Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「人生を変える」とは「自分が変わる」ということ 補筆版

2009年12月19日 | Weblog

 

自分が考えたとおりに生きてください。

さもなければ、

自分が生きてきたとおりに考えてしまうから。

 

 

(「幸せを呼び込むメッセージ」/ 植西聰・著)


-------------------------------------

 

エホバの証人のように上意下達のキツイ社会で「生きづらい」という場合、自分のプライベートなことまで、他人から干渉される、自分の判断・決定が「世間」がなんとなく決めてきた「標準」に適合しない場合、ムラハチなどの陰湿な制裁を受ける、そういうのが怖くて好きなようにできない、そういう状態を指します。親子関係では「過干渉」に近いような環境です。

そういう状態に適応してしまうと、自分を抑制するのが大人であること、などの道徳的な理屈を立てて自分と自分の周囲の人間にも、自分を過剰に抑制する生きかたを言い聞かせ、暗に強制する雰囲気ができあがります。これがエホバの証人社会の閉塞感のひとつの要因となっています。

こういうのって、他人に押しつけあうことがなければ、個人的な感じ方ということで特に問題はないのですが、そういう社会ではかならず、それが「神のご意志」、「人間としての円熟成」であると定義され、従わなければならない因習となってしまうから「生きづらく」なるのです。

有名な例を挙げると、大学へ行くか行かないか、いつ結婚するか、恋愛をもっとおおらかに楽しみたい、というようなことは、徹底して個人的な問題、おもいっきりプライベートな問題で、他人から指図されてはならないことなのです。

もうひとつ例を挙げると、暴力への暗黙の信仰です。(心理的なものも含めて広義の意味での)暴力で子どもを「しつけ」ようとするのも、自分がそのように育てられると、体罰は必要で愛の表明の一種であると信じ込んで生きるようになります。でも暴力で人を動かすことを教えるというのは結局は暴力を容認すること、あるいは賞賛さえすることと同じなのです。

体罰に従わされてきた人は、他人との交渉の最終決着をつけるために、やはり最終的に暴力を使用するでしょう。暴力は相手の人格、自尊心、尊厳を強制的に破壊することで従わせる方法です。そういうのっていうのは、もう対等の人間関係ではありません。ですから体罰容認論者たちのほとんどは、縦の絶対的な関係を大切にします。暴力に正当性を与えるには縦の関係における優位の立場により大きな権力を与えなければならないからです。国家というものが、懲罰のため、暴力を行使することに正当性を賦与されている点に特徴があるように、体罰を加えるにも人間と人間の間に権力の差を立てて、暴力を振るうことについて正当性を与えるのです。これも閉塞感を生み出します。

閉塞感を生み出す要素のそれぞれを見分けるのはそんなにむずかしくありません。人間としての当たり前の感覚に照らし合わせてみて、非常に不快に感じること、屈辱に思わされることなどはまず間違いなくプライバシーや個人の尊厳への蹂躙です。言葉じりをとらえられないためにあらかじめ言っておくと、「人間としての当たり前の感覚」にはジコチューや思いやりの欠如、などの要素は入っていません。おおむね人間として誰でも同じように感じる自然な感覚です。

そういう因習的な生きかたから離れ、人間ならおおむね誰でも感じるような感覚に照らし合わせてみて、快いこと、さわやかなこと、意欲が湧くこと、そういったことを感じ、追い求め、考え、そして実行に移してみてください、というのが上記引用文の筆者のアドバイスです。自分が教えられたとおりに考えるのではなく、まずそれを批判してみて、おおむね人間なら誰でも感じるような感覚に素直に聞いてみて、それに合っていることを考え、追い求めるようにするなら、生きづらさから解放されるでしょう、と植西さんはおっしゃっているのです。

人間はみなどこかしら欠点があります。しかしカルト宗教にハマるような親は、欠点があるのではなく、人間として重大なほどに未熟なのです。まだ親が務まるような状態じゃないのに親になってしまった人たちなのです。彼らにはまだ親が必要だったのです。子どもを愛せる状態まで成長していなかったのです。彼らにはまだまだ彼らが甘える親が必要だったのです。

ですから彼らが実は、子どもである自分を愛しているのではなかった、ということがわかったからといってショックを受ける必要はありません。人間として自分の親より成熟した人ならほかに大勢いるのです。そういう人たちと親しい関係を作れるよう、スキルアップを図ればいいのです。子どもだった時分にはそれは困難だったことでしょう。子どもはみな親の愛を信じたいものです。でも大人となった今、わたしたちは愛を分かち合う関係を創造することができるのです。

