Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「人間関係の基本を知っていますか」

2006年09月29日 | Weblog
自然体(あるいは「ありのまま」)とは、自分の苦手な部分を隠さないことです。隠したいと思っている部分は、見かた・考えかたを変えると「個性」となります。世界でたったひとりの人格がそこにあるのです。

(「あなたに贈る希望の言葉」/ バーバラ・ミロ・オーバック・著/ 大原敬子・訳)

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人と会うのが苦手な人、人と話すのが苦手な人。なぜ苦手と思ってしまうのですか。自分を立派に見せようと肩ひじを張っていませんか。「会話」ができないからですか。どんなことを話せばいいのか考えてしまうからですか。そんな無駄なことを考えているうちに、いつしか自分でコンプレックスをつくっていることに気がつきませんでしたか。あなたはコンプレックスを自分でつくっていたのです。基準はその都度違っています。

たとえば、失恋したとき、自分の世界観で原因を決めつけていませんか。容姿に劣等感を持っている人は、そこに原因の基準をおいてしまいます。家柄・学歴にこだわっていれば、そこに基準をおいて判断します。そうしていつもコンプレックスを原因にして逃げてしまいます。

人と会うことが苦手な人は、間の沈黙に耐えられないのです。間が怖いのです。自分を立派に見せたいのです。その「立派さ」も具体的なものはないのです。せいぜい「素敵な人」「男らしく強い人」程度のものでしょう。

ですが、そのようなコンプレックスや現実離れした理想像のために萎縮してしまい、本当の自分を出せないのは苦痛です。なぜ苦痛かといえば、どんなことを話せばよいのかわからなくなるからです。話すたびに「こんな話ではきっと相手もつまらないだろう」とか、「こんな話をして相手は私をどのように見るだろうか」などと、いつも自分がどう見られているかが心配なのです。不安なのです。

大切なのは「自分が楽しければ相手も楽しいんだ」と思うことです。大切なのは、相手の話を興味を持って聞こうとするからです。大切なのは、知らないことがあっても恥ずかしがらないで尋ねることです。相手は聞いてくれる行為がうれしいのです。

そして、聞いている態度としては、うなずいてあげることです。どんなに立派な話を聞かされることよりも、だまって聞いてくれることに人は喜びを感じるものです。そして、相手はあなたに何十倍もの好意を感じるものです。人と会うのが何となくつらいと感じる人は、自分を守ることばかりを考えている人です。





《気をつけたい行為》
① 視線をそらさない。うつむき加減に相手を見ないこと。
  飲み物を飲むときも、視線はできるだけ相手を見ること。
② あいずちをうちましょう。
③ 話の中心を相手に合わせる器量を持ちましょう。
④ 「いいわけ」「謙遜」をくどくど言わないようにしましょう。
⑤ 話題につまったら、相手の最後のことばじりをオウム返しに語りかけると、
  話はなめらかに進みます。




たとえば…
「昨日は残業で疲れたよ」「残業でしたか」
「おふくろが勝手に上京してきてね」「お母さまが?」
「先生にしかられちゃった…」「あらあら、しかられたの」…
こんな具合に語り掛けましょう。相手はまた話の続きをします。こうしてコミュニケーションを深めてゆきます。立派な話ばかりがすばらしいのではありません。

自然体(あるいは「ありのまま」)とは、自分の苦手な部分を隠さないことです。隠したいと思っている部分は、見かた・考えかたを変えると「個性」となります。世界でたったひとりの人格がそこにあるのです。


(上掲書より)

待つよりも行動しよう!

