Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

どのような自由も突然失われることは希である

2005年10月31日 | Weblog



どのような自由も突然失われることは希である。


  デイビッド・ヒューム


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改憲の動きがある現在(2004年9月)、護憲と改憲のどちらを択ぶべきかを考えるにあたり、そもそもそんなことを考えて強いて結論を出すには及ばない、と考える人々がいます。市民が何を択んでも日本も世界も変わらぬだろうし、憲法を改めても改めなくても日常生活に大きな変化はないだろう、というのがその言い分です。

たしかに、市民が何をしようと、政治は変わらないという面があります。しかし、そういう無力感があるから政治が変わらず、政治が変わらぬから無力感が強まるという面もあるのです。国民の主権も個人の自由も、それを行使しなければ、空文に過ぎません。



また憲法9条がなくなっても、日常生活に影響はなかろう、という予想は、改憲3日後にはおそらくその通りでしょう。しかし3年後にもそうであるかどうかはわかりません。9条は、交戦権放棄です。9条改めは、交戦権放棄の放棄です。そして戦争はある日突然、天から降ってくるものではなく、長い「なしくずし」の過程の果てに起こるか、小規模の戦闘の「なしくずし」拡大を通して泥沼化するものです。



いずれにしても「なしくずし過程」の大部分の時期には「日常生活」への影響は限られていることが多いものです。たとえば、二・ニ六事件(1936年)の直後、わたし(加藤周一/1919年生まれ、作家、評論家)は高校生で「万葉集」を読んだりテニスをしたりしていました。齋藤隆夫の粛軍演説も、陸海軍大臣現役武官制の復活も、わたしの日常生活に直接影響はしなかったのです。しかしその流れはその後いかなる破滅へ日本と日本人を導いたかは、よく知られているとおりです。  

(「改憲は必要か」/ 憲法再生フォーラム・編)

 

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わたし(ルナ)が高校生の頃、男友達が警察に補導されました。通信販売で入手したバタフライナイフを所持していたからです。その時警察の人はこう言ったそうです。

「こういうものを持っているとな、何かあったときにはつい使ってしまうんだよ。使ったら、お前、傷害か下手したら殺人だぞ」…


凶器を持っていると、使ってしまう。


たしかにそうだと思います。法律も軍隊もそうです。戦闘の放棄という憲法の約束事があれば、とことん戦争を回避しようという努力ができるのです。でもいつでも軍備を使えるのなら、そこまで戦争回避の努力をするでしょうか。アメリカを見てください。軍事行動によってきれいに解決できたでしょうか。事態はむずかしくなる一方です。


新聞写真を想像してみて下さい。虫眼鏡で見ると、細かな点が密になったり疎らになったりしている図柄です。でも距離を置いて眺めてみると、それは一枚の絵、写真なのです。

ひとつひとつの出来事は自由の剥奪などというおおげさなことには関係のない出来事のように見えるかもしれません。しかし、道具が十分そろってしまえば、その気を持つ人間が支配する立場に立ったとき、十分にそろった道具を使って、行動に出るのです。ファシズムはたいていそのようにして成立します。ヒトラーの歩みがそのことをとてもわかりやすく示しています。

忙しさに埋没していると、人間は大局的な判断ができないようになります。当面の自分の利益不利益のことしか見えません。わたしたちはもっと自分という存在を意識する必要があるのではないでしょうか。自分は与えられた人間としてのたぐい希な人生をどのように生きてゆきたいか、何を行いたいのか、人生を主体的に生きることを真剣に考えるべきではないでしょうか。ひとりひとりが遠くを眺め、何が自分たちの人生を充足させるのか、見極める努力をすることがいま、とても大切だと思うのです。

加藤周一さんがおっしゃるとおり、権利も自由もわたしたちが行使しなければ無意味なのです。わたしたちは、自分の人生を他人の野望のための道具や捨石なんかにされたくないのではありませんか。

エホバの証人は偏った情報にもとづき、命さえ捨てさせられています。あなたはこんなことを見て、おかしな人たちだな、と思わないでしょうか。いま、わたしたち自身が、エホバの証人のような人生を送らされようとしているのです。投票権というものはほんとうに大切なものです。自分の思う人を当選させられないとしても、投票したいと思う人がいなくても、暴走する政党にブレーキをかけることはできるのです。参政権を行使することは自分の人生を考えることなのです。少なくとも、わたしはそう確信しています。


