Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

幸福になるのに結婚しなければならないわけではない

2024年02月29日 | Weblog

 

 

 

女性誌を中心に俳優山本陽子さんの死が今でも取り上げられているが、多くは「恋愛沙汰が多かったが生涯独身」というフレーズが入っている。結婚しないことが珍しいかのよう。

 

でもね、高い教育受けた女性やお金持ちの女性は恋愛は自由にしたいけど結婚はしたくないと考えている人が多いと思う。

 

日本人の結婚は、とにかくすることが大事で、した後は女の人はひたすら我慢、「結婚する前は目を大きく開いて男性を調べ、した後は眼をつむって男性支配の理不尽を忍ぶ」という慣習に同調するよう圧力がかかる。TVのCMが流す華やかな結婚式の画像は、結婚すれば幸福になれるというイメージを流すが、日本人の結婚の多くは、理不尽なしきたりを受忍することを強いられるから女性が不幸になっている。

 

日本人にとって共同体の中で生きるとは、決められた役割を果たすということ。大きな機械の中の部品と同じ。チャップリンの「モダンタイムス」を見て観客は笑ったが、それは自分たちの生の姿だった。「決められた役割」に就かなかったスター女性俳優たちは、独身だからといって寂しさなど感じていなかったと思う。寂しくなったらまた誰かと恋愛しただろうから。結婚して子どもができて家族が増えても、成員間に互いへの思いやりがなく理解しあえないなら、やはり人間は孤独だから。逃げ場がないだけ家族の中の孤独は苦痛が大きい。

 

ただ単に決められた役割を果たすだけのつながり=絆だけでは、家族ではなく大人と子どもと男女による合宿に過ぎない。ただの合宿でしかない結婚ならしないほうが幸福です。結婚がいまだに決められた役割を果たすだけの合宿に過ぎないのは、家制度への執着があるから。制度にしろ風習にしろ、日本の伝統は反民主的で封建的な性格だから、人間を幸福にしない。だから日本においては、伝統だから大切にするという考え方は、人間を不幸にする。

 

 

三四郎@kumi70jp

 

 


日本はなぜ国連人権委員からの勧告を拒否するのか

2024年01月08日 | Weblog

 

 

 

GPT-4に聞いてみた。「Ques. 日本はなぜ国連人権委員からの勧告を拒否するのか教えてください」。

 

Ans.

「日本が国連の人権委員からの勧告を拒否する理由は、具体的な事例や状況によりますが、いくつかの要因が考えられます。

 

1. 国内法との整合性: 国連の勧告が日本の国内法や制度と整合性を欠く場合、日本はそれを拒否することがあります。例えば、取調べの全面可視化について、日本政府は『被疑者と取調官の信頼関係を阻害し、被疑者が真実を語ることを妨げる』と主張し、勧告を受け入れなかったという事例があります³。

 

2. 社会的・文化的背景: 日本の社会的、文化的背景や価値観が国連の勧告と一致しない場合、それが拒否の理由となることがあります。

 

3. 国家人権機関の不在: 日本には、政府から独立して人権侵害からの救済を行う国家人権機関が存在していません²。このため、国連の人権に関する勧告の受け入れや実施が遅れることがあります。

 

以上のような理由から、日本は国連の人権委員からの一部の勧告を拒否していると考えられます。ただし、これらは一部の事例であり、具体的な理由は各勧告の内容や状況によります。詳細な情報は、具体的な勧告やその背景についての専門的な分析を参照することをお勧めします」。

 

 

この中で、2について、「日本の社会的、文化的背景や価値観が国連の勧告と一致しない場合、それが拒否の理由となることがあります」とあるが、日本は戦争に敗れて、当時以上の被害、連合軍の日本国土への上陸戦を回避するためにはポツダム宣言を受け入れて、連合軍の占領政治の下での民主化を受け入れなければならなかった。

 

民主化するということは、占領軍の言葉を借りると、「封建制を放棄すること」、また第一次アメリカ教育使節団の助言によれば、「民主化するためには、民主主義に排反する伝統を放棄しなければならない」ということだった。それなら、「日本の社会的、文化的背景や価値観が国連の勧告と一致しない」場合にはその種の文化的背景と価値観のほうを変えてゆかなければならない。

 

それができないのは、旧日本の「國體」にしがみつく人たちを政府の要職、経済・文化の指導的な立場に置き続けてきたからだ。こういう人たちを追放すれば、日本は変わることができる。

 

 

三四郎@kumi70jp

 

 

 


「死にたい」という子にどう対処しますか。TALKの原則

2024年01月03日 | Weblog

 

 

 

勇気を出して投稿します。長文ですが、皆様に知っておいてほしい事があります。ご容赦いただけますと幸いです。

 

今回の震災により、非常に大きな衝撃を受けた子ども達は多いと思われます。そして、このような非常事態の後の子どもは、暴力的な言動が増えたり、急に頭痛や吐き気などの体の不調を訴えたり、赤ちゃんのように退行したり、突然夜尿をするようになるかもしれません。実際にこれらの反応を目の当たりにすると、驚いたり、時には困ってしまうこともあるでしょう。しかし、こういった子どもの反応は、その子一人では対処しきれない大きなストレスが短期間にかかることによって引き起こされる、いわば『当然の反応』であるということを覚えておいてほしいのです。その子は、いつもと違う行動や言葉でしか、自分が感じている不安や恐怖に対処できない状態にあるのかもしれません。だからこそ、いつもと違う言動が目立つ子どもを見た時には、「誰よりも驚き、困っているのはその子自身なのかもしれない」ということを、頭の片隅に置いておいてほしいのです。

 

そして中には、「死にたい」という思いを抱き、あなたのもとにやって来る子がいるかもしれません。もし、子どもから「死にたい」と勇気あるSOSが出された時には、どうか子どものSOSを受け止めてあげて下さい。「どうやって子どものSOSを受け止めれば良いのかわからない」という方は、下記に示す『TALKの原則』を参考にしてみてください。

 

TALKの原則『Tell Ask Listen Keep safe』

 

Tell:言葉で心配していると伝える

「最近あんまり眠れてなさそうだけど、大丈夫?」「元気なさそうに感じたんだけど、ちょっと心配だよ」といったように、「私はあなたを心配している」という思いを言葉にして、ストレートに伝えましょう。

 

Ask:「死にたい」気持ちについて率直に尋ねる

「どんな時に死にたいって思うのかな?」「死にたい気持ちはどのくらい強いのかな?」のように、子どもの「死にたい」気持ちについて率直に尋ねましょう。これは子どもの「死にたい」を受け止め、子どもの「死にたい」気持ちを知ろうとする誠実な対応です。決して子どもの死にたい気持ちを助長するような対応ではありません。

 

Listen:絶望的な気持ちを傾聴する

子どもの話を遮らずに最後まで聞きましょう。その子が絶望的な気持ちを感じている時に必要なのは、あなたの価値観に基づいたアドバイスや頭ごなしの説教ではなく、その子の「死にたい」をありのまま受け止める受容的な態度です。

 

Keep safe:安全を確保する

その子が置かれている環境や状況が危険なものであれば、すぐさまそこから子どもを引き離しましょう。もし、あなた一人で子どもの安全を確保できない場合は、誰かに助けを求めましょう。子どもを助けるために、あなたが助けを求める必要があります。

 

以上がTALKの原則です。

さらに詳しくはこの動画で。

もし、子どもから「死にたい」と言われたらどうしますか? (youtube.com)

 

この辛く、苦しい状況で私ができることは何かと思い、改めてこのような長文を投稿させていただきました。

 

もし、この投稿を見ている方の中で、子どものこころ、子どもの未来を守りたいと願っている方がいたとしたら、今だけでなく、一年を通して子どもに肯定的なまなざしを向け、「いつもと違うな」と思った時には「心配している」と優しく声をかけてあげて下さい。あなたのその一言が、子どもを救うかもしれないのです。

 

 

子どもの精神科看護師@こど看 @kodokanchildpsy
午後10:03 · 2024年1月2日


教育勅語にはいいことも書かれているのか

2023年12月13日 | Weblog

 

 

 

教育勅語の「親に孝」は評価する人が多いが、それ、違うからね。忠孝一体と言って、天皇(=国家)に忠節を示すことと親に孝行することは同じ、親に孝行するつもりで天皇に服し、天皇に忠を示すつもりで親に従えというのが教育勅語の意図。親が決めたら娘は見たこともない男のことろに嫁がねばならず、米の不作で娘は売春界に身を沈めなければならない。教育勅語の「親に孝」は男権父権を頂点にして人間を統制する仕組み。1947年版の教育基本法はそんな仕組みへの否定から制定が浮上した。はじめは「勅語を残す」から「新詔勅渙発」、それも新憲法の国民主権の原理にそぐわないとポシャッて、ようやく重い腰を上げて、天皇が決めるのではなく国民が議論して国会で法律として決める方式に。教育基本法制定が決まる。教育基本法の根本原理は、子どもの教育を受ける権利という新概念。國體護持、教育勅語にしがみつく当時の政治家や官僚にはまるで宇宙語であるかのように理解を超える理念だった。子どもが国家・親に対して彼らの望むようにふるまう義務があるのではなく、親・国家が子どもの幸福になる権利を保障する義務があるとする理念。わかりやすく言えば、子どもが親や父親、家、国家の体面を失わないように気を遣わねばならないのではなく、親が、子どもが幸福になるよう気を遣わねばならない。子どもというのは自分の意志で親や国家を選んで生まれてくるんじゃない、親のスケベな事情で生まれて来るんだから後者の考え方が当然に理にかなっている。したがって、教育勅語の「徳目」はどれ一つ取っても民主主義の原理にそぐわない。全部ボツ。

 

 

三四郎@kumi70jp

 

 


「アポロ13号」

2023年12月08日 | Weblog

 

 

 

「アポロ13号」というハリウッド映画があった。古い映画。タイトルの通り、アポロ13号が宇宙でトラブルを起こし、そこから生還するまでを描く。飛行士たちは宇宙でのトラブル真っ最中、誰一人として怒鳴ったり喚いたり互いに人格否定の暴言を投げつけたりしていなかった。確かめたわけではないけれど、きっとそのように訓練されているんだろう。怒鳴って脅し、人格否定して悔しい気持ちにならせて奮起させようとするやり方は問題解決志向ではないということだ。それはその場でのトップが責任を逃れ、自分ではどうしようもないトラブルを他人に解決させようとするふるまい。それはまた成長志向でもない。恫喝、脅し、人格否定の言葉、ダブルバインドで途方にくれさせる、これらはみな、支配するための戦術。相手を無力化し、自分に抵抗しないよう調教する。そんな環境で育つ子どもは問題に突き当たったとき、それに立ち向かう勇気も、知恵も身に着けていない。支配された人間は自発的に行動する意欲を失わさせられる。それがハラスメントによって「無力化する」ということだから。子どものころから自分で問題に立ち向かってなにがしかの成果を得るという成功体験がないから自分に自信が持てない。そのまんま大人になって、年功等で上司になって、そしてトラブルに出会うと自分では対処できないので、部下を脅し、恫喝し、人格否定の言葉でなじり、責任を部下に回してなんとかしろと喚く。トラブルがないときは、自分の無力さを悟られないよう、部下の成長を阻止しようとパワハラを用いて恐怖体制を敷く。いま日本ではこういう循環で息苦しさが蔓延している。

 

三四郎@kumi70jp

 

 


女性が『生理的に無理』と感じる男性の特徴5選!主な理由やそう感じてしまう心理とは

2023年12月06日 | Weblog

 

 

 

■「生理的に無理」と感じる原因は何?