2006年09月22日 | Weblog
 相手からのアクションを待つから、心がかき乱されるのです。
 待つよりも行動しなさい。

 行動することが今は難しいなら、しばらくそのことは忘れてしまいなさい。

 (「幸せを呼び込む魔法のメッセージ」/ 植西聡・著)

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人間関係に入っていこうとするのを躊躇させる、あの怖気(おじけ)。それは、悪い結果を想像することから始まります。以前の傷つき体験、恥ずかしかった体験。そういった体験に傷つき、二度とあんな思いはしたくないっていう信念が、人を臆病にします。

状況は以前とは違うかもしれない。少なくとも、いま、まわりにいる人たちはエホバの証人じゃない。自分では、「これは間違っている」とわかっているのに、神が事態に介入するまで自分は知らん顔していようとする人ではないのですから。そんなふうに考え、行動する人は主体性のない人で、自分でするべき判断、決断などを他人まかせにする人です。自分で判断することに伴う責任を回避しようとする人です。でも、いま、目の前にいる人は、そんなふうになるように教育されてきた人とは限らない。つまり、自分の判断の責任は自分で請け負う人であるかもしれない。

かつて経験した傷つき体験、その結果自分はどうなったでしょう。天地がひっくりかえるようなダメージを受けたでしょうか。いいえ、いま、こうして、なんとかかんとか生きています。いま、ふりかえって考えてみると、ダメージというのは、当時のその局面でバツの悪い思いをしただけだったのではないでしょうか。それを当時の自分は、大変なダメージだと解釈したのです。

人を不安にするものは、出来事そのものではなく、むしろ、その出来事についてのその人の受けとめかたである(エピクテトス:ストア派の哲学者)」。

そのときの、おおげさな自分の受けとめかに傷つき、それをいま現在の状況にも当てはめているから、怖気づく、ということです。相手の人のアクション、リアクションを窺わなくていい。その人が冷淡に反応したって、それはその人のこと。そうじゃない人をまた探せばいい。だから、まず、自分のほうから行動を仕掛けていこうよ。

でも、どうしても、いまはそうすることができないなら、いっそ、いまの機会は断念し、すっかり気持ちを入れ替えて、いまのことは忘れてしまうのが最善の策、と上記の言葉は教えてくれています。できないという強迫観念に取りつかれているときは、いわば熱にうなされている状態に例えられる。そんなときに無理に行動しなくたっていい、そうでしょう? ものごとには「時」っていうものがあるから。

植西聡さんはさらに同書でこう言っています。
「あなたは神さまではありません。自分以外の誰かを思いどおりにすることなんてできませんから、当然ストレスがたまります。ストレスがたまると、自分を不愉快にさせた相手のことを憎むようになってしまい、自分の心までも暗くしてしまうのです。そんな状態がイヤだったら、自分から行動を起こしましょう。どうしても行動できないなら、もうそんなことは忘れてしまいましょう。掃除でも水泳でもかまいません。好きなことをして頭を空っぽにするのです。イライラから解放されると、不思議と事態は良い方向に動き始めます(上掲書)」。

人は、いわば、二回この世に生まれる

2006年09月21日 | Weblog
わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために。

「エミール」/ジャン・ジャック・ルソー・著

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選ぶことができないもの。健康、性別、時代、境遇、親。
選ぶことができるもの。生きかた、生きること。



わたしは人間として生まれた。人間の社会の仕組みのなかに生まれてきたので、自分を縛るものに取り囲まれていた。それらに身をゆだねることもできた。でも気持ちに納得のゆかないものがあって、それはいらだちに変わり、やがて耐えられないものになった。心には、別の願望が植物のように伸びてきたから。

だから、思い切って飛び出した。わたしは自分の気持ちにしたがって飛び出してきた。自分の本当の気持ちに忠節でありたいから。わたしは、ようやく、生きることを始めた。たくさんぶつかったけれど、そのたびに知恵を拾ってきた。独身者だけれど、セレブじゃないけれど、同い年の人や年長の人と話したり、一緒に仕事をしたりしていて、はっきりわかったことがある。自分は彼らの誰よりも、多くの「知恵」を身につけてきた、と。

奴隷であった経験は、けっしてムダじゃなかった。傷ついた経験はけっしてムダじゃなかった。失った経験はけっしてムダじゃなかった。わたしには、少なくとも奴隷たちとは違っている点がある。

自分の気持ちにしたがって生きていること。誰かを見返すためじゃなく、誰かに認めさせるためでもなく。

「わたしは生きている」とはばかりなく言える人間がどれほどいるだろうか。他人に認めてもらうために生きるのは、生きているんじゃない、単に存在しているだけだ。


次に、自分の考えを堂々と表明し、また、多くの人と討論できるようになるということです。

2006年09月21日 | Weblog
 その第一は、ものごとに対して自分なりの考えを持つ、ということ。
 次に、自分の考えを堂々と表明し、
 また、多くの人と討論できるようになるということです。

