Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

仁義を持っているか、という問い

2007年01月26日 | Weblog
そんなの、キレイごとだよ、と言うひともいるけど、私はキレイごとが大切だと思っている。キレイごとだって、通すことができれば、“本当” になるんだ。潔く生きていきたいな。

山田あかね(TVディレクター)/ 「女の武士道」より

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マスコミの世界では掟破りをするひとが多い。発行部数や視聴率のためならなんでもする。そういう場面をいくつも目にしてきた。

かつて、ある女性タレントを取り上げるドキュメンタリー番組を頼まれたことがあった。取材を進めてゆくと、彼女が撮影を許可してくれる部分だけでは、番組になりそうになかった。視聴率を取るには、彼女にとって、撮られたくない部分にまで踏み込む必要があり、彼女を説得するか、さもなければ、無許可で撮影することになるだろうと思った。実際、スタッフの中のひとりは、「黙って撮影すればいいんだよ」と開きなおっていた。

私は考えた末、その仕事を降りた。タレントのプライバシーを暴いてまで番組を作りたくなかったし、取材する相手を裏切るようなマネはしたくなかった。結局、その番組は、他のひとが担当になり放送になった。それはかなり残酷なものだった。彼女が撮られたくないと言っていた自宅がこっそり撮影されていた。彼女がもっとも大切にしていた、今は亡き恋人との想い出もさんざん暴かれていた。視聴率は予想を上回り、担当者は鼻高々だった。でも、私はやらなくてよかったと思った。自分を汚さないですんだと思った。

テレビで長く仕事をしていれば、キレイごとばかりも言ってられない。じゃあ何でもありかと問われるとそれも悲しすぎる。私の場合は、ギリギリ自分に課していることがある。それは、自分がやられたくないことはやらない、というもの。

「撮らないでほしい」と頼んだものをこっそり撮られるのは、絶対いやだ。自分の大切な想い出を勝手に暴露されるのも許せない。自分がいやなことは、他人にもしない。これが取材するときの、私のせめてもの掟である。

なぜ、掟が必要なのかと言えば、自分の弱さを知っているからである。自分なりの掟を作っておかないと、いつの間にか視聴率や話題性のためならなんでもやるひとになってしまう。歯止めがきかなくなってしまう。数字がすべてではないと言っても、結局のところ数字がすべての世界である。しかし、それに乗ってしまうと周りが見えなくなってしまう。自分が大切にしていたもの、本当にやりたいことがわからなくなる。

それでは自分がつまらない。自分がつまらないなら、数字をとってもつまらないのだ。これはなにもテレビ業界に限ったことではないと思う。どんな仕事、どんな人間関係であっても、自分なりの決まりは必要なんじゃないか。自分なりの掟=決まり=仁義を持つこと。偉そうに言えるほど高潔な人生を送っているわけではないが、自分なりの最低限のルールを作り、それを守る努力をすることなくしては、目標を見失ってしまうと思うのだ。


(上掲書より)

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逆に言えば、「自分なりの掟=仁義」を持つというのは、自分なりに追い求める理想像や、目標がはっきりしているということではないでしょうか。自分なりの目標は、自分の実力、自分の力で達成して初めて充実感=達成感を獲得できるものです。「なんでもあり」ならラクに達成できるので、そこには充実感はないでしょう。

自分の目標がはっきり見えていない人、自分なりの「なりたい理想像」を持っていない人が、「なんでもあり」の暴挙に出やすくなるんだと思います。そして「なんでもあり」で即席に「目立つ」ことを求めていけばいくほど、それが自分の進む方向、目標、理想をくもらせてしまう、というスパイラルに自分を巻き込ませてしまうのだと思うのです。即席に華々しい「結果」を残そうとする人には「周りの人々」の気持ちや価値観、ひいては尊厳が見えていないのです。ですから、取材されるひとのプライバシーへの関心など考慮することができず、周りの人を蹂躙することによって、自分に栄誉を集めようと集めるのです。エホバの証人が、いじめられている人や、不遇の人、権力者ににらまれている人をいっしょになってのけ者にするのも、他人への配慮などには思考が及ばないからだと思います。自分が認められることしか見えないのです。こうしてエホバの証人の世界では、他人の基準で「裁かれ」ることが多いため、権威者の寵愛を得ることだけしか見えない人が多いので、人間関係がどろどろするのでしょう。自分の生きる目標や、自分にとって大切なものを自分で探せない人が、エホバの証人のように、自分の人生を他人にコントロールさせてしまうのでしょう。