 

人間関係において、度々「生理的に無理」という発言が飛び出すことがあります。この発言は「明確な理由はわからないけれど、なんとなくあの人は受け付けない…」というニュアンスで使われることが多いでしょう。

 

では、具体的に「生理的に無理」と感じる原因は何なのでしょうか。さまざまな原因や心理状態が関係していますが、主にそれぞれの考え方や他人との付き合い方、マナーやモラルの許容程度などが影響していると考えられます。

 

違う価値観や考え方を持つ人は貴重な存在ですが、自分の中で「許せない」「これだけはやめてほしい」というタブーに抵触してしまうと、良い印象どころか嫌悪感が増幅する傾向が見られます。その結果、「理由はわからないけれど生理的に無理」と感じてしまうのではないでしょうか。

 

 

■女性が『生理的に無理』と感じる男性の特徴5選

 

性別が違えば考え方や捉え方、立ち振る舞いなども大きく違うところが見られます。中でも女性が「生理的に無理」と感じやすい男性の特徴をこちらで紹介していきます。

 


1. 自慢話やナルシスト発言が多い

 

会話の中で自慢話や自己愛の強さが滲み出るようなナルシスト発言が多い男性に対し、女性は「ナルシストだなぁ」「聞いていてうんざりする」と嫌悪感を抱きやすい傾向があります。女性はグループの輪を乱さず、なるべく皆が楽しめるよう配慮することを好む人が多いです。したがって、こうした自己中心的、且つ自分を持ち上げるためだけの発言ばかりする人に「生理的に無理」と感情が働きやすいのでしょう。

 


2. 身だしなみが整えられていない

 

髪がボサボサ、服装は乱れがち、口臭や体臭のケアができていないなど、最低限の身だしなみすら整えられていない人は、基本的に社会人としてのマナーもなっていないと白い目で見られてしまいます。特に、女性は身だしなみに対して男性以上に気を使う人が多いので、身だしなみが整えられていない男性に対して「生理的に無理」「信じられない」と嫌悪する人が多いです。また、あまりに不潔な人に対しては「近づくと臭いが移ってしまうかも」「不衛生さが気になって近づくことができない」と無意識に感じている人も少なくありません。

 


3. 他人に上から目線な口調で話す

 

相手にものを話すとき、つい上から目線な口調で話してしまう人は意外と多くいます。しかし、上から目線な口調は相手や周囲に圧を感じさせてしまい、その言動が「偉そう」「気分悪くなるから関わりたくない」と女性は感じてしまいます。また、飲食店の注文時に偉そうな態度で店員を呼びつけていたり、些細なことでクレームを入れたりする姿を見て「生理的に無理」「ドン引き」と感じる女性も多いです。

 


4. デリカシーのない発言を平気で口にする

 

少し考えれば相手が不快な思いをしたり傷つくだろうとわかるデリカシーのない発言を平気で口にする男性も、女性から嫌われやすい傾向にあります。
「最近、少し太った?」「メイク変じゃない?」など、本人が気にしているかもしれないことを平気で発言する姿を見ると「関わりたくない」「信じられない」と生理的な嫌悪感を覚える女性は多いです。また、こうしたデリカシーのない発言をする男性は、女性との距離感を上手く図れないという特徴も持ち合わせています。そのため、パーソナルスペースに土足で踏み込まれたような気分になり「怖い」「嫌だ」と直感的に嫌悪感を抱く女性が多いと考えられます。

 

 

5. 日常的な所作が汚い・乱暴

 

女性が生理的に嫌悪感を抱きやすい男性の特徴として、有名なところでは食べ方が汚いなどの所作的な部分が挙げられます。「歩き方が乱暴(横暴な雰囲気が出ている)」「ドアの開閉の仕方が乱暴」「周囲に配慮せず大声でくしゃみをする」など、日常的な所作が汚い、乱暴と感じる男性に対して、女性は不安感に似た嫌悪感を抱きやすいと思われます。

 

 

 

■付き合いのある男性を生理的に無理と感じた場合の対処法

 

「生理的に無理」と感じてしまった男性が職場や友人など、どうしても付き合いを継続していかなければいけない相手であるケースも多いですよね。付き合いのある男性を整理的に無理と感じた場合は、以下のような対応で乗り切りましょう。

 

・なるべく関わらないよう距離を置く

・当たり障りのない相槌で足早に立ち去る

・相手の話には好意的すぎる反応を見せない(薄い反応を返す)

・相手の会話を誘導して相手のペースに乗らない

・自分の情報はあまり相手に教えない

 


基本的にはなるべく関わらないよう距離を置いたり、相手の会話に前のめりになりすぎず、適当なところでサッと立ち去るといった付き合い方がオススメです。また、自慢話など相手が周囲を自分のペースに巻き込むタイプの場合は、こちらから積極的に話を振り、相手のペースを上手く誘導することで回避できることもあります。

 

 

 

■生理的に無理と感じた相手とは絶妙な距離感で接して

 

いかがでしたか。生理的に無理と感じてしまう相手は、誰しもが存在します。どうしても付き合いを続けなければいけない場合は、相手と関係性が悪くならないよう配慮しながら、絶妙な距離感で接していきましょう。

 

 

 

シュフーズ


「トランスの権利」を押し付ける過程で、他者を食い物にする人々や他者を操る人々による策略~仲間意識の押しつけ、*ガスライティング、境界線の侵害、「ノー」の無視がどのように使われるのか。

2023年11月01日 | Weblog

 

 

 

「トランスの権利」を押し付ける過程で、他者を食い物にする人々や他者を操る人々による策略

     ~仲間意識の押しつけ、*ガスライティング、境界線の侵害、「ノー」の無視がどのように使われるのか。

 

 

 

■なぜ人は正反対の考え方を受け入れるようになるのか 

 

なぜ互いに相反するイデオロギーが自然な同盟関係があるかのように提示されるのだろうか。フェミニストは、ジェンダーとは抑圧システムのメカニズムであり、社会的に構築された性差別的なステレオタイプであり、それは女性を搾取するために使用されていると主張している。つまりジェンダーとは、女性だから人の世話や掃除をしたがる、女性だから従順で礼儀正しいという性差別的なステレオタイプの考え方なのだと。LGBの権利を主張する人々は、同性に魅力を感じることは現実的で正常であり、異性愛と同じ権利と敬意を与えられるべきという考え方にたっている。これに対し、トランスジェンダリズム/トランスセクシュアリズムの立場をとる人々は、次のように主張する。ジェンダー、すなわち、女性抑圧や性差別的な固定観念は、生まれつきのものであり、時には抑圧、不快、障害を理由に、身体を変化させて適合させなければならないと主張している。ジェンダーディスフォリア(性別違和症候群)の人々は、文化的な性差別や搾取や抑圧によるものでなく、その本人が問題なのだと主張している。「社会的な制度ではなく、個人を変えよう」と主張しているのだ。 

 

そのような主張と合わせて、人間の性別を変えるという考え方に対する異議申し立てが一定成功し、一般的に受け入れられないので、トランスジェンダリズム/トランスセクシュアリズムの立場をとる人々は、二元性の現実とその重要性を否定し始め、こうして同性愛という現実を否定するようになっている。すなわち、同じ性別(sex)に魅力を感じることを「同じジェンダーに魅力を感じること」に捻じ曲げようとしている。レズビアンがペニスを持つことができるなら、セクシュアリティとは性差別的なステレオタイプ、言葉使いやしぐさ、そしてファッションのえり好みへの魅力を意味することになる。フェミニズムもLGBの権利運動も、60年代後半から70年代初頭にかけて登場した男性の権利運動とは信頼できる仲間であるはずがない。このような対立するイデオロギーを意図的に結合していこうとするとき、ここに大規模な仲間意識の押しつけ(Forced Teaming)をみることができる。

 

 

 

■下心のある人間が手っ取り早く相手の懐に入り込む方法 

 

仲間意識の押しつけというのは、虐待や、グルーミング、他者を食い物にする人たちが用いている言葉だ、またギャヴィン・ディー・ベッカー(Gavin De Becker)が『The Gift of Fear(邦題:暴力を知らせる直感の力、訳:武者圭子、出版:Pan Rolling社)』という本の中で初めて用いた言葉であり、詐欺師や恋愛詐欺などの犯罪行為に関する概念として使われている。つまり、他者を食い物にする人々は、共通の目標があるという考えや、私たちはみんな一緒だ、仲間だという態度を作り出し、相手の警戒心を解いて信頼を得て、操ることを指す言葉である。ほとんどの人は、社会通念のなかで教育され育てられてきている。他人を怒らせないように、礼儀正しく、親切にしなければならないと。この社会通念のために、仲間意識の押し付けに抗うことが非常に難しくなっている。一般的に、「実は、あなたの問題や目標は私のとは異なるので、一緒にやってはいけません」とか「いいえ、私にはこれが適切とは思えません」などと言うのは失礼なことであり、言いたくはないだろう。共通の目標とは、個人レベルでは、小さな事例だが、ある男性がレイプ目的で女性に近づき、女性のアパートまで買い物を運ぶのを手伝うという場合もそうである。仲間意識の押しつけは、私たちの直感を混乱させ、脅威に対する武装を解除させる。ジェニファー・ロンバード(Jennifer Lombardo)は著書『Abusive Relationships and Domestic Violence(虐待的な関係とドメスティックバイオレンス)』の中で、「人々は『私たち』という言葉を使って、仲間の一員ではないのに、相手を騙して仲間の一員であると思わせる」と書いている(注1)。何もないはずのところに信頼を築き上げるのである。仲間意識の押しつけは、運動(movement)に当てはめると、多くの男性が、フェミニズムは女性の目標ではなく 男性の目標に向かって努力するべきだ、とか、LGBは異性愛者の権利に向かって努力すべきだと主張することに等しい。

 

 

 

■誰か一人を狙って共謀者にし、運動を乗っ取る 

 

インクルーシブ(包摂的)という指示の裏には仲間意識の押しつけがある。このようにして、人を操ることがうまい男性は、運動に参加して、その目標をコントロールし、変化させることができるのだ。これは、以前、男性が個別に、女性団体やLGBの圧力団体に入りこんだやり口である。彼らは、発言内容を監視し、内部の話し合いを方向付けることができるのである。 

 

抑圧された者は、抑圧者が机のそばに座り、あなたの背後から見張っているとき、異議を唱えることなどできない。抑圧者の存在はまた、主張した議論を骨抜きにする。すなわち、結論として断定するのではなく、その場かぎりの状況的なものにする。「だけど、この人はいい人だ」、「人は(性別を)間違って生まれてくることもある」、「彼は自分をレズビアンだと言っているが、本人は本当は違うことがわかっている、だけど礼儀正しくしていよう」などというように。それによって、女性の権利と境界線を投げ売りしたり、同性愛の現実を交渉して譲り渡すことになる。他者を食い物にする男性たちは、仲間意識の押しつけを利用して、自分たちの戦いに参加させて自分たちの言いなりになる共謀者を募るのだ。 

 