 渡辺淳/(「国際感覚ってなんだろう」/渡辺淳・著)より。

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ICU(国際基督教大学:海外から帰国した生徒の受け入れ専門校)高等学校のいくつかの授業クラスで、「海外で暮らした立場から、国際感覚に関連して、身につけたほうがいいものがあるとしたら、それはなんだろう」と聞いてみました。すると、まっ先に出てくる答えがあります。

その第一は、ものごとに対して自分なりの考えを持つ、ということ。次に、自分の考えを堂々と表明し、また、多くの人と討論できるようになるということです。

海外の学校では、つねに「君はどう思うのか」とか、「あなたの意見はどうか」と問いかけられます。ですから、いやでも自分の考えを持たざるを得ないのが実情です。それも、“ニヤニヤ笑い”でごまかしたり、“こそこそ話”をするのではなく、堂々と自己主張したり、自己アピールができることが求められます。

ところがこうしたことは、日本に暮らす私たちにとって決して簡単なことではありません。たとえばイギリス・ケンブリッジ大学のサマー・スクールに参加した国内生の尾崎美穂子さんがこんな経験を話してくれました。彼女は高校2年生。はじめての長い海外語学研修に参加するため、はりきって出かけたそうです。

「いろいろな国から生徒が集まっているので、授業以外のときでも英語を話すということが暗黙の了解になっていました。でも同じプログラムに参加した日本人のなかには、日本語でこそこそ外国人の悪口を言う人たちもいて、“いやだなあ”と思っていました。

「ところがハイキングに出かけたとき、どういうわけかスペイン人の子のグループが固まってしまい、スペイン語でばかり話しています。私は気になったので、となりにいたイタリア人の子に、“英語で話してくれたらいいのにね”と不平をもらしました。すると彼女が大きな声で、“ちょっとみんな、スペイン語で話すのやめようよ”と明るく言ってのけたんです。
「頭がガーンとしました。“たったこれだけのことをどうして自分で直接言えなかったんだろう”と、ほんとうに情けなくなってしまったからです」。

ただ、尾崎さんの場合は、この経験が教訓となって、ますますいろいろな人に溶け込む努力をするようになった、と言います。





「逆に、国際感覚を磨く上で、これはマイナスだというものはあるんだろうか」と問いかけます。するとさっそくやり玉にあがったのは、「○○人はこうだ」とか、「とかく外国人というものは…」などと、ひとまとめに論じるステロタイプの発想でした。10年以上アメリカで暮らした小堀あやさんがこんなことを言っています。

「私は苦手だったんだけど、日本人や韓国人などオリエンタルの子は数学ができてあたりまえと、現地では思われているんです。“なんだ、日本人なのに…”と、向こうの子によく言われました。“私は私なのよ”と言いかえしましたけど。“○○人は…”なんて、ひとまとめにするのはやはりおかしいですよね」。

小堀さんはアメリカの生徒の例をあげてくれましたが、こうしたステロタイプの発想は、私たちの側にも根強くあることは言うまでもありません。したがって、小堀さんの指摘は、「すべての人を、まずひとりの人間として見ることが基本だ」ということになるでしょう。

これと関連して、海外に住む日本人が、日本人だけで固まってしまい、なかなか現地に馴染まないということも指摘されました。せっかく現地校に通っているのだからと、日本人のグループから離れて現地の友人とつきあうと、「なんだ、あいつ」という感じで、日本人からつまはじきにされてしまう傾向がある、というのです。狭い日本人生徒のグループに閉じこもってしまう現象です。

(上掲書より)

逆境の中のチャンス

2006年09月20日 | Weblog
 楽天家は、困難のなかにチャンスを見いだし、
 悲観論者は、チャンスのなかに困難を見いだす。

 「幸せを呼び込む魔法のメッセージ」/植西聡・著

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失敗はただ漫然とやってくるのではなく、なんらかの意味をもってわたしたちの前に現れるものです。そのときはそれがショックでも、あとになってふりかえると、予定通りに進めていたらとんでもないことになっていたなあ、なんて思うことがあるものです。