目先の「勝利、栄光」に目がくらむ人は、エホバの証人のように、または戦前・戦中の国民のように、自分がどう生きていきたいのかが見定めることができないのです。そして、相も変わらず、昨日までと同じ、不満だらけの日常の中に埋没するのでしょう。ですから、「変わりたい」と思うなら、まず、自分には何が向いているのか、自分はほんとうは何をしたいのか、ということを、じっくり内省して見出すことから始めればいいのです。そうすれば、その目標を達成するのに、どういう立ち居振る舞いで行くか、が決まるでしょう。わたしは、それが「道徳」だと思うのです。

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自分に決まりを作ること、そして、それを守ること、守る努力を惜しまないこと。簡単そうでいて、なかなかできることではない。だけど、そうすることがきっとあなたを、目先の結果だけを追求する日常から解放してくれるのです。

ひとは弱いものだから、気を抜くとすぐに、ルール違反であっても、目を閉じてしまいがちです。だけど、「ホントにそれでいいの?」と自分に問いかけ続けようと思う。そんなの、キレイごとだよ、と言うひともいるけど、私はキレイごとが大切だと思っている。キレイごとだって、通すことができれば、“本当” になるんだ。潔く生きていきた
いな。

(上掲書より)


自分のために…!

2007年01月25日 | Weblog
長続きするためには、「これは自分のためにやっている」という気持ちがどこかに必要です。

中谷彰宏(心理学者) / 「3分で『気持ちの整理』ができた」より。

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自分の損得を考えず、人のために何かに打ち込む人は、まじめでいい人が多いのです。こうしたボランティア精神で一生懸命何かをしている姿は美しいものです。

ところが、そういう人が、それをフイッとやめてしまうことがあるのです。自分の思いどおりにいかなかったり、誤解されたり、裏切られたりしたときに、「せっかく自分が美しい気持ちでやっているのに裏切られた。もう人間なんて信じられない」と思ってやめてしまうのです。ボランティア精神でやっていた人が、突然、人間嫌いになるのです。

「人と接するのが好きだから」と言ってサービス業に就いた人にも、突然、人間嫌いになる人がいます。
「私はお客さまに喜んでもらおうと思って、こんなにやっている」
  ↓
「それなのに、お客さまに理不尽なクレームをつけられた」
  ↓
「もう人間なんて信じられない」
…ということになるのです。もともと人間が好きだと思っている人や、人のために何かしようと思っている人ほど、ポキッと折れてしまうのです。

こういう純粋な気持ちを持つのは、間違ったことではありません。でも、こういう気持ちだけで何かをやろうとすると、挫折する危険があるのです。長続きするためには、「これは自分のためにやっている」という気持ちがどこかに必要です。

ボランティアも、自分のためにやるのです。ボランティアをすることで、自分自身がハッピーになると考えるのです。誰かのためにやっていると思うと、一回でも裏切られると挫折しやすいのです。自分のために一生けんめいやっているのであれば、少々裏切られても、「これは自分のためにやっているんだから」とおもって、嫌なことでも受け入れられるのです。

(上掲書より)

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人のために尽くしたい、人の役に立つ人間でありたい、という動機には往々にして、人々から認められたい、人々から称賛されたいという、自分でも気づいていないかもしれない本音があることが多いのです、実際には。人から感謝され、人から認められることで、自分に意義を見出せる、と信じているのでしょう。

でも、自分の意義は、生まれたときから備わっているのです。自分が生きている、それだけで、生んだ親はハッピーだし、何よりも、世界を意識できる自分が、人間として何かを行える機会を得られたのですから、それはすばらしいことです。ですから、人間として「人生」を生きる機会が与えられたのですから、自分は精いっぱい、その機会から満足のゆくまで自分の才能を花咲かせればいいのです。

幼い子どもは、何にでも興味を持ちます。子どもは、そうやっていろんな興味を「遊び」という形でいわば「探索」します。ある日その中から、自分が追求してみたいものを見出すようになります。こんなふうに、自由な風潮で育てられた子どもは幸せです。

ところが現実には、「親の期待」さらには「親の要求」が子どもに、ある時は暗黙のうちに、ある場合は公然と押しつけられるのです。子どもはこうしたいと思うのに、親が不機嫌になったり、怒ったり、ひどい場合は体罰を加えて屈辱を子どもに味わわせたりして、そんな仕打ちを受けないですむ対象を仕方なく選び、行うようになります。ある場合はそれは、有名大学に入るための受験勉強であったり、家業を継ぐための修行であったり、そして親が選んだ宗教の掟に従い、子どももその宗教を選ぶためであったり。これが「コントロール」です。子どもは、生きかたを強制されるのです。キレる子どもに多く共通している点は、親の過干渉だそうです。過干渉とは親の意向、親の好み、親の期待や要求を押しつけることです。親の言われるとおり、「エホバの喜んでもらえるように、開拓奉仕に入り、必要の大きな会衆に出たのに、そこで妬みを買っていじめ抜かれた」となれば、その人は人生に悲観するようになります。