運動の中にいる個々の女性は、操るのがうまい男性たちの標的にされることがある。男性たちはその運動に入り込むため、女性を利用し、それから、そこに居座るのを正当化する手段としても利用する。それはたいてい女性たちを戦術として孤立化させて実現する。そうすることで、個々の女性に合わせたメッセージが作られ、彼女らは聞きたいことを聞かされ、操る側が狙った女性だけに秘密を明かしているような錯覚を生じさせる。被害者の女性は今や「特別」であり、「友情」が築かれたと思わされるのだ。誰も友だちに逆らったり、異議を唱えたりしたくないよね。操られている女性たちが、自分たちと他者を食い物にする男性の間で本当に共通のニーズや欲求を持っているのかどうかに疑問を抱いても、罪悪感か気まずさから、男性と距離を置くのに苦労することになろう。というのも女性たちは今や、虐待者と行動を共にしているからだ。また、運動とその中の女性たちは、別の方法で批判をそらすために利用される。他者を食い物にする男たちは、批判を受けると、突然、人々やグループを褒め称えることで、さらに束縛を強めようとしたり、女性たちを盾にしたりするのだ。人はなかなか「褒めないでください」とは言いにくいので、この手口は成功する。行動パターンに気づくことが重要だ。グルーミングする者(相手に信頼させ関係性を支配し性暴力など犯罪目的を達成する者)は、あなたは特別だと思わせるが、男たちの行動パターンはそうではないことを表している。 

 

ガスライティングに依存すること(相手に自分自身の現実や認識を疑わせること),この手法が、男性は本当は女性である、あるいは名誉女性であるという考え方の核心部にあり、トランスジェンダリズム/トランスセクシュアリズムの核心部にあるのだ。このガスライティングが教えてくれるのは、私たちが相手にしているのは虐待をする男性だということだ。当然、彼らは別の操りの手口も使おうとするだろう。

 

 

 

■境界線の侵犯には「ノー」を言って、相手の正体を見抜け 

 

ガスライティングと共に、境界線の侵犯が重要な鍵を握っている。最初の境界は女性、そして生物学的女性の定義が侵害され、その次に、自己意識、そして物理的な空間や資源の境界が侵害されるのだ。ミクロなレベルでは、トランスウィドウ(夫や恋人である男性からトランスしたと言われた女性たち)が経験すること、女性保護施設でヌードの自撮りをする若い男性、マクロなレベルでは、女性政党に入り込む男性、女性政治家を名乗る男性、生物学的女性の定義に含まれると主張する男性などが境界線の侵害に当たる。 

 

キャヴィン・デ・ベッカーは、もし誰かが「ノー」という言葉を無視したら、その人を信用してはいけない、しかも、それは、最も普遍的な重大な危険信号であると主張している。その主張を応用すれば、(トランスジェンダーであると自称する)男性たちは、女性の定義に含まれることを何度も何度も求め、それに対して何度も何度も女性の「ノー」を聞き入れようとせず、多くの女性から何度も「ノー」を言われても、私たちの女性専用スペースを利用してきた。男性たちは、LGBコミュニティに向かって、同性に魅力を感じることは偏見に満ちていると言い続け、コミュニティの「ノー」という返答に耳を傾けることを拒み続けている。一つの「ノー」を無視することは危険信号であり、多くの「ノー」を無視することは警報である。相手を理解するのに、一回の「ノー」では足りないという考えこそが、連中の巧妙な手口なのだ。 

 

ジェシカ・オーウィグ(Jessica Orwig)は、ビジネスや犯罪の場面で「『ノー』を聞くことを拒否することは、誰かが支配を求めているか、それを手放すことを拒否しているシグナルである』と報告している。キャヴィン・デ・ベッカーは、追記として「『ノー』と言うべきでないという誰かの説得を許すならば、あなたは『コントロールしてください』という看板を下げているようなものだ」と述べている。(注2) 
これは女性やレズビアン、ホモセクシャルの人々の間で見られることだが、トランスだと自認している男性たちが「ノー」と言わないように訴え、同調するよう説き伏せるのを許していることがよくある。「ノー」は短い言葉だが、それだけで完全な文章である。断固として「ノー」と言おう。

 

 

 

■心の中のアラームがなったら、その場を立ち去ろう 

 

平和部隊の顧問であるナンシー・ニューポート(Nancy Newport)が、留学中の若い女子学生を男性の暴力から守るために作成した『Sexual Harassment and Prevention in College Students Studying Abroad(海外留学中の大学生におけるセクシャルハラスメントとその防止策)』の助言は、個人レベルと運動全体の両面で読んでみる価値がある。彼女は、「私たちは皆、文化の違いに配慮したい、仲良くしたい、尊重したい、溶け込みたい、不快にさせたくない」と考えているが、きわめて重要なことは「異文化への配慮トレーニングでは、個人の境界を侵したり、自身が安全でないと感じたり、あるいは不快に感じたりする行動に従うことを、けっして要求していない」ということだと述べている(注3)。この助言は、トランスジェンダーやトランスセクシャルの人々への対応としても有益だ。彼らが、境界線を緩め、男性の欲求に配慮して分析や発言を和らげ、その文化に配慮をせよという要求してくるとき、これは応用できる。ニューポートは、「不適切だと感じたり、不安になったりしたら、その場から立ち去りなさい。異なる文化への配慮のために、自分自身や自分の安全感を犠牲にすべきではない」(注4)とはっきり述べている。個人的な境界線については、物理的なものだけでなく、感情的なもの、そして哲学的なものも含まれると説明している。これらの境界線は、「私たちの身体的・感情的な完全性を維持する」ために機能し、誰かがそれを侵害したり、「近づきすぎたり」すると、心の中でアラームが鳴る。私たちはそのアラームに耳を傾け、尊重し、対応する必要があるのだ。(注5)男性たちがフェミニズムやフェミニストの分析の内部に存在し、同性愛の現実を否定する男性たちがLGB内部にいることで、私にはいつも警鐘が聞こえている。ニューポートは最後に、デ・ベッカーが提唱する「他者を食い物にする人が人々を操る7つの方法」の原則を紹介している。その手口とは以下のものである。

 


1. 仲間意識の押しつけ:意図的かつ指示的な操りの手口によって、手早く信  頼関係を作ろうとすること。 例、「何が起きても私たちは仲間だ」

2. 魅力と親切:自己の利益のために、人を操り、人を欺くこと。

3. 余計なことをしゃべる:人が嘘をついているときに使う手口。

4. レッテル貼り:ちょっとした侮辱の言葉で、女性を操って、その言葉の誤りを証明すべきだと思わせるように仕組まれた言葉。

5. 恩義を売り付け込む:負い目を感じるように仕組まれた頼みもしないことをして恩義を売りつけること。

6. 頼みもしない約束:空約束のこと。

7. ノーという言葉を無視する:「ノー」と言わせない場合。

 

 

私たちは、これらの策略を心に留めておき、直感に耳を傾ける必要がある。

 

 

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*上で取り上げた、デ・ベッカーの提唱する「他者を食い物にする人が人々を操る7つの方法」の詳細。

 

世界有数の犯罪専門家が明かす、あなたを騙そうとする7つのサイン
 
One of the world's foremost experts on crime reveals 7 telltale signs when someone is trying to con you

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Don't be fooled by charm or unsolicited promises.
www.businessinsider.com
Business Insider(ビジネスインサイダー)は、2009年2月に開設され、ニューヨーク市に拠点を置いている、アメリカ合衆国のビジネスや技術ニュースの専門ウェブサイト。
 

 


Jessica Orwig Mar 14, 2016, 5:31 AM
ジェシカ・オーウィグ 2016年3月14日 5:31AM
 
ギャヴィン・ディー・ベッカー(Gavin De Becker)は、父親から13歳になるまでに数えきれないほど殴られ、妹も父親から同じような虐待をうけるのを目の当たりにしてきた。またヘロイン中毒の母親が父親を銃で射殺するのを見てしまった。(注:ディー・ベッカーにとって継父)
デ・ベッカーは、大人になってから暴力に走るのではなく、幼少期の恐ろしい経験を生かして、暴力的な犯罪行為を予測し、それが起こる可能性を抑える方法に関する世界有数の専門家になった。
彼は、その実績を上げる中で4冊の本を書いているが、最初のベストセラーとなった『The Gift of Fear(邦題:暴力を知らせる直感の力、訳:武者圭子、出版:Pan Rolling社)』が最も有名だ。この本では、誰かがあなたを支配しようとしているときに警戒するべき7つの兆候について説明している。
お金を狙う詐欺師であれ、もっと酷い悪事を働く凶悪犯罪者であれ、それらの兆候はベッカーが最初に書いたときと同じように今も真実であり、犯罪者を見分け、被害者にならように自分を守るために役立つ。
 
1. 仲間意識の押しつけ
デ・ベッカーは、最も巧妙な操作の一つに「仲間意識の押しつけ」をあげている。
見知らぬ人が、誰もいない所で、「おやまあ、私たち、やっちまいましたね」とか「私たち、なかなかの仲間だね」などのフレーズで 「私たち」という代名詞を使って、あなたと共通の体験を作り出すとき、「仲間意識の押しつけ」をはっきりと見極めることができる。
犯罪者は、この「仲間意識の押しつけ」を使ってお互いが同じ境遇にあるかのように被害者に錯覚させて、近づいていく。さらに、「仲間意識の押しつけ」に対して、ほとんどの人は、それをはぐらかすのをためらってしまう。というのも、相手に失礼にならないようにと思ってしまい、拒むのが難しくなるからだ。これでは、犯罪者が有利になるばかりだ。
 
2. レッテル貼り
「レッテル貼り」とは、一般的に詐欺師が、相手から全面的な注目を得るために用いる手法だ
「レッテル貼り」には常に、反論しやすいちょっとした侮辱を含んだ表現が使われると、デ・ベッカーは書いている。例えば、バーで男性が女性に「あなたのようなお高くとまっている方は、私ごとき者と話をするのはお嫌でしょうが」と言ったりする。そういわれた女性は、彼の誤解を指摘しようと、その会話に飛びついてしまう。それが手口なのだ。会話にのってこさせることこそ男性の「レッテル貼り」の手口だから、男の思う壺である。「レッテル貼り」に対する最善の防御策は発言を完全に無視することである。
 
3. 魅力と親切
デ・ベッカーによれば、「魅力」とは常に人がある目的を達成するために使う道具なのだ。
大半の魅力的な人々は脅威ではないが、多くの犯罪者は「魅力」を使ってあなたに危害を加える意図を隠している。デ・ベッカーによれば、魅力的な人の本当の姿を見抜くのに役立つ有効な防御策は、「この人は魅力的だ」ではなく、「この人は私を魅了しようとしている」と意識的にそう言ってみることだと。
 
4. 余計なことをしゃべる
どんな詐欺師も、大物でも小物でも、一つのことを拠り所にしている。それは、明白な事実からあなたの注意をそらすことである。不確かな状況下で最も明白な事実のひとつは、あなたが見知らぬ人に声をかけられたという事実だ。デ・ベッカーによれば、犯罪者は、しばしば被害者と必要以上に話をしたがる。犯罪者は被害者のことを全く知らない。この明白な事実から被害者の目をそらせるために、嘘の経験についてくどくど「余計なことをしゃべる」のだ。
さらに、犯罪者が「余計なことをしゃべる」のは、犯罪者の悪意を告げるサインでもあるのだ。
「人は、本当のことを話しているときは、疑われていると思わないので、必要のない余計なことをしゃべったりしない。だが嘘をつくときは、その話がどんなにもっともらしいものでも、話している当人はもっともらしく聞こえないので、つい余計なことをしゃべるのである」とデ・ベッカーは書いている。
 
