今、私たちがとり戻さないといけない言葉の一つは、「あなたなしには」という言葉です。
他人ととりかえられない、独自な存在としてのひとりひとりの尊さと重みが感じられない限り、
人間は単なる利用価値・商品価値においてのみ大切にされ、また捨てられてゆくことでしょう。
人々が心から求めている社会は、何人かの得意気な人間がのし歩く陰で、何十人、何百人が惨めな思いで生きてゆかなければならない世の中ではなくて、ひとりひとりが、誇り高く生きてゆけるものでなければならないのだ。
(渡辺和子/「心に愛がなければ」/「愛をつかむ」より)
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作家の三浦朱門氏は、ルポライターの斉藤貴男さんのインタビューに答えてこう言ったそうです。
「できる者は百人にひとりでいい。やがて彼らが国を引っぱってゆきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」。
ひとりひとりの人間は、「国家」や「組織」を支える歯車であればいいという全体主義者の思想は、冷静に見ると、とても独りよがりで、何かせっぱつまっていて、そして投げやりに感じます。国民国家などというものは、200年ほど前につくられたものであって、人類が始まったときにはどこにも存在していなかったのです。宗教もそうです。
しかし、生身の人間の「生活」は、まだ猿の時代から営まれていましたし、家族も類人猿が二本足で歩き始めた頃から存在していたのです。それは哺乳類である以上は必ずつきまとっていたものです。しかも「ヒト」はいつでも群れて生きていました。ひとりきり、一家族では暮らせない生きものなのです。ですから、人間は、まずひとりひとりの人間を大切にするところから始めてゆかなければならないものだと思います。
企業を、宗教指導部を立ち行かせるために、多くの人々を蹂躙しようとするのは、自分たちの生命線を自分たちで破壊することになるのではないでしょうか。まわりまわって、結局は自分の生活とつながっている人たちを踏みにじるなんて…。
自分が生きてゆくためには、他の人々が必要だし、自分が幸せになるためには、他の人々も幸せでなければならない、人間の持つ「公共心」というものは、実はこういうことなのであって、「国家」という名目で、一部の人々のために、他のおおぜいの人間を犠牲にしようとか、犠牲にされた人々をなだめるために、それらの人々を表彰しようとするのは、それはただの利己心であって、しかも卑劣な行為、卑劣な思考なのです。他人の存在を、命を、人生を、自分の目的のための道具になんかするのは、これ以上もないくらい卑劣なことです。
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「(体面をまず立てようとおっしゃるなんて、)それは残酷というものよりももっとひどいもの、『卑劣』というものですわ!」。
(「アンナ・カレーニナ」/ トルストイ・作)
他人ととりかえられない、独自な存在としてのひとりひとりの尊さと重みが感じられない限り、
人間は単なる利用価値・商品価値においてのみ大切にされ、また捨てられてゆくことでしょう。
人々が心から求めている社会は、何人かの得意気な人間がのし歩く陰で、何十人、何百人が惨めな思いで生きてゆかなければならない世の中ではなくて、ひとりひとりが、誇り高く生きてゆけるものでなければならないのだ。
(渡辺和子/「心に愛がなければ」/「愛をつかむ」より)
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作家の三浦朱門氏は、ルポライターの斉藤貴男さんのインタビューに答えてこう言ったそうです。
「できる者は百人にひとりでいい。やがて彼らが国を引っぱってゆきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」。
ひとりひとりの人間は、「国家」や「組織」を支える歯車であればいいという全体主義者の思想は、冷静に見ると、とても独りよがりで、何かせっぱつまっていて、そして投げやりに感じます。国民国家などというものは、200年ほど前につくられたものであって、人類が始まったときにはどこにも存在していなかったのです。宗教もそうです。
しかし、生身の人間の「生活」は、まだ猿の時代から営まれていましたし、家族も類人猿が二本足で歩き始めた頃から存在していたのです。それは哺乳類である以上は必ずつきまとっていたものです。しかも「ヒト」はいつでも群れて生きていました。ひとりきり、一家族では暮らせない生きものなのです。ですから、人間は、まずひとりひとりの人間を大切にするところから始めてゆかなければならないものだと思います。
企業を、宗教指導部を立ち行かせるために、多くの人々を蹂躙しようとするのは、自分たちの生命線を自分たちで破壊することになるのではないでしょうか。まわりまわって、結局は自分の生活とつながっている人たちを踏みにじるなんて…。
自分が生きてゆくためには、他の人々が必要だし、自分が幸せになるためには、他の人々も幸せでなければならない、人間の持つ「公共心」というものは、実はこういうことなのであって、「国家」という名目で、一部の人々のために、他のおおぜいの人間を犠牲にしようとか、犠牲にされた人々をなだめるために、それらの人々を表彰しようとするのは、それはただの利己心であって、しかも卑劣な行為、卑劣な思考なのです。他人の存在を、命を、人生を、自分の目的のための道具になんかするのは、これ以上もないくらい卑劣なことです。
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「(体面をまず立てようとおっしゃるなんて、)それは残酷というものよりももっとひどいもの、『卑劣』というものですわ!」。
(「アンナ・カレーニナ」/ トルストイ・作)