Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

意志の勝利

2007年11月25日 | Weblog
悲観主義は厳密に言えば、
 「現在は不幸な状況にいないにもかかわらず、不幸が起こるかのように予見している人間の『判断』」…である。

悲観主義は自然と体系のかたちで表現されて、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、あらゆる感情の「悪い結末」を予言する。

悲観主義の本質は意志を信じないことである。楽観主義はまったく意志的である。




(「定義集」/ アラン 《 エミール・シャルティエ 》 ・著)

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悲観主義の人がいると、何か新しい予定を立てようとしてもまとまりません。悲観主義の人は現状を維持することに一生けんめいになります。たとえその「現状」に不満がいっぱいあっても。

「だから言わないことじゃない」といって非難するのがこのタイプ。失敗することや、なかなか思うとおりに事態が拓けないと、とてつもなく大きな過ちを犯しているかのように反応します。

自分の人生をどのように生きるかとか、どんな仕事をしようかとか、何かに興味を持って、それにチャレンジしようかとかいうことを一切しないで、行動や仕事や考えることを他人任せにしてきた人はおおむねこのような考え方になりがちです。

こういう人が子どもを持つと、子どもが何かそそうをしたり、失敗をしたりすると、厳しく叱ります。厳しく、というのは恐怖を与えるような仕方で、ということです。言葉による痛烈な侮辱、身体的な殴打、あるいは突き放すような言動をとる、など。

こうしてその子どもは、自発的に何かを為そうという意気を持たないようになります。失敗を怖れるのです。失敗を恐怖する人は他人が引いたレールを走ることに安心感を得ます。こういうのもカルトにはまりやすい人格なんでしょうね。

自分がそういうタイプだなあと思ったら、失敗や挫折や思い通りに行かないこと、と言った事態に対する解釈を変更することから始めるのがいいのかもしれませんね、アランの定義によると。

ものごとが思うとおりに運ばないのは神に叱責されているのではなく、もっと多くの智恵や創意工夫が必要であること、見落としている問題点があることをサインしている、と解釈すればいいんです。事実、その通りなんですから。

過去に親や会衆の人たちや学校のクラスメートは嘲笑したり、叱り飛ばしたり、侮辱したりしたかもしれませんが、大人の世の中に出てくると、中には一緒に対処しようとしてくれる人がいることに気づきます。というか、そういう人と出会えたらすごくラッキーですよね。そういうのが「友情による支え」というものですから。

なんとかかんとかエホバの証人の思考コントロールを抜け出せた人たちは、こういう「支え」になれるような人間になりたいですよね、実生活でも、インターネットの中でも。何かをしようという意志を持ったら、失敗を研究して、かならず所期の目的を自分にもたらす、という経験をしたんですから。つまりエホバの証人としての長い人生にピリオドを打ち、おそまきながら人生の再出発をそこそこ果たせたんですから。

世界を知り、人を知り、ものごとを知る。そうしているうちに、やりたいことが見えてくる。それに納得のゆくまで取り組む。人間の生きる意味っていうのはこういうことだから。人生の目的は自分で決めるものであって、神に決めてもらうものじゃない。これこそ「真理」だと確信しているのは、きっと私だけではないと思います。





悲観は気分、楽観は意志。
 これ、エホバの証人に決別する勇気を培うキーワードです(^▽^)