5. 頼みもしない約束
見知らぬ人が「約束する」と言ったら常に疑ってかかることだ。デ・ベッカーによれば、口約束は「じつに空虚な話術の道具」で、相手に何かを納得させようとする企てでしかないのである。
また、誰かに頼みもしない約束をされたときは、心の中で次のように思い返して自分を守ることだ。「その通り、私はあなたを信用することにためらいを感じる。正当な理由があるからかもしれない。そのことに気づかせてくれてありがとう」と思うことだ、デ・ベッカーは書いている。
 
6. 恩義を売り付け込む
「恩義を売り付け込む」とは、詐欺師があなたに恩義を売りつけ、それによってあなたに付け込んでいく手口だ。彼らは、食料品を車に運ぶのを手伝うなど、あなたのために何かをしてくれるが、そのかわり、より大きな見返りを期待する。
ほとんどの人は犯罪者ではなく、単に助けたいと思っているだけかもしれないが、念のため、自分の直感に耳を傾け、相手は自分が思っているほど親切ではないかもしれないという他のシグナルに目を向けてみてほしいと、デ・ベッカーは述べている。
 
7.「ノー」という言葉を無視する
デ・ベッカーは、「『ノー』という言葉を無視する」ことは、その人を信用してはいけないという最も普遍的な重大な危険信号であると述べている。
また「『ノー』という言葉を無視する」ことは、誰かがあなたを支配したがっているか、それを手放したくないという信号だ。「ノー」と言うべきではないという誰かの説得を許せば、相手に向かってあなたは「どうぞコントロールしてください」とう看板をぶら下げているようなものだ、とも述べている。

 

 

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Forced Teaming, Feminism, LGB and ‘Trans Rights’
May 25, 2020 Dr Em
仲間意識の押しつけ、フェミニズム、LGB、そして「トランスの権利」
2020年5月25日 Dr Em(匿名で、主にフェミニズム、セクシズム、ジェンダーに関する記事を書いている)
https://uncommongroundmedia.com/forced-teaming-feminism-lgb-and-trans-rights/
生物学的女性の権利を守る会
2022年7月30日 20:28


1. Lombardo, Abusive Relationships and Domestic Violence (Greenhaven Publishing, 2018)

ジェニファー・ロンバード(Jennifer Lombardo)『Abusive Relationships and Domestic Violence(虐待的な関係とドメスティックバイオレンス)』 (Greenhaven 出版、2018年) 

 

2. Orwig, ‘One of the world’s foremost experts on crime reveals 7 tell-tale signs when someone is trying to con you’, Business Insider (14 March 2016)

世界有数の犯罪専門家ジェシカ・オーウィグ(Jessica Orwig)が明かす、「誰かがあなたを騙そうとしているときの7つの兆候」、『Business Insider』(2016年3月14日号)

https://www.businessinsider.com/7-tell-tale-signs-of-a-con-artist-2016-3?r=US&IR=T 

 

3.4.5. 6ナンシー・ニューポート(Nancy Newport)『Sexual Harassment and Prevention in College Students Studying Abroad(海外留学中の大学生におけるセクシャルハラスメントとその防止策)』

https://www.westmont.edu/_offices/ocp/documents/SexualHarassmentAndPreventionInCollegeStudentsStudyingAbroad.pdf

 

 

 

こちらより転載。

 

 

 

 

 


「何に見える?」不安になっていない?今のあなたの不安度がわかる心理テスト

2020年05月11日 | Weblog

 

 

 

心が軽くてリラックスした状態で毎日を過ごせたらどんなにいいだろうと思いますよね。でも生きているからには、小さなことから大きなことまで何かしらの不安が出てきてしまう時があるものです。あなたは今、不安になっていませんか?もし不安になっているなら上手に解消してしまいましょう!

 

 

図形が何に見えるでしょうか?直感でお答えください。

 

 

1.数字の8

2.ゆきだるま

3.めがね

4.おだんご

 

 

 

1. 数字の8に見えた人は「とても不安な状態になっていそう」

 図形が数字の8に見えた人は、何か大きな不安に苛まれてしまっているかもしれません。どんなことを不安に感じているのか思い当たることがありますか?もし思い当たるなら、その不安なことは誰かに話して共有してしまうと良いかもしれません。

 

 このタイプの人は、目で見たものをそのまま捉える傾向にあります。そのため不安なことに対しての情報を調べれば調べるほど不安になってしまうかもしれません。特にネットでの情報検索は、合っている場合もあれば合っていない場合もあります。

 

 もし今とても不安な状態だと感じるのであれば、信頼できる人にお話をしに行きましょう。ちゃんと話を聞いてくれて、かつポジティブ思考の持ち主だと尚良いでしょう。人と荷物を半分こするだけで気持ちがスッと軽くなるものですよ。

 

 

 

2. ゆきだるまに見えた人は「少し不安なことを抱えていそう」


 図形がゆきだるまに見えた人は、少しだけ不安な気持ちを抱えている状態かもしれません。日常生活に影響があるほどの不安ではないですが、ふとした時に頭をよぎってしまうような不安ではないでしょうか。せっかくのリラックスタイムが不安に占領されてはもったいないですよね。

 

 このタイプの人は、繊細なところと図太いところを一緒に持ち合わせているような性格をしていそうです。そのため、よく不安はよぎるけれども、実際それで眠れなくなったり体調を崩したりというところまではいかないで済む強さも持っているかもしれません。

 

 少しの不安であれば、別のことに集中してしまえば早めに消えてくれそうです。例えば、DVDを見ながらヨガをやってみるとか、食べてみたかったものを料理してみるとかがおすすめです。できるだけ体を動かせることで対処してみましょう。気づいたらきっと不安は消えているでしょう。

 

 

 

3. めがねに見えた人は「特に今すぐ何とかしなくてはならない不安はなさそう」

 図形がめがねに見えた人は、特に今すぐに何とか対処しなければならないような不安はない状態かもしれません。心が軽い状態で、日々を過ごすことができていそうです。何か不安があったとしても、それをどうにかしないと気分が不快というほどでもないでしょう。

 

 このタイプの人は、視野が広い傾向にありそうです。そのため、不安がよぎったとしても別の角度から見ることで考えを変化させ不安を解消する術を持ち合わせているかもしれません。そのため、それほど不安が募って辛くてたまらないという時を過ごした経験も少ない可能性があります。

 

 あなたのその視野の広さは周りの人の役にも立ちそうです。もし周りで不安を抱えている人がいたら、少し声をかけてあげても良いのではないでしょうか。あなたの考えを伝えてあげることで、きっと心が軽くなる人がたくさんいるでしょう。

 

 

 

4. おだんごに見えた人は「不安とは無縁」

 図形がおだんごに見えた人は、もともと不安とは無縁の状態にありそうです。不安ってどういう状態なのだろう?と疑問に感じたことはありませんか?気持ちが休まらず眠れなかったり食事が喉を通っていかない感じになったことが少ない幸せなタイプかもしれません。

 

 このタイプの人は、あまり物事に対してこうあるべきといった考えをしない傾向にあります。そのため、度量が大きくある程度のことは受け入れて流れのままに生きていたりするのです。先を見越して生きるというよりも、まさに今を生きている、そんなタイプと言えるかもしれません。

 

 不安というのは先を見越しているからこそ抱えるものです。だから今を一生懸命に生きている人は感じることがないものだったりもします。このタイプは、元々持って生まれた性格によるものなので、真似することは出来ません。人とは違う非常にたくましい才能と言えそうです。

 

 

 

ライター:aiirococco
公認心理師、臨床心理士として総合病院にて働いております。知っているようで知らない自分のこと。自分の心理をのぞいてみませんか?自分を知るワクワクドキドキ感をお伝えします!
編集:TRILLニュース編集部

 

こちらより転載

 

 

 


「私が殺されてもいいから止めたかった」被告に脅された心理司のトラウマ 元児相心理司が語る現場 ほか2本

2020年03月03日 | Weblog

 

 

 

■児童心理司が証言

 

 千葉県野田市で栗原 心愛ちゃんを虐待して死亡させたとして、傷害致死などに問われた父勇一郎被告の裁判員裁判で、当時勤務していた児童相談所の児童心理司が証言しました。

 

 私も児童相談所で働いていた時は児童心理司でした。児童心理司というのは、児童相談所の中で働く心理の専門家であり、子どもに絵を描いてもらったり、様々な心理テストを行うことで、子どもの心の状態を判断します。そして子どもにとって、今後どのような環境で生活すべきか、どのような心のケアが必要か、児童相談所が方針を決定する際に意見を述べます。もちろん、親から離す必要があるか、家に帰して良いかどうかについても、心理の専門家の立場から、意見します。一番大事なのは子どもの心の状態であり、心愛ちゃんはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の疑いがある、と診断されたのですから、家に帰すべきではなかったのです。

 

 

 

■父勇一郎被告からの脅し

 

 心理司は父から「心理の資格を持っているのか。証明書を見せろ」と問い詰められ、身分証の職員番号をメモされ「児相ではなく、職員個人として訴える」と脅された、と報じれられいます。児童相談所で心理として、心理テストの結果などを親に伝えると、その内容に不満を抱き、激怒する親はいます。心愛ちゃんのように「トラウマがある」と言われると、自分が虐待していた、と言われているように思えるからです。自分の虐待の事実を否認する為に、心理の結果に逆上するのです。そして、勇一郎被告のように、「個人として訴えてやる」と脅す親もいます。私自身も、「訴えてやる」と言われたり、大声で怒鳴られ、「つきまとって絶対不幸にしてやる」と言われたことがありました。

 

 それでも、児童相談所の職員は、子どもの安全を最優先しなくてはなりません。心理司は、子どもの心の状態を直接みているのですから、その心の状態こそを、最優先しなくてはなりません。だからこそ、裁判で証言した心理司の方も、「私が殺されてもいいから止めたかった。今でも夢に見る」と泣きながら証言したのだと思います。心の底から悔やんでいるのだと思います。今も、苦しみ続けているのだと思います。

 

 そして、児童相談所の職員は、親に対する発言も、業務として行っているのですから、個人で訴えられることに怯える必要はないのです。親が訴えられるのは児童相談所であって、仮に「態度が悪い」「発言が許せない」などの理由で、個人で訴えられたとしても、児童相談所という組織が、職員を守るべきなのです。

 

 そうは言っても、「訴える」と言われれば、怖いのは事実です。千葉県の教育委員会が父親の脅しに屈して、心愛ちゃんのアンケートを渡してしまったように、執拗に脅されれば、いう通りにしてしまいたくなります。子どもを守る児童相談所の職員が、脅しに対して恐怖心を抱いてしまうのは、組織の体制の問題です。私自身も、児童相談所勤務時代は、訴訟保険に入っていました。職員は全員入るように上司から勧められていました。訴訟保険に入って安心な部分もありましたが、逆に「結局最後は自分でどうにかするしかないのか」という思いも抱かざるを得ませんでした。「どんなに脅されても、仮に訴えられても、児童相談所の職員は、児童相談所という組織が絶対に守ります。だから皆さん、安心して働いてください。」。日々、職員達に上司がそのように伝え、実際に守る体制も作り、悪質な虐待者が出てきたら、担当に任せるのではなく、組織全体で対応する。そして、「訴える」と担当者が言われたら、上司が「どうぞ訴えて下さい」と言って、すぐに弁護士に依頼をする。そんな体制を整えていかなければ、職員は安心して働けず、脅しに対して屈してしまうかもしれないのです。

