Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

本年もお読みくださってありがとうございました

2006年12月23日 | Weblog
今、私たちがとり戻さないといけない言葉の一つは、「あなたなしには」という言葉です。
他人ととりかえられない、独自な存在としてのひとりひとりの尊さと重みが感じられない限り、
人間は単なる利用価値・商品価値においてのみ大切にされ、また捨てられてゆくことでしょう。

人々が心から求めている社会は、何人かの得意気な人間がのし歩く陰で、何十人、何百人が惨めな思いで生きてゆかなければならない世の中ではなくて、ひとりひとりが、誇り高く生きてゆけるものでなければならないのだ。

(渡辺和子/「心に愛がなければ」/「愛をつかむ」より)

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作家の三浦朱門氏は、ルポライターの斉藤貴男さんのインタビューに答えてこう言ったそうです。

「できる者は百人にひとりでいい。やがて彼らが国を引っぱってゆきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」。

ひとりひとりの人間は、「国家」や「組織」を支える歯車であればいいという全体主義者の思想は、冷静に見ると、とても独りよがりで、何かせっぱつまっていて、そして投げやりに感じます。国民国家などというものは、200年ほど前につくられたものであって、人類が始まったときにはどこにも存在していなかったのです。宗教もそうです。

しかし、生身の人間の「生活」は、まだ猿の時代から営まれていましたし、家族も類人猿が二本足で歩き始めた頃から存在していたのです。それは哺乳類である以上は必ずつきまとっていたものです。しかも「ヒト」はいつでも群れて生きていました。ひとりきり、一家族では暮らせない生きものなのです。ですから、人間は、まずひとりひとりの人間を大切にするところから始めてゆかなければならないものだと思います。

企業を、宗教指導部を立ち行かせるために、多くの人々を蹂躙しようとするのは、自分たちの生命線を自分たちで破壊することになるのではないでしょうか。まわりまわって、結局は自分の生活とつながっている人たちを踏みにじるなんて…。

自分が生きてゆくためには、他の人々が必要だし、自分が幸せになるためには、他の人々も幸せでなければならない、人間の持つ「公共心」というものは、実はこういうことなのであって、「国家」という名目で、一部の人々のために、他のおおぜいの人間を犠牲にしようとか、犠牲にされた人々をなだめるために、それらの人々を表彰しようとするのは、それはただの利己心であって、しかも卑劣な行為、卑劣な思考なのです。他人の存在を、命を、人生を、自分の目的のための道具になんかするのは、これ以上もないくらい卑劣なことです。

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「(体面をまず立てようとおっしゃるなんて、)それは残酷というものよりももっとひどいもの、『卑劣』というものですわ!」。 

(「アンナ・カレーニナ」/ トルストイ・作)

愛される人は、「雰囲気」の芸術的な創作家

2006年12月21日 | Weblog
みんながしあわせに気持ちよく暮らすためには、
ひとりひとりが、
「人間は幸福をつくる芸術家なのだ」という気持ちを
心に持ち合わせることだと思います。

(山田桂子/ 「 “かわいい女” のちょっとした気の使い方・63」より)

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今日一日を気分よく過ごそう、この出会いを素晴らしいものにしよう、そんなふうに心がけてはいても、人間は感情の生きものですから、ほんの小さな出来事がきっかけとなって、気分がすっかり壊れてしまうことがあります。でもその気持ちをストレートに顔や態度に表してしまうと、周囲の人たちにまでその壊れた気分が移ってしまいます。

たとえばこんなことがありました。

久しぶりに主人と二人で出かけたときのことです。こんなことはめったにないと思い、「お茶でも飲まない?」と主人を誘ってみました。すると主人も同じ気持ちでいたのか、「うん、いいよ」とうれしそうな口調で返事をしたのです。そこで、わたしたちは雰囲気のいいティールームを見つけ、まるで恋人時代に戻ったかのような気持ちになって、いそいそと入っていきました。

日当たりのよさそうな席を選んで座ったわたしたちのところへ、ウェイトレスさんがやってきました。そしていかにも無愛想に「何にしますか」と尋ねるのです。わたしが「ちょっと待ってくださる?」と言うと、彼女はうんざりしたような表情を見せて、プイッと引き返していきました。そして、水の入ったコップを持って再びやってくると、テーブルの上にガチャンと置いたのです。乱暴に置かれたコップの水はこぼれてしまいました。

そのこぼれた水を見ていると、わたしは何だか所帯じみた気持ちになり、デート気分も吹き飛んで、主人にうっかり子どものグチを言ってしまいました。すると主人はとたんにいやな顔になったのです。それをみて、「せっかく二人きりの場面なのに、そんな話をすべきじゃなかった」と気づいたのですが、もう後の祭りです。その後は、二人でオーダーしたものを黙々と食べ、そそくさとお店を出ました。そして主人は、「あ、もう時間がない」と先に帰ってしまったのです。

あのときは、コップの水がこぼれた瞬間にわたしの気持ちは壊れてしまい、それが言動に表れてしまったのでした。おそらく、それは主人も同じだったのでしょう。もし、主人の気持ちが壊れていなければ、きっと「そんな話は今度にしようじゃないか」とやさしく言ってくれたはずです。二人の壊れた気分が悪い相乗効果を生んで、大切な想い出となる時間をすっかり台なしにしてしまったのです。