では愛ある人間関係とは何か、それは間違いなく、尊重しあえる関係です。プライバシーに踏み込みすぎることなく(プライバシーに踏み込みすぎる関係は、支配関係のことです)、でも相手の喜ぶ程度には積極的にかかわってゆく、そういうつみ重ねのうちに醸成されるのが「信頼」です。エホバの証人時代に、親や会衆の人たちとの関係に欠如していたもの、それは親しさに立脚した信頼でした。

人間は裸で生まれてきてそれこそ骨まで裸で死んでゆく。人間は基本的にはひとりなのです。だからこそわたしたちは他者と人間関係を持とうとします。しかし、愛ある人間関係を構築するには、ル-ルがあります。愛を表現するにもルールがあるのです。ルールが守られなければたとえ血のつながった親子であっても、親しい関係は築かれません。子は親を敬うべしという道徳を押しつけるだけでは温かい家庭は築けないのです。道徳で家族をまとめようとするのは、たいてい、女性と子どもの人権が犠牲にされることを意味します。

そのかわり、名声も威力も財力も、親しい人間関係を作るのに必要ありません。ときにはそういったものが親しい人間関係を壊すことにもなるものなのです。孤独感を癒すのに人間には人間関係が必要不可欠です。でも厳格な縦の序列による人間関係は閉塞感を生み出し、それは結局自分自身について孤独を深めることになるのです。

人とつながるのに、カルト的な宗教や右翼思想団体、日本共産党、または得体の知れないヴァーチャルな人々によって運営される少数の妙なインターネットコミュニティなどの縦の序列に入ってゆくのは、一見、手っ取り早い方法に思えますが、そこに孤独を癒すものはありません。なぜなら縦の序列を維持させるものは支配-被支配の掟であり、その掟はあなたにメンバーシップという帰属感を与える代わりに(つまり、=「居場所を与える代わりに」)、あなたを支配し、あなたの個人的な意向や趣向、好みなどをきめ細かく顧みることはしないのです。あなたの「上の」地位にいる人物はあなたを支配するのです。つまり彼・彼女は彼・彼女の意向、彼・彼女の好みをあなたに暗に明に強要するのです。彼・彼女の意向に従うときに彼・彼女はあなたを目立たせるなどの方法であなたを楽しませようとしますが、あなたの意向、趣向、好みをあなたが強く主張したとき、彼・彼女は辛辣にあなたを辱めたり疎外したり、という方法であなたに制裁を課すのです。そういうやり方であなたの気持ちに反した趣向を選択させられるとき、あなたは言いようのない屈辱感と、怒りとそしてそこから来る孤独感に打ちのめされるでしょう。

そして人生の晩秋に至ったとき、あなたはありありと、鮮明に若かったときを懐かしむでしょう。その懐かしさには痛いほどの切なさと、澄み切った蒼空のような諦念の入り混じった、広い広い草原で一人きりで風の吹きすさぶ空を見上げているような深い感慨を有しており、あなたには若いころから、老人のような諦念の静けさに浸りたい性向が身につけられており、あなたは晩年に、そういう種類の「懐かしさ」の感情をしみじみ味わうでしょう。

一見、それは美しい感情のように思えますが、実はそれは偽ものの「懐かしさ」です。その正体は、実は、「懐かしさ」の着ぐるみを着た、そう、深い深い、絶望的なほど深い「後悔」の気持ちなのです。若くてチャンスに満ちていたころに、自分の本当に望むことにチャレンジする選択を放棄し、周囲の人たちの暗黙の期待に沿う選択をしたことへの後悔の念です。たった一時のその場での賞賛、カルトの手法としてよく指摘される「ラブシャワー」と引き換えに、自分の道をクリエイトすることを放棄したことへの後悔です。

自分のやりたいことを思いっきりやった人も懐かしみますが、それは純粋に愉しい思い出として懐かしむのです。たとえ、チャレンジをはじめたときに、思いのなかで期待していたほどの成果を挙げられずとも、いえ、たとえ自分が期待していた成果を挙げられるほどの才能が自分になかった、という厳しい事実に打ちのめされたとしても、自分の生きる道を自分の望むように生きてきたひとは、決して後悔しません。才能が希望に追いつかなかったとしても、自分のマックスまで精いっぱいやった人は、後悔などしないのです。自分の望んだことへ向かって精いっぱいやったということが、人生の終盤に満たされた感情として懐かしまれ、さらにそういう精いっぱいチャレンジしてきた姿勢が自分への自信を生むのです。ですからそういうひとたちは死ぬまで何かにチャレンジし続けます。たとえばある会社員が退職したばあいでも、そういうひとであったなら「濡れ落ち葉」化したりはしません。自分でやりたいこと、興味のあることを次から次へと見つけてゆきます。

