Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

戦う姿勢

2007年04月03日 | Weblog
 大切なのは、勝ち負けではなく、戦っていることそれ自体なのです。

 「女の武士道」/ 山田あかね・著

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わたしの好きな映画に女子プロレスを描いた『ワイルド・フラワーズ』という作品がある。気の弱い女子が、「強くなりたい」一心で女子プロレスに入門する。彼女に向けて、ベテランの女子プロレスラーはこう語る。

「プロレスとは、戦う姿を見せるものです」。

「戦う姿」の前には男か女かの差はない。プロレスだって男のものとは決まっていないのだ。大切なのは、勝ち負けではなく、戦っていることそれ自体なのだ。「武士道」のことを考えていて、このせりふを思い出した。

『ワイルド・フラワーズ』の中で、気の弱い女子は、何度投げ出されても、果敢に相手に立ち向かってゆくのだ。かつては、暗い夜道で暴漢に襲われ、逃げ回り、泣いてばかりいたというのに。他人からひどいことをされても、言い返すことすらできなかった気の弱い彼女が、全身を汗でぬらし、額に流れる血を拭って立ち上がるのだ。その姿は、見ている者を感動させる。彼女の戦う姿勢に心が打たれるのだ。そのとき、女子プロレスかどうか、男か女かなんて忘れている。

「強くなりたい」と願うこと。そのために自分を鍛えること。昨日より今日の自分が好きになれるということ。それを始めたとき、あなたもわたしも「武士」なのだ。性別なんてクソくらえ。ゲイだって、レズビアンだって関係ない。問題は性別でもなく、勝ち負けでもない。

「戦う姿を見せること」なのだ。

この本を手に取ってくれたひとは、女性が多いと思うけれど、もしあなたが、「女だからしょうがない」と思うことがあったら思い出してほしい。

「女だからしょうがない」ことなんて、この世にはない。そう思うとしたら、「(そんな風にしか考えない)あなただからしょうがない」のだ。

「女」の欄に、別のことばを入れてみて欲しい。「日本人」でも「東京生まれ」でも「テレビディレクター」でもなんでもいい。そうしてみると、それが言い訳に過ぎないってことがわかると思う。

世の中はまだまだ男女平等社会じゃないし、理不尽なことの連続だと思う。だからって、それらを言い訳にしたくない(つまり、言い訳の理由を探して、逃げの姿勢をとり続けることはしたくない)。最後まで戦っていたい。せめて戦う姿勢はくずしたくない。

男女の話からいろいろ寄り道したけれど、戦う姿勢でいることに男女の差はない。

潔くいこうよ。


(「女の武士道」/ 山田あかね・著)

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チャレンジしようとしないで、傷つかないように、殻の中に閉じこもろうとするのは、勝ち負けを気にするからではないでしょうか。エホバの証人をやめても、泣かず飛ばずだと、それどころか傷つくことの連続、失敗の連続だと「それみろ、自業自得だ」と言われるのが悲しい。自分がたいしたことのない人間だと言われるのが何より屈辱だ、という恐怖から、内にこもってしまうのではないでしょうか。そうして、あえて外の世界へチャレンジして行った人のアラや失敗を探し出しては痛烈に攻撃します。そうやっている自分って、実はもっと惨めに思いませんか?

「成功」にしても、「勝ち組に残る」にしても、それはあくまで他人の基準なのです。エホバの証人の基準によると、何ごともなく平穏に人生を過ごすことが「成功」だと定義されるので、波乱万丈の人生を送る自分を「失敗者」だと決め付けてしまうのです。しかし、世の中には、「失敗しなかった人は何もしなかった人だ」という基準で生きている人もいるのです。その基準に従えば、エホバの証人として、組織ににらまれないようにオドオド生きている人生こそ無意味な生きかたをしていることになります。

実際はどうでしょうか。

エホバの証人をやめた人のうち、たいていの人は、「青春をかえせ」という元エホバの証人のあいだでポピュラーな訴えに共感するのではありませんか。それは、そのときどきに、やりたかったことをやらなかったことへの後悔なのです。エホバの証人の世間からの評判を気にして、おずおず引っ込んだことへの後悔なのです。

人間として生きる、ということは、自分の内から湧き出てくる興味や意欲を達成すべく行動することだと思いませんか。わたしはそう思います。自分がやりたいと思ったことを追求してゆく、自分の納得のために、自分の命を費やす、そうしていれば、今、あの時々のことを後悔することはなかったのではないでしょうか。

他人と競争し、他人と比べるのは、自分の納得のために生きているのではありません。その人はまさに競争しているその人に振り回されているのです。自分で自分を卑下しているので、他人を否定することで優越感を勝ち得ようという、勝ち負けの競り合いに神経をすり減らしているのです。それは、自分のしたいこと=自分の土俵で生きているのではなく、他人のしたいこと=他人の土俵で勝負するようなもので、圧倒的に自分に不利な勝負をしているのです。そんな人生に意味はあるでしょうか。

わたしは、山田さんのこの小著から、「戦う姿勢」というのは、他人からの足の引っぱり合戦に巻き込まれることなく、あくまで自分の意志、自分の主張を貫き通すこと、自分を尊重し続けることであると、そう受けとめました。まさに聖書がいうとおりです、

「むしろ各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば、他の人と比べてではなく、ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう。人はおのおの自分の荷を負うのです(ガラテア6:4-5)」。