今思うと、わたしも主人もこぼれた水なんかにめげずに、お互いに気遣い合っていれば、二人のあいだに流れていた「いい雰囲気」を大切にできたのに、と悔やまれます。また、ウェイトレスさんもプライベートで何があったにせよ、プロである以上、心地よいサービスに徹するべきだったと思います。

みんながしあわせに気持ちよく暮らすためには、ひとりひとりが、「人間は幸福をつくる芸術家なのだ」という気持ちを心に持ち合わせることだと思います。その点、わたしも主人もそしてウェイトレスさんも、あの場にいたすべての人が、幸福づくりの下手な芸術家だったと言えるでしょう。

この出来事を教訓に、わたしはどんな思わぬ事態が起こっても、できるだけ心の動揺を顔に出さず、ものごとのよい面を見るように心がけています。すると不思議なもので、どんなに険悪になりそうな場であっても、すーっと雰囲気がいい方向へと流れるようになります。誰の中にも、「悪いほうよりはいいほうに進みたい」「気持ちよく幸福でいたい」という気持ちがある証拠だと思います。

ふとした拍子に場の雰囲気が悪くなるということがあります。そういうとき、率先して明るく振る舞うことができる人がいると、それ以上陰鬱にならずにすみます。どんなときにも、明るく幸せな雰囲気づくりができるひとは、自分も周囲の人も幸せにすることができます。そういう人は、無条件に人から愛されます。


(上掲書より)

新刊書案内 : 「愛と励ましの言葉」

2006年12月21日 | Weblog
人から突かれたから右へ行った、
押されたから左へ寄った。

そうではなくて、私が自由に右へ一歩動き、
考えるところがあって私が左へ寄る。

そういうことの連続としての生活を送れるような人でなければならない。


(「愛と励ましの言葉 366日」/ 渡辺和子・著)

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とても素敵な「名言集」系の文庫本をご紹介します。ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんが著された図書から、心を癒すことばをより出した本です。絶対お買い得です。

「日々の聖句」のようにカレンダー形式になっています。でも、ことばだけが並べてあるので、自分なりにあてはめて読むことができます。文庫本なので、バッグに入れておいて、ちょっとした待ち時間などに、パラパラとランダムにページを開けて、そこに現れていることばを読む、車のダッシュボードに入れておいて、渋滞時にパラパラとページをめくって、あるページに書かれていることばを読む等々…。活字を読むのはどうも苦手で…、という方にも、苦労をせずに味わうことができます。

ななめ読みしたのですが、どのことばにも心にしみいるものがあって、気持ちを落ち着かせてくれます。

ちょっとみなさんにも味わってもらいたいので、月ごとにひとつ、ことばを引用してみましょう。

January : the 23rd
 よろこびは、単に与えられてわたしたちの人生に存在しはじめるものではない。すでに存在する素材をみつめ直すことによって、または違った角度と視野から見ることによって創りだされるものである。 (著書「心に愛がなければ」より)

February : the 6th
 苦しみはミステリーだと今も思う。そのときにわからなくても、わかる時がくる。その時の条件と異なった条件のもとでは、かつて無意味に思えたものが、この上もなく尊いものともなり得るのだ。 (著書「美しい人に」より)

March : the 12th
 他人の評価には、たしかに的確なものもあり、それに謙虚に耳を傾けることも重要である。しかし、他人の評価がすべてではないことも知らなければならない。他人も不完全な人間だからである。 (著書「信じる『愛』をもっていますか」より)

April : the 3rd
 いまや、感動させてくれるものを求めて、人は次々に新しい刺激を追っている。しかしながら真に求めるべきものは、感動する心、価値を発見する心である。 (著書「美しい人に」より)

May : the 28th
 ぶつかりやすい相手との間には、ある程度、距離を置くのも一策である。車でも車間距離を取るように、適度な “人間距離(じんかんきょり)” が、ぶつかり合いを防いでくれる時がある。それを「賢さ」というのかも知れない。 (著書「目に見えないけれども大切なもの」より)

June : the 24th
 人からどんなに褒めそやされても、「ああ、神さまの鏡にはそんなによく映っていないんだ」、そう思うと有頂天にならずにすみます。反対に、人からどんなにめちゃくちゃに言われても、「ああ、神さまの鏡には、わたしはそんなに悪く映っていない」、そう思うと生きる勇気がわいてきます。 (著書「人間としてどう生きるか」より)

July : the 26th
 ことばの心づかい、それは、やはり、自分の痛みを他人にはさせまいというやさしさであり、口にしてはならないことばを呑み込んでしまう心の高貴さであり、意志の力であろうか。
(著書「愛をつかむ」より)

August : the 9th
 人間にとって、人間関係のもっとも基本的なのものは、親とか、兄弟姉妹とか、お友だちとのものではなくて、自分自身との人間関係です。
 なぜ自分を愛することがたいせつかと申しますと、簡単に言ってしまえば、嫌な人、軽蔑しかできない人といつも一緒にいることは辛いからです。 (著書「人間としてどう生きるか」より)

September : the 22nd
 わたしたちの心の平和、つまり天国も(註: 渡辺さんの奉じるキリスト教では、「天国」=「キリストの教えによる心の平和」ということであるようです)、自分が、敵であるよこしまな情欲と戦うことによってのみ得られます。他人に勝つこと(←「よこしまな情欲」の例。聖書で言う「情欲」、「肉の欲望」は性的な衝動以上の意味がある)より大切なことは自分に打ち克つことであり、他人を指図すること(←「よこしまな情欲」の例。他人を支配下におこうとする野心)よりも大切なことは、自分を思うように動かせるということです。 (著書「美しい人に」より)