 

 

 

■児童心理司の意見は最終判断にはならないことも

 

 そして児童相談所において、子どもの今後の方針を決定するのは、児童福祉司です。もちろん最終決定は所長を含めた全体の会議で決定されますが、所長などの管理職は子どもに実際に会うことはありませんので、担当の児童福祉司の判断が最終判断となることが多いのです。そこに、児童心理司の意見が反映されている場合もあります。けれど、児童心理司の意見が入ってない場合もあるのです。

 

 それは、まだ日本の児童相談所では、「トラウマ」つまり心の傷が重要視されていないからです。児童相談所が子どもを保護し、家に帰さない基準は、目に見える身体や顔の傷・あざです。心の傷は目に見えないので、親に対する説明としても通りにくく、職員によっては、子どもの心の傷がどれだけ子どもを苦しめているのか、想像が出来ないからです。だから心理司の意見が今後の方針に反映されないことがあるのです。

 

 本来ならば、自分の愛してくれ、守ってくれるはずの親から虐待されたことによって受けた子どもの心の傷は非常に深く、癒されるのにも長い時間がかかります。私の所には、小学生の時や中学生の時に児童相談所で会った子ども達が、大人になった今、20歳、30歳を過ぎても心の傷が癒えない為に、通って来ています。それだけの時間がかかるのです。

 

 心愛ちゃんを司法解剖した医師は「我々の考えが及ばないほどの飢餓や強いストレスがあったのでは」と推測しています。子どもを死に至らしめるほどのストレス。これが心の傷です。心愛ちゃんの事件を通して、子どもの心の傷の重さ、その苦しみを児童相談所職員が学び、今後、心の傷を重要視していかなければ、同じような事件が起きてしまうかもしれません。それを防がなくては。児童相談所の抱える課題です。

 

 

 

山脇由貴子 
心理カウンセラー 家族問題カウンセラー
都内児童相談所に19年間勤務。現在山脇由貴子心理オフィス代表

山脇由貴子  | 心理カウンセラー 家族問題カウンセラー 3/3(火) 13:46

 

 

 

 

2.

野田市虐待死事件公判 新たに見えてきた勇一郎被告の虐待と母親の心理

 

 

 

千葉県野田市で栗原心愛ちゃんが自宅浴室で死亡した虐待事件で、傷害致死などの容疑で起訴された栗原 勇一郎被告の裁判員裁判の公判が行われている。母親の証言から、父親の栗原 勇一郎被告の新たな虐待内容が明らかとなった。また、自身も暴力被害に遭い、支配されていたことによって、心愛ちゃんを救えなかった母親の心理が見えてくる。

 

 

 

■勇一郎被告の主張から見えてくるもの

 

 勇一郎被告は、21日の初公判で罪について謝罪し、傷害致死については争わない、と述べながらも、「冷水のシャワーを浴びせる」という検察側の述べた暴行の一部を否認した、と報じられている。しかし、勇一郎被告は完全に争っているとしか思えない。虐待を全く認めていないのだ。いまだに、自分は正しいことをしたのだ、と信じている。すべては心愛ちゃんの教育のためであったと信じているのだ。だから勇一郎容疑者は、心愛ちゃんの死を自分の行為の結果とは認めていないのだろう。

 

 虐待を認めず、自分の行為を正当化する虐待者は必ず虐待を繰り返す。児童相談所への言い訳として「しつけ」というのではなく、心の底から、子どものため、家族のためだと信じているからだ。その考えを覆すのは私の経験上はほぼ無理だと言える。その意味で、勇一郎容疑者の主張は、虐待を繰り返す虐待者の本質をあらわしていると言えるだろう。保護当時の児童相談所に対しては、もっと激しい怒りを込めて虐待を否定したのだろうから、やはり勇一郎容疑者の本質を見抜けなかった柏児童相談所の責任は重い。

 

 

 

■母の証言

 

 心愛ちゃんの母親は、証人として出廷し、ビデオリンク方式で行われた。その中で母は心愛ちゃんが「毎日が地獄だった」と話した、と説明した。母は、その言葉をどんな思いで受け止めたのだろう。心愛ちゃんの母親も勇一郎容疑者から暴力を受け、支配されていたことで、虐待を制止することが出来なかった、と述べており、毎日勇一郎被告から心愛ちゃんへの虐待を見続け、限界だった、ストレスから心愛ちゃんに当たってしまった、とも述べている。勇一郎被告への恐怖心があったのは確かだろう。そして勇一郎容疑者と心愛ちゃんの母親のLINEのやり取りから、母親が正常な判断力を失い、虐待に加担していたことが見えてくる。毎日虐待を見続け、精神的に限界だった、という母親の言葉も本心だろう。しかしそれでも、母親ならば、心愛ちゃんを救うべきだった、と誰もが考えてしまう。私は多くのDV被害に遭った母親達に会って来ているので、彼女達の恐怖心や無力感は分かっている。だから身動き出来なかった心愛ちゃんの母親の心理も理解出来る。けれども母親は、児童相談所の一時保護について「正直ほっとした」と語っている。そう思ったなら、児童相談所に「心愛を家に帰さないでください」とお願い出来なかっただろうか。勇一郎容疑者が心愛ちゃんを虐待するから、どうか家には帰さないで下さい、とお願い出来なかっただろうか。

 

 

 

■立たせる、正座、スクワット

 

 母親は、勇一郎被告が心愛ちゃんを立たせ続けたり、正座をさせ続けたり、スクワットをさせ続けた、という虐待内容も証言した。スクワットには驚かれる方も多いのではないかと思う。しかし私も児童相談所勤務時代にスクワットを強要させる虐待者には出会ったことがある。そして立たせる、正座させる、眠らせない、などの虐待は、少なくない。衝動的暴力と違い、子どもを苦しめたい、という思いがある人間の行う虐待だ。それに加えてスクワットをさせた、という勇一郎被告は、本当に子どもを苦しめたいという気持ちがあり、そして苦しんでいる姿を見たい、という欲求があった、ということだ。勇一郎被告は、自分が虐待に依存し、中毒状態にあることに気づかず、しかしその欲求を満たし続けたのだ。証拠として提出された勇一郎被告が撮影した動画がそれを物語っている。勇一郎被告は、動画を何度も見たのだろう。自分の欲求を満たすために。

 

 

 

■裁判の今後

 

 勇一郎被告が暴行を否認し続けた結果、判決はどうなるのか。誰もが関心を持っている。心愛ちゃんを救えなかった母親だが、勇一郎被告が心愛ちゃんを床に叩きつけたことや、心愛ちゃんが亡くなった当日も勇一郎被告が心愛ちゃんに冷水を浴びせたことも証言している。勇一郎被告への恐怖心はまだ残っているだろう。出所後につきまとわれる不安もあるだろう。それでも勇一郎容疑者の虐待について証言したのは、最後に心愛ちゃんに母として出来ること、と考えたのではないだろうか。今は本当に勇一郎被告を重い罪にして欲しいと望んでいるのだろう。

 

 今後は、児童相談所職員が証人として出廷する。児童相談所の職員は、心愛ちゃんから保護中に虐待の詳細な聞き取りをしているはずだ。心愛ちゃんの言葉すべてをしっかり証言して欲しい。そして心愛ちゃんの言葉を裁判でも一番重要に扱って欲しい。彼女が残した証言なのだ。そして心愛ちゃんが何を児童相談所職員に語ったが明らかになることで、児童相談所職員の課題もまた見えてくるだろう。

 

※記事の一部を加筆・修正しました。

 

 


山脇由貴子 
心理カウンセラー 家族問題カウンセラー
都内児童相談所に19年間勤務。現在山脇 由貴子心理オフィス代表

 

山脇由貴子  | 心理カウンセラー 家族問題カウンセラー 2/28(金) 11:30

 

 

 

 

3.

理想の子どもにしたい」は虐待リスク要因 目黒女児虐待死事件の父親の発言から見えたもの

 

 

 

10月1日、目黒5歳女児虐待死事件の父親の初公判が開かれました。 東京都目黒区で昨年3月、当時5歳だった船戸結愛(ふなとゆあ)ちゃんを虐待し、死なせたとして、保護責任者遺棄致死や傷害などの罪に問われた父親の船戸雄大被告は、初公判で起訴内容の大筋を認めました。

 

父親の弁護側は、雄大被告には、理想の家庭があったこと、理想の子どもにしたいと思っていた、父親になりたいという気持ちがあり、前夫との子が邪魔であるとか、憎たらしいから虐待したのではない、と主張しました。しかし、その主張の中からは、むしろ雄大被告が虐待をエスカレートさせてゆく心理状態にあったことが見えてきます。

 

 

 

■父親は虐待をエスカレートさせる心理状態にあった

 

雄大被告は、理想の家庭像を持ち、結愛ちゃんを理想の子どもにしたかったのだ、と弁護側は主張していました。理想の家庭像を持つことは決して悪い事ではありません。ですが、理想を完璧に実現しようとするのはとても難しいことで、実現出来ないことこそ、当然なのだと現実の中で受け入れていくことが必要です。雄大被告には、その受け入れが出来なかったことが、弁護側の言い分から見えてきます。

 

 

「理想の子どもにしたい」という思いは、虐待につながるリスク要因です。子どもが自分の思い通りにならないことが許せない、と感じてしまうからです。言うことをきちんと聞かない、子どもが悪いのだ、だからもっと厳しくしなくては、とも考えてしまうからです。雄大被告が結愛ちゃんに対して、そう思っていたのは、結愛ちゃんの反省文から明らかです。

 

「もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんから きょうよりも もっともっと あしたはできるようにするからもうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします ほんとうにもう おなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことを なおします これまでどれだけあほみたいにあそぶって あほみたいだからやめるのでもうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします あしたのあさはぜったいにやるんだとおもって いっしょうけんめいやる やるぞ」(結愛ちゃん反省文より)

 

理想の子どもにしたい。その親の思いは、エゴであり、押し付けでしかありません。ですが、その思いが強いと、親は子どもへの暴力を「しつけのため」と考え、虐待を正当化するようになりリスクがあるのです。自分はこの子を「良い子」にするためにやっている。それなのに言うことを聞かないこの子が悪い。親がそう思うようになり、虐待がエスカレートしてしまうのです。ですが、親は子どものためにやっている、と思っているので、自分の行動を正当化し続けます。雄大被告も、この心理状態にあったと考えられます。

 

結愛ちゃんの体重をコントロールしようとしたのも、ひらがなの練習や九九をやらせたのも、運動をさせたのも、雄大被告は結愛ちゃんのため、と考えていたのでしょう。だから結愛ちゃんが苦しんでいるのを無視し続けたのです。自分が正しいと思っていたからです。

 

