Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

人間ひとりひとりの財産

2007年06月16日 | Weblog
「パーフェクトワールド」というブログで、「毒になる親/スーザン・フォワード・著」の話が書かれていました。今回は「パーフェクトワールド」を読んで、瞬間にインスパイアされた感覚をざっと書き出しました。

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たとえ君が3千年生きるとしても、いや3万年生きるとしても、記憶すべきは “なんぴとも、現在生きている生涯以外の何ものをも失うことはない” ということ、また “なんぴとも今失おうとしている生涯以外の何ものをも生きることはない” ということである。

したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら「現在」は万人にとって同じものであり、したがってわれわれの失うものも同じである。ゆえに失われる時は瞬時にすぎないように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。(そこでこういうことが言える。)自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。

であるから次の二つのことを覚えていなくてはいけない。

第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。したがってこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、なんの違いもないということ。

第二に、もっとも長命の者も、もっとも早死にする者も、失うものは同じであるということ。

なぜならば人が失いうるものは「現在」だけなのである。というのは、彼が持っているのはこれ(=「現在」)のみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。


(「自省録」/ マルクス・アウレリウス・作)

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かつてあたしはいつも振り返っていた。
振り返った彼方にあるものが、とてもなつかしく、とてもいとおしく感ぜられたから。

そしてそれらの映像をあたしは、抜けるように青く、
しかしどんなに高い山の頂上に登ってもとどかないくらい遠い空になぞらえていた。

決してとどかないもの、どんなに努力しても決して手にすることができないもの、
それは海より大きな空、秋の空のように遥かな感じのもの、
それがあたしのほんとうに得たいものの印象だった。

でもそれが具体的になんなのか、それはわからなかった。
自分の望むものを目の前にしたとき、
いつも不思議にそれが遠い空の「遥かさ」のような印象を湛えて見えるのだった。

今はその正体がわかる。
それは過去への執着の一種であり、
子ども時代に与えられなかった、親からの愛情表現だった。
そう、親から認められることだった。
それは、あたしにとっては、
どれほど望んでも、切望しても、いえ、渇望しても、
決して入手できないものだったのです。
あたしにとって、親からほめられたり認められたり評価されたりすることは、
大空の青い深みのように、遠く遥かなものだった…。

そう、あたしはそれを決して得られなかったのだ。
むしろあたしはいつも、親を承認してあげなくてはならなかった。
親の信仰とその行動を褒めてあげなくてはならなかった。

あたしが学校の先生のお話に感動して、感想と意見を言うと、
親は鼻先であしらい、あたしの独自の考えも希望も鼻先であしらうのだった。
親は、自分の言うこと、自分の考え、自分の性格だけが高邁なのだといわんばかりだった。

あたしは何ひとつ認めてもらえなかったのだ。あたしを生んだ親なのに。
子ども時代の、親とのこういうかかわりが、その人の、のちの人生観を形成する決定的な事情なのだという、精神分析や交流分析によると。

だとすれば、「自分の望むものを目前にしたとき、いつもそれが不思議に『遠く遥かなもの』のように思える」というかつてのあたしの人生観は、実はどんなに自分を向上させようとしても、いえ、向上させようとすればするほど、成長させようとすればするほど、親はあたしを非難した子ども時代の経験に根ざしていたのだ。

親は、親がいないとあたしはしくじるようであってほしかったのだ。そうすれば親は、自分にはこの子の面倒をみる責任があり、この子には自分が必要なのだと思うことができる。この手の親は、このようにしてでしか自分に価値を見いだすことはできない。そしてこういうふうに子どもにかかわるのは、実は子どもの自立心や社会で人間関係を自力で営んでゆく自信が育つのを妨げる。これは精神的には子どもの殺人なのだ。「魂の殺人」と表現した医者もいる。そして「魂の殺人」を行う親は「毒になる親」と呼ばれている。




見て、わたしを。神よ、お前も見るがいい。わたしはいま、こうして生きている。世の中で自活して生きている。多くの幸運にめぐり合えたことも大きいけれど、でもわたしは目の前の機会に手を伸ばした。自信はなかったけれど、他の人と張り合うことが怖かったけれど、わたしは手を伸ばした。

過去はおとなになったわたしを、縛り続けることはできない、そう言ったカウンセラーの言葉をわたしは信じたからだ。過去があるから今の自分がある、それは正確じゃない。過去の知識や経験の知恵は、あくまで参考例であって、人間が遭遇する出来事、現象はいつも新しい。過去に使えた知恵というカギは未来に起こる出来事という錠をも開けることができるとは限らないのだ。

過去から得られるものとは、行動する自信だ。過去がかつて現在であったとき、決断し行動したから、そこで自分に自信を得たのだ。恐怖を乗り越えて自分で考え、決断し、行動する勇気は、その自信が生み出すものだ。自分で決定し、自分で行動したことであるなら、しくじってもふさぎ込むことはない。なぜならそこから学ぶことができるし、それは将来のより精緻な行動の礎になるからだ。

過去を懐かしむのは、そのときに行動しておけばよかったのに、という後悔の気持ちがその正体だった。ならば、もう同じ轍は踏むまい。マルクス・アウレリウスが言ったように、人間が生きているのは「今現在」という時間だけであり、過去の状況はもう過ぎ去ってどこにも存在しない。しかし世界は周期的に繰り返しており、生きてさえいれば、次のステージがめぐってくる。そしてめぐってきた「現在」というステージをどうするかは、まったく自分で決めることなのだ。それは自分のコントロールできる状態にある。

失敗することを怖れるよりは、「今そのとき」という機会を逸することのほうを怖れよう。ただ見逃すのであれば、また明日「遠く遥かな思いで」今日を振り返ることになる。逃避することによって失うものは「現在」という時間であり、立ち向かうことによって得られるものは「現在」という時間ではない、「現在」という時間に働きかけ、なにがしかの結果を得たという充足感だ。そしてその充足感がもし、他の人と分かち合えるようなものであれば、それが人間の幸せだと、わたしは確信をもって、大胆にもこれが結論だという確信をもってここに書き記すのです。