October : the 30th
 人々が心から求めている社会は、何人かの得意気な人間がのし歩くかげで、何十人、何百人がみじめな思いで生きてゆかねばならない世の中ではなくて、ひとりひとりが、誇り高く生きてゆけるものでなければならないのだ。 (著書「愛をつかむ」より)

November : the 5th
 人間は神さまと同じように許せなくてもよい。心底から許せない苦しみ、もどかしさがあってもよい、いやむしろ、そういう自分の弱さを受け入れること自体が、「許し」の一部分を構成しているように思うのだ。こういう「こだわり」と、わたしたちは一生の間、ともに過ごしてゆかねばならないのではないか。 (著書「心に愛がなければ」より)

Desember the 16th
自分は弱くてもいいけれど、他人はみんな強くて、笑顔で、間違いのない人であるべきだという考え違いをすることがあります。神ではない人間はどんなに立派な人でも間違うことがあり、時には魔がさして、びっくりするようなことをすることがあるのです。 (著書「人間としてどう生きるか」より)



いかがです?

エホバの証人が「あなた個人を費やしてどれほど組織に貢献できるか」と問うのに対し、渡辺さんのキリスト教にわたしが感銘を受けるのは、渡辺さんは「あなたは、キリストの教えを、あなた個人の人生、生きざまにどう貢献させるか」と問うものだからです。渡辺さんのキリスト教は「個人主義」であるのです。エホバの証人は全体主義です。渡辺さんの教育論は個人主義に立脚していて、旧教育基本法的であるのに対し、エホバの証人の教育観は「改正」教育基本法的です。他人の思惑に振り回されたり、自分の人生を他人の思惑のための道具にしてしまってはいけない、と渡辺さんは冒頭に引用したことばを以って訴えかけておられます。

この本は税込み600円です。PHP文庫から刊行されています。ぜひみなさんも活用なさってください。おススメです!


私が“先生”になったとき

2006年12月18日 | Weblog

 わたしが“先生”になったとき
 自分が真実から目をそむけて
 子どもたちに 本当のことが語れるのか

 わたしが“先生”になったとき
 自分が未来から目をそむけて
 子どもたちに 明日のことを語れるのか

 わたしが“先生”になったとき
 自分が理想を持たないで
 子どもたちに いったいどんな夢が語れるのか

 わたしが“先生”になったとき
 自分に誇りを持たないで
 子どもたちに 胸を張れと言えるのか

 わたしが“先生”になったとき
 自分がスクラムの外にいて
 子どもたちに 仲良くしろと言えるのか

 わたしが“先生”になったとき
 ひとり手を汚さず腕を組んで
 子どもたちに ガンバレ、ガンバレと言えるのか

 わたしが“先生”になったとき
 自分の闘いから目をそむけて
 子どもたちに 勇気を出せと言えるのか


 (作者不詳)



この詩が言おうとしていることは、教師が自ら行っていないこと、または行おうと努力もしていないことを、子どもたちに求めることができようか、ということであり、反対から言えば、子どもたちの教育に当たる者は、まず、自らの生きかたを正してかかれ、という厳しさである。

人はだれも、自分が持っていないものを、他人に与えることはできない。師の影を踏む踏まないにかかわらず、教師は子どもたちの三尺先をいつも歩んでいなければならないのだ。それがプロとしての教師に求められる当然の「資格」であって、自分の生活のためだけに、ただ漫然と勤める「サラリーマン教員」ではなく、教科においても、人格においても、自分の教育に対して責任を感じ、教育への情熱を持ち、自らも生活の基本的なルール・習慣を身につける闘いを辞さない「教師」でなければ教育はできてゆかない。

「雀の学校」の歌にあるように、「ムチをふるう」必要はさらさらないが、「めだかの学校」の歌のような「だれが生徒か先生か」わからないようなところに、教育は成立しない。

(「目に見えないけれど大切なもの」/ 渡辺和子・著)

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上記の詩、ね…。
「先生」を「クリスチャン」に変えて読むこともできますよね…。

自分たちが愛を実践しないという「真実」から目をそらし、
未来・将来から目をそむけて、年金を免除させる。
理想を持たず、空想を追い求め、夢を断念させて報告用紙に仕えるよう迫る。
誇りを悪いことのように決めつけて、自尊心を破壊させ、上層部に依存させる、
自分では成員に良し悪しのラベルを貼って、人間を選別しているのに、一致を謳う。
自分では家に住み、家庭を持って暮らしているのに、若い人たちにはそれらを断念させようと目論む。

自分自身の醜さ、弱さと戦うこともせずに、どうして他人を「教え」ることができるのだろうか…。



エホバの証人としての人生で傷ついた方々、傷つくことは恥ずかしいことじゃない。
傷ついて落ち込むことも恥ずかしいことじゃない。
それは人間であるなら、当然の反応です。

むしろ、自分にできないことを受け容れようとせず、
自分にできないことを、他人に強要することを恥じてください。
それは自分の弱さから逃げることであり、
他人の人生を否定し、攻撃することであるのです。
それが、エホバの証人の「教育」の本当の姿でもあるのです。

自分についての「真実」を直視してみよう。
自分の未来を望むままに、思い描こう。
理想を描こう、追い求める理想を。
素のままの自分に誇りを持とう。
人の中へ飛び込んでいこう、自分から動いてみよう、自分で感じてみよう。
そうやって、間違った教え、間違ったものの見方、
偏った価値観を払拭する闘いを真っ正面から受けとめていこう。