最近、知られるようになってきた「教育虐待」の親の心理にも共通しています。名古屋で、子どもを自分と同じ学校に入れる為に教育虐待をした父親が子どもを刺殺してしまった事件を記憶されている方もいらっしゃると思います。親のエゴと「子どものため」という押し付けが、虐待につながるのです。

 

 

 

■児童相談所の指導を理解していない

 

また、弁護側の主張の中で、雄大被告は、児童相談所に、「実の親ではない」と言われ、拒絶反応があった、とありました。「実の親ではない」と児童相談所は言ったかもしれません。ですが、児童相談所は、「実の親ではない」という理由だけで子どもを保護することはありません。雄大被告に一時保護の理由を説明しているはずです。暴力は虐待である、やってはいけないことだ、と伝えているはずです。それなのに、雄大被告には「実の親ではない」という言葉しか残っていない。つまり、それは自分の何が悪くて、何を変えなくてはならないのか、その指導を理解していない、ということです。雄大被告は、児童相談所に結愛ちゃんを保護されても、自分のやっていることが虐待であると理解していなかったということになります。だから虐待が繰り返されたのではないでしょうか。

 

雄大被告が自分の行動を正当化していた、正しい子育てをしている、と思っていたからだと考えられます。公判はまだ続きます。今後も公判に合わせて雄大被告の心理状態を分析し続けたいと思います。

 

※見出しと本文を修正しました。

 

 


山脇由貴子 
心理カウンセラー 家族問題カウンセラー
 都内児童相談所に19年間勤務。現在山脇 由貴子心理オフィス代表

 

山脇由貴子  | 心理カウンセラー 家族問題カウンセラー 2019/10/2(水) 18:44

 

 

 


「苦悩の年鑑」の心に残ったフレーズ

2020年02月10日 | Weblog

 

 

 

中国との戦争はいつまでも長びく。

 

 たいていの人は、この戦争は無意味だと考えるようになった。

 

 転換。

 

 敵は米英ということになった。

 

 

 

 

ジリ貧という言葉を、大本営の将軍たちは、大まじめで教えていた。ユウモアのつもりでもないらしい。

 しかし私はその言葉を、笑いを伴わずに言う事が出来なかった。

 

この一戦なにがなんでもやり抜くぞ、という歌を将軍たちは奨励したが、少しもはやらなかった。

 さすがに民衆も、はずかしくて歌えなかったようである。

 

将軍たちはまた、鉄桶(てつとう)という言葉をやたらに新聞人たちに使用させた。

 しかし、それは棺桶を聯想(れんそう=連想)させた。

 

転進という、何かころころ転げ廻るボールを聯想させるような言葉も発明された。敵わが腹中にはいる、と言ってにやりと気味わるく笑う将軍も出てきた。私たちなら蜂一匹だってだって、ふところへはいったら、七転八倒の大騒ぎを演ぜざるをえないのに、この将軍は、敵の大部分を全部ふところに入れて、これでよし、と言っている。もみつぶしてしまうつもりであったろうか。

 

天王山は諸所方々に移転した。何だってまた天王山を持ち出したのだろう。関ケ原だってよさそうなものだ。天王山を間違えたのかどうか、天目山などと言う将軍も出てきた。天目山なら話にならない。実にそれは不可解な譬え(たとえ)であった。

 

或る参謀将校は、この度のわが作戦は、敵の意表の外に出ず、と語った。それがそのまま新聞に出た。参謀も新聞社も、ユウモアのつもりではなかったようだ。大まじめであった。意表の外に出たなら、ころげ落ちるより他あるまい。あまりの飛躍である。

 

指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。

 

しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って(かたって=だまして、の意)脅迫した。

 私は天皇を好きである。大好きである。

 しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。

 

 

 

日本は無条件降伏した。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。

 

 

天皇の悪口を言うものが激増してきた。しかし、そうなってみると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。

 私は、保守派を友人たちに宣言した。

 

 

十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。

 そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。

 

 

まったく新しい思潮の擡頭(=台頭)を待望する。

 それを言い出すには、まず、「勇気」を要する。

 私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、

  その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。

 

 

「苦悩の年鑑」/ 太宰治・作

(「新文芸」昭和21年3月号)

 

 

 

 

 

 

 


「日本会議」の精神構造 ネクロフィリア  (英仏誌も安倍首相らのウヨク団体「日本会議」に注目)

2015年08月01日 | Weblog

 

 

 

 

 

「日本会議」の精神構造 ネクロフィリア  (英仏誌も安倍首相らのウヨク団体「日本会議」に注目)


2015-08-01 | 学芸
 




 ネクロフィリアということばがあります。ヒトラーとナチズムを分析した著名な社会心理学者のエーリッヒ・フロムが繰り返し使った概念が、ネクロフィリアです。

  死んでいるものへの愛、とか、死体への愛という意味で、バイオフィリア(生きているもの・命への愛)という言葉の対義語ですが、ネクロフィリアの傾向を持つ人は、教師や医師や官僚などの上位者に多く、人と対等な関係を持てず(それを恐れるので)、支配‐服従関係でしか人間関係を持てないのです。

  だから、家父長制度の倫理や上下倫理を尊び、上か下かに敏感に反応します。互いを対等な存在として認め合うのでなく、権威、権力、金力、学力、暴力などにより他者を自分の思う通りにしようとするのです。

  生きているものは、予想がつかない行為をするので、ネクロフィリアの人は苛立ちます。彼らは子ども、とりわけ幼子を嫌います。すべて予め決めてある通りにならないと不安になります。厳しい規則や固い組織など動かないものを愛します。モノや思い通りになる人だけしか愛せないのです。

  臨機応変、当意即妙とは無縁で、すべて自分の計画通りにならないと怒ります。固く、ぎこちなく(独裁者の言動や軍隊行進がよい例)、表情は紋切型で、魅力がありません。心から笑うことができず、作った笑顔しか示せません。

  生きているものは、思い通りにならず、たえす流動しますから、恐れます。活き活きとしていることを不審に思い、愉悦の心は取り締まろうとするのです。恋愛、性的なことを罪悪だと感じます。ですから禁欲的な倫理観を固く守ろうとします。これらの行動様式を持つ理由は、感情を豊かに表現することを怖れているからです。そんな人生って〈根源的な不幸〉としか言えませんが、そういう人は、自身も親や教師によりそのように扱われた人に多く、なかなか自覚できず、不幸と抑圧の再生産に陥ります。表情が紋切型でいつも同じ、身体の動きがどこかギコチナイのが特徴です。
 


 わたしは、先にも書きましたが、安倍首相は、自著『美しい国へ』で、個人とか市民という概念を嫌い、「日本人ないし国民という概念を第一にすべきだ」 と言いますが、いま、ここで、活き活きと生きている一人の人間、一人の女・一人の男から始まる社会・国という「社会契約」(人民主権)の考え方が受け入れられず、自分の思う「日本人」とか「伝統」の枠内にこどもや市民を閉じ込めようとします。そのように管理したいと「欲望」するのです。

  彼をはじめ『日本会議』のメンバーのように「戦前思想」に郷愁や肯定感をもつ人は、物や制度(国家など)そのものを愛するという倒錯=「物神崇拝(フェティシズム)」ですが、その精神の基本の様態は、ネクロフィリアと言えます。

  心のありようがネクロフィリア的な傾向にある人は、管理社会を好みますから、こどもや人々が自立心をもち、「私」からはじまる生き方をすることを恐れます。

  「個人」や自由や解放というイメージを嫌い、批判されるのを避けます。オープンな話し合いが苦手で、一方通行です。そのような傾向にある人は、様々な手段を用いて他者を抑圧しますが、それを合理化するための理論をつくり、その概念で、生きている人間を管理しようとします。

  特定のことば=概念に人々を閉じ込め、様式(パターン)の下に意識を置き、儀式的な生を営む「紋切人」をよしとするわけです。「神武天皇から125代続く男系男子の遺伝子を守れ!」と異様な主張をする『日本会議』のメンバーはその典型ですが、ネクロフィリアの傾向が強い人は、対等な関係性ではなく、上下倫理で自他を縛りますので、「民主的倫理」とは無縁ですし、個々の市民を主権者とする「民主政」とはひどく相性が悪いのです。人民主権の社会契約論を否定するのですから呆れます。

  ネクロフィリアは怖い精神疾患です。
 
 もちろん、現実の人間を単純にバイオフィリアとネクロフィリアの二つに分類することはできませんし、ネクロフィリアそのものという人がいるわけでもないですが、そのような傾向にある人を見分けることと、自分自身がそのような傾向に陥らないように注意することはとても大切です。

  精神の基本のありようがネクロフィリアの傾向が強い人が政治権力をもったり、教育者になったりするのは、社会にとって大変危険です。大きな厄災をもたらす可能性が高いのです。個々の「自由な市民の敵」とさえ言えます。彼らは、「幸福をつくらない日本というシステム」(ウォルフレン)の担い手となります。




こちらのページより転載。




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> そのような傾向にある人を見分けることと、自分自身がそのような傾向に陥らないように注意することはとても大切

「そのような傾向にある人」が上司だった場合、その課、あるいは係り、または班は重苦しい人間関係になる。とにかく怒鳴ったり、罵倒したりして、恐怖と屈辱感を加える(=りっぱに暴力)ことにより、部下たちを委縮させ、自分に対して部下たちが劣っていることを思い知らせようとします。何のためか、従わせるためです。問答無用で服従させることが目的なのです。それは「支配‐服従」という関係でしか人間関係を営めないからなのです。

こんな上司に目をつけられてしまったら悲惨です。他の同僚たちは自分への罵倒とモラル・ハラスメント攻撃を避けるために、目をつけられてしまったひとをいじめのターゲットにさえしてしまうでしょう。もし、そんな上司の下、そんな状況の下に置かれてしまったなら、自分を無能だとか、自分が悪い、みたいに思い込んでしまわないようにしてください。それはその上司の策略なのです。

その上司の下にいる限り、そのひとたちは、うつ病などの精神疾患の脅威にさらされることになります。また、屈辱を晴らすために、家族に同様のハラスメント的言動を用いて当り散らしたりしてしまうと、家庭が壊れます。こんな時代に再就職は困難ですが、他の部署に移動できないのであれば、退職したほうが身のためだと思います。

ここではわたしは「上司」と会社の場面を設定しましたが、実はかつてエホバの証人だったころ、わたしのいた「教会」、エホバの証人の専門用語で「会衆」といいますが、そこの代表世話人である「長老(役職名)」がそういう人となりでした。そういう人となりになるような教育が「神の正義」の名の下に行われていましたから、わたしはその宗教をやめたのです。ほぼ20年間信じ続けた生き方を変えるのはかなり大変ではありましたが、辞めてよかったです。「個人の基本的人権」のありがたさを身に染みて理解できたからです。

ちなみにエホバの証人を息も絶え絶えの状態で辞めた人の多くは、「ネクロフィリア」化教育が徹底しているため、上下関係によって規定される人間関係、「様式(パターン)の下に意識を置き、儀式的な生を営む紋切人」の集まりでないと、自分の居場所である、と感じられないために、ネトウヨになってしまいます。これは事実です。







「異常な事件」は圧しひしがれた「日常」のつみかさね

2014年08月08日 | Weblog

 

 


 

叱られたことしかないから、ほめ方わからない
保坂展人
ASAHI Digital 2014年7月22日   

 

