Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「言わざる」では取り残される、集団から、人生からも!

2008年04月27日 | Weblog
ずいぶんご無沙汰しておりました。新年度の第一弾です。

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けっきょく、人は家族や会社など、組織や集団の中で生きていくわけです。たとえば、会社のなかでは、ふたつの生き方があると思います。
 ①自分の声を発して生きていくか、
 ②声を出すと周囲との摩擦が起きてしんどいからという理由をつけて、
   しんどさに負けて、会社のいいなりに生きるか。
比重はともかくとして大きく二通りなのだと思います。

いいたいことを(無遠慮・無思慮に)いえといっているわけではありませんが、主張すべきとき、行動を示すべきときに声をあげられるかどうか。その声が通るかどうかは別としてです。もちろん、声を出すのと、思いどおりになるのは、違いますから…。

意見を持っているのに、声を出さずにいるだけでは、独りよがりで終わってしまいます。じゃあ、声を出さずにずっとやっていけるかというと、決してそんなに甘くはないのがこれからの時代です。自己主張しない人間は、自分の存在を認めさせられない、自分の存在によって他者に利益をもたらすことができないとみなされます(国際社会ではすでにそうなのですが)。

そんな自分自身の生きていく方向性、生きていく力をもっていないことがいずれバレれば、ビジネスの世界では存在価値を必然的に失い、10年後、20年後にはリストラ候補者になっている危険性が高いのです。

声を出すということは行動することです。すべての行動には何らかの失敗のリスクが発生します。アクションを起こせば起こすほど失敗の確率は高くなります。だから器用に声を出さずに生きていける人というのは、一見、失敗が目立たないために問題がないように見えます。しかし、ここが落とし穴なのです。

問題が発覚しませんから、軌道修正もされないため、あとから長期的に、「オレは何をやってきたんだ、会社のなかでうまくやってきたつもりが、社会から大きくはずれてしまっていた」ということが、往々にして起こってくるものなのです。

器用な人ほど自分を長く殺せますから、気づいたときには手遅れになっている可能性が高いというわけです。

とくに会社のなかとか、特定のカルチャーのなかだけにいると、先のことは見えませんから、 “だんまり人間” も日本の社会では、ほどほどに通用してきたわけです。しかし、もの言わぬ「日本丸」は、流れ流れて、世界の潮流から大きくはずれつつあるこちは、みなさんもすでにお気づきではないでしょうか。


(「『本当の私』をうまく伝える方法」/ 最上悠・著)

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この一文は、ビジネスシーンを念頭において書かれています。でも国際社会における日本の態度のあり方にも引っかけて書かれていますよね。日本は外交はほとんどアメリカの後ろについてまわって行ってきました。そうしていて、高度経済成長が達成されたのです。しかし、70年代に入って、中国や韓国との友好が回復しそうになると、こんどはアメリカ頼みの態度がアジア諸国との摩擦の原因となってきたのです。戦争責任をはっきりさせずにきたことで、もう一つ、中韓との関係で踏み込めません。もちろん中韓の方でも感情的な偏ったナショナリズムの影響があることも事実です。ですが日本のほうでも同じような偏ったナショナリズムを引きずってきているのです。両方で自分に贔屓に考えていては友好が進まないのはあたりまえです。

自己主張をすれば摩擦が生じるのは当然です。そこで両方がその摩擦をまな板に載せ、譲歩しあうことによって連携を探ってゆくのが民主主義の手法です。多数決によってどちらか一方の言い分を強行採決するのが民主主義だというのはとんでもない勘違いです。それはむしろ民主主義とは対極にある考え方です。数による独裁というのがその本当の言い方です。民主主義はあらゆる立場、あらゆる意見の人々との折衝によって、すべての人が納得できる妥協点を見いだすことなのです。そうすることによって、少数意見をも包含した新しい方針というのが生まれてくるのです。これが近代民主主義の手法なのです。