放下著

2006年12月12日 | Weblog
 放下著 (ほうげじゃく)

 …(意)いっさいを棄て去るとすべてが生きかえる。


(解説)厳陽(ごんよう)という僧が趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん;唐代の名僧)に「すべてを捨てました。さらにどんな修行をすればよいでしょうか」とたずねたとき、趙州が即答したのがこの「放下著(捨ててしまえ!)」。「著」は強調のニュアンスを伝える助詞(「従容録」)。



(「禅の言葉」ふっと心がかるくなる/ 永井政之・著 )

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荷物をたくさんかついで、なかなか捨てられない人がいます。肩書き、地位、おカネや財産、別れた恋人の記憶…。捨ててしまえばラクになれるのに、年をとるほど荷物はふえてゆき、背中はどんどん重くなってゆきます。

せっかく手に入れたものを簡単には捨てられないのが人情ですが、捨てるべき転機というのが人生の節目にはありそうです。就職、転職、結婚、離婚、失恋、家族の自立など。そうした節目で進むべき道が見えなくなったり、自分とは何者なのかと不安になったとき、「放下」してみましょう。何もかも捨てた「素」の自分に戻ってみるのです。

たとえば定年で退職しても、前歴や肩書きを背負ったままの人がたくさんいます。地位も財産も、ひとときあなたにゆだねられた仮の持ち物にすぎません。せっかく荷をおろすときがきたのですから、きれいに捨て去って第二の人生を楽しみましょう。

趙州は厳陽に「捨てたという意識」さえ捨てろと言いました。執着を捨ててこそ、本来の自分に戻り、いっさいがありのままに見えてくるのです。

(上掲書)

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エホバの証人にはもうついていけない…。それがはっきりしているのに、いざ世に出るとなると怖ろしい。

世間の常識がよく分からない、人づき合いの方法が分からない、成功しないかもしれない…。

常識が分からないことの何が怖ろしいのでしょうか。年相応のことができないと笑われるからでしょうか。人づき合いの方法が分からないと何が怖ろしいのでしょうか。人から見くびられるかもしれない、傷つくかもしれない…。成功しないかもしれない。成功ってなんなんでしょう?

年相応の自分という意識、人づき合いでリードできなきゃならないという意識、成功者となろうとするのは、誰を見返すため? 人に抜きんでていなければならないという意識。こういったものを一切合切捨てたとき、自分の「素」が見えてくる、と著者は書きます。

おそらくそうでしょう。見栄、世間体、過剰な自意識、要するに人にどう見られているかという意識。こうしたものが自分に背伸びすることを強要し、やがてかかとを上げていることに疲れ、演技で出来上がった、世間が見るところの「自分」の重み-それはつくりものの、つまり偽りの自分、自分の虚像の重み-に耐え切れなくなる…。

「自分のための人生」を著したウェイン・W・ダイアーは禅僧ではありませんが、こう書きました。

1.人から認められたいと思うのは、『あなたが私をどう見るかということのほうが、私が自分自身をどう思うかということより重大だ』と言うのに等しい。

2.自分の価値を他人に証明してもらう必要性はまったくない。自分に価値があるのは自分がそう信じるからである。自分の価値基準を他人の目に置くなら、それは自分のではない、他人の価値である。

永井さんが「荷物」と称したもの、肩書き、地位、名声etc...は、なぜそんなに大事だったのでしょうか。それは人から認められるからではないでしょうか。人よりも違っている、とくに偉大さの点で抜きんでているということを、人に認めさせて、それによって自分を納得させる、「ほら、わたしはこれだけ価値のある人間だ」と。でもその荷物は「ひとときゆだねられた仮の持ちもの」だった事実を目の当たりにするときが来る、必ずね。

なぜなら、自分と同じく、自分をちやほやする人々もいつまでも存在しないからです。自分が会社を去れば、彼らはまた別の「主人」を戴くようになるのです。彼らは自分という人間のブランドを持ちたいのですから、それに役立つ人間につくからです。たとえ現役であっても、自分より才能のある人が現われれば、自分の名声は凋落してゆくでしょう。他人からの評価にもたれて生きていくことは、聖書でいう「滑りやすい地(詩篇73編のなかの一節)」で生きていることです。

そんなお荷物はいちど捨ててみましょうよ。わたしの価値はわたしが決める。わたしはまっとうに生きている。だからわたしの価値は揺るがない。こう信じるためには、「素」の自分をしっかり見つめなければなりません。だから、自分から、他人に認めさせるためのいっさいの荷物、装飾品を捨てよう、と趙州さんは言ったのでしょう。

わたしは「なるほど」とうなりました。もう人からの称賛や畏敬を求めるまい。自分の価値をどうして他人に決めてもらわなければならないのでしょう。わたしはわたしが楽しむために生きるんです。価値基準を他人、宗教、国家に教えてもらう必要なんかない。自分が本当は何をしたいのかをよく見きわめよう。そうするときに自分の価値が見えてくる、価値がわかれば自分に自信を持つことができるようになる。

放下著。さあ、よけいな荷物、装飾品は捨ててしまおう。人からの評価には耳をふさごう。それは彼の言い分であって、わたしの望むことではないからだ。重要なのは、わたしはもう、エホバの証人にはついて行けないというこの気持ちであって、やめたあとの生きざまを、かつての「仲間」からどう見られるかということではないからだ。わたしはこうして生きており、新しい人生の展開に期待を持っている。人からこそこそ言われる筋合いなんてないんだから。




