Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

子どもの後追いにどうしよう?

2013年01月26日 | Weblog







Ques.

「10カ月の女の子です。後追いが激しく、姿が見えないと激しく泣きます。どう対応したらよいのでしょうか」。


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Ans.


 後追いは、人見知り(5、6カ月で始まる)に引き続いて、9カ月ごろから始まり、次第に激しくなって、2歳ごろまで続くこともあります。母親の後を追いかけて、姿が見えなくなると、泣き叫びます。ひどい場合は母親はトイレにも入れない、と嘆くことになります。


 しかし、これは、一言でいうと、子どもの心が成長してきた証拠です。母親と、他の人の区別がつき、「お母さんじゃなきゃだめ」と思うあまり、母親の姿を追いかけ、姿が見えなくなると、不安になるのです。それだけ、母親と子どもの心の絆がしっかりできてきた証拠です。


 子どもは、まだ、母親が見えなくなっても、すぐまた戻ってくると分からないので、不安になって泣くのです。母親の姿が見えないと、永遠にいなくなってしまったかのような不安を感じているのです。


 ですから、後追いがひどい時期は、なるべく、子どもと一緒にいてやりましょう。トイレも一緒に入るとか、ドアを開けたままにしておくとか。また子どもが泣いたら、子どもの元に戻って、抱っこしてやります。


 お母さんが離れても、自分が求めれば、すぐまた戻ってくれる、お母さんは自分をちゃんと見てくれている、という安心感が、その後の、自立の土台になっていくのです。


 どうしても離れなければならない時は、「ママ、シーシーしてくるからね、すぐまた来るからね」と声をかけて離れます。それでも泣きますが、何も言わずに離れるよりはよいのです。子どもに気づかれないように、黙っていなくなるのは、むしろ、逆効果だといわれています。









■プロフィール

明橋大二(あけはし だいじ) 子育てカウンセラー・心療内科医。




 


力に頼らないところに和合がある

2013年01月17日 | 名言・名セリフ






菜根譚 前集の一




人生に処するに、真理をすみかとして守り抜く者は、

 往々にして一時的に不遇で寂しい境地に陥ることがある。

これに反して、権勢におもねりへつらう者は、

 一時的には栄達するが、

 永遠の観点に立つと、結局は寂しく痛ましい。



だから賢しい者は常に、俗なるものを超えたところに真理を見定め、

 死後の生命を考慮する。

だから人間は人生を処するに、

 一時的に不遇を味わうとしても、真理を守り抜くべきであって、

 権勢におもねる態度を取るべきではない。

 それは永く続くものではないからだ。





今井宇三郎・訳


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現代風の超訳




だれかの舎弟になったり、子分になったり、

 年齢序列、会社序列に依存したりするような、

 虎の威を借りて人びとを見下すことで自分の価値を見いだすような

 そんな生きかたは、あまり長く続かない。

 すぐに内面の未熟さは見透かされてしまうから。

それでも意地になって従えようとしたり、メンツを守ろうとすると、

 どうしても「力ずく」という手段に出ざるを得なくなる。

 力による強制は、従う側の人びとの軽蔑と離反を招く以外の効果はない。

 軽蔑と離反を阻止しようとすると、さらに強い力で抑えつけようとして、

 それがさらに軽蔑と離反を強めてゆく。

離反が臨界点に達すると、

 自分が手段を選ばず必死に守ってきた自らの権威は転覆されるに至る。

 権威を見せつければ、あるいは伝統に依存すれば、

 敬意を得られるという考えはまちがいだということだ。




いつまでもかかとをあげ続けるのはできないだろうに。

 背伸びは長く続けられない。

等身大で生きることを試みてごらん。

 あなたに欠点や弱点があってもそれで軽蔑されることはない。

 あなたが人間をリスペクトし続ける限り。

民主主義的コミュニケーションと、民主主義的リーダーシップが

 人々の経緯を生じさせる唯一の方法。

なぜなら、愛されたい、認められたい、という欲求は

 すべての人に生まれつき備わっているものだから。

自分に自信がなくても、まず相手の気持ちに立って考え、発言してごらん。

 あなたは友を得、それが自信を強めていってくれるでしょう。





「罪悪感」という桎梏

2013年01月12日 | Weblog






相談

 自分かわいさについついいい顔をしてしまい、その結果最後には無責任にも相手をするのが嫌になり逃げてしまいます。今度こそはそんな無責任なことは絶対しないようにしよう、でも出来る自信がない…もう一人でいるしかない。そう極端な考えしか浮かびません。だからいつまでたってもコミュニケーションがヘタです。一人から逃げるということは、他の自分にとって大切な人との繋がりも諦めなければいけないと思います。自分が顔にも出さないでフラストレーションを溜めるので、自分の好きな相手も自分に対してそうかもしれないと思います。