 

 

 


 いまから20年前、私は「早期教育」の取材を続けていました。

 

 バブル経済が崩壊し、日本社会が急速に勢いを失って収縮していった時代に、早期教育はひとつだけ気を吐いている成長産業でした。とりわけ、「生まれたらすぐ読み聞かせ」「早ければ早いほど赤ちゃんの才能は伸びる」などと宣伝し、乳幼児を抱える母親たちの多くが無我夢中でそのプログラムにはまりこんでいました。

 

 当時、早期教育の渦中にいた乳幼児の母親たちのインタビューを重ねて1冊の本(『ちょっと待って! 早期教育』、1996年)にまとめたのですが、そのなかに、A子さんという母親のことを紹介しています。

 

 早期教育の題材を子どもに与え、成績に一喜一憂する自身の中に、かつて自分が子どもだった時に親から育てられたときの「記憶」が強く作用していることに気がついた、というのです。

 

「私は幼稚園から大学まである私学のエスカレーター校に通っていました。3歳からピアノのレッスンを始め、母は音大をめざせと練習にもつきっきりで叱咤(しった)激励していました。間違うとピアノの椅子ごと突き飛ばされるぐらいに厳しい母でした。また、父はサラリーマンでしたが手製のオリジナルプリントをつくっていて、学校の勉強を叩き込まれました。そのせいで、私はいつも学年で1番だったのです」

 

 しかし、A子さんは「学年1位」でありながら、「次はどうなるわからない」と次のテストで転落することにおびえ、心休まる日はなかったと打ち明けてくれました。

 

 子どもの頃、楽しいと思った記憶がなく、幼稚園の頃から「自殺願望」さえあったといいます。両親との会話でも、「なぜ、こんなことができないの!」「あんたやっぱりダメね」という言葉が耳に残っているそうです。徹底したスパルタ教育のもと、A子さんは両親の思い通りに成長しているかに見えました。

 


 ところが、まもなく亀裂が生まれます。高校卒業後の進路をめぐって、両親と激突したのです。成績優秀のため無条件に進学できる大学があるのに、看護師志望のA子さんは「看護学校に行く」と宣言。その通りに進み、やがて医療現場で働くようになって、両親のコントロールから抜け出したそうです。

 

 

 A子さんはその後、結婚して2人のこどもに恵まれました。

 

 あるとき、まだ幼児だった息子の前に通信教育の教材を広げ、鉛筆を持つように促しました。息子は「いやだ」と反発します。いとも簡単に母親の要求を拒む姿を見て、A子さんは冷静でいられなくなりました。身体中がカーッと熱くなったのです。A子さんは窓のサッシを手早く閉めると、息子を思い切り叩きました。「その瞬間、スーッとしました」

 

 

 なぜ、あの瞬間、怒りの感情が噴き出したのでしょう。

 

「いやだ!という一言を、幼い頃の私はどうしても言えなかった。その記憶がよみがえってきたのかもしれません」

 

 A子さんは、子ども時代の記憶と重ねて、このように言いました。

 

「自分が親から言われたことをそのまま、子どもに言ってしまうことがあるんです。私、厳しく叱られてばかりで、ほめられた経験がないから、どうやって子どもをほめたらいいのかわからないんです」

 

 さらに、子どもがベタベタと甘えてくると不快になって突き放してしまうというのです。「私自身が母親に甘えた記憶がないんです。生理的に受けつけられなくて」

 

 

 A子さんのケースはわかりやすく、特別な環境の下で育った人の悩みであるように見えますが、私はここに大きなヒントが隠れていると感じました。

 

 教育のプロセスの中で、誰もが勝ち続けられるわけではないということです。学校の成績が下がって壁にぶつかったり、志望校に入れずに落ち込んだり、習い事やスポーツで結果を期待されながら挫折したり。子どもも大人と同じように、「いい思い」だけでなく、「トラウマ」とともにあるのが一般的です。

 

 にもかかわらず、早期教育が発信する情報は単純明快で、直線的なものでした。

 

<早期教育によって勉強ができるようになり、成績が上がれば『いい大学』に入ることができ、お子さまの将来の選択肢はぐっと広がります。早く準備を始めておけば後悔することはありません。それができるかどうかは、子どもに愛情を持つ親の力なんです>

 

 振り返ってみれば、あの頃は、「日本型終身雇用」の残影がまだくっきりとありました。いわば「いい学校から、いい会社へ」つながる道の入り口さえくぐることができたら、生涯安泰という信念にも似た感覚が一般的だったのです。

 

 ところが、この20年で雇用環境は激変しました。20代の多くは非正規労働につき、日本を代表するかに見えた大手企業が外資に売却されて再編されるなど、「会社が人生を守ってくれる」という疑似コミュニティは崩れつつあります。

 

 それだけではありません。この間に子どもの数は大きく減りました。1992年に205万人だった18歳人口は、2012年に119万人と、およそ6割まで落ち込んでいます。社会はこれだけ変わったのに、あいかわらず、「人間の価値は学歴だ」と信じ込み、「偏差値」や「有名校進学」などを絶対視する傾向が根強いのはなぜでしょう。

 

 私自身は、1970年代の半ばに「日本型学歴社会」の軌道を大きく外れました。人の幸せは学歴につきるという「学歴信仰」から言えば「落伍者」、あるいは「気の毒な失敗作」ということになります。ただ、私自身は早めに軌道を離れてよかったと思います。強がりではなく、悔いはありません。

 

 だからといって、私自身の経験を次世代に押しつける気持ちは毛頭ありません。「学歴信仰」もまだしばらくの間は残るでしょう。この伝統的な価値観はそこそこ意識しながらも、絶対化することなく、できれば相対化してほしいものです。

 

 それにともなって、新しい子育てや教育についての価値観が広がっていくように思います。「子どもの中に宿っている『成長する力』を信じる」。そんな若い世代の親たちの声が少しずつ増えてきたように感じています。

 

 ミヒャエル・エンデが『モモ』で描いたように、子どもたちは「時間貯蓄銀行」のような「時間泥棒」に囲まれて日々を過ごしています。

 

「大人になるための準備」だけに追われる子どもたちから、遊びが奪われています。全身を使って動き、大きな声を出し、走り、転び、笑い、泣く……。疾風怒濤(どとう)の子ども時代だからこそ味わえる遊びの興奮とカタルシスが、人間として生きていくための感情の基盤、すなわち自己肯定感をつくりだすのです。

 


PROFILE
保坂展人(ほさか・のぶと)
 1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。

 

 

 


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早期教育で「失地回復」はかる母の危うさ
文 保坂展人
ASAHI Didital 2014年7月29日   

 

 

 

 


 早期教育の取材を続けていた20年前のことです。

 

「朝、起きたらまずプリントをやります。次に教室に行って、それから…」と、びっしり我が子の学習日程を組んで、叱咤激励しているタイプの親たちに何人も会いました。

 

「この子は、私がそろそろ勉強してほしいなと思うと、さっと自分からプリントを持ってきて始めるんですよ」

 

 そう言って、母親は目を細めます。

 

 自由時間はないのですか――などと聞くと、すぐに答えが返ってきます。

 

「本当はもっと、のんびりとさせてあげたいんですが、厳しい競争がありますから。子どもにのびのびと育ってもらうためにも、今は少々の無理は仕方がありません」

 

 私学難関のエスカレーターに早く乗せることが目標だというのです。

 

 乳幼児から小学校の低学年まで、親の言うことを忠実に実行して、お母さんが喜ぶ姿を見て、ますますその期待に応えようとする子どもがいるのは事実です。

 

「子どもってすごいですねえ。まるで吸い取り紙のように、新しい知識をどんどん吸収して伸びてくれています」と語るお母さんは、桃源郷にいるようでした。

 

「子どもの学力増進が自分の幸せ」という母子一体化の二人三脚を、全国チェーンの教育産業がかきたてます。大きな舞台で年齢別、学年別の「優秀児表彰」が行われ、「優秀児の母」として子どもと共に母親も顕彰されるのです。

 

 そんな母親たち自身は、どんな子ども時代を過ごしたのでしょうか?  

 

 子どもだった時期に一番楽しかったことを覚えていますか、などと質問すると、

 

「うちの子は、毎日勉強してどんどんランクがあがっていくことを楽しんでいます。勉強が最大の娯楽です」

 

 などと、トンチンカンな答えが返ってくることが何回かありました。

 

「あなたの子ども時代は?」とたずねても、「うちの子は」と答える。24時間、考えているのは子どものことばかりで、全国順位の競争結果に一喜一憂する。そんな日々の轍(わだち)は深いのだと知らされました。

 

「私ができなかったことを、この子にはやらせてあげたいんです」という言葉を耳にして、ひらめいたことがありました。子どもの成育は、親にとっての「生き直し」であり、「失地回復(レコンキスタ)」なのだ、と。

 

 多くの人は、習い事でも、成績でも、進学先でも、人生のなかで「思うようにならなかった経験」を持っているものでしょう。そのうまくいかなかった自分の代わりに、子どもに期待を託そうとするのです。

 

 生まれてきたばかりの我が子は、まるで新品のマシンのようにまっさらで、何も入力されていない可能性の塊に思えます。それだけに、期待ばかりが高まるのです。

 

 早期教育のプログラムに猪突猛進している母親たちが自分の子どもをまるで分身のように扱い、意のままにコントロールしている姿には違和感を持ちました。でも、その一方で、謎が解けたようにも思いました。

 

 

 とくに女の子を持つ母親の場合には、自分の人生をリセットした「生き直し」という形にピタリとあうケースが目立ちました。子どもは、自分であり、自分は子どもです。そこに、人格の境界線はないのです。

 

 ところが、人間の成長過程には「思春期」が組み込まれています。それが一心同体に見えた母子関係を狂わせるきっかけになることがあるようです。

 

 


 私は、早期教育の広告塔となっていた何人かの「優秀児」「天才児」のその後を追跡したことがあります。

 

 将来を嘱望された「優秀児」たちの何人かは「嵐のような思春期」に揺れていました。同年齢の子どもたちを寄せつけないほどに高いレベルの学力を持っていたはずなのに、中学生になって自問自答を始めます。

 

「自分は親の期待にただ応えていただけの存在だったのではないか」
 「自分で望んでやっていたわけではない勉強や知識は、自分のものではない」

 

 自我の芽生えの中で苦悩を深め、外に出られずに嘔吐(おうと)を繰り返す苦しい日々をへて、ようやく脱皮したという話も聞きました。

 

 親もまた、子ども時代のみならず思春期を送ってきたはずです。でも、その記憶をスッポリを切り捨てて、子どもを所有物のように扱い、自分の期待を叶えるために無理を通していくと、思わぬ反動がやってきます。

 

「私の思うがままだった我が子」は、小学校高学年から中学・高校にかけて、「何ひとつ言うことを聞かない我が子」に変貌するのです。

 

 親につくられた自分の仮面をはいで子どもが自立していく過程で、戸惑い、右往左往することのないようにしたいものです。覚えておきたいのは、「子どもは分身じゃない」ということです。自分とよく似ていても、まったく別の人格として、別の人生をひらいていく存在なのだ、ということです。

 

 早期教育に限らず、そうした認識が、その後の長い親子関係を持続可能なものにするのではないでしょうか。

 

 

 

 