「禅」にハマッています…。

2006年12月12日 | Weblog
 無可無不可
  (訳)…可もなく、不可もなし。

  (意)…物事のよしあしを、はじめから決めつけない。

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70歳近くになってからスキューバダイビングを始め、娘さんとお孫さんと親子3代で海に潜って休日を楽しんでいる女性がいます。 「海の中だと体力を使わずにすむから、おばあちゃんに向いているのよ」と笑っていました。

仕事でも、趣味でも、あるいは恋愛でも、これから何かにチャレンジしようというときに、自分の中で「これは無理」「あれは自分に向かない」「どうせうまくいかないからやってもムダ」などと決めつけていませんか?

「可もなく、不可もなし」とは、とくに良くも悪くもない、というように一般には使われますが、もともと「無可無不可」は、「あれはよし、これはだめ」と自分の判断で決めつけず、何ごとにもまっさらな中道の状態で向き合うことをさしています。苦も楽も、善も悪もなし。はじめから何も決めつけないということです。

偏った考えを捨てて、進むも引くも自在に。年だからとか、自分にできっこないなどという「決めつけ」から自由になると、自分の可能性はもっと広がるはずです。いますぐ○か×かを決めなくていいんだよと思うと、気もラクになり、ひとつやってみようか、という意欲が湧いてきますよ。

(「ふっと心がかるくなる 禅の言葉」/ 永井政之・著)

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以前、某掲示板にかぶりつきだったころ、ある常連の女性が、「30歳くらいならまだ結婚できる」というようなことを書いておられたんです。わたしは40代で独身だから、すごくムカッと来たわけね。でもその方はひどい鬱に苦しんでおられるので、引いたんですが。

うつ病の人は、生まじめな性格に多いといいます。でも生まじめというよりは、あれはダメ、こうでないとダメっていうように、自分で自分に狭~い枠をはめているんですよね。自分を不自由に束縛しておいて、それがストレスになっていく。

傷つくことを怖れる人も同じ。あれをすると失敗する、失敗しないためにはこれをこうして、あれはああして…。すごくマニュアライズしている。融通がきかなくなっている。だから、いつもマニュアルにない状況に出くわして手も足も出ない。引っ込み思案になって行く。

人間が決めた「道徳」の大部分は、パリサイ人の規則と同じ。とくに意味があるわけじゃない。ただ伝統だとか、世間がそうだとかいう理由でしかない。そんなのに気を遣って、不自由に生きて不平不満ばっかりためてゆく人生って、きっと後悔する。

わたしも最近まで不倫の恋にはまってしまっていましたが、苦しかったですが、わたしはわたしなりに一生けんめいだった。結ばれることのない恋だったけれど、本当に好きになれる人と時間を過ごせたことは、いい想い出になる。相手が年下であろうとなんだろうと、自分の気持ちを大切にしていこうと思う。「可もなく不可もなし」。善か悪か、正か邪か、なんてことで悩んでいると、ホントに年ばっかくっていく。できるうちにできることはどんどんやっちゃおう! ジタバタ動いているうちに、きっとどこかに抜け道が見つかるから。教室に迷い込んできた雀のようにね。

考えるより、まず動こう!

活路というものはきっとそこから拓ける。

「円熟」の条件

2006年12月09日 | Weblog
何を言われても、何をされても、
傷つかない自分になったら、
もう、人間としてはおしまいのように思うのです。

渡辺和子/ 「目に見えないけれど大切なもの」より

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修道者であっても、この世に生きている限り、煩わしいことに無縁であろうはずはなく、生身の人間である限り、傷つかないで生きていられるものではない。言うも恥ずかしいような些細なことで心が波立つことがある。

先日も仕事を終えて修道院に戻り、廊下を通りながら「ただいま」と挨拶したのに、話し合っていた二人のうちの一人は、「お帰りなさい」といってくれたが、もうひとりは、何もいってくれなかった。こんなことで傷ついてどうすると、よくわかっていながら、そんなことで心の中が波立つ自分をもてあましたのだった。

傷つきたいなどと夢にも思わない。でも私は、傷つきやすい自分を大切にして生きている。何を言われても、何をされても傷つかない自分になったら、もう人間としておしまいのような気がしているからだ。大切なのは、傷つかないことではなくて、傷ついた自分をいかに癒し、その傷から何を学ぶかではないだろうか。

思いやりというのは、自分の思いを相手に “遣る” ことだろう。私が、挨拶を返してもらえなくて淋しかった、辛かったその思いを大切にして、「だから、他人が挨拶したときには挨拶を返してあげよう」と心に決めること、それが思いやりなのであって、それを可能にするためには、心のゆとりがいる。

このような心にゆとりをつくることを、私は若い時にひとりの人から教えられた。その人は、傷つくことを怖れなくていいこと、一生の間には何度も挫折を味わうだろうが、その度に立ち上がること、そして人間には、自然治癒力が与えられていることも教えてくれたのだった。

その時以来、私は強くなった。傷ついても大丈夫という思いが心にゆとりをつくり、傷から目をそむけることなく、傷ついた自分を赦し、慰め、さらに他人の傷に包帯を巻ける人になりたいと思うようになった。