また失敗は、その方法がふさわしくないことを明らかにしたり、自分の高慢さ、思いあがりを諭すきっかけになることが多いものです。

楽天的な人は、それを見つけだしてそこから学び、自分の成長の糧にして、さらにまた次の新しい挑戦を始めるようになります。そして、失敗に至った最初の計画よりもずっと大きな結果を生み出してしまいます。

困難や逆境のなかには、実は事態打開の重要な知恵・ヒントがあるのです。ですから、壁にぶつかったとき、道が見失われてしまったとき、そのときには、その「知恵・ヒント」を見つけだすようにしましょう。

(上掲書より)



「転んだときには、必ず何かを拾え」/ スーザン・ヘイワード/ オーストラリアの著述家。

引きこもりの子どもにひそむ意欲

2006年09月09日 | Weblog
不登校の子どもたちを一概に落ちこぼれであるであると決めつける人は多いけれど、それは違うと思います。たとえば、私が診ていた青年の一人は、高校のときに挫折して引きこもりになったんですが、親が学校に行けとうるさく言うのをやめて家庭教師をつけたところ、数学にだけは興味を示すようになります。そのうちコンピュータに夢中になり、自分でゼロから制作まではじめ、引きこもったまま独学でコンピュータのエキスパートになってしまった。

ある日、秋葉原に買い物に行ったとき、お客の質問に店員があまりに稚拙な説明をしているので、思わず横から口をはさんだそうです。そうしたらアドバイスした客に「きみ、いったい何者なの?」と驚かれ、その人が経営する会社で働くことになった。小さいながらも将来性のある会社で、みんなから頼りにされ、見違えるように生き生きと働いています。

彼のような人間は今の教育制度の中では適応できないけれど、自分の好きな領域は、進んで学ぶ意欲、それも尋常ではない意欲を発揮します。引きこもっている子どもたちの多くは、能力も意欲も持っている。興味を持ったことに熱中できる素質もある。教育行政のシステムに順応するのが苦手な子どもをも受け入れ、その子が持っているものを伸ばせるような教育の場であれば、彼らは立派に教育を受け、世の中に貢献できたはずだと思います。本当に無気力で、何もしたくないから何もしないというタイプの人も確かにいますが、そういう人たちは少数派なんですよ。

従来の受験体制と学校制度は、経済的発展を第一とする社会にとって都合のいい人間を作ってきたわけですが、同時に大量の引きこもりも生み出してしまった。いまだにそれにとらわれ、その枠からはみ出した子どもたちを駄目だと決めつける大人の中にこそ「悪魔」が潜んでいるのだと私は思います。私たち大人が「悪魔」となって、駄目だ駄目だと言葉や視線でささやきかけるから、そういう子どもたちを引きこもらせ、なかなかその状態から抜け出せなくさせてしまっている。引きこもりの子どもたちに落ちこぼれのレッテルを貼るのをやめ、まず引きこもりを誘うような欠陥のある教育システムを見直してみる。そのほうがよほど生産的じゃないでしょうか。

(「悪魔のささやき」/ 加賀乙彦・著)


もし私の一生がすべて誤りだったら…

2006年09月03日 | Weblog
「もし私の一生がすべて誤りだったとしたら…」

「イワン・イリイッチの死」 / トルストイ・作

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イワン・イリイッチは、ことごとく他人中心に過ごし、体制に適合するために自分の人生を自由に生きることを放棄してきた自分の一生に思いをはせながら、いま、万人を平等にする死を待っている。

「もし、私の一生がすべて誤りだったとしたら…」
以前には到底考えられなかったことが、つまり人生を過ごすべくして過ごしてこなかったということが結局のところ真実なのかもしれないと、ふと思った。これまで、ほとんど感じとれない程度の衝動は即座に抑えつけてきたが、そういう衝動のほうが本物で、それ以外は偽物だったのではないか。