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ご相談者の方は、《犠牲》というサイクルにはまりこみ、ご自分をちっぽけに扱ってしまっているようです。どんなに頑張っても価値や報酬を受け取ることのない日々の連続に、とてもお疲れのことと思います。


自分をちっぽけに扱わないこと

自分を罰することを辞めること


もし、この二つが完璧にできれば、私たちのネガティブな問題は全て解決したも同然でしょう。心の奥深いところを見てみると、私たち人間はみんな、この原始的な二つの心理的な《罠》に深く馴染んでしまっているようです。


お馴染みのあまり一種の人間臭さのシンボルのように思われがちなのですが、自分で自分の首を締め続けることは、やはりお勧めできません。《自己攻撃》は、世界への攻撃なのです。

 

 


 

■《罪悪感》と《無価値感》について


「投げたものが自分に返ってくる」とか「因果応報」という言葉があるように、私たちは、一度でも誰かや何かを(心の中でだけでも)攻撃した経験があると、自分を悪者扱いし、自分を攻撃したり、批判したり、自らを罰したい・罰せられたいというような破壊的な気持ちが生じるようです。


時にそれは、本人も想像を絶するような「ドラマ仕立て」で人生を破壊することもあります。


幼いころには親に対して、大人になってからは社会に対して、どうしようもないときには神などに対して、攻撃する気持ちを持つことは誰もが経験していることでしょう。


《罪悪感》とは、いまだに誰かや何か(あるいは自分自身)を責め続けていて、その攻撃性をまだ許すことが出来ずにいる結果、自分自身をもルールや役割といった不自由な檻の中に入れてしまっているということです。


日頃からネガティブな想いやストレスを自分に課している状態も、これにあたります。


また、自分には価値がなく、勇気や誠実さや愛がないと感じていることのすべて《無価値感》は他の人にもおのずと投影され、「自分を理解して許してくれる人などいない」「関係を継続すべき価値のある人間関係など存在しない」といった、心と心の繋がりのない、分離した孤独な世界に住んでしまいます。


どんな人間関係も長期的になってゆくにつれて変化することが必要ですが、これらの怖れがあると、次のステップへ進む意欲が失われていき、人間関係を継続できなくなってしまうのです。

 

 

 


■コントロールを手放しましょう


私たちに《罪悪感》があるとき、これも無意識的にやっていることですが、《罪悪感》を使って自分や他の人をコントロールしたり、またあるときは自分を有罪だと判断してくれる人を見つけてコントロールしてもらおうとしてしまいます。


例えば、「私が○○をしてあげたのだから、あなたは○○をするべきよ」などのルールや感情的脅迫を作ったり、「あの人に責められるから、僕はこうするしかないんだ」という被害者的立場をとったりします。


この《罪悪感》という気分の悪いものを用いてのコントロールは当然長持ちするはずもなく、いつかは逃げ切れなくなって、「消えてなくなりたい」「全て壊してしまいたい」などと思ってしまいます。

 

 

 


■新しいレベルの人間関係に進むことを強く望みましょう


《罪悪感》は次のステップ(成長)への怖れから自分を守るために使う幻想のようなものです。


《罪悪感》という思い込みを持っていると、間違いを訂正することに意識を向けられなくなり、ただ夢中で自分を罰し続けてしまうのです。


《罪悪感》はあなたを人生から引きこもらせ、状況から身動きできなくさせてしまいます。前に進もうとしても無駄だ…など、変化しないことへの言い訳を意識下に強力に作ってしまうのです。


自分を責めること以上に大切なことは、新しいステップを踏み出すこと。そして、新しいレベルの人間関係を、心から望むことです。


かつてあなたが批判してしまった人や状況を許し、解放するたびごとに、自分自身と世界との『無垢なつながり』を取り戻すことができます。


過去に切り離した繋がりを取り戻すことで、今現在あなたの関わる人たちとの間に新しいレベルの繋がりを感じられるようになります。


そうした繋がりのパイプがあってこそ、人間関係の醍醐味と充実感、そして『ご褒美』を心から味わえるのです。

 