心に一点の曇りもない日など、一生のうちに数えるほどしかないのだ。心の中が何となくモヤモヤしている日の何と多いことだろう。 “にもかかわらず” 笑顔で生きる強さと優しさを持ちたいと思う。

私の不機嫌は、立派な “環境破壊” なのだと心に銘じて生きていこう。私たちはダイオキシンをまきちらしてはいないだろうか。他人、特に子どもたちの吸う空気を、自分の不機嫌によって汚してはいないだろうか。傷つきやすい、柔らかな心を大切に、そんな心しか持っていない自分をいとおしみながら、周囲の空気を少しでも温め、清浄なものにしてゆきたい。

(上掲書より)

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最後の段落ですが、面白くないことがあると、(わたしの親父がそうでしたが)家庭で不機嫌な表情を見せ、戸を閉めるにも、箸をおくにも、乱暴に叩きつけて、食卓を暗~くするような人っていますよね。わたしがいた会衆の主宰監督がそうでした。自分の思いどおりにならないと不機嫌な表情を見せました。ほかの長老や奉仕のしもべたちはそんな主宰に気をつかって右往左往していました。

不機嫌な表情を見せる人は、そうすることによって、他の人に自分の面倒を見させようとしています。自分に代わって、自分の面白くない状況を何とかさせようとしています。精神的に幼児の状態なんですね。今なら、主宰監督のような人が不機嫌な表情や、不機嫌な態度をこれみよがしに示したなら、無視するでしょう。「自分のことは自分でしてね」と言って突き放すでしょう。そうすることが本人のためなのです。いつまでも精神的な幼児でいちゃいけないよっていうメッセージを明確に与えるほうが、本人のためなのです。

会衆の人たちは、不機嫌をヒステリックに示す主宰に気をつかって、主宰本人ではなく、自分の子どもや若い人たちのほうをたしなめて、主宰監督の気に入るように振る舞っていてね、というメッセージを送ります。子どもたちは、親のこういう振る舞いに傷つきます。お母さんは自分より主宰監督のほうが大切なんだ、というふうに解釈してしまうのです。人間の、人間不信はここから生じます。子どもにとって親は絶対的な存在で、幼児期の子どもに対する親の接し方は、子どもの全人生に大きな影響を及ぼします。子どもの価値観、人生観、人格形成に大きく影響するのです。精神的な成長期には、親は子どもを全身全霊を尽くして受け入れてあげなければならないのに…。

エホバの証人は、とにかく地位や権威を絶対視し、集会で話される講話や、討議の大部分は権威に従うことを教えます。ですから、会衆での権威者に気を遣うようになるのです。こうしてエホバの証人は、自分の子どもよりも、自分の配偶者よりも、組織の人間に気をつかいます。主宰が不機嫌さを顕示してきたとき、親はまず自分と子どものほうに気を配らなくてはなりません。「わたしたちが悪いのではない、あれは主宰が人間的に円熟していないからだよ、自分の問題を自分で処理できない人なんだよ」というメッセージを明確に示さなくてはならないと思います。事実、そうなんですから。

自分の感情的な問題は、自分に処理する責任があります。人とのつき合いでは、自分の責任で処理すべきことを他人に押しつけない、ということが大人のルールです。気に入らないことがあるとふてくされたり、八つ当たりをしたり、不機嫌な表情で場をしらけさせたり、ひどいのになると暴力を振るったり、誰かに陰湿なイジメを加えたりする、そういうのは大人のルールが守られていないのです。守れないのでしょう。人格的に円熟していないからです。

渡辺さんはノートルダム清心学園というキリスト教系の学校の理事長を務めておられるとのことですが、上記の引用文からすると、そういう人格的な円熟、本当の意味での大人となるには、傷つきやすい自分を自分で非難したりしないで、そのまま受け容れてあげて、かつ、傷ついたときに対処できるようにすること(これはちょっと訓練がいることですけれど、「至難の業」というほどのことでもありません)、そしてある程度傷つくことに対処できるようになったら、傷つくことを怖れないようにする、という作業がまず求められるようですね。渡辺さんは、挨拶が返ってこなかったことを気に病む傾向のある、たいへん繊細な方のようです。そんな方だからこそ、傷つきやすい自分とうまく折り合いをつけて、自尊心を高く保って生きていけるという励ましには重みがあるなあと感じました。同時に、エホバの証人の、わたしが交わっていた会衆の主宰監督なぞちっぽけだと断定できるようになりました。そういうちっぽけな男をチヤホヤ持ち上げて、取り入ろうとする取りまきの連中も、ね。なんといっても、そんな男に権威を与えて会衆を支配するに任せているエホバの証人という組織自体に、ね。

夢を持ったら、必ず一歩踏み出そう!

2006年12月08日 | Weblog
英知とは、次に何をするかを知っていること、
技術は、それをどうやるかを知っていること、
徳は、それを行うことである。

…デイヴィッド・スター・ジョーダン(生物学者)。

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たいていの場合、わたしたちは目の前に理想的な道があらわれてくるのを待って日々を過ごしています。道は、待つことではなく、歩くことによってできるという事実を忘れているのです。

夢を持つのもいいでしょう。でも、大きなことを考えるだけでは、仕事を成しとげたり、請求書の支払いをしたり、心の中で「なれる」と思っている自分になったりすることはありません。

スコットランドの思想家、トマス・カーライルのことばに、このようなものがあります。

「その思想がたとえ高潔なものであっても、人間の最終目標は思想ではなく、行動である」。

もっともささやかな行動のほうが、もっとも大胆な心がまえよりも、つねに望ましいのです。


(「3週間続ければ一生が変わる」/ ロビン・シャーマ・著)