一方、後悔の気持ちが化けた耽美的な感情にひたる人は、他人に干渉したりします。よくある例では、自分にできなかったことを子どもにさせようなどとして、子どもの自由を奪ったりするのです。エホバの証人の場合なら、子どもだけでなく、弟子や若年者に対して、結婚しないで開拓奉仕をするようしつこく「励まし」たりするひとも、後悔している人です。 (※) 



 (※)
 開拓者じゃなかったために十分な評価を得られなかった恨みを晴らそうとする場合もあります。特に、長年開拓奉仕をしてきた人が、大学を断念するよう半ば強硬に勧め、独身を通すよう半ば強硬に進める場合、そのベテラン開拓者自身は、自分が開拓者としての選択をしたことを無意識に後悔している場合があります。こういう人は超醜いですよね。ほかには自分が大学へいけなかったために悔しい思いをしたために子どもには、子どもの意向や気持ち、また子どものレベルに配慮もせず一流大学へ行かせようとして塾通いを強制するような親も同じです。



わたしがエホバの証人だった時代に、うすうす感じていたことですが、独身を通せというような「励まし」を加える人は、自分の配偶者への不満、当てこすりであったり、励ましている相手の若い人の能力、実績へのねたみであったりしたものです。というのは、わたしの知るある長老も若い人の結婚に否定的で、結婚式場での結婚の話のなかでさえチラッと嫌味を言うほどの人でしたが、実はそのころ、エホバの証人のなかでちょっとした雰囲気の変化が始まっていました。それはどういうことかというと、地域大会などで、20代から30代の人たちが話の割り当てを受けるようになりはじめていたのです。それまでは大会の話し手というのは熟年以上の人という暗黙の了承があったのですが、おそらくベテルの成員 (ほとんどが20代から30代の人たちです
) を大会の話し手として使いたかったのでしょう、NY本部のほうからの指導なのでしょうが、年齢の序列を必要以上に重視しないように、というような通達のようなものがあったのかもしれません。それまでは、一定の時間的キャリア (たとえば長老になるのはバプテスマから10年以上の経験、というような。これが本末転倒して、「10年たった熟年男性であれば自動的に長老推薦の対象になる」という雰囲気になっていたのです、日本では) や、見てくれの老成ぶり (ほんとうに、ルックスだけでの評価) などがすごい重視されていました。それなのに、自分たち熟年組をさしおいて、若造が大会の演壇から話をしている。そういう変化にショックを覚えたようです。その不満を、若くて自己主張できない弱々しいオトコたちに、独身、独身と言うことで発散させていたようです。これは個人的な観察ではありますが、わたしにはこの見方にかなりの自信があります。ちなみに彼は女性成員にはあまり「独身、独身」と言いませんでした。なぜなら彼には娘がいたのです。


醜い人間です、そういう人たちは。人間は老いるにつれて顔ができてきます。意地悪な性向が顔に表れてくる人というのは、自分に正直に生きないで、一時の賞賛、一時の栄光に浴するために、他人の操作に自分の人生をゆだねた人たちです。そういう生き方への後悔の気持ちが人格を腐らせて行くのです。これをさしてこう表現されることがあります、「老醜をさらす」。

あなたはこんな人生を送りたいですか? せっかく人間として生まれてきたのに、そんな人生にしてしまっていいんですか?

孤独を癒そうとして人間関係を持とうとするのは人間の自然な性向です。人間はほかの人から認められたり、共感されたりしないと生きてゆけないものです。しかし認められようという自然な欲求も順序を間違えたり、度を越してしまい、他人を誹謗によって蹴落としてまで評価を競ったり、他人からの賞賛に執着してしまうのは、自分自身の内面のどこかに未成熟な点があるために、無理をしているのです。そんなことを続ければ続けるほど、人間関係が息苦しくなってくるでしょう。そういうときには、ちょっと人から離れてひとりになり、率直に自分に向き合って見ましょう。


人間の孤独を癒す関係は、群集を見下ろす演壇から賞賛を一手に受けるようなことではなく、また排他的な縦の序列の中で、人に命令を強制させうる地位につくことにあるのでもありません。真に孤独を癒すのはもっと小さなつながり、夫婦、友人、恋人同士、そういった最小単位にあるのです。そういう個人的なつきあいの中で、気持ちを共有しあい、いっしょに何かを実現させてゆくこと、相手の必要にきめ細かく応えてあげること、これが人間関係における「健全な愛」なのです。そして、そういう関係は、あなたの意向や趣向、希望や意欲、あなたの目的を尊重し、大切にしてくれる人とでなければ成立し得ないものだからです。

そういうわけで、親しく温かい人間関係をつくりたいのなら、未成熟な親や教祖などからの教えに影響された、自分が今まで生きてきたような方法は一切捨て去り、それとは違うやりかたで、対等で非支配的な、そう、民主主義的なやり方で生きていくのが、結局は近道なのです。

