Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

地に足がついていない人々について

2008年01月24日 | Weblog


兵士♯1 
 なんという騒ぎだ!
 何者だ、あの吠えたてる獣どもは?

兵士♯2
 ユダヤ人さ。
 いつもああだ。
 宗教のことよ、奴らの争いの種は。

兵士♯1
 どうしてまた宗教のことなどが争いの種になるのだ?

兵士♯2
 おれには解からぬ。いつものことよ。
 つまり、パリサイどもが天使は存在するという。
 すると、サドカイのほうでは、天使などいるものか、とくる。

兵士♯1
 どうも馬鹿らしい、そんなことに目くじらたてるなどと。 



 「サロメ」/ オスカー・ワイルド・作
 

世の光

2008年01月19日 | Weblog
暗闇を呪うよりも、ロウソクに火を灯すがよい。


カール・セーガン 「人はなぜエセ科学に騙されるのか」より

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暴露することには価値がある。人々に危険を報せ、受けなくてもよい危難を受けないように、警告するのは立派な行為だと思います。

傷ついた気持ちを打ち明けあうことにも、価値がある、絶対に。ひとりじゃないことを知るのは大きな慰めだから。悔しい気持ちや、自分の惨めな感情に共感してくれる人がいるのは、ほんとうに「砂漠の中の水」のように感じる。これは傷をいやすためには必要で有用な過程です。

でも。

自分が幸せになるには、自分で動いて、自分の手でつかまなければならない。自分の幸せは他人に頼ることはできない。自分から動かないと、そこへはいけない。

ただ、幸せになれないのは、全部が全部、自分のせいじゃないこともある。

男と女の場合。女だけが一生懸命になっても、男のほうで女まかせにしていたり、女のパートナーを母親のように考えて、自分の世話をさせるような人なら、幸せにはなれない。

カルト宗教に捕まえられた場合。カルトを離れることは道徳的に悪だとか、カルトを離れると悪いことが起こるとか信じ込まされて、手も足も出ない。手も足も動かさないから、いえ、それ以前に、頭を働かせないから、精神的な「火の責め苦」に苛まれつづける。

相手への不満を愚痴るのはいいことだ。その関係に留まるしかないという、間違った思いこみに気づくならば。でも不満を愚痴ることが目的になってしまうと、人は不満な関係に順応してしまう。

流れない水がよどむように、解決を志向しない評論は、仲間への陰口へ、ついで子どもへのイジワルへというふうに、腐ってゆく。人前では「いい人」になっているけれど、ほんとうの気持ちは、他人の不幸を喜ぶほどまでに心が堕落してゆく。



自分を顧みて、人の不幸を期待してしまっていたり、子どもがうれしそうにすることに苛立ちを感じたりしているようなら、あきらかに自分は人間として堕落している、と断定していい。このような自分は、ただ単に不幸なだけでなく、不幸を愛し、楽しんでさえいるのです。



イエスは言いました、光を愛しているなら、光の下に自分をさらしなさい。そして自分の光によって世を照らしなさい、と。

暗闇で、解決の行動を志向しない評論にふけって意趣返しをするよりも、評論することによって自分が「暗闇」に慣れてしまったことに気づこう。「暗闇」にいることに安心してしまっていることに気づこう。「暗闇」の悪口を言うことを、生活の最大の楽しみになってしまっていることに気づこう。

そして、勇気を出して明かりを灯そう。たとえそれによって自分の貧弱な姿を目の当たりにすることになっても。太陽の下で活動するようになれば、やがてまもなく、「健康」を取り戻せるのだから。

「欠点のないひと」にはウソがある

2008年01月17日 | Weblog

 私の経験によれば、欠点のない者は、取柄もないものだ。


 エイブラハム・リンカーン

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実をいえば、「欠点」と「長所」とは一枚のコインの表裏の間柄です。

傷つきやすい人は、でも気持ちが繊細です。
八方美人のひとは、でも周囲の人に気を配るひとです。

傲慢なひとは、でも大胆不敵です。
尊大なひとは、でも自信家です。

移り気なひとは、でも進取の気性に富んでいます。
臆病なひとは、でも堅実です。

欠点といわれているものは、たいてい望ましい性質をも表すものです。
だから、欠点がないひとというのは、何も取柄がないのです。

逆に、欠点のない人がいるなら、
 そのひとは、自分を慎重に隠している。
 ひょっとすると、詐欺師のように、何か悪意を持っているのかもしれないし、
 単に、自分自身に自信がないだけなのかもしれないし。
 どっちにしろ、そんなひとにはウソがある。



そうではあっても、
 他のひとを尊重できないのは、人生をさびしく、貧しくします。

他のひとを尊重しないと、友人ができないからです。
 だからわたしたちは、内省することが大切です。
 他者の目で、自分を眺めてみて、
 やっぱり変えたほうがいいと感じる性質なら、変えるべきでしょう。
 性格は変えることができるからです。

 でも、観察しぬいた末、
 変わらなきゃいけないのは、あっちのほうだ、と思ったら、
 自分を信じてあげようよ、ね。

そして
 「あっちのほう」に変わろうとする意図が見えないなら、
 その関係とは縁を切ったほうがいいのです。
 たとえ幼なじみであれ、親子であれ、夫婦であれ。
 まして、「神の代理者」を自称する「宗教屋」ならなおのこと!