 

 


■自分という存在を周りへの『贈り物』とみなしましょう


《罪悪感》は、あなたを「いい人」だと証明するためにあなたの本質を殺します。


《無価値感》は、あなたがいかに役に立つ人間であるかを証明するために孤独な重労働をさせます。それらの行為の全ては、一時的なごまかしに過ぎず、【本物の感じ】や【リアルさ】を受け取れないので、やがてはボロボロになって燃え尽きてしまいます。


それよりも、【本当のあなた自身】を周りの人たちに与えてください。あなた自身を隠さないで、どうか心を開いて、真実を分かち合ってください。それが、死んだような義務的な関係性に新しい生命を吹き込む、最も創造的な愛の行為なのです。


(完)


 

 


 

こちらより転載





視線の心理学

2013年01月10日 | 心の闇にメスを入れる






会話している相手の目をの動かしかたで、その人の性格をおおよそ知ることができます。



1.目を見て話すひと

目を合わせるのは相手を知ろうとするしぐさ。そういうしぐさで話すひとは外交的なひとは外交的だとみなせます。

 ただし、目を合わせる行為には、その人が抱えている心の問題が反映されることもあります。
 ① いつも人と一緒にいたい、ひとと話していたいという気持ち(親和欲求、という)が強いひとは無意識によく視線を合わせます。
    ひとりの時間を楽しめないほど親和欲求が強いのは、まだ精神的に成熟しきっていないからである場合が少なくありません。
 ② さらに、心に不安を抱いているひとも、相手が何を考えているのか気になって仕方がないので、無意識に相手の目を見ようとします。
 ③ 身構えるようにして警戒心をあらわにして意識的に視線を合わせてくるひとがいます。
    このタイプは、相手を自分のペースに巻き込んで、相手を支配しようと考えているひと。
 
 以上の場合、「外交的なひと」とはまったく違うので気をつけてください。




2.話をしていても目を見ないひと

逆に、会話していても相手の目をまったく見ないひとがいます。
 これは、強い劣等感を持っているひと、自己価値観の低いひとであることが考えられます。
 相手と目を合わせると、自分が引け目に思っていることを見透かされてしまうのではないか、ということを怖れている、
 あるいは、低く評価されてしまうことを怖れている可能性が高い。

話していてもすぐに目をそらしてしまうひとは、気が弱く、相手を怖れているものと考えられます。
 あなたと会話している相手が、視線を下にそらし続けているときは、あなたを怖がっていると考えてよいでしょう。

ただ、今話している相手から意識的に視線を合わせないようにしている場合、
 視線を合わせない態度に強さが表れている場合は、相手への不信感の表れ、あるいは反感、拒否の気持ちの表れです。


不自然に目をそらす場合には別の意味もあります。
 たとえば、あなたと異性の友人A、同性のBの三人で話をしているとき、あなたとは異性のAがあなたと同性のBばかりを見て、
 あなたをまったく見ようとしない場合、あなたはひょっとして、異性のAに嫌われてるのかな、と感じてしまうかもしれません。
 でもこれは逆で、異性のAはあなたに強い関心があり、それを覚られたくなくてわざと目を向けない場合があります。

 なにかを見る(Watch、の意味で見る、場合)ことは、“なにか” に対して興味や関心があるという証拠になります。
  それを知られたくないときには、興味の大正からあえて視線を外すのです。




パチパチと頻繁にまばたきをするひとがいます。
 これは一般には、気が弱いか、あるいは相手を怖れているものと考えられます。
 まばたきの度合いは緊張の度合いに比例する、と考えられていて、
  頻繁にまばたきをするひとは、一般に緊張しやすく、不安になりやすい性格ということができます。

 たとえば、ウソを覚られたくない場合、無意識に緊張のしぐさのひとつであるまばたきが増えるしぐさとして表れる、ということです。


逆に、過剰にまばたきをしながら過激な発言をするひともいます。政治家に多く、石原慎太郎さんがこのタイプです。
 まばたきは、緊張の度合いに比例して無意識に出るしぐさですが、攻撃心が強まったときも、ひとは緊張しています。
 したがって、会話中にまばたきを頻繁にするひとのなかには、競争を好み、がむしゃらに働く人が少なくないのです。
 まばたきが多いから気の弱いひとだと思っていると、逆にかみつかれる結果になるかもしれません。





「しぐさを見れば心の9割がわかる!」/ 渋谷昌三・著 より転載