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佐世保事件 凶行の裏にある「日常」
 文 保坂展人
ASAHI Digital  2014年8月5日   


 

 

 

 灼熱(しゃくねつ)の季節に、心胆を震え上がらせるような事件が長崎県佐世保市で起きました。

 

 仲のよかった友達を、15歳の高校1年生の女子が、ひとり暮らしのマンションの一室で殺害し、その遺体を傷つけるという想像するのも辛い事件です。

 

 それから1週間、新聞やテレビで次々と報道される「事件の背景」にふれても、加害少女がなぜ「友人の惨殺」という取り返しのつかない行為に及んだのかを十分に理解することはできません。また、突然に生命を絶たれた15歳の被害少女とご遺族には心からの哀悼を捧げます。

 

 ひとつだけ、私自身が自戒していることがあります。生半可な情報の断片を並べて、「わかったふりをしない」ということです。 私たちの社会は「理解できない」「説明がつかない」という状態を続けることが苦手で、「そうだったのか」という解釈や結論を早急に求めがちです。

 

 10年前の2004年6月1日。同じ佐世保で市立大久保小学校6年生の女子が、同級生をカッターナイフで殺害するという、痛ましい事件が起きました。当時、直後からヘリが飛び始め、佐世保の街を300人ともいわれる報道陣が走りまわりました。

 

 このとき、焦点が当てられたのは「ネット上のトラブル」でした。互いにホームページや掲示板でやりとりしていたことが事件の引き金であるかのように語られ、そこだけがクローズアップされた印象があります。

 

 事件から2カ月近くがすぎ、私は、夏休みに入る直前の終業式の日に佐世保に入りました。大久保小学校の校長とも先生とも、じっくり話す機会を持ちました。周辺の取材を重ねて見えてきたのは、ミニバスケットボールの「クラブ活動」(社会体育)をめぐる加害少女の変化でした。

 

 部員が少ないながら好成績をあげていたチームの一員として活動してきた加害少女は、「成績低下」を理由に親の意向でクラブを辞めさせられた、とされていました。

 

 たかが、クラブかもしれません。けれども、私たち自身も胸に手をあてて子ども時代をふりかえってみれば、日常生活の中心にクラブ活動があり、定期的にある試合を目標に心をあわせて活動する「共同体」から抜けた後で、魂が抜けるような放心状態となった 人も多いはずです。

 

 のちに、クラブを辞めさせたのは、夜道をひとりで帰らせることへの不安からだった、と父親が毎日新聞記者に打ち明けています。

 

 理由はどうあれ、ミニバスケットボールのクラブをやめた加害少女はその後、選手が足りないために急にチームに呼び戻されて対外試合に出場し、勝ったことで高揚します。ところが、チームに復帰したのではなく、臨時に1回呼ばれただけだと知って言動が荒れます。

 

 

 取材から戻って、私は『佐世保事件で私たちが考えたこと――思春期と向き合う』(ジャパンマシニスト社) という本にまとめました。重要なのは、子どもたちの世界の中で「特別な事件」をとりまく「普通の日常」の何が変化しているのかを見逃さないことです。一見、わかりやすい「原因はネットトラブル」という単純な断定を避けて、事件前も事件後も変わらない子どもたちの「日常」を見直そう、という内容です。

 

 

 このコラムでは2週にわたって、早期教育をめぐる「親と子の葛藤」を書いてきました。まるで、親の所有物のように幼児の頃から、教室や習い事でスケジュールが埋まり、将来を期待される「良い子」と二人三脚で歩んでいる親たちの死角は「思春期」にあります。子どもは親がつくった枠を取り払おうと激しいエネルギーで反抗し、自立をめざしてバランスを失いかけます。まるで未来永劫に続くかと思えた従属的な親子関係は嵐の中で揺さぶられ、親と子は互いの距離感を認識していきます。

 

 成績はトップクラス、スポーツもできて、習い事にも秀でていると伝えられる加害少女が、幼児期からどのような成育環境を過ごしてきたのかはまだわかりません。事件という「特別なこと」にいたる「普通の日常」にどのようなトゲが潜んでいたのか、これから注目したいと思います。

 

「特別のこと」と「日常のこと」は地続きです。私たちは、滅多に起きない「特別のこと」を前に、「特別のこと」は日常とは断絶した「別世界」で起きると考え、思考から排除しがちです。でも実際には、「日常のこと」の積み上げのはてに「特別のこと」は起きているのです。

 

 痛ましい事件から教訓を得るとすれば、子どもたちの「日常のこと」にもっと目を向けるということではないでしょうか。10年前の佐世保事件を、被害者の父を上司にもつ新聞記者が描いた『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)のなかに、加害少女の父親の言葉が紹介されています。

 

<毎日が慌ただしい生活でしたが、もうちょっと子どもたちのスピードに合わせて考えることが必要だったと思います。時間はできても、気持ちに余裕がなかった>

 

 


 少子化社会で子どもの数はぐっと減っています。終身雇用を前提とした企業社会も様変わりしています。子どもたちが成長した後に踏み出していく社会が激しく変容しているのに、早期教育や受験競争は、親たちの時代とあまり変わらないように見えます。親たちの時代にあった、外遊びの時間は絶滅寸前となり、子どもにとっての自由時間は寸断され、限られています。

 

 ある特殊な親子関係のもとに起きた事件かもしれません。でも、目を向けなければならないのは、加害少女が置かれた環境の特殊性ではなく、私たちにもつながる共通性ではないでしょうか。

 

「生命の大切さ」を、単なるスローガンやメッセージとしてではなく、子ども自身が体験と実感から獲得していくにはどうしたらいいか。自分の力で立とうとする子どもたちの思いや力をきちんと受け止められているか。

 

 それが、私たちに突きつけられた課題ではないかと考えています。


 





子どもを怒鳴ればたたくのと同じ悪影響

2013年09月10日 | Weblog

 

 

 

 

 

 思春期の子どもが悪いことをしたとして親から怒鳴られると、抑うつ症状や攻撃的な行動のリスクが上昇するなど、たたかれたときと同じ問題が生じる可能性のあることが、新たな研究でわかった。


  母親や父親と温かく良好な関係を築いていていても、10代の子どもが親から怒鳴られたり、ののしられたり、「怠惰」だの「おろか」だのと侮辱されたりすれば、悪影響は免れない。ピッツバーグ大学とミシガン大学の研究者が行ったこの研究は、4日にチャイルド・デベロップメント誌のウェブサイトで発表された。


  米国ではおしりをたたくことがタブーになっている共同体が多い一方、怒鳴ることはそれほどには世間体が悪くない。実際、親たちは怒鳴れば子どもが言うことを聞き、行いを改めると考えることもある。だが、今回の研究ではその逆であることが示された。




  共同で研究を行ったピッツバーグ大学教育・心理学部のMing-Te Wang准教授は「怒鳴っても、子どもの問題行動を減らしたり直したりはできない」と指摘し、「逆に悪化させる」と述べた。


  ニューヨーク大学ランゴーン・メディカル・センターのティモシー・バーデュイン臨床学准教授によれば、親は、テレビなどを見る時間や車のキーといった特権を取り上げることで、子どもを十分に罰することができる


  ただ、「そうする際に、批判的、懲罰的、侮辱的な言葉を大量に使わないことだ」とバーデュイン氏は語った。「人は尊敬し称賛している人に言われたときのほうがずっと、自分の行動に責任を感じる。子どもをしかったり恥ずかしい目に合わせたりするようなことをすれば、親の持つ力が損なわれる」という。バーデュイン氏は今回の研究には参加していない。




  研究では、両親と13ないし14歳の子どものいる家庭976世帯を追跡した。子どもにさまざまな質問をし、問題ある行動、抑うつ症状、親との親密度を判断した。親には戒めとしてひどい言葉を発しているかどうかを調べる質問をした。


  子どもが13歳だったとき、母親の45%、父親の42%が、前年に子どもにひどい言葉を浴びせていた。13歳の時に親から特にひどい言葉を受けた子どもは、翌年に同年代の子どもとのケンカ、学校でのトラブル、親へのうそ、抑うつの兆候といった問題が増える度合いが高かった。


  親が戒めとしてひどい言葉を使った時と、たたくなどの体罰を与えた時では、問題が増加する度合いは似ていた。口論を除く親子の親密度が高くても、ひどい言葉の悪影響は変わらなかった。逆に、子どもの問題は親がひどい言葉による戒めを増やすことにつながり、悪循環がエスカレートをさせていた。


  10代が怒鳴られるとこれほど悪影響を受ける理由について、Wang氏は「思春期は(子どもが)自分のアイデンティティーを見極めようとする、非常に微妙な期間」であるためだと述べた。「親が怒鳴ると、子どもの自己像を傷つける。能力や価値がなく、無駄な存在だと感じさせる」のだという。

 

 

 

 

 


ウォール・ストリート・ジャーナル 9月9日(月)13時32分配信






監督やコーチの責任とは?

2013年04月07日 | Weblog






 

 最近、メルマガ読者の方から、次のような相談がありました。よく受ける質問ですので、皆さんにも紹介したいと思います。



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 4月で小5になる息子は、少年野球に入部しています。そこで、同級生にからかわれたり、けられたり、殴られたりしています。もちろん、大人のいない所で。主人や義父は「男なら、やられたらやり返せ」と言うのですが、息子は、「絶対に暴力はしたくない」と言います。理由は、兄弟ゲンカをした時、痛かったから(自分も相手も)。あと、またきっと倍返しで仕返しされるから、余計嫌だとのこと。


 多少のケンカは必要なのですか?
 やり返さない息子がいけないのですか?



 実際その場を見ていませんが、暴力を振るってくる子に、大人がきちんと注意すべきですか? もしくは見守るべきなのでしょうか?
 やられるたび毎回モヤモヤしています。



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 私は、まず子どもには、「暴力を振るいたくない、という気持ちは素晴らしいね。応援するよ。ただ、甘んじて暴力を受け続ける必要もない。『逃げる』という形で暴力を拒否することもできるんだよ。あるいは、大人に助けを求めるとか。それは決して弱いことでも、卑怯なことでもない。自分を守るために、大切なことなんだよ」と言えばどうかと思います。「やられたらやり返せ」という対応は、この子が言っているように、暴力の連鎖を生むだけで、私は間違っていると思います。



 あとは、大人の対応です。少年野球も、教育の一環としてやっているものだと思います。それなら、教育にふさわしい環境を整えるのが大人の責任だと思います。監督やコーチの責任は、ただチームを強くすればいい、技術を教えればいいというものではなく、その場が、教育にふさわしい環境になるように、配慮する。誰も傷つかず、子どもたちの自己肯定感を下げないように、安全を保障することが、大人の責任だと思います。




 暴力を振るうような子は、決して見逃さない。きちんと注意して、保護者にも伝える。そしてみんなで見守っていく。それが大人の役割だと思います。ですから、監督やコーチの体罰などもってのほかです。体罰は、暴力を振るってもいいことを、大人が体にかけて教えているようなものです。




 少年野球の監督(特に強いチームの監督)は、けっこう強い権力を持っていて、何か意見しようとしても、ほかの保護者から止められることもあったりしますが、同じ思いでいる保護者もいると思います。ぜひそういう人と手を取り合って、環境を改善していってもらいたいと思います。

 

 

 

 


明橋大二メルマガより