Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

善良である、ということ

2010年01月17日 | Weblog




「人間の掟に気がつかないほど神の法に専心するのはひとつの誤りだ」。



(「レ・ミゼラブル」/ ビクトール・ユゴー・作)


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離脱した信者たち、ネットで悩みをつづる離脱できない信者たち、これらのひとたちはエホバの証人という社会のなかで、結局どんなことに不満や怒りを言い表すのでしょうか。

ひとえにそれは、官僚主義に見いだされるような、組織の体制維持と組織の規律を人間の自然な感情や情愛よりも優先させられることでしょう。

極端な例を挙げると、女の子がレイプされた、組織の規律によれば結婚関係外のセックスは厳罰の対象であるから、被害者の女の子はまるで刑事裁判のような取調べにさらされた挙句、信者のあいだでの人間関係から徹底的な疎外という処罰を加えられる。

レイプされた女の子にいちばん必要なのは、「あなたは悪くない」、「あなた自身は何も非難される必要がないし、あなたの尊厳はまったく傷ついていないのだ」というメッセージを与えてあげること、とにかく心の大きな傷をいたわり、慰めを与えてあげることなのに。それをするのが宗教ではないのだろうか。傷ついたひとをいやすことによって、宗教はその価値を発揮するのではないだろうか。

しかもレイプされるということは被害なのだ。加害ではない。なぜ被害者がとがめられ、加害者が宗教組織の地位の高い人物の家族であったとき、彼の加害のほうが隠匿されたりするのか。

輸血して命が助かることを喜ぶのではなく、命が助かることに恐怖するよう教育する宗教は、何を守ろうとするのだろうか。それは聖書の数行の文章を取り出して、輸血してはいけないのだという解釈を公表した指導部の人びとのメンツではないのか。

レイプされた女の子をさらに打ちのめす処罰を加えてまで何を守ろうとするのか。それはセックスに対する過剰な関心を否定するためではないのか。人格者は性的な人間であってはならないという、錯誤した人間観に取りつかれているからではないのか。




「愛」ということばで語られることが多いために、キリスト教には美しいイメージが抱かれやすい。が、キリスト教は「原罪」という教理をも持つために、人間という存在が基本的に「悪」であるという思い込みに走りやすいものであることにも、注意が向けられなければならないと思う。

人間の欲望が人間を害するのではない。人間の偏見と不寛容と、その底に流れている頑迷な利己主義が人間を害するのだ。その頑迷な利己主義は、まずまちがいなく、人間に自然に備わった自己保存の欲求に起因するものだろう。だが、自分を守ろうとするなら、むしろ寛容さを発揮し、偏見を棄却し、理解できないもの=他者の気持ちや考えに心を開いてゆかなければならない、これが人類が血まみれの歴史から学んできたことなのだ。



「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(日本国憲法第97条)。

こうして、ついに日本においても保障されるに至った信教の自由に基づく宗教結社が、再び人間を狭量な宗教教理によって抑圧するというこのあまりにも無残な皮肉にたいしては、わたしたちは決して容認してはならないのだと、わたしは確信する。宗教教理だけではなく、エホバの証人から抜け出たあと国粋主義に走る精神態度も同じだ。

キリスト教という「美しいイメージ」の宗教に信心するのは、それ自体はいいひとだ、という、いまだにエホバの証人を信心する親友へのひいき目のために、批判の手を緩めてはならないし、うやむやにしてもならないのだ。わたしは、たとえ人柄は善良な、親や子ども、友人であっても、彼らが狭量な思念にしがみつくのであれば、容赦なく一線を画する。だまれていたいという欲求は、ある場合には単に愚かであるのにすぎず、そのおろかさは利己主義によって支えられているのであり、善良さに見えてもそれは仮面でしかないのだ。その裏にあるのは、自分の弱さから頑として逃避しようとする卑劣さなのだ。

真の善良さは、人間をまず尊重しようとする態度で見分けられるのであり、人間を抑圧する教条に巻かれてしまったりする態度では決してない。真に善良であるならば、人間性への蹂躙に対しては、きっぱり決別するはずだと、わたしは思う。たとえ決別したあとに、険しい困難が予想されたとしても…。