「現在」は過去と未来の間に画した一線である

2005年10月27日 | Weblog
 「現在」は過去と未来との間に画した一線である。
 この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
 
 (「青年」/ 森鴎外)

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自分を傷つけた人、自分を欺いた組織、人生の時間を剥奪した宗教…。
思い出したくないほど、悲しい過去。
思い出したくないほど、憎らしい人びと。

でもほんとうは、その憎しみは自分の愚かさへの怒りと情けなさ、
あの時あの組織から出ていたら、もうちょっと違う人生だったかもしれない、
…なんていう未練に由来しているんじゃないか、とこのごろ思う。

「今」という時間を後悔と不満を垂れ流すことにしか使っていないのなら、
やはり、あの頃も同じようにしてしか、過ごせなかっただろう。
では、不満や不快感を抑えて、あの組織で千年王国を待ち続けていたらよかったのだろうか。

「今」という時間を他人の野心のための道具として、操られて生きていてどんな未来が望めるでしょう。「今、この時」を自分の意欲のために労し、費やせないなら未来でもやはり、あの時ああしていればよかった、と後悔ばかりしているだろうと思う。

自分の未来は自分で創るもの。
「今」生きて活動しているということが生きることのすべて。
自分で望むことのためなら、今の労費には意味がある。
自分の意思で今現在を生きているのだから。
生きて感じ、しかも労力を払うことで何かをつくり上げ、
自分の望むほうへ変えうる唯一の時間は「今」だけなのだから。

今生きることをおろそかにすること、
つまり、後まわしにしたり、変化を怖がって逃げていたんじゃ
いつまでも昔と同じでしかないだろう。

盛衰を以って、人の善悪は沙汰されぬ事なり

2005年10月24日 | Weblog
盛衰を以って、人の善悪は沙汰されぬ事なり。
盛衰は天然の事なり。善悪は人の事なり。
されど、教訓の為には盛衰を以って云ふなり。


(訳)
人の身の盛衰によって、その人の善悪を論じることはできない。
盛衰とは、しょせん、自然のなりゆきであり、善悪は人間の判断によるものだからだ。
しかしながら、教訓のためには、人の盛衰を善悪の結果であるように言いやすいものである。


(「葉隠入門」/ 三島由紀夫・著)

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周囲の反対を押し切って、自分で行動したこと…。それを後になって後悔するなんてあるのでしょうか。自分の思っていたようには、うまく事が運ばなかったら、ひょっとしたら、そのように思うかもしれません。エホバの証人をやめることもそう。エホバの霊の保護を離れた報いだって言われると、わたしなら、きっと悔しく思う。

でも、そういうのって、ほんとうは自分の意思で行動したんじゃないと思います。ただ単に、思い通りになる世界を夢みて逃げただけ。周囲の人も、世界も、自分を喜ばせるべきっていう考えと同じ。

わたしは違う。いま、断言できます。わたしは、自分がもっと多くの可能性を持っているはずって、やればできるはずって、そう感じたから、出てきたんだ…。そうよね、わたしのこころ。これって偉大なことよ。
「大きな一歩を踏み出すのを恐がっていてはいけない。小さな二つのジャンプでは、深い割れ目を越すことはできないのだから (デビッド・ロイド・ジョージ)」。

あそこを出てきてから、たくさん傷つけちゃったし、それ以上に自分が傷ついてきた。でもこれは挫折じゃない。自分で決断したことに挑戦した…でもそれに多くの失敗が伴っただけ。失敗は敗北じゃない、絶対に。
「失敗に乾杯! あなたが今まで経験できなかった、価値ある人生の深みを、この時に学びとることができるのだから (ソフィア・ローレン)」。

失敗を「敗北」だと間違って思うから、失敗が怖くなる。きっと、失敗は「先生」なんだと思う、いえ、そう思おう。しょせん人間なんて何でも知り尽くしているんじゃないし、何でも知り尽くさなきゃ何かを始めてはいけないんだったら、結局何にもできなくなっちゃう。「転んだときにはいつでも何かを拾え (オズワルド・セオドア・アベリー)」。自分の知らなかった何かが、失敗によって理解できる。だから失敗は教師なんだ、きっと。失敗は敗北じゃない、だから諦めちゃいけない。「あなたが勝つためには、一度ならず何度も戦うべきだ (マーガレット・サッチャー)」。

