そんなの、キレイごとだよ、と言うひともいるけど、私はキレイごとが大切だと思っている。キレイごとだって、通すことができれば、“本当” になるんだ。潔く生きていきたいな。
山田あかね(TVディレクター)/ 「女の武士道」より
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マスコミの世界では掟破りをするひとが多い。発行部数や視聴率のためならなんでもする。そういう場面をいくつも目にしてきた。
かつて、ある女性タレントを取り上げるドキュメンタリー番組を頼まれたことがあった。取材を進めてゆくと、彼女が撮影を許可してくれる部分だけでは、番組になりそうになかった。視聴率を取るには、彼女にとって、撮られたくない部分にまで踏み込む必要があり、彼女を説得するか、さもなければ、無許可で撮影することになるだろうと思った。実際、スタッフの中のひとりは、「黙って撮影すればいいんだよ」と開きなおっていた。
私は考えた末、その仕事を降りた。タレントのプライバシーを暴いてまで番組を作りたくなかったし、取材する相手を裏切るようなマネはしたくなかった。結局、その番組は、他のひとが担当になり放送になった。それはかなり残酷なものだった。彼女が撮られたくないと言っていた自宅がこっそり撮影されていた。彼女がもっとも大切にしていた、今は亡き恋人との想い出もさんざん暴かれていた。視聴率は予想を上回り、担当者は鼻高々だった。でも、私はやらなくてよかったと思った。自分を汚さないですんだと思った。
テレビで長く仕事をしていれば、キレイごとばかりも言ってられない。じゃあ何でもありかと問われるとそれも悲しすぎる。私の場合は、ギリギリ自分に課していることがある。それは、自分がやられたくないことはやらない、というもの。
「撮らないでほしい」と頼んだものをこっそり撮られるのは、絶対いやだ。自分の大切な想い出を勝手に暴露されるのも許せない。自分がいやなことは、他人にもしない。これが取材するときの、私のせめてもの掟である。
なぜ、掟が必要なのかと言えば、自分の弱さを知っているからである。自分なりの掟を作っておかないと、いつの間にか視聴率や話題性のためならなんでもやるひとになってしまう。歯止めがきかなくなってしまう。数字がすべてではないと言っても、結局のところ数字がすべての世界である。しかし、それに乗ってしまうと周りが見えなくなってしまう。自分が大切にしていたもの、本当にやりたいことがわからなくなる。
それでは自分がつまらない。自分がつまらないなら、数字をとってもつまらないのだ。これはなにもテレビ業界に限ったことではないと思う。どんな仕事、どんな人間関係であっても、自分なりの決まりは必要なんじゃないか。自分なりの掟=決まり=仁義を持つこと。偉そうに言えるほど高潔な人生を送っているわけではないが、自分なりの最低限のルールを作り、それを守る努力をすることなくしては、目標を見失ってしまうと思うのだ。
(上掲書より)
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逆に言えば、「自分なりの掟=仁義」を持つというのは、自分なりに追い求める理想像や、目標がはっきりしているということではないでしょうか。自分なりの目標は、自分の実力、自分の力で達成して初めて充実感=達成感を獲得できるものです。「なんでもあり」ならラクに達成できるので、そこには充実感はないでしょう。
自分の目標がはっきり見えていない人、自分なりの「なりたい理想像」を持っていない人が、「なんでもあり」の暴挙に出やすくなるんだと思います。そして「なんでもあり」で即席に「目立つ」ことを求めていけばいくほど、それが自分の進む方向、目標、理想をくもらせてしまう、というスパイラルに自分を巻き込ませてしまうのだと思うのです。即席に華々しい「結果」を残そうとする人には「周りの人々」の気持ちや価値観、ひいては尊厳が見えていないのです。ですから、取材されるひとのプライバシーへの関心など考慮することができず、周りの人を蹂躙することによって、自分に栄誉を集めようと集めるのです。エホバの証人が、いじめられている人や、不遇の人、権力者ににらまれている人をいっしょになってのけ者にするのも、他人への配慮などには思考が及ばないからだと思います。自分が認められることしか見えないのです。こうしてエホバの証人の世界では、他人の基準で「裁かれ」ることが多いため、権威者の寵愛を得ることだけしか見えない人が多いので、人間関係がどろどろするのでしょう。自分の生きる目標や、自分にとって大切なものを自分で探せない人が、エホバの証人のように、自分の人生を他人にコントロールさせてしまうのでしょう。
目先の「勝利、栄光」に目がくらむ人は、エホバの証人のように、または戦前・戦中の国民のように、自分がどう生きていきたいのかが見定めることができないのです。そして、相も変わらず、昨日までと同じ、不満だらけの日常の中に埋没するのでしょう。ですから、「変わりたい」と思うなら、まず、自分には何が向いているのか、自分はほんとうは何をしたいのか、ということを、じっくり内省して見出すことから始めればいいのです。そうすれば、その目標を達成するのに、どういう立ち居振る舞いで行くか、が決まるでしょう。わたしは、それが「道徳」だと思うのです。
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自分に決まりを作ること、そして、それを守ること、守る努力を惜しまないこと。簡単そうでいて、なかなかできることではない。だけど、そうすることがきっとあなたを、目先の結果だけを追求する日常から解放してくれるのです。
ひとは弱いものだから、気を抜くとすぐに、ルール違反であっても、目を閉じてしまいがちです。だけど、「ホントにそれでいいの?」と自分に問いかけ続けようと思う。そんなの、キレイごとだよ、と言うひともいるけど、私はキレイごとが大切だと思っている。キレイごとだって、通すことができれば、“本当” になるんだ。潔く生きていきた
いな。
(上掲書より)
山田あかね(TVディレクター)/ 「女の武士道」より
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マスコミの世界では掟破りをするひとが多い。発行部数や視聴率のためならなんでもする。そういう場面をいくつも目にしてきた。
かつて、ある女性タレントを取り上げるドキュメンタリー番組を頼まれたことがあった。取材を進めてゆくと、彼女が撮影を許可してくれる部分だけでは、番組になりそうになかった。視聴率を取るには、彼女にとって、撮られたくない部分にまで踏み込む必要があり、彼女を説得するか、さもなければ、無許可で撮影することになるだろうと思った。実際、スタッフの中のひとりは、「黙って撮影すればいいんだよ」と開きなおっていた。
私は考えた末、その仕事を降りた。タレントのプライバシーを暴いてまで番組を作りたくなかったし、取材する相手を裏切るようなマネはしたくなかった。結局、その番組は、他のひとが担当になり放送になった。それはかなり残酷なものだった。彼女が撮られたくないと言っていた自宅がこっそり撮影されていた。彼女がもっとも大切にしていた、今は亡き恋人との想い出もさんざん暴かれていた。視聴率は予想を上回り、担当者は鼻高々だった。でも、私はやらなくてよかったと思った。自分を汚さないですんだと思った。
テレビで長く仕事をしていれば、キレイごとばかりも言ってられない。じゃあ何でもありかと問われるとそれも悲しすぎる。私の場合は、ギリギリ自分に課していることがある。それは、自分がやられたくないことはやらない、というもの。
「撮らないでほしい」と頼んだものをこっそり撮られるのは、絶対いやだ。自分の大切な想い出を勝手に暴露されるのも許せない。自分がいやなことは、他人にもしない。これが取材するときの、私のせめてもの掟である。
なぜ、掟が必要なのかと言えば、自分の弱さを知っているからである。自分なりの掟を作っておかないと、いつの間にか視聴率や話題性のためならなんでもやるひとになってしまう。歯止めがきかなくなってしまう。数字がすべてではないと言っても、結局のところ数字がすべての世界である。しかし、それに乗ってしまうと周りが見えなくなってしまう。自分が大切にしていたもの、本当にやりたいことがわからなくなる。
それでは自分がつまらない。自分がつまらないなら、数字をとってもつまらないのだ。これはなにもテレビ業界に限ったことではないと思う。どんな仕事、どんな人間関係であっても、自分なりの決まりは必要なんじゃないか。自分なりの掟=決まり=仁義を持つこと。偉そうに言えるほど高潔な人生を送っているわけではないが、自分なりの最低限のルールを作り、それを守る努力をすることなくしては、目標を見失ってしまうと思うのだ。
(上掲書より)
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逆に言えば、「自分なりの掟=仁義」を持つというのは、自分なりに追い求める理想像や、目標がはっきりしているということではないでしょうか。自分なりの目標は、自分の実力、自分の力で達成して初めて充実感=達成感を獲得できるものです。「なんでもあり」ならラクに達成できるので、そこには充実感はないでしょう。
自分の目標がはっきり見えていない人、自分なりの「なりたい理想像」を持っていない人が、「なんでもあり」の暴挙に出やすくなるんだと思います。そして「なんでもあり」で即席に「目立つ」ことを求めていけばいくほど、それが自分の進む方向、目標、理想をくもらせてしまう、というスパイラルに自分を巻き込ませてしまうのだと思うのです。即席に華々しい「結果」を残そうとする人には「周りの人々」の気持ちや価値観、ひいては尊厳が見えていないのです。ですから、取材されるひとのプライバシーへの関心など考慮することができず、周りの人を蹂躙することによって、自分に栄誉を集めようと集めるのです。エホバの証人が、いじめられている人や、不遇の人、権力者ににらまれている人をいっしょになってのけ者にするのも、他人への配慮などには思考が及ばないからだと思います。自分が認められることしか見えないのです。こうしてエホバの証人の世界では、他人の基準で「裁かれ」ることが多いため、権威者の寵愛を得ることだけしか見えない人が多いので、人間関係がどろどろするのでしょう。自分の生きる目標や、自分にとって大切なものを自分で探せない人が、エホバの証人のように、自分の人生を他人にコントロールさせてしまうのでしょう。
目先の「勝利、栄光」に目がくらむ人は、エホバの証人のように、または戦前・戦中の国民のように、自分がどう生きていきたいのかが見定めることができないのです。そして、相も変わらず、昨日までと同じ、不満だらけの日常の中に埋没するのでしょう。ですから、「変わりたい」と思うなら、まず、自分には何が向いているのか、自分はほんとうは何をしたいのか、ということを、じっくり内省して見出すことから始めればいいのです。そうすれば、その目標を達成するのに、どういう立ち居振る舞いで行くか、が決まるでしょう。わたしは、それが「道徳」だと思うのです。
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自分に決まりを作ること、そして、それを守ること、守る努力を惜しまないこと。簡単そうでいて、なかなかできることではない。だけど、そうすることがきっとあなたを、目先の結果だけを追求する日常から解放してくれるのです。
ひとは弱いものだから、気を抜くとすぐに、ルール違反であっても、目を閉じてしまいがちです。だけど、「ホントにそれでいいの?」と自分に問いかけ続けようと思う。そんなの、キレイごとだよ、と言うひともいるけど、私はキレイごとが大切だと思っている。キレイごとだって、通すことができれば、“本当” になるんだ。潔く生きていきた
いな。
(上掲書より)