職責も、生活や家庭の切り盛りも、社会的あるいは職務上の関心も、みんな偽物だったのかもしれない。こういうものを一切合財しっかりと守ろうとしていた私は、突然自分が守っているものの脆さ(もろさ)を感じた。守るべきものなど何もなかったのだ…。

自らの人生に積極的に働きかけるべきか、自分自身で選択するべきかなどについて思案し、考えあぐねたときは、自分自身に対して問うてみることだ。
「私はいつまで死んだような人生を送るつもりだろうか」と。





死は永遠の課題であり、生は息つく間もないほど短い。そこで自問してみよう。
「ほんとうにやりたいと思うことをしないでいてよいのだろうか」
「自分の人生を、他人の望むとおりに送っていてよいものだろうか」
「モノは貯めるに足るほど大切だろうか」
「先へ延ばすのが賢明な生き方と言えるだろうか」

おそらく、その答えは、ほんの数語にまとめることができよう。
「生きよ」
「おのれ自身であれ」
「楽しめ」
「愛せ」…。

遠い先々のことまで見通す見地に立てば、自分の力で人生を選択できるだろうか、といった不安や恐怖心や猜疑から自由になり、永久に生きようとする人たちに対するやましさを拭い去ることができる。そのように対処していかなければ、これからの人生をずっと、他人から「おまえはこうしていなければならない」と言われるとおりに生きてゆくことになろう。確かに、この地上で生きるのはつかの間だが、そのわずかの時間は、少なくとも自分にとって楽しいものであるべきだ。

誰のものでもない、自分自身の人生なのだ。自分の望むことを精いっぱいやって生きることだ。

(渡辺昇一/ 「自分のための人生」/ ウェイン・W・ダイアー・著)

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「生きよ」「おのれ自身であれ」というのは、自分の内面から生じる興味や意欲を追求するために、自分の人生の時間を費やすように、というメッセージです。エホバの証人の教えとは正反対のものですね。エホバの証人は、エホバ神の喜ぶことを行うために、自分の人生の時間を費やすべきであり、自分の内面から湧き出る意欲や感興が「神への奉仕」の妨げになるなら、即座に自分の興味のほうを断念するように、そうすることにより、新しい世界で永遠に生きることをゲットせよというのがその教えでした。これは実際には、人生を楽しむな、という教えにほぼ等しいのです。

なぜなら、自分は禁欲的に生きているのに、だれか他のメンバーがより自由に振る舞っているのを見ると、反感を覚え、それを「非道徳的」、「認識の欠如」、「信仰の弱さ」と評価して、無視することや、陰口をきくこと、「特権」から干すこと、演壇から誰とは言わないまでも、誰を特定しているかは明らかな仕方で非難すること、などの方法でバッシングします。他のメンバーも自分のように不満を押し殺して、一分一秒を他人の目を怖れて縮みながら暮らすよう、そう、「強いる」のです。エホバの証人として生きることが、堅苦しく、何となく太ももの表面にいら立ちを覚えずにはいられなかった、ということが、決して幸福な生き方ではなかったことの証しなのです。もっともこの「証し」は他者を説得する際の証拠としての価値には欠けますが。

第一、「神の喜ぶように」と言いますが、エホバの証人の言う「神を喜ばせること」は、エホバの証人の指導部の聖書の解釈にもとづいています。聖書は、解釈する人の思惑によってさまざまに異なるのです。ですから実際には、「神の喜ぶこと」ではなく、「エホバの証人の指導部の喜ぶこと」なのです。まるっきり他人のための人生を送っていることになるのです。ものごとは善と悪、正と邪で振り分けるものではないのです。ものの感じかたというのは人の数だけ異なっているものなのですから。

上記の記述を、いま、エホバの証人でありながら、不満を覚え、インターネットをさまよう人たちはどう感じるでしょうか。人間が生きるのは今現在であり、過去は記憶の中以外に地球上のどこにも現存しません。ですから、過去を惜しんで嘆くより、毎日自分に向かってくる「今日、この時間」をどう過ごすかということに精いっぱい労力を費やすほうがいいのです。今日という時間を迎えることができたいま、わたしたちは生き方を変えることができますし、生きることをよろこぶようにすることができるのです…。