やぎゅう むねのり)

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メンタル・ヘルスの時代です。日本ではうつ病で年間に「万」を数える人々が自ら命を絶つ時代です。誰かしらみな、自分は弱い人間で、自分に自信が持てない、と内心では感じています。

多くの人は、自分の弱さを覚られまいとして、攻撃的な態度に出ます。別の人々は物理的に、精神的に引きこもります。

ブログを開設して、そこで自分の内面をさらけ出し、吐露して共感をもってくれる人を探すこともあるでしょう。

自分を変えたい、もっと強い人間になりたい、という気持から、傍若無人にふるまう人をリーダーに見立て、その人に依存しようとする人もいます。他者の威光を借りて、いわば鎧をまとうのです。個人をリーダーに見立てる代わりに、国家主義や宗教を立てる人も多いでしょう。

でもそうやって生きるいき方に共通しているのは、自分の尊厳、自尊心に見切りをつけていることです。自ら自由を放棄しているのです。やさしくいえば、自分個人はダメな人間だと決めつけているのです。そう受けとめることを決断したのです。

でもそういう態度にはやはり無理があるのです。宗教や国家主義や、またはカリスマ的個人に服従しながらも、長く続けているうちに、得体の知れない不満がつのり、それが蓄積されると暗い怒りに醸成されてゆくのです。カルト宗教への不満をつづるブログは決して少なくありません。また不満を抱える人同士が集まっては、ひそかにリーダーの陰口をきくのです。

いったいその種の不満はなんなのでしょう。

それは、やはり自分が尊重されないということ、自分が認められないということ、自分のほんとうの意欲や願望が尊重されないということが不満に感ぜられてくるのです。それはつまりは、自分はもっと、自由に生きていたい、自分の可能性をもっと誰はばかることなく試してみたい、という本源的な欲求が頭をもたげてくるからです。人間はこう思うのが自然なのです。

でも実際に実践するのは…

できない。自分は今まで何度も変わろうとしたができなかった。何度も挫折し、失敗をからかわれ、失敗したことを罵倒されてきた。もう二度とあんな惨めな気持ちはゴメンだ、何もしなければ傷つくことはない、そうやって人生をあきらめ、自分を見限ってしまいます。

自分を見限れば見限ったで、その屈辱に不満を抱き、他の人に接するにもイジワルになってしまい、自分でもイヤな奴とわかっていながら、「イヤな奴」を演じてしまう。子どもが幸福になろうとすると、あなたにはふさわしくないみたいな嫌味を、道徳や人生君のような形でチクチク言い立ててしまう…、子どもの相手の人を貶めようとする、すっかりイジワルおばさん、イジワルおじさんになってしまう。自分でも気づいているのです。だからよけいに自己嫌悪に陥り、自分への嫌悪ををすりかえて、子どもや他者を非難してしまう、そんな不孝のスパイラルに落ち込んでゆく…。

弱くてもいい。
自信がなくていい。

だれでも、今まで一度も試したことのないことをやろうとすれば、引っ込み思案になってしまう。臆病でいい。それが自分なのだから。

そんな自分のナマのすがたを否定しようとして、表面をつくろっても、どこか空回りしたような空々しさ、空虚さが自分を中心とした周囲の雰囲気に漂ってしまう。

それより、弱い自分を受けいれよう。弱いから、今はひとりじゃうまくやれないから、すすんでサポートを依頼しよう。自信がなく、今非常に緊張して、ほんとを言うと逃げ出したい気持ちであることを、人に聞いてもらおう。

心が傷ついている人に言ってはだめです。自分がそんな事を打ち明けられたら、その人をさらに打ちのめすでしょう? 心が傷つき、自分の自信のないことを覚られまいとして無理をしている人は他人が成功にむけて努力すること自体を妬みます。

いいえ、成功した人、幸福な人に、自分の弱気を打ち明けるのです。幸福な人や成功した人たちは、そんな自分の気持ちを否定することなく受け入れ、耳を傾けてくれるでしょう。そして失敗しても決して罵倒しません。むしろ、失敗から学ぼうとしてくれるのです。「どこに問題があるのかがわかったね」、そういってくれるでしょう。

人間はひとりじゃ成長できない。他者とのかかわりがあってこそ成長できるのです。弱い自分を正面から見据えよう。自分は未熟であることを正面から見据えよう。そんな自分を侮辱したりしない人をみつけよう。そういう人こそ「真の友」にふさわしい人だから。

素の自分で「勝負」する。素の自分でぶつかってゆく。そういう行動から、自信が培われてゆく。行動する中で失敗が智恵を授けてくれる。失敗が自分を賢くしてくれる。

自分の弱さ、未熟さを恥じることはない。人間は誰でも最初は未熟なのです。無理をすることはない。背伸びしなくていい。人間いつまでもかかとを上げてはいられない。ありのままの自分、今あるとおりの自分でできることを、いまできることを精いっぱいしよう。自然体でいること、それが自分の弱さを乗り越えてゆく、最短の道なのです。

エホバの証人のように、実力の伴わない馴れ合い人間関係の中で、お世辞やお追従で得た地位は決して真の自信を与えてはくれない。むしろ芯となる実績や実力がないので、かえって不安が増すのです。そしてその不安が権力の横暴という形で不安な自分を保身しようという振る舞いを生むのです。中身のないお世辞を言う人に頼っちゃいけない。傷ついた人同士、群れていちゃいけない。

傷ついた人は他人にやさしくする余裕なんて持ち合わせていないから。傷ついた人は他の自信のない人を見つけ出し、その人を更に破壊することで、自分より低い人がいるという安心感を得ようとするから。カルト宗教の指導者、自己愛性人格障害のリーダーというのは、心がひどく傷ついていて、他人を貶めることによって自分を高めようとするから。身体を鍛えずに、衣装で自分を大きく見せようとする人たちは、いつまでたっても自分に自信を持つことができない。



世の中には自分の背丈で生きている自由な人が必ずいるから。そして人間はかならずそうなれるから。自然体でいれば、自然体で生きている人たちが近寄ってくる。

肩の力を抜こう。弱さをさらけ出してもそれを侮辱しない人はほんとうに実在するのです。これは信じていい。