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失敗にめげずにチャレンジし続ける人は、愛を語りながら、はじき出されている人に知らん顔をする人よりはるかに「円熟」している、と思う…、否、絶対そうです…。




愛と平和を歌う世代がくれたものは
身を守ること、
知らぬそぶり…。

隣の空は灰色なのに
自分さえよければ顔をそむけている。

「真夜中のダンディー」/ 桑田圭祐・作


利己主義の「種」

2006年12月07日 | Weblog
利己主義とは、自分の思いどおりに生きることではない。
それは自分の思いどおりに生きられるように、他人に強制し、他人を利用することである。

一方、利己主義と反対の立場は、他人の生活に干渉しないことである。

利己主義者は、自分の周囲の者が自分の理想どおりの型にはまっていないと承知しないものだ。
しかし、非利己主義者は性格に無限の変化があるのを楽しみながら、快く受け容れる。

オスカー・ワイルド(19世紀のイギリスの作家、詩人)

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じゃあ「自分の思いどおりに生きようとする」人、「利己主義と反対の立場の人」、「非利己主義者」ってどんな人なのでしょう。人間をカテゴリー分けしようとすることは、「周囲の者を型にはめる」行為かもしれませんが、わたしはそれを、「社会への温かい関心を育んできた個人主義者」だと思います。他人にまったく関心を払わない個人主義っていうのは、人間関係から逃避している人、心が傷ついている人だと思います。やっぱり、人間は社会的な動物だし、つまり群れを作る動物だし、人と係わりを持たなければ生きてはいけない生きものですから、人々との係わり、人々への関心を失ってはいけないですよね。

「他人の生活に干渉しない」というのは、プライバシーを尊重するということで、それはつまり、相手を一人の人間としての尊厳を尊重するということです。一方、他人の生活まで干渉しようとする人は、他人を支配し、自分の影響力の「下に」置こうとしています。それは「自分の望みどおりになるよう、他人を強制すること」ですから、利己主義です。ですから、お節介は、実は他人に必要以上に干渉しようとすることなのです。それは、自分に注意を払わせようとしているか、自分が相手にとって必要な者であることを顕示しようとしているか、もっとも悪いケースでは、相手を操作しようという意図があるか…、これら「支配する」ことに関連した意図があるとみて間違いないでしょう。他人の注目や評価や賞賛を得ようとして、支配を目論むのは、自分の思いどおりに生きられないことを意味します。なぜって、他者にウケることをしなきゃいけないから。自分の思いどおりに生きる人は、他人に媚びなくても生きてゆけます。自分で目標や興味を見つけだして、それを楽しめるからです。

他人からの評価がなければ人には生きる意味がない、という考えの根にあるのは「劣等感」です。自分で自分を蔑む心です。自分が存在していること自体を肯定できる人は、他人からの賞賛がなくても寂しく感じません。だから、人間はまったく一致していなければならないという強迫観念に駆られません。人と人は違っているのが自然だと受けとめられるのです。全体主義者は「国家」だの「神」だの「イデオロギー」だのによって、人間を揃えようとします。そこには「自分が生きやすいように、他人を自分の理想とする枠型にはめこもう」とする意図があり、その意図は、実は内心の劣等感、虚無感があるのではないかと、私は思うのです。劣等感こそ、利己主義を生む種だと思います。


悔いのない人生のために

2006年12月07日 | Weblog
悩みごとが増えていくとき、人間的には成長しているのです。

(「3分で“気持ちの整理”ができた。」/ 中谷彰宏・著)

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スポーツを始めたばかりの人は、うまくなったら悩みは消えてなくなると思う人が多いのです。でも、うまくなってレベルが上がるほど、悩みの数も増えるし、悩みのレベルも上がるのです。また、その解決法も、より高度に難しくなるのです。

今、悩みごとが増えているとしたら、それは自分のレベルが上がっている証拠です。レベルの低い間は悩まずにすんだことも、レベルが上がると悩まなければならないのです。スポーツと同じで、悩みごとが増えていくとき、人間的には成長しているのです。

悩みにはレベルの低い悩みと高いレベルの悩みとがあります。低いレベルの悩みごとは抽象的で、高いレベルの悩みごとは、より具体的です。「なんかヤル気が起こらないんですけれど」という抽象的な悩みは。レベルが低いのです。その人は実際に何も体験していないし、動きまわっていないし、トライもしていません。

「いろいろ試してみて、こういうことが起こったんですけれど、これはどうしたらいいんだろう」という悩みは、より具体的です。そのほうがはるかにレベルが高いのです。

下手だなって感じて悩んだら、それは、レベルアップしているんだと受けとめよう。

(上掲書)

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困難に直面するっていうのは、豊かに生きているっていうことなんですよね。困難に直面するのは、自分が愚かだからじゃないし、ましてや神の懲らしめなんかでもない。やったことのない挑戦に立ったんだから、困難に直面するのはあたりまえ。人生って、困難に対処するっていうことなんですよね、きっと。

「青春を返せ」って思うのは、学生時代に想い出がないから。想い出がないのは、いろいろなチャレンジをしなかったから。挑戦から逃げていた自分に腹を立てているから。コトを起こさないように、安全に、安全にと注意深く生きていたから。そういう生きかたでやってきて、今思うのは後悔だけ。困難から逃げていては後悔だけが残る。エサと安全の代償に自由と創造を放棄する生きかたって、もう人間の人生じゃない。エホバの証人としての人生は、人間の生きかたじゃなかった。奴隷だった。家畜だった。「神」の名を騙る組織のペット。