 


人との違いを受け入れられるようになること

2009年12月06日 | Weblog

 

 

人間は、人間として共通性を多く持っているが、同時に誰一人として同じ人はいない。しかし、一般に、人は他者との共通点を探したがり、違いを嫌う傾向がある。

人は、交流の中で相手が自分とは違うことを知ったとき、およそ二通りの反応をする。

 


ひとつは、違いを「脅威」として受けとめて排除し、雑音として無視することである。「違っていること」は、自分か相手のどちらかが「間違っていること」と受け取り、その結果、相手を避け、排除したくなる。いじめの構造はここにあるかもしれない。また、違っているものはわかりにくいものでもあるので、「雑音」と同様、うるさいもの、取るに足りないもの、と解釈されることもある。

いずれにしても、違いが「脅威」や「雑音」になったとき、それは理解されず、排除されやすくなる。

 


「違い」に対するもうひとつの反応は、自分と異なったもの、自分にないもの、経験したことがないことを知りたい、と思うことである。

「違い」を新鮮さ、珍しさとしてとらえ、未知のものに対する好奇心、探究心を持つことができれば、それを理解しようとして近づく。その結果、その人にとっての世界は広がり、人とつきあうことが楽しみになる。

「違い」は、自分と他者を受容するということの、真の出発点である。

 


(「カウンセリングの話」/ 平木典子・著)


-------------------------------------


「違い」をどう受けとめるか、上記引用文のどちらの解釈で受け入れるか、自分が、あるいはほかの誰かがそれを決定づけさせるのは、いったいなんなのだろう。

多分、人格の成熟性、つまり自分という存在についてどれだけ確信または自信を育めているかということじゃないかと思う。

「違い」を「脅威」と解釈するのは、おそらく自分と自分が生きてきた考えかた、習慣が侵食されるのではないかという恐怖だろう。自分という存在が、「自分」に根ざしたものにではなく、他者からの評価、社会的な立場の優位さとか、経済力の優位さ、などに依存したものであるとき、そういう価値観が変わるということは自分の存在が脅かされるということになるのは容易に理解できる。

でも現代社会では、自分という存在に意味を与えるものはまさに他者への影響力がどれほどか、ということや、潤沢な経済力のゆえに生涯食べるに困らないこと=自己保存が保障されていること、自分が大勢の人びとに知られている(名声をはくすることに成功した)ということ=自分が他人に承認されているということにあるというのが、常識となっている。そしてそういう価値観は、競争によって他者を追い落とすことを意味する。このことが現代人を孤独にし、孤独は獏とした、そう、「不安」を醸成するのだ。人はこの不安から逃れようとして権威主義、他者からの絶対的な支配への服従へ「逃避」しようとするのだとエーリッヒ・フロムはその著書、「自由からの逃走」のなかで言う。カルト宗教はおおむね、絶対主義的な支配によって特徴づけられる。カルト宗教が現代社会にあって依然と人々をひきつけるのも、このフロムの主張が説明するだろう。

とすると、現代社会のその常識、その価値観はもとから、違いを排除する性質を有してきたものなのだ。こんな現代社会はなぜ成立しえたのだろうか。E.フロムの「自由からの逃走」によれば、それは中世社会が崩壊して、資本主義が根ざしたことに起因するということだ。中世社会には「個人」という概念がなかったが、商業の発達に伴い、キリスト教という宗教の性質と、もうひとつ、財産の私的所有権が確立する過程で「個人」という自己認識が生まれ、そういう個人を尊重しようとする立場が「個人主義」となった、と大ざっぱにいえばそういうことが述べられている。

だが、わたしが「個人の尊重」、「個人主義」というとき、それは家父長制度が女性や若年者を抑圧することへの抗議としていうのであって、新自由主義がいうような極端な個人主義を支持しようとするのではない。しかし、個人の尊重、個人主義というものがもともとは資本主義によって、中世社会の制度的な束縛が打破されることで成立したものだということが歴史の真実なのだった。

では「自由」は人間にとって本来的には害悪なのだろうか。家父長制度や中世の身分制社会は人間に社会への帰属感を与え、それゆえ心理的な安定感をもたらしてきた事実に照らし合わせてみて、自由はないほうが人間にとってはよいことだったのだろうか。

断じて違う、とわたしは主張する。

そして、「断じて違う」と主張する根拠をきちんと説明できるようになるまでは、わたしはブログを書き続けるだろう。「断じて違う」というわたしの主張は、いまはまだエホバの証人という宗教団体での個人的体験にもとづく主観的な「感じ」でしかない。でもこの「主観的な感じ」は正しいと、わたしの肌が、わたしの心の傷が叫ぶのである。