思ったほど、華やかな成果を得られているわけじゃない。それはまだ学ぶことがたくさんあるから。たとえ、自分が想像するような、十分な成果を得られないままに生涯を終えるとしても、それは自分の意欲に殉じたことだ、その人生には、レールの上を安全に走ることなんかでは得られない「達成感」があるに違いない。「心に傷を持たない人間がつまらないように、あやまちのない人生は味気ないものだ(「赤ひげ診療譚」/ 山本周五郎・著)。

わたしがエホバの証人でいたら、今よりは生きることに満足できただろうか。できない。それはわかる。絶対にできなかった。なぜなら、他人が決める値段は他人にとって都合のよい秤に基づいていたから。それはわたしの望むものじゃなかった。「幸福はものごとの味にあって、ものごとそのものにあるのではない。幸福になるのは、自分の好きなものを持っているからであり、他人がよいと思うものを持っているからではない (ラ・ロシュフコー)」。

運不運は善悪正邪の問題じゃない。若さと老衰がそうであるように。ただ特定の固定観念を強要しようとする連中が、善悪正邪の訓話で教え込もうとする。それらはなりゆきであり、途上にある山坂にすぎないんだよ、きっと。だから、今日は今日できるだけのことをしたんだから、今日という日に感謝しよう。今日を無事に生き残った自分をねぎらってあげよう。「今日は、よくやった。明日、ひょっとすると芽を吹くかも知れないよ」って。

「愚か者は幸福がどこか遠いところにあると思い込んでいる。利口者は幸福を足元に育てる (ジェームズ・オッペンハイム/詩人)」。

群集に因(よ)りて…

2005年10月23日 | Weblog
群集に因りて独見を阻むことなかれ。
己が意に任せて人の言を廃することなかれ。
小恵を私して大体を傷(やぶ)ることなかれ。
公論を借りて以って私情を快くすることなかれ。

(意)
たとえ大ぜいの人が疑いを持つからとて、自分が正しいと信じる意見を離れてはならない。さりとて、自分の意見だけを信じて、人の正しい発言を採り上げないようではならない。また、小さな恵みをわたくしするために、大局を見そこなうようなことがあってはならない。世論の力を借りて自分の都合を強いて成そうとしてはならない。

「菜根譚」前集 第130 より。


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偉い先生の翻訳を、自分にわかりやすく変えました。…怒られますネ。
でも、自立を果たそうと思うときには、とってもたいせつなことですよね。

自分の強情を押し通そうとするのは見苦しいけれど、自分なりに研究して立てた考えや企画、目標は世間から評価されなくても、さげすまれても、それで断念はしたくないですよネ。もし、人から何か言われたからって、それで諦めるんなら、それは単に、人びとから注目されたいとか、目立ちたいとか、褒められたいとかいう目的でしかなかったってことです。自分でほんとうに考えたいのであれば、他の人の意見にも耳を傾けるし、他の人の意見の聞くべきものは考慮に入れるでしょうし、ね。ものみの塔聖書冊子協会のような独善的な見解とを分ける点はここにありますよね。

「小恵を私して…」の部分は、岩波版の翻訳では、「小さな恩恵を施し、これに私情をさしはさんで、大局を見そこなうようなことがあってはならない」となっていました。よく意味がわからなかったので、この部分は自分なりに上記のように解釈しています。目先の利益を得るために、長い目で見て有益かどうかを考えないのは、結局最後にはツケを支払うことになるのではないか、という思いがあります。

「公論を借りて…」の部分もちょっと自分流に変えて受けとめています。
うっ憤晴らしや、意趣返しのためだけに、正論を持ち出すのは、聞いている人たちを不快にさせます。また言い訳や問題をすりかえたりするのによく使われる手段でもありますよね。例えば、エホバの証人が、長老のイジワルや、組織の間違いから目を逸らさせるために、赦すことを持ち出したりするような…。わたしはいま、この部分をそんなふうに受けとめています。