Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

時間の使い方は命の使い方なのです

2008年05月31日 | Weblog
 人生の重さは、必ずしも人生の長さと比例せず、
  その人の過ごす時間の質にかかっている。

 時間の使い方は、生命の使い方なのだ。

 とすれば、永遠につながるような時間にすること、
  換言すれば、時間に愛をこめて生きることがたいせつになる。



 (「愛と励ましの言葉・366日」/ 渡辺和子)


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時間をかけて築いてきたもの、名声、評判とか地位とか、そんなものは一瞬にして崩れ去ってしまうことがある。人と競争して、競争に打ち勝って培ったものは、思わぬところで脚を引っ張られたり、敗北させた人やその仲間だった人たちから仕返しをされたり…。あるいは、もっと強い者が現れて、自分の影を薄くさせてしまったり。

つきあいにおいて、会話において、とにかく競争しようとする人たちにとって、人生とは苦痛であり、労苦であり、神経をすり減らすもので、またそれゆえ、人間というものは信頼できないもので、気を抜くと出し抜かれてしまうものでしかない。

いるよね、こういうしんどい人。なにを話し合ってもいちいち否定してかかり、述べられた意見を論破することに必死になる人。ではあなたの提案に従うことにしましょう、というと、その人は自分の提案を言えない、言っても観念論であったり、とても現実に実行できないような一般論であったり。

こういう人は、「永遠につながるような時間の使い方」をしていない。その場その場で “自分が勝つこと” のために生きている。その人にとって “勝つこと”とは周りの人を出し抜くことだから、周りの人を打ち負かすことだから、友人を得ることができない。友情を持てない。

自分の子どもでさえ競争相手とみなすから、子どもをひとりの人間としてほめてあげたり、励ましてあげたりできず、子どもの欠点をあげつらい、自分がいなければ子どもは一人前にやっていけないんだということを、“しつけ”や言外のメッセージで叩き込む。小さいときには子どもはうなだれて、親の機嫌を損ねないように「いい子」を演じ続けるけど、成長するとあるときに爆発して反撃に出る。そして子どもからも見放されて、孤独に陥る。

競争相手を排除して生きるのは、自分をとにかく認めてほしい、という欲求が満たされていなかったから。子どもの時代にその人の親から、十分に認められ、ありのままの自分を受け容れてもらえなかったから、つまりは“愛されなかった”から。こころの成長は、一つのステップが十分満たされてからでなければ、次の成長に進めないようにできている。幼い頃には十分ほめてもらって、自信を培われなければならなかったのに、それをしてもらえなかった。親の基準や親の好き嫌いを押し付けられることによって。あるいは親の宗教的価値観を一方的に押しつけられることによって…。




傷つけられた過去を愛惜する必要はない。残された時間は少ないといって何か重大なものを喪失したかのように、嘆く必要もない。
「一見ネガティブに見える挫折や苦しみは、神さまがあなたのために掘ってくれた穴ぼこです。その穴に落ちることで、自分が見える、人生が見える。その中でもがきながら、わたしたちは人生の宝に出会うのです(「かけがえのない人間」/ 上田紀行・著)」。
親に恵まれなかったからこそ、見えるようになったものがある。どんな宗教家も、どんな哲学者も教えることのできない、人間の深層を知ることができた。何が人を傷つけ、何が人生を重苦しくするかがわかるようになった。これは「人生の宝」以外の何ものでもない。

わたしたちはひとつの時間しか生きることができない。それは過去のある時ではない。それはもう過ぎ去って存在しない。ただ自分の脳裡に「想い出」という残像でしかない。未来はまだ到来していない。わたしたちが生きるのは今現在、今日この一時だけなのだから、生きることのできるこの一瞬を意味ある仕方で過ごせばいい。

意味ある仕方とは、つまり「永遠につながる」ようなしかたであり、それは周囲の人々を打ち負かし、排除することではない。周囲の人々に愛を与えること、つまり、「承認」すること、ありのままのその人を受け容れること。なぜなら愛することが唯一、愛を得る方法だから。

嘆いたり、打ち克つための戦略を考案する煩悶のために、または築き上げたと思っている地位や名声を失わないかという獏とした不安を、喉に刺さったとげのような不安をかかえて暮らすことのために時間を使うのは無駄なこと。愛することのために時間を使うのなら、競争に勝てるだけの才能や技量がなくてもなにも不安に思うことはない。人より優れている必要はないのだから、神経を張り詰めさせることはない。聖書のいうとおり、「愛する」というくびきは人生から重荷を降ろさせる。

背負いたくない荷を無理して負う必要などない。すべての人を出し抜くことなんて、人類の中のだれひとりなしえないことなんだから。人生の質は等身大の自分をさらけ出すことで、うんと高めることができる。ほんのちょっと頭を切り替えて、素直になればいい。素の自分をさらけ出したとき、本当の友に出遭える。いままで友だと思っていた人は、自分が鎧を外したとき、「なんだ、そんなに貧弱だったの」と言うのでショックかもしれない。でも、鎧をはずしたことで、「あなた変わったわね、つきあいやすくなったよ」という人も必ず現れてくる。そういう人たちとの交友が、人生を本当に有意義にさせてくれる人たちだったのです。

たった一つの命。虚栄のために使うのは文字通り、空虚なこと。人生には限りがある。本当の自分、等身大で生きていこう。かかとを上げ続けるのはそんなに長くは持たないものだから。