Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

自分も相手も大切にした話しかたの具体例

2011年08月15日 | Weblog





相談:


中学生のころからつきあっている友だちがいます。


最近、その友だちと話していると、カチンとくることが多いんですね。以前はそうでもなかったんですが、きっとわたしが変わってきたのだと思います。


この前も、気に入って買ったバッグのことを、色が悪い、デザインが地味すぎる、値段が高い割には質が悪いとなどと、けなされました。


「でも、お店の人も、わたしの雰囲気に合っているって言ってくれたよ」とわたしが言うと、「そんなの、買わせるためのお世辞に決まってるじゃない。あなたって、ほんとうにお世辞に弱いのねえ」と言われてしまいました。


わたしはそのバッグがとても気に入っていたので、彼女の言うことには納得できませんでした。でも、反論して争いになるのが嫌だったので、「そういうところ、あるのかなあ」などと同調して、その場をつくろったんですが、あとになって、彼女のことばを思い出すと、悔しくてたまりません。


こんな調子で彼女はいつも、わたしの話に「ああ言えば、こう言う」で否定してきます。


これからも友だちでいたいのですが、ずっとこんな関係なのも嫌で悩んでいます。

 

 





カウンセラーの回答:

 



あなたの場合、相手のことばは、あまりアテにならないと考えてください。彼女のことばには実際、そんなに深い意味はありません。対立している場合はなおさらです。


彼女は、あなたに反対したり、あなたを否定したりすることで、あなたより優位に立とうとしています。「勝ち負け」を争う人であればあるほど、負けたくないと思ってくるでしょう。「勝つ」を得るために、あらゆることばを駆使して「勝つ」を目指します。


しかも多くの場合、このタイプの人が「戦っている」相手の人に向けていうことばは、実は「自分のこと」を言っているのです。


この例でいえば、「お世辞に弱い」のは、あなたのことではなくて、彼女自身が気にしていることである可能性が高いのです。つまり、彼女自身が「わたし、お世辞に弱くて…」と告白しているようなものである可能性が高い。


だからあなたが、彼女のことばに振り回されて、彼女に「わたしのことを理解してもらおう、認めてもらおう」としても、疲れるだけです。


それよりも、「相手の意見は、相手の意見」という見方をしましょう。そのまえに、「わたしがどんな考え方をしようが、どんな感じ方、どんな意見を持っていようが、それはわたしの自由だ」とつぶやいてみてください。「わたしの意見や感想はわたしの自由。だから相手の意見や感想も、相手の自由」なのです。


このように「お互いの自由」を認めると、相手に対しての見方も変わってきます。相手のことばを気にするよりも、脳の回路が、「わたしはこう思う。わたしはこうしたい。わたしはこうする」となってきます。


そんな、「わたしを認める、だから相手をも認める」意識が育ってくると、こんな言いかたに変わってくるでしょう。
「あなたが心配になるのはわかるし、心配してくれることにはうれしい。でもわたしはもう決めたから」。
「わたしは、いろいろ試してみたいの。でも、あなたの好意には感謝します」。
「いろいろ不満はあると思う。でも、まだじっくりと考えて、自分で決めたいんだ」。


先の例ではこういう言いかたになるでしょう。

「そうかあ。あなたはそう思うんだ。もしかしたらあなたの言うとおり、かもね。あなたのことばは頭のスミに置いとくね。
 でもわたしは、いまのところ、これがとても気に入ってるんだ。もうあのとき、買うつもりでいたから、お店の人にも『似あう』って言われてうれしかった。いまも買ってよかったと思ってる。使い勝手もいいし、すっごく満足してるよ」。

 

 




こんなふうに、わたしたちの想い=マインドのなかには、相手を思う気持ち、相手に同意する気持ち、感謝する気持ちや反発する気持ちもあります。もちろん、自分のなかにも、もろもろの思いや矛盾する思いが内在しています。


だからこそ、できるだけ、そんなもろもろの思いを、ことばにして意識し、ことばにして表現したほうが、あなた自身がスッキリして、心が解放されるでしょう。と同時に、そんな「自分表現」のほうが、相手の心にもずしんと届くのです。

 

 

 

「もっとあなたが話したくなる話し方」/ 石原加受子・著 より


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インターネットでは特にそうだけど、エホバの証人のつきあいでは、けっこう、「勝ち負け」の次元で接してくる人が多かったように、今ふりかえってみて思う。

特に長老といった人たちは、自分の影響力を顕示したいのか、個人的なことにも口を出してくる人がいた。髪のスタイルとか、服装とか、アクセサリーとかに、ね。



そんなときには、不承々々、相手のよけいなお世話を不満に思いながらも言うとおりに従う、よりも、上記転載文のように、「自分表現」術で、はっきり自分の気持ちや意図、決意を述べるほうがメンタルヘルスに絶対いいと思います。どんなふうにいいかというと、自分に自信が持てるようになります。

たとえば長老なら、「そんな髪型、服装ではつまづく人がでてくるかもしれませんねえ」とTVドラマの「相棒」のキャラである杉下右京みたいな話しかたでかかってくるかもしれませんが、そんなときには、「そうでしょうか。兄弟が心配することも可能性があるかもしれませんね。でも、わたしはこれが気に入ってますし、このスタイルだからってエホバに対して不敬を示しているつもりもありません。もし、つまづくという方がいらっしゃっているんなら、それは他人を自分の思いどおりにコントロールしようとしていらっしゃるからじゃありませんか。でも信仰は自分と神との個人的な問題ですから、他人がどうこうよりも、ご自分が納得のゆくようになさったらよいと思います。わたしは、これでしばらくやってみたいとおもいます」と言える。

こういうことって重要ですよね。自分を大切にしてゆく過程で、やがてエホバの証人という宗教が、神を崇める宗教じゃなく人間を支配したい人の集団であることに気づき、離れる決意を持てるようになるかもしれません。宗教に従うかどうかは個人的な決定の問題ですから、自分を大切にし、自分の気持ちをはっきり主張する習慣ができていれば、まわりの信者たちからどう思われるか、というしがらみに引きずられることもなくなるだろうから。

実際、信仰っていうのはそういう個人的なもので、プライベートを長老がいじくってはいけないはずですから。