 これは、とくに「エホバの証人」だけに限らなくて。

もう後ろは振り返らない

2008年01月14日 | Weblog

 うしろを見ないで、つねに前方を見なさい。
  最後には、この世の命をこえて、かなたを見なさい。
  あとを振りかえるのは何の益にもならない。

 ただし、まだ改めうることを改めるためや、
  過去の失敗を今後用心するためや、
  または、ひとから受けた恩義に感謝をもって報いるために、
  そうする場合はまた別である。


 カール・ヒルティ/ 「眠られぬ夜のために・第1集」より


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未来は、自分の想像力と力量しだいで、どのようにも選択し、創りあげていける。

だが、過去に関する選択肢は限られている。過去を変えることは不可能だから、過去に関する唯一の選択肢は、起こったことに対する現在の見方を変えることだけだ。

もしも過去に腹を立て、悔やみ、くよくよ考えているのなら、それはやめた方がいい。当時はそれなりに考えて、その当時としての最善の選択を行ったのだから。それはそれでよしとして、今は関心を現在に向け、視点を変えてはどうだろう。

後から考えて、「しまった、もっと良い選択ができたはずだ」と言うのは禁物だ。意識していようといまいと、自分で選択したのだ。その時には、それがいちばん良いと思ったのだ。その時にはそれが自分にできるベストだったのだ。



リチャード・ブロディ/ 「夢をかなえるいちばんよい方法」

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むかしのことで今の自分を責めても、何も得るところはありません。そういうことはただただ、自己嫌悪を膨張させるだけです。

自己嫌悪は他人に接するときにもとげとげしい態度を取らせたり、相手の言うことすることを否定的に受け取って、否定的に評価したりさせます。そうすると周囲から、「イヤな人」「一緒にいたくないひと」というふうに見られてしまいます。自分を孤立させるだけです。

当時の自分にできることは、当時自分がとった選択、自分が行った行動だったのです。たとえ頭の中ではもっとよい行動のしかた、選択のしかたがあったとしても、それはまだ当時、自分の身についていなかったのです。

だから、当時は当時で、自分としても精いっぱいだった、だからそれはそれでOKとしよう。今はまだ自分は生きている。今生きているということは、今また選択し、行動する機会に直面しているということです。今はむかしと違い、もっとよい選択のしかた、行動のしかたをとることができるのです。

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何か新しいことを学ばない限り、似たような状況が起これば、再び同じ選択を行うだろう。だから自分を成長させ、目覚めさせて、自分自身に対する理解を深めていくことが大切なのだ。

目隠しをして、底抜けの楽天家になり、現実を無視しろと言っているのではない。わたしはただ、可能性に喜びを感じて欲しいだけだ。自分の「信条」がどれだけ自分の人生に影響を与えるかを理解することで、それを自分に有利に作用させることができるのだから!

(同上)

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同じ轍を踏まないためにも、新しい知識を得よう。教室に迷い込んできたすずめのように、同じ場所でバタバタとやみくもに動いていても現状打破はできないのです。

逆に、「前向き思考」というフレーズだけ言って、何度同じ転び方をしても「楽天」を決め込むのは、実はヒステリーであって、現実から逃避しているのです。自分は無能だという事実から目をそらせているのです。

「無能」というのは素質がそうだと言っているのではありません。無能に生まれてくる人間など一人もいません。ただ、人間は無能に作り変えられることはあります。たとえばカルト宗教の教育などです。

エホバの証人のようなカルトは、その教えの内容は結局、「各人は罪人であり、罪を克服するにはあまりに無能なので、組織の助けが必要だし、組織の操り人形でなければならない」、ということなのです。

いいえ、ちがいます。わたしたちは新しいことを学ぶことによって、有能に変わることができるのです。そのためにのみ、過去の経験を振りかえることは有意義になるのです。また、過去に受けた恩義はずっと覚えていることによって、わたしたちは友情を勝ち得ることもできます。友人は人生にとってかけがえのない宝です。

さあ、今年、わたしたちは何をしますか。「いいことがあるように」と願うだけですか?

いいえ、今年はいい年にしようと決断し、そのために学び続けたいですね。エホバの証人というカルトで受けた傷は、きっと聖書以上に、自分の足元と未来を照らす明るい明るい「ともし火」となるでしょう。偉大な反面教師でした、エホバの証人という宗教団体は!