そういう人は、自分が本当に楽しいと思ったことに打ちこんで追求したときに覚える「喜び」というものを経験せずに生きてきたために、何が自分にとって充実したことなのかがわからないのです。さらに、何が自分を充実させるのかもわかりません。幼い頃から、やる「べき」ことを親から押しつけられてきたのであり、自分で見つけ出すことに対して、罰せられたり、言葉の暴力と身体的な暴力で侮辱されたりして、自分の思うとおりに生きると言うことに罪悪感を植えつけられてきました。これが、生きる目的とは造物主に与えられるものだと考える人の心の仕組みです。「神がいないとしたら、人生には目的がないことになる」と考えるのです。

ところが、「神に与えられた使命」を「自己犠牲的に」行う人たちは多く挫折します。思うとおりにいかないし、協会から教えられたのとは違う状況に直面するからです。しょせん、他人から押しつけられた「人生の目的」とは、そんな事情でその人を挫折させるのです。

中谷さんのおっしゃるところは、自分のために、自分がしあわせになるために、一生けんめいになるように、ということです。そのためには、自分が一生けんめいになれるものを、自分で探さなくてはなりません。そのまえに、親や宗教から教え込まれた「枠型」つまり、偏った道徳観やイデオロギーを「脱ぎ捨て」る必要があるでしょう。「道徳」というものはなんでも立派なものではないのです。「道徳」は人間にはめられる行動のタガであり、人間を他の人間がコントロールするための「糸」なのです。

哺乳類が生まれてきたら、何を始めるかといえば、親から自立することを始めます。わたしたちは親から自立するのが当然なのです。ところが、親への義理をいつまでも抱き続けるひとがいます。親から十分な承認あるいは肯定を受けなかったため、親から自立できないのでしょう。子どもは十分甘えつくすことで、自分に自信を持つようになって、自立するようになるのだそうです。エホバの証人は、集会で静かにしているよう、いたずらをしないよう、厳しく育てられ、体罰によって行動を規制されます。肯定よりも、「自分であること」の否定が「しつけ」として行われています。自然に持つ感情は、受け継いだ「罪」の影響を受けているので、ものみの塔協会のガイドラインに沿ったパターンにはまらなければならないという、それはいわば脅迫であり、調教なのです。十分に甘えることができなかったために、親への執着心が、親のためにとか、親がかわいそうという感情にすりかわって残るのだそうです。(加藤諦三さんの諸著書を参考)

わたしたちは自分のために生きるのです。自分が成人すれば、心の健康な親は、新たに自分の目標を自分で見出すようになるでしょう。心の未成熟な親が、子どもにかまい、子どもに助言したり、叱ったりすることで、生きる意義を見出そうとするのです。自分で生きてゆくことのできない弱さを慰撫するために、子どもを利用するのです。それは決して「愛」ではありません。それは「不安」です。子どもという生き甲斐を失うことへの不安なのです。それは自分への愛であり、子どもへの愛では決してありません。親の子どもへの最大の愛は、子どもが自分で人生を営んで行けるよう、自信を与えることなのです。それは、自分から自立させると言うことです。

「親分-子分」なんてもう捨てちゃおう!

2007年01月18日 | Weblog
目標として誰かを置くことはかまわない。

または、自分の理想像として、
 「あの人のようになりたい」と思うこともかまわない。

でも、所詮自分はその人ではないということは、決して忘れてはならない。



渡辺和子/ 「人間としてどう生きるか」より

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自分に自信が持てないとき、傷ついて失意のとき、わたしたちはともすれば、誰かの威光を借りて、その人に特別に寵愛してもらおうと心を砕くようになるかもしれません。

あるいは、誰かを援助したり、アドバイスしたりして、他の人々から自分への感謝と称賛を求めるかもしれません。

でも、どちらも多くの場合、自分の期待は裏切られるでしょう。人は自信を失うと、自信に満ちた人のところへは行かず、同じように、自己評価が低い人のところに行こうとするからです。そうすれば劣等感から逃げることができるからです。

自分に自信を失っている人は、他の人を思うままに従わせたり、操ったり、振り回したり、他人を自分より低めることで自分を高めようとするからです。そのような人は、自分のところに「認めてもらうこと」を求めて来る人を利用するのです。エホバの証人のような宗教に必死になって従う人にも、このような傾向がある場合が多いのでしょう。

自分に自信を失っている人に必要なのは、しかし実際には、「認めてもらうこと」、「承認」」されること、です。でもそれはうわべだけのお世辞ではなく、人の長所を見抜き、それを惜しみなく賛辞するものでなければなりません。そうでないと、心からのうれしさというものを、人に与えられないからです。