失敗は神の懲らしめじゃない。それはデータの集積なんですよね。失敗は罰じゃない。失敗を怖れて挑戦を避けていると、こんどは死ぬときに、後悔することになる。だから、今日からは、どんどんチャレンジしていこう。精いっぱいやったんなら、全力を尽くしたんなら、それはきっといい想い出になる。自分なりに一生けんめい生きてきたって、満足できる。

だから、もうペットのような生きかたはしない。やりたいって思ったら、全力投球。行動を起こしたら、スランプに見舞われるし、たくさん失敗もする。ペットのようにして生きている人たちからは嘲笑されることも。でも、いいんだ。わたしはわたしのために生きる。わたしが後悔しないように生きる。安全のために奴隷のようにして生きる生きかたは後悔といら立ちと、一生けんめい生きている人ねの妬みにさいなまれる人生だったっていうことを身をもって知ったから。

たくさん頭を打つけれど、それは多くの人生経験を積んだってことだし、試行錯誤は自分で考え、自分で工夫する創意工夫だから、それは楽しいことだし。他人に評価してもらうためにしたくもない、楽しくもない、やりがいもない、エホバの証人の宣教活動に、自分を偽って行うことって、何にも残らなかった。自分が何をしたいかを見分け、自分で目標を設定し、創意工夫を凝らして、チャレンジしてゆく。人間はこうして成長してゆくんですね。

「アガペー」より断然「エロス」

2006年12月03日 | Weblog
大学の構内を歩いていた。

病院のほうから、子どもをおぶった男が出てきた。近づいたとき見ると、なんという皮膚病だか、葡萄くらいの大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(そうせい;群がり生えること)していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

背中の子どもは、やっと三つか四つのかわいい女の子だったが、世にもうららかな顔をして、この怖ろしい男の背にすがっていた。そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。

そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。

(大正12年3月 / 「柿の種」/ 寺田寅彦・著)

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偏見を持たない人なんて、この世に存在しないでしょう。偏見は恥ずかしいことだから、表面には出さないけれど、「限界」を越えると、偏見はむき出しに顔を出します。子どもが、結婚したいといってきた相手の人は、有色人種だった、あるいは被差別出身者だった、など。

風俗・因習・イデオロギーの違いでも偏見が当事者の関係をしきることがあります。上記の引用文にあるように、皮膚病や業病(エイズとか…)に罹った人にも、偏見は容赦なく下されます。ハンセン氏病だった人たちへの差別を問題点とした裁判などで、ハンセン氏病の痕を残す原告の人たちを見て、わたしも一瞬、目をそむけてしまいました。TVだから、誰も木津つけることはなかったでしょうけれど、もし、面と向かったときにも目をそらせてしまったら…。その時にできることといえば、自分がショックを受けたことを率直に打ち明けて、お詫びするしかないでしょう。

上記の皮膚病のために「怖ろしい」顔になってしまった男性には、その男性を慕う子どもがいました。それを見たときに、作者の寺田寅彦さんは、「急に何物かが胸の中で溶けて流れて」いきました。それは子どもの父親への愛情、慕情がそうさせたのです。

たとえ、どんな皮膚病に冒されようと、あるいは破産して一文無しになってしまおうと、エホバの証人から出たために裸一貫の状態になろうと、それでも愛してくれる人がいる、これがあれば人間は生きてゆける。丸裸の自分を受け容れてくれるひと、自分と一緒にいることを喜んでくれるひと、そんなひとを持つことができるかどうかは、生きるということを豊かにするか、絶望的なものにするかを分ける要素になるんでしょうね。

エホバの証人のように、あるいは今の日本の学校や会社のように、何かができるから受け容れる、組織に貢献できるから受け容れる、というようなものの見方しか教えられていない社会では、こんな人間関係はできないでしょう。人間の愛って、ただあなたが生きていてくれるからうれしい、あなたのそばにいれるだけでうれしい、あなたが生きて存在してくれるだけで、わたしは生きていく甲斐があるといえるような気持ちこそ、ほんとうの愛、「真の愛」だと思うのです。

エホバの証人のいう「アガペー愛」は感情的に共感できなくても、エホバを喜ばせるために理性的に示される愛、それゆえ自分を憎み、自分を殺そうとする人へも示される愛、ということです。こうして書き出してみると立派そうに見えるけれど、こんな愛は人間の本質的な必要を満たせるものではないと思います。この論理の延長上には、組織の間違いのために不当な苦しみを長年受け続けても、エホバへの愛を実証するゆえに甘受しなさいという指図があります。不合理やイジメを継続させるだけで、解決を生まないのではないでしょうか。

開拓奉仕をするからあなたには価値がある、エホバの証人でいつづけてくれるからあなたを家族として認める、長老に評価されるからあなたは円熟している、こんな見方は人間を安心させる愛ではないと思います。わたしはこのことを実際に体験してきましたから。開拓者であろうとなかろうと、エホバの証人でいようと離れようと、あなたがいてくれるから、わたしはうれしい、そんなふうに受け入れてくれる愛、エホバの証人が二番手、三番手に見る、フィリア、エロスという種類の愛こそ、人間が必要としている愛だと、わたしは確信を込めて言うのです。