ここに引用した一文はまた、「特定のカルチャー」のなかでも言いえることです。たとえば一方的な支配が行われるカルト宗教内部でも、意見をどんどん言っていけば、制裁を怖れず意見、反論、抗議を重ねてゆけば、事実体質を変えてゆくことはできるのです。もちろん、カルト宗教は成員が団結したり、自己主張ができるような自己信頼感を持つことがないようマインド・コントロールします。恐怖を植えつけることによって、抗議しない思考習慣を成員に身につけさせます。しかし、インターネット時代ですから、おそらく大方のカルト宗教成員も知るべき情報を得ているでしょうから、恐怖をなくしていくことができるのです。それができないは、自分で責任を負って生きて行く踏ん切りをつけないからでしょう。上記引用文のことばを借りれば、「声を出すと周囲との摩擦が起きてしんどいからという理由をつけて、しんどさに負けて、会社のいいなりに」なったままでいることを選択するからです。カルト宗教にはまる人というのは、おそらく入信する以前も、自分で責任を引き受けて決断すること、つまり自立的に生きることをしてこなかった人が多いに違いありません。ですからこの本の著者は、自己主張をするようにと薦めておられるのです。この本は自己主張の仕方の一つのアドバイスを提供する本です。自己主張できない人は、インターネットの掲示板では大論高論を展開しますが、現場では窮々と無抵抗の「羊」を演じ続けるのです。「器用な人ほど上手に自分を殺せ」ますから。しかし、声をあげない人は「自分の存在によって他者に益をもたらすことのできない」無能力者でしかないのです。どんなに高等教育を受けていようとも。

上記引用文はまた個々人の人間関係の場面でも言い得ることでしょう。「自己主張しない人間は自分の存在を認めさせられない」のです。人間は互いに認め合うことで生きている実感を得ることができるのです。自分の存在を認めさせられない人間というのが、一時有名になった「透明な自分」というものです。それでは孤独に苦しみ続けますし、「他者を向上させるものをもたない」人はだれとも友情を育むことはできないでしょう。これはもちろん恋愛でもそうです。いえ、男と女の思考習慣は全く異なっているので、主張しなければ愛情を育むことはできないのです。家父長制度に見るような、男女の役割がマニュアル化されたしきたりによって強制するだけでは本当に理解しあえることは成し遂げられません。つまり信頼を育てることができませんし、信頼がなければ愛情も育たないのです。

「主張するということは行動するということ」です。行動するところにはかならず失敗がつきまといます。ですから失敗はしていいのです。なぜ失敗が怖いのでしょうか。それは失敗を責め立てる文化があったからです。失敗を恥だとするカルチャーがあったからです。わたしたちはそういうものを幼いときに植えつけられてきました。失敗すると侮辱されたり、からかわれたりすることによって、失敗を怖れることを学ばされてきたのです。大人になったとき、それはほとんど自動的な習慣としてわたしたちは失敗を恐怖するのです。でもそれは間違いです。失敗しなければ成功しないのです。人間は学習する生き物だからです。失敗そのものは恥ずかしいことでもありませんし、悪いことでもありません。私たちの親や社会が、失敗を咎めだてることによって、失敗を悪いことだという間違った考えを刷り込まれてきたに過ぎません。そしてその刷り込みは「削除」することができるのです、心のなかから。

失敗を学習の機会であるという正しい考え方がしっくりくるまでに心を整えることができるようになったら、(それは思い切りの問題で、そんなにむずかしいことではありません)ぜひこの本を手にとって見てください。そして明日は失敗から学んで、生きている充実感を満喫しようではありませんか。人生は一度きりなのですから、「結局わたしは何にもチャレンジせずに、生きてきた。大きな過誤はなかったけれど、昔が切なくなつかしい」と思って死んでゆくのはあまりにも悲しいではありませんか。「自分はやれることは精いっぱいやってきた、世界ナンバーワンではないけれど、楽しい人生だった」という喜ばしい感情を持って過ぎた日々を懐かしみたいですよね。