人に惜しみなく、真実の賛辞を贈れる人、それは傷ついたり、失意に打ちのめされていたり、劣等感に苛まれていたりする人ではなく、自分の価値を正直に、しかもありのままに知っている人です。つまり高い自己評価を持ち、誰かからお追従を言ってもらわなくても、堂々と自分の胸を張れる人、自分にはかけがえのない価値があると認めている人です。つまりは自信に満ちている人、生きる目標を自分で定められる人です。

人まねをしていても、こうはなれません。最初のうちは、誰かの真似でいわば「助走」をつけるのはいいアイディアでしょうけれども、最終的には自分が持っている真の才能を見つけだして、自分をいちばん活かせる舞台を選んで生きて行くのが人生の「充実」、または「成功」だとわたしは思うのです。

「威」は虎にだけあるものではありません。自分に賦与されている才能の芽それ自体が「威光」なのです。重要なのはそれを見出し、それを伸ばし、それを生かすことではないでしょうか。人が生きる意味、というのは自分を精いっぱい、フルに表現することだと、わたしはそう確信しています。

悔いのないよう生きること、それがまっとうな生きかたです 

2007年01月07日 | Weblog
For all sad words of tongue or pen,
The saddest are these : “It might have been!”

“Maud Muller”/ J.G. Whittier

(訳)口上にしろ、書きものにしろ、
  悲しい言葉のうちでいちばん悲しいのは、
  「…だったかもしれないのに!」という言葉だ。

「モード・マラー」/ J.G.ホイッティアー

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この言葉は、アメリカ19世紀の詩人ホイッティアーの物語詩(Ballad :バラッド、バラードともいう)、「モード・マラー」(1856)にあるものだ。

ヒロインは貧しい農家の娘だが、健康な美しさに満ちていた。ある夏の日、町の金持ちの息子が馬で通りかかり、井戸端にいる娘から一杯の水をもらう。彼は娘の健康的な美しさに深く心を惹かれ、娘は、町の洗練された青年の姿にうっとりする。しかしふたりはそのまま別れる。

幾年も過ぎて、青年は同じ階層の青ざめた弱々しい妻を迎え、娘は荒々しくてがさつな農夫を夫にする。そして互いに、ふと思い出すことがある。

-もし、あのとき、ぼくがあの農家の娘にプロポーズしていたら、こんな不健康な町暮らしとは、ずいぶん違った生活になったかもしれない…。

娘もまた、
-もし、あのとき、あの青年がわたしを迎えてくれていたら、わたしは今みたいな惨めな暮らしではなくて、町で(人間らしく扱われることで)しあわせに過ごしていたかもしれないのに…。



わたしは(著者は)「後悔のくりごと」を、この世のもっとも悲しい言葉として自戒する姿勢が好きだ。



(「英語名言集」/ 加島祥造・著)

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わたしはエホバの証人時代に、好きになった人がいました。でもその人は、わたしが組織からにらまれ、村八分扱いされるようになると、組織側について去ってゆきました。長老の弟と同じ会衆にいた兄弟だったのですが、弟が、「姉は要注意人物だ」みたいな進言をしたらしいのです。だからわたしは今でも弟を憎んでいます。

上記引用文の中に、「同じ階層の青ざめた弱々しい妻」とありますが、「弱々しさ」「青ざめた」様子というのは、自分の感情、自分の考えをい持たずに、しきたりや格式、掟に盲従する姿勢を言うのではないでしょうか。レールの上を決められたとおりに進んでゆく、自発性のない生きかたが保障するものはただひとつ、「安全」だけです。しかし、その「安全」はある人々にとっては、人間性というものを捨て去ってでも得なければならないもののようです。

傷つくことが怖いのか、世間の評判を怖れるのか。そこにあるのは、他人に評価されることで自分に価値が生まれる、という考え方であるのはまちがいありません。また、他人の評価を怖れるのは、ある集団の結束からはじき出されることを怖れなければならない社会の構造があるのでしょう。ほんのちょっと見方を変えれば、そんなものは怖くともなんともないし、傷つくことや失敗することには、人間を賢くし、人格を向上させる貴重な機会であるのに。

わたしは、女性にアタックできない男性が恨めしいです。その男性はそうやって自分を傷つくことから守っているんでしょうけれども、でも自分がアタックしなかった女性を傷つけていることには気づきません。ひょっとしたらその男性が、その女性を幸せにできる唯一の男性であるかもしれないのに。女性にアタックできないのは弱さではなく、卑怯さであり、自己中心主義